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 「ウイスキーボンボン」

 「またアンタこればっかり。他のつまみもあるからねっ」

 このバーのマスターは、少々大げさな女性口調をする。体は男だ、喉仏も見えているし髭も深夜になると少しだが伸び始めている。身だしなみを整えても本能的に毛は生える。体毛が薄いぼくには羨ましい。

 「まっ、イヤミ?そんな子じゃないと思ってたのに」

 「買いかぶるなあ。ウイスキーボンボン好きな人間だよ?マスターのお手製のバタピー頼まない人間だよ」

 「そうね。もうアンタの評価は降下するばかりよ。崖を転げ落ちる雪玉みたいなもんね」

 「じゃあ崖で雪だるま出来るね」

 酒が回ってでれでれと笑っているぼくに、マスターは何か含みありげな目線を向ける。このバーにとって、ぼくは常連であるといえば常連だ。ただ無性のぼくには、性を謳歌して性に悩んで性を得ようとするこの繁華街がまぶしくて、自分の手元に何も無い気がして酒に頼った日々の中で出会ったのがマスターだ。


 「アンタの家教えなさいよ」

 「なんで?」

 「バタピーだけじゃなくてカレーとシチュー持ってってやるわ。どうせフリーターでしょ?ほっそい体で、ちゃんと食べてると思えないし」

 「ぼくはウイスキーボンボンで酔えるし、栄養素足りてる」

 「ああ心配。なんなのよもう。アタシのタイプじゃないのに、心に入り込んできてさ」

 「ぼくは誰も好きになれないよ」

 色濃い性の街で、ぼくは色のない性のひとだ。でもそんな無色透明の性であっても社会は異端者だと見逃してはくれない。異常者とされてしまう。だからこの街は、異常者認定されてたくさん傷ついたからこそ、他人に優しい。傷を知る人は、自分の傷を覆うよりも先に絆創膏を他人の傷に差し出せる。その優しさにつかりたくて入り浸る、ある意味迷惑な客であるのに、マスターは優しい。酔っぱらったから教えてしまったのか、翌々日にマスターはぼくの家のインターホンを鳴らした。

 「近所まで来たのよ」

 「ありがと~」

 ぼくはへらへらと笑う。

 何故かぼくは、へらへらと笑うと周囲から好意が高まるのを知っていた。この笑みを嫌う人もいる、その人は真っ当で正直な人である。この笑みにいやされてしまうのは、心の隙がある人だ。だからぼくは、この笑みで近付いた人はいずれ別れが来るのだろうなと自覚している。マスターはまんざらでもない顔をした。


 「食べなさいよ、肉も野菜も」

 ぼくに了解を取って冷蔵庫を開けたマスターは絶句した。だって冷蔵庫の中はきれいなもんだ。安売りのチョコと、缶のお酒とエナジードリンクと栄養剤。あとたまにコンビニで売ってる完全栄養食のパンが一個。昨日思わず買ってしまった。酔っていたから仕方ない。でもぼくの体は悲鳴を上げているのかも。だからつい、買ってしまったのかも。

 「あんたねえ・・・」

 マスターが呆れた顔は、見ないでも分かってる。ぼくの母親も、頼んでもいないのに部屋に来てはそんな顔をして、何か近所のスーパーで買ってきてから作ったり、作り置き出来る料理を置いていったりする。たまの善意に全力でぶら下がって、ぼくは生きてる。それでも仕事をする気は起きないのだけれど。

 「仕事何やってんの」

 「ポエマー」

 「正気?それで生きていけるわけ無いでしょ」

 「そこら辺に詩集があるでしょ、それぼくのデビュー作」

 自費出版ではなくちゃんとした出版社を通して、デザイナーが装丁を考えて編集が内容を厳選し、営業が売り込みをしてくれた本だ。傍目で見ただけでもその出来から、まともな物だと分かるだろう。マスターはまだ訝しげだが、ぼくの写真が作者として使われているのを見て、ようやく納得したようだった。


 「悪かったわね。意外とすごいじゃない」

 「でもまあ、次の本が出てないからね」

 ぼくはゲームをするでもなく、テレビを見るでもない。だから部屋は簡素で、生きていくために必要な家電は電子レンジと冷蔵庫ぐらい。洗濯機もあったか。そんなもの。

 「催促されてるけど、売れてないし」

 「でもすごい事じゃない。じゃあ、長生きしないとねセンセ?」

 「そういうアーティストは早死にするもんだよ」

 「流行らないわね。最近の作家って長生きよ」

 「流行らないかー」

 そう言われるとそうだなとぼくは思った。マスターの言う通りだ、ぼくの日常と言えば散歩をするか偉大なる先人の詩集を日がな眺めて、何か思い付いたら書いてみるノートと筆記用具。それで外に出掛けたくなると、いつも路地裏のひっそりとした所にいる猫と話をする。立ち話だ。猫はよく地面にいるけど、ぼくよりも高貴で気高い生き物だから、いつもぼくは見下ろされている。そのあべこべな現象が楽しくて、いつも立ち上がってそのキラキラした美しい目を覗いている。ぼくは立っていて見下ろされているのに、猫は座っていながら見下している。猫はきっとではなく確実に、高貴な生き物だ。人間のように複雑な事を考えなくてもいい。


 「猫みたいになりたい」

 「あんたねぇ、大変よ。うちの近所だって野良猫がいつも喧嘩しててさ、この前片目無くて血みどろのコを見たわ。手当しようと思っても、近付いたら威嚇されんだから。フーッ!って」

 マスターの大仰な物まねは、笑ってしまいたくなるユーモアに溢れている。なんだかフラットなこの関係を、ぼくは好きだ。


 「でも猫は去勢と避妊してもらえるし。きっと性別が無くても幸せそうだし」

 「あんた下らないこと考えてんじゃないわよ」

 「性欲無いでもいいのって、それが公に認められてんのって幸せでしょ」

 「だから縄張りもあるし、交尾だってするのよ。それがそもそもの生物らしさでしょ」

 「じゃあぼくは、天使か悪魔かな」

 マスターが突然ぼくを抱きしめた。男の人の肌の匂いと、強い香水が鼻をくすぐるのでぼくはくしゃみをしてしまう。

 「やーだ、何よ臭いって?」

 優しい人は自分が傷付くことでも口に出してしまって、周囲の人間の笑いに変えようとする癖がある。透明なぼくには、その起伏と自己犠牲がまぶしくて。

 「違うよ」

 「うぬぼれないでよね、天使や悪魔も男と女があるのよ」

 「じゃあロボットかな」

 「そのうち男型ロボットと、女型ロボットとか出来そうよね」

 「じゃあぼくは、なんなの?」

 思わず声量が大きくなってしまった。人肌が恋しいこともない。ぬいぐるみを抱きしめていると自分の体温が反映されて心地よいし、猫を触るのもはばかられる。だってぼくは、失敗作みたいだ。神話にも許されていない現代の失敗作。


 「あんたが失敗作なら、アタシも失敗作だから」

 「昔から、マスターみたいな人はいたよ。歴史に残ってるでしょ」

 「だからやさぐれないで」

 「ぼくみたいな人はいない」

 「いたわよ」

 マスターが真剣な目でぼくを見つめる。触れ合いは代用できるけど、この視線を合わせって見つめ合うのは、どうしても生身の体温が必要な気がした。目線に体温は必要ないんだけど、この見つめ合いには何故か体温が要るんだ。ロボットと見つめ合った時に、ぼくはちゃんとその目から人間の体温を感じられるだろうか。

 「だから心配しないで、飯食って、オナって、風呂入って寝ろ」

 「おやすみーまだ朝の10時だけど」

 「アタシはこれから寝るのよっ」

 「そっかそっか。ありがとねー」

 マスターは少し口を尖らせたが、また店でと約束して部屋を去った。ぼくは一人の部屋が適度な広さに戻ったなと感じてほっと息を吐く。無性が問題というより、ここにはぼくの問題が見えない家具や家電として山積みになっている気がした。

 ぼくの気持ちを知らずに小さく唸り続ける冷蔵庫の中には、ぼく以外の善意がコレクションされている。家主のぼくを置き去りにして、善意がここには収集され、ぼくの部屋を彩っていくれている。さながらコレクションルームだけど、ここはぼくの家だ。だからぼくはやっぱり、何も置かない事にしよう。話したら少し疲れたので、さっそくコレクションの善意が詰まったタッパーの蓋を開け、ラップをかけて電子レンジにつっこんだ。


お題(一行作家):コレクションルームで・三毛猫と立ち話をした後・ウイスキーボンボンを・百年ぶりに目にしました。

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