第二部 第一章「契機」
二〇一六年。八月二十八日。
「お願い!生徒会に立候補してもらうことはできないかな?」
想志のクラスの担任であり、生徒会顧問でもある鶴岡先生は手を合わせて想志に頼み込む。
「毎年、必ず各クラスから一人は立候補しないといけないんだけど、今年は誰も立候補してくれなくて困ってるんだ。」
深々と頭を下げる鶴岡に、彼は少し面食らったようだった。
それもそうだろう。『大人』であり、彼とは先生と生徒という上下関係がある。それにも関わらず、頭を下げて真摯にお願い事をされるという経験はあまりないものであるからだ。
「―――」
スッと深く息を吐く。
「わかりました。立候補しますよ。」
「やった、ありがとう。」
手をブンブンと握ってくる鶴岡に再度驚く。
「詳しいことは、明日の昼休みにある立候補者の全体説明会でだいたい話があると思う。」
「頼りにしてるよ。ありがとね。」
『これで他の先生方から嫌な視線を向けられずに済むぞ~』
なんて独り言を漏らしながら職員室へと向かっていった。
それを聞いた彼は今日で何度目かのため息をついた。
「にしても、面倒なことになったな‥‥‥」
思わず、頬をかく。
「まあいいや。とりあえず教室に帰るか。」
-----------------------------------------------------------------------------------
もうすぐで下校時刻を迎える時間帯。想乃華は茜色に染まった街を教室から見渡していた。
「どうしたの?また厄介事?」
教室へ帰ってきた想志へ尋ねる。
「まあ、ちょっと。鶴岡先生の頼みでな。」
「あー、だからあんなに機嫌よさそうだったのか~。」
先ほど教室を横切った鶴岡の様子を思い出し、なるほど、と納得したような表情を浮かべる。
『まあ、そんなことはどうでもいいや』
独り言を漏らし、彼女は続ける。
「それで‥‥‥何があったの?」
首をかしげて尋ねる彼女と、背景の茜色の街はまるで一枚の絵画のようであった。彼はその光景に思わず見惚れてしまう。だが、それを表情には出さず、彼女の問いに答える。
「生徒会に立候補してくれって頼まれただけだよ。」
「うわ、よりにもよって生徒会かー。また面倒なこと引き受けたもんだね。」
「確かに面倒だな。演説とか超だるいし。」
「だよね~。」
「ならさ。なんで引き受けちゃったの?」
想志は思わず眉をひそめる。
「ま、先生にあそこまで頼み込まれると断りづらいだろ。」
吐き捨てるように言う彼に憐みのような表情を返す。
「それは‥‥‥そうかもしれないけどさ‥‥‥別に無理して想志がやるような事でもないでしょ?」
「確かにそうだな‥‥‥」
思わず同意する。
「想志ってさ、いつも誰かの頼み事とか断らないよね。想志が優しいっていうのは分かっていた事だけどさ、そんな面倒な事までやんなくてもよくない?」
彼女の問いかけに言葉が詰まる。それは彼自身が一番よく分かっていたからだ。
「バカ言うんじゃねぇよ。俺は別に優しくなんかない。ただ、自分のためにやってるだけだ。」
『優しい』という言葉はもっと別に他の人に使われるべきものだろうと彼は言う。
そんな彼の意図に気づき、笑みがこぼれる。
『そういうのを優しいって言うんだけどな‥‥‥素直なのか謙虚なのかどっちなんだか‥‥‥』
思わず、口に出してしまいそうになるのを抑える。
「自分のため‥‥‥か‥‥‥。」
想乃華はゆっくりと咀嚼するかのようにつぶやく。
「そっか。なら、これ以上聞くのは野暮ってやつかな。」
「それじゃあね。私はもう帰るよ。」
「おう、じゃあな。」
彼と別れて、想乃華は職員室へと向かう。
下校時刻ギリギリのためか、職員室内はガランとしていた。ぐるりと見渡すと、目当ての先生がいることに気づく。
「鶴岡先生~。今いいですか?」
急に声をかけられたことに驚いたのか、少しビックリしたような表情をしている。
「どうした、こんな時間に。もう帰る時間だろ?」
訝しげに尋ねる鶴岡に真剣な面持ちで答える。
「実はですね‥‥‥」
-----------------------------------------------------------------------------------
昼休み。星乃花学園体育館。生徒会役員の立候補者が集い、生徒会顧問である鶴岡の説明に耳を傾けている。具体的には、立候補から演説までの体系的な説明だ。集まった生徒は約二〇名ほど。
『うちのクラスからは俺だけなのか?』
想志は辺りを見回す。すると、見覚えのある姿を見つけた。彼女も気づいたかのようにこちらに手を振る。
『え、どうして‥‥‥』
「―――と。まあ、説明は以上だ。何か質問のある人はいるか?」
鶴岡の問いかけに、しんと静まり返る。
「さっきも言ったが、まずは応援演説してくれる奴を探しておいてくれ。よし、それじゃあこれで解散だ。」
張り詰めたような空気が弛緩する。
「まさか、想乃華も立候補してるなんてな。生徒会は面倒だ、とか言ってなかったか?」
想志は想乃華のもとへ足を運び、昨日のことを思い出しながら尋ねる。
「まあね。気が変わったの。昨日、帰る前に先生の所に行って『立候補させてください』ってお願いしたんだー。」
「何かやりたい理由でもあるのか?」
彼女は話したくないとでも言うかのように、そっぽを向く。
「そういうのはないよ。ただの気まぐれ。」
想志は納得していないようだったが、一つため息をつき、背を向ける。
「そうか。何にせよ、これを面倒に思ってることに変わりはない。だから、ま、気楽にやろーぜ。」
「そうだね。」
そう言って体育館を後にする彼を見つめる。
他の生徒や先生は既に校舎へと戻っていったようで、体育館には彼女しかいなかった。それもあり、自身の感情を吐露する。
「想志のヤツ、ほんと気づいたらいつも誰かの傍にいるもんなー。なんでああまでして、誰かのために動こうとするんだろ。優しいとかそういう度合いの話じゃないでしょ‥‥‥アレは‥‥‥。」
-----------------------------------------------------------------------------------
「想志君。少しいいかな?」
時刻は夕暮れ。時計の短針は一八を指していた。想志は鶴岡に呼ばれ、職員室へと向かう。
「失礼します。鶴岡先生、何か用ですか?」
「来てくれてありがとう。なに、ちょっと聞きたいことがあってね。」
「改めて、立候補してくれてありがとう。それでなんだけど、君は当選するつもりでこれから動くのかい?」
「‥‥‥」
少しの沈黙。想志は困ったように話す。
「いえ、実のところはあまり考えていないです。」
「そうか。」
鶴岡は無意識に目を細める。
「今から話すことは全て嘘偽りない僕の本音だ。」
『もちろん、今まで話してきたことに嘘はついていないがね。』
笑みを浮かべ、後付ける。もちろん、そんなことは想志とて分かっている。要は、そう前置きをするぐらいのことを尋ねると言っているのだ。
「正直な話、僕は君が立候補を承諾してくれることを確信していた。」
想志は思わず、驚きの表情を浮かべる。
「君は人からの頼みごとを断らない。それが少し心配でね。」
昨日、誰かに似たようなことを言われたなと想志は思い返す。
「心配してくれてありがとうございます。でも、これは自分のためにやっていることですから。」
それなら、と想志に一つの疑問が浮かぶ。
「心配してくれる割には、面倒事押し付けてくるんですね。」
鶴岡は苦笑いを浮かべる。
「いやー。そう言われるとキツイなー。」
参った参ったというような仕草に想志は笑みをこぼす。
「確かに面倒事を押し付ける形になったのは申し訳ないと思ってる。‥‥‥でもね、僕は思うんだよ。」
言葉を切り、想志の目をぐっと見据える。
「君はもっと自分と向き合うべきだと思う。‥‥‥いや、他の生徒に比べたら十分向き合っているんだろうけど、君にはその機会がもっと必要だと思うんだ。だから、生徒会に入ることがそれへの一歩になると思う。だからこそ、君に頼んだってわけだ。」
鶴岡の脳裏に、昨日、放課後に話した女子生徒の会話がよぎる。
『彼女も気づいていたのか』
口には出さず、心の奥にしまう。
「そう‥‥‥ですか。まあ立候補やら選挙やらは面倒ですが、もう正式に立候補してしまいましたし。どうせやるからには全力でやりますよ。それに、生徒会に全く興味が無いかといえば嘘になりますからね。」
彼の返答に満足したのか鶴岡は笑みを浮かべる。
「そうか。ありがとう。当選する事を祈っているよ。」
それでは、と想志は職員室を出ていく。
『自分と向き合う‥‥‥か。』
伽藍洞の心でつぶやく。
夕日はとうに沈み、夜の帳が降りる時間。想志は父から口癖のようなセリフを聞かされていた。
「わかっているよ。大丈夫。」
父にそう伝え、自身の部屋へと向かう。
『自分と向き合うべきだ』
鶴岡の言葉を思い出す。
『アフリカの子どもたちは‥‥‥』
そして、父からの助言を思い出す。
「分かってる‥‥‥世の中には今この瞬間も苦しんでいる人がいる。死んでいる人がいる。それから目を向けちゃダメだなんて事も分かってる―――」
ふと思いつく。
「本当に向き合うのなら、直視するべきか‥‥‥。」
そう考え、想志はスマホを手に取る。軽快にフリックし、事故や事件に関する速報をまとめているサイトを開く。
「ッ―――」
無意識に歯をガリっと立てる。そのサイトには、約三〇分置きに国内における、それらのニュースが更新されていた。
「更新間隔早すぎだろ‥‥‥。」
サイトの一番上に表示されている記事の詳細を開く。
『殺人』『撲殺』『バット』『頭蓋骨』
生々しい単語を目にし、想志は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「クソッたれがっ‥‥‥」
サイトを閉じ、別タブを開く。
そうして殺害された後の画像やそれに関連する映像を投稿しているサイトを開く。
映像でも何でもいいからそれを目に焼き付きなければ、それは言葉の上での理解でしかないから。
その考えに至り、一つの画像を見つける。クリックし、詳細を開く。サイトが重いのか回線が悪いのか定かではないが、開くまでには時間がかかりそうだった。
もちろん、彼とてこのようなサイトに投稿されているものが全て真実だとは考えていない。‥‥‥ただ、嘘でもない。現に、このような惨事が起きていることは先ほど確認したばかりだ。
動悸が乱れる。呼吸が少し浅くなる。じんわりと手が汗ばむ。本当に、自分はこれを見てしまってもいいのかという疑問が浮かぶ。
『ただ、見て見ぬふりをしたくないだけ』
それを思い出すと、症状は少しばかり治まった。
サイトが開く。
『下へスクロールしてください』
『グロ注意です』
注意書きを目にとめ、震える手でスクロールする。
飛び出した臓器。切断された肢体。
画像は薄暗く加工されているようだった。喉に混み上がってくる吐瀉物を必死に押し込める。
『目を逸らすな。脳裏に焼き付けろ。』
想志はそれだけを脳内で繰り返す。
無意識に壁を叩く。
「クソがッ‥‥‥。」
抑えきれない激情。物に当たる自分への嫌悪感。自分ではどうする事も出来ない無力感。
ただ、今目にしたことは一生、記憶しなければならないと直感した。
下半身から力が抜け、床にへたり込む。
「分かってるよ、そんな事は‥‥‥」
別の国。日本の中のどこかで起きていること。それらに干渉する事は現実的に不可能だ。そもそも、事件が起きてから初めて、第三者が目にすることが可能となる。警察とてそれは同じであり、事前にそれを防ぐこともまた不可能だ。
「でも‥‥‥出来るだけのことはやらなくちゃいけない。それで誰かの手助けになるのなら願ったり叶ったりだ。」
「学校でだって、見えていないだけで俺の知らない所で悲しくて辛い思いをしている人がいるかもしれない。‥‥‥もしそうなら、それから逃げるべきではない。」
彼自身に世界を救済する英雄のような力は無い。彼にできる事は身の回りで起きていることに関わるだけ。
『君はもっと自分と向き合うべきだ』
ふと、鶴岡の言葉が脳裏をよぎる。
『そのための機会が得られるだろうね』
決意は固まった。
「ありがとう。先生。」
-----------------------------------------------------------------------------------
Interlude
「何で私、アイツにそこまで肩入れしてるんだろ。」
ベッドの上に寝転がり、宙を仰ぐ。
「アイツのああいう所は見てられない‥‥‥。」
深いため息をつく。
「お人好し過ぎるのも考えものか‥‥‥。」
「面倒なことに違いはないけど、今関わらなかったらきっと後で後悔しちゃう気がする‥‥‥。」
「もっと自分の事‥‥‥考えてよ‥‥‥。」
想乃華には彼の在り方が誇らしく見えた。だが、その反面、それに少しばかりの恐怖を覚えたことも事実。
彼は彼のやり方で、彼女は彼女のやり方で自身の望みを果たすことを優先する。
この先、彼と彼女と彼女が何度もぶつかり合う仲になるとは彼等自身、考えもしない事だった。
Interlude out
-----------------------------------------------------------------------------------
九月末。昼休み。
「厳正なる投票の結果、生徒会長は輝井想志君。副会長は美鮮想乃華さんに決定しました。続いて、書記は―――」
先日行われた立候補者の当選発表が校内放送にて行われた。