プロローグ
目が覚めると、かの有名なテーマパークのような光景が目に飛び込んできた。何事かと思い、瞬きを繰り返してみる。見える景色に変わりはない。おそらく仰向けの状態の私の目には天蓋らしきものが見えている。腕に意識を向けてみれば、こちらも問題なく動く。さらりとした布の表面を自分の腕と思しきものが動くことを感じられる。予想はついていたが、ベッドの上にいると考えてよいだろう。ぐるりと周りを確認して目に入ってくる情報とも一致する。
さて、ここはどこだろうか。わたしは何もベッドの上にいることに対して疑問を覚えているわけではない。いや、広い意味で見れば、確かにベッドの上にいたことも謎に含まれるのだろうが、今の私が抱いている最大の謎は、ここは先ほどまでいた私の世界とはずいぶんと異なるように感じるという点である。
私の意識……だと思われるものは、先ほどまで全く異なる世界を見ていたはずである。渋谷のスクランブル交差点とまではいかないものの、そこそこ交通量の多い都内のスクランブル交差点。私は、そこで信号機が青色になるまで考え事をしながら立っていたはずである。目の前を走り去っていく軽自動車を眺めていると、背中に激しい衝撃と熱を感じ、手をつくことさえできない一瞬の出来事の中で、驚くことすら忘れて、気が付いた時には地面とこんにちは。激しい痛みを背中に感じながら、何かがどくどくと流れ出していく感覚に加え、周りにいた人々が悲鳴とともに私の周りから離れていく光景を見ていたはずだ。だんだんと薄れていく景色の中、これが死か、などと何故か感動を覚えつつ、死というものについての考察を深めようとしていく中で頭がぼーっとしてきて――そして、ここにいた。
なるほど、状況から推測するに、ここは先ほどとは別の世界と考えるのが妥当ではないだろうか。候補は3つ。1つ目に異世界。最近、小説、漫画、アニメなどでよく目にするあれである。2つ目に夢、もしくは、現実。こちらの場合、かなり面白いことになりそうだ。先ほど、私が何者かに刺されて死亡した世界が現実で、こちらは死ぬ間際の夢と考えるべきか、その逆で、死亡した世界は夢で、こちらの世界こそが現実か。3つ目は死後の世界。これもかなり興味深い。
ふと腕を上げてみる。目に映った肌の色は日本人離れした白さの小さな手である。どうやら、先ほどまでの私の容姿とは異なるらしい。いつもの癖で思考の沼にはまってしまっていたが、それは私の悪い癖だ。教授も言っていた。「哲学を学ぶことは意義のあることだと思っているけれども、日常生活まで思考を持ち出すと疲れてしまう。時に哲学のことを忘れる時間も必要だ」と。今回は、とりあえず異世界に転生したと仮定してみよう。細かいことは後から考えればいい。
起き上がって、周りを見回すと、白を基調とした部屋であることがわかる。左手側に鏡があることを確認してベッドを抜け出してみる。鏡に映る自分は、予想通り、今までの自分の容姿とは異なっていた。
くすんだ金髪は緩くカーブを描きながら腰のあたりまで伸びており、瞳は水色。鼻と口は小ぶりで、まつげは長いもののの、下向きで印象に残るほどではない。顔のパーツ配置はある程度整っているものの、お世辞にも目を惹く美人とは言えない。良く言うならば清楚系、言葉を選ばないのならば、地味顔。
自分の顔と睨めっこをしていると、コンコンコンコンと音が響いた。気が付かないうちに誰かが来ていたようだ。反射的にドアに向かって声をかける。
「どうぞ」
それと同時に、驚きの声が響き、騒々しく扉は開かれた。
「ミルドレッドお嬢様!」
扉の向こうには、目を見開いた女性が立っていた。どうやら、状況から判断するに、私はミルドレッドという名前らしい。しかし、細かな状況は判断できていない。おそらく、この女性の驚き具合から考えて、私は寝込んでいたのだろうとは思うが、どう行動するべきだろうか。
「すぐに旦那様にお伝えいたします!」
あら、私が考えているうちに目の前の侍女と思しき若い女性は走り去ってしまった。旦那様にお伝えするという発言から考えて、そのうち誰かを連れて戻ってくるだろう。つまり、それまでは時間ができた。さて、私はどう振舞うべきだろうか。私はミルドレッドという人物がどのようなものかを知らない。容姿から見て10歳程度のように見えるが、ミルドレッドがそれまで人間として生きていたと仮定した場合、人格が伴っていたと仮定してよいだろう。それが人間と呼べる存在かどうかは哲学の問題なのでいったん置いておく。
奇跡的に私とミルドレッドの性格が限りなく近く、違和感がないというのであれば、それは幸いだが、まず、その可能性は低いと考えた方がよいだろう。それならば、中身が入れ替わったという話をするかどうかだが、こちらも頭がおかしくなったと思われては困る。それならば、記憶喪失のふりをしつつ、状況を尋ねるという方法はどうだろうか。
開け放たれたままの扉の向こうから、バタバタと足音が響いてきた。どうやら、先ほどの侍女と誰かが戻ってきたようだ。考える時間はもうない。
「ミルドレッド!」
先ほどの侍女を押しのけて部屋に入ってきたのは茶髪で大柄な男性。ミルドレッドの容姿とは異なり、全体的にはっきりとした印象の顔立ち。瞳は水色なので、ミルドレッドの父親だろうか。
「心配したんだぞ!」
そう言って私の目の前で膝を折ると、少し痛いくらいの力で抱きしめられた。ミルドレッドから見れば父親でも、私からすると知らない男性である。心配してくれているところ申し訳ないが、抱きしめられるのは何とも言えない気分である。
「あの……すみません。あなたはどなたでしょうか」
その言葉に、抱きしめていた腕の力が一気に緩んで、今度はがしりと肩をつかまれた。少し痛い。水色の瞳が目の前に見える。
「ミルドレッド……? お父様だ。忘れてしまったのかい……?」
「お父様……? 私の……? それにミルドレッドとは私の名前でしょうか?」
少し首をかしげてみると、目の前の男性の顔に悲しみが広がった。さすがに見知らぬ人とはいえ、心が痛む。しかし、知らないものは仕方がない。今後のためにも、記憶喪失のふりをしながら、状況をつかむことは必要である。
「……そうか、頭を打ってしまった際に記憶に混濁が……」
「あの……」
「大丈夫だ、ミルドレッド。心配することはない。今は思い出すことができなくても、ゆっくりと思い出していけばいいんだ」
どうやら、ミルドレッドが記憶喪失だと認識したようである。本来のミルドレッドに人格がある場合――いや、あると考えるのが一般的な考えだろう。私の意識が、この体に宿ってしまったというならば、本来のミルドレッドの意識はどこへ行ってしまったのだろうか。私の意識によって体から追い出されてしまったというのならば……。罪悪感はあるが、今はどうしようもない。本来のミルドレッドの意識がいつか戻ってくるとしても、それまで真面目に生きておくことは必要になるだろう。やはり、ここでの最善は状況把握と考えるのが無難だ。
目の前の男性に向き合って言葉を紡ぐ。
「お父様……?」
「なんだい?」
「あの、その、状況がよく分かっておらず……」
「そうだね。カミラ、ミルドレッドからの質問に答えられる範囲で答えてあげてくれ」
「かしこまりました」
「私は一度、クラリッサとリリアンにミルドレッドの状況を伝えてくるよ」
ミルドレッドの父親は部屋を出て行き、侍女のカミラだけが、この部屋に残された。
「ミルドレッドお嬢様、まずは状況を整理しましょう」
読んでくださり、ありがとうございます。
主人公の長々とした思考をそのまま地の文にしているため、読み物としてはどうなのかなと自分でも思うのですが、今回は書きたいように書いてみようかなと思います。場合によっては、もっと読みやすくなるように助言をくださる方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらの作品については、一旦、このような書き方で進めていく予定です。
(頂いたご意見は、参考にさせていただきつつ、完結してからの手直ししてみようと思います)
それでも読んでくださるという方は引き続きよろしくお願いいたします。