第一部 第九章「覚悟の在り処」
輝井想志はごく一般的な家庭に生まれた。父親は厳格だが、基本的には想志の教育、特に勉強に対しては何も手を出さない方針だった。逆に、母親は教育には五月蠅い。といっても、父親と比べたらの話であり、一般的とされている程度に口を出すほどである。そして、彼女はとても過保護であった。
さらに、想志は三人兄弟の末っ子であり、兄とは七歳・九歳離れていた。仲はとても良好なもので、それは歳がある程度離れているからだろうか、お互いの距離感というものを互いに理解していた。
特段、不運にも家族が欠けてしまうというような不幸が起きることもなかった。それは、一般的というにはあまりにも「幸せ」という物だった。世の中、幼いうちに大切な人を失くす人々はあまりにも多い。ただ、皆がそれをどうにかして受け止め、あるいは目を逸らしながらも、それを表に出さずに生活している。だからこそ、それを手に入れたままの人間は失った人間の状況を察することができないし、理解することはとても困難だ。
それを踏まえたうえで、彼の幼少期は「幸福」だったと言えるだろう。
『では、なぜ輝井想志という人間は歪んでしまったのか。』
持病を持っていたわけではない。難病にかかったわけでもない。
彼に思い当たるものとすれば、それは人に共感する能力が異様に長けていたということ。
例えばの話。ニュースでは毎日のように、自己や事件の情報を発信している。それらには、事故映像や被害者の遺族のインタビューなどが載せられることが常だ。想志はそれを見るたびに、まるで当事者になったかのように心に痛みを覚える。もちろん、実体を伴って苦しみを味わった当事者が一番辛いのは当然のことだ。ただ、発信されているそれらのことを
『どこか他人事のように感じているのが普通であろう。』
知らない街。知らない人。これからの人生の中で、まず関わりあう事がないであろう人たち。そんな人々の中で起こる不幸な出来事は、自分には関係のないことだと思うのが普通。それは変なことではない。だってそうだろう―――。
不幸な出来事は毎日、我々のあずかり知らぬ所で沢山起きている。それを知るたびに、それら全てに共感していては自分の精神が保てない。そうなっては、生活に支障をきたす可能性が限りなく高いだろう。だからこそ、脳の安全機能と呼ぶべきものが無意識のうちに、本能的に働く。それは
『その共感性はとても危険なものだから、一つ一つに対して真剣に考えてはならない。』
というもの。
それが科学的に証明されているかなどの真実は不明だ。そもそも、真実なんてあやふやなものは他人の誰にだってわかりやしない。大切なのは、それを真実だと認めるか否かという己の意思、選択。決してその在処、責任を他者に求めてはならない。
では、輝井想志という人間にはその安全機能とやらが働いていたのかという疑問が浮かぶ。
もちろん、彼はそれを肯定する。彼は人間だ。だからこそ、その機能は当然のように備わっている。ましてや、生まれてくる際に何らかの異常をきたし、障害を持って生まれてくることもなかった。
『では、なぜ―――』
答えは簡単だ。
ただ、彼は己の意思のみでその安全機能を突き破ってしまっただけの話。教育や家庭環境に問題はないと言った。ただ、それを突破してしまったことで一つ思い当たることが生じる。
それは、幼少期に何度も何度も父親から聞かされていた口癖があったということだ。曰く、
『アフリカの子どもたちは―――』
という言葉。それは、想志が本来持っていた喜びや嬉しさという感情を表したときに、決まって口にしていた。それはきっと
『我々が幸せを噛みしめている瞬間にでも、世界のどこかでは誰かが必ず苦しんでいる』
という事を伝えたかったのだろうと、思い返す。あくまでその具体例として『アフリカのこどもたち』と口にしただけに過ぎないのだろう。その教えは良いものだと思う。なぜなら、世の中、ひいては社会という営みは一人一人の歯車が噛み合って成り立っているものなのだから。そして何より、誰しも出生を選ぶことはできない。もはや『運』と言ってもいいのかもしれない。富んだ家庭。平均的な家庭。貧困な家庭。先進国。発展途上国。世界には必ず勝者と敗者という、明確な境界線が存在する。だからこそ、恵まれた・家庭に生まれ、健やかに育つことができている環境に感謝しなさいと。恵まれなかった者たちのことを考えないなどあってはならないと。そういう意味を込めたのだろう。
それが彼の人格形成に影響したかどうかは定かではない。ただ、確かに言えるのは、輝井想志はその教訓、ネガティブに表現するならば『呪い』のようなものを伝えてくれた父親に底知れぬ感謝を抱き、自分もそう在り続けたいと強く思い、行動し続けるというを信念を持ち続けているということ。
『見ないフリをしない。ただ、世の中にある不条理なことを正面から受け止め、もし仮に、それが目の前で起きるというのなら、自分の全てを懸けて不条理を無くす』
という信念、理想がいつのまにか彼の中に宿っていた。
『自分の全てを懸ける』
それは、命をも懸けるということ。
彼は世の中に起きる不条理を全て受け止めることを誓った。その在り方に強く共感し、『そのように在れたら』と心の底から想い続け、言動と心でそれを示し続けていた。
そうして時は経過し、輝井想志という人間がニンゲンになったのが中学二年のこと。
彼は不条理を正すために、生徒会に入った。立候補する際に掲げた公約は
『日常茶飯事に起きている不条理な出来事を少しでも減らす』
というもの。いかにも彼らしい。教師や生徒たちは彼に対して
『なんか綺麗事を言ってるな』
程度にしか思っていなかった。だが、実際のところ、それは綺麗事でも妄想の類でもなかった。
彼は学校に蔓延る、いくつかの不条理という名の火の粉に何度も飛び込んだ。例えば、教師から生徒への体罰。まず、輝井想志にとっての善い行いと悪い行いの境界線をもってして、想志は生徒と教師は何も悪い行いはしていないと判断した。ただちょっとした勘違い、時代錯誤な価値観。相手に対しての思い。それらが大きくなり、理性だけでは踏みとどまれなかった結果、自身が無意識に定めている境界線から、少し踏み外してしまっただけのこと。彼らと話し合い、時には行動で示してその不条理を正した。
そして、これとは別種の例え話。それは、彼にしては珍しい、己の衝動のままに美鮮想乃華を想って行動したお話。
想志と想乃華が中学一年生の時でのこと。文化祭の合唱コンクールにて想志は指揮者、想乃華は伴奏者を務めた。それらは推薦によって決められたことであり、立候補をした訳ではなかった。
そして、想乃華はコンクール前日になっても両手でピアノを弾くことができておらず、クラスでの全体練習中でも途中で演奏が止まってしまうことは少なくなかった。彼女自身、そんな至らない自分を嫌い、周囲に迷惑をかけていることを自覚していた。だからこそ、彼女が沼のような悪循環に取り込まれることは道理であった。
その様を間近で見続けていた彼は、一つの衝動を覚え、行動に移す。
『美鮮は普段から死ぬほど練習をしている。それでも最後まで弾ききることはできていない。ピアノをほんの少しの間だけ習っていたことがあるからという理由で、勝手に推薦されて面倒な役割を押し付けられ、それに文句も言わず、ただ不甲斐ない自分を責め続けている。そんなことあっていいはずがない。不条理そのものと言っていい。だからと言って、彼女が上達するようにアドバイスを送ることすらできない自分に何ができる。ピアノや音楽に関する知識は皆無。なら‥‥‥、どうすれば彼女の痛みを悲しみをともに背負うことができるっ‥‥‥?
考え続けたが、彼にやれたことはたった一つだけ。
クラスメイトに、美鮮が普段、家でも学校でもピアノの練習をしていること。本番前になっても上手くいかない自分を責め続けていること。仮に、彼女が本番で演奏が止まってしまったとしても、それでも最後まで歌い続けること。彼女が演奏を再開するまで、ただ止まらずに歌い続けること。そして何より、最後まで彼女を信じ続けること。そうすることが、彼女を助けることになるということ。だから、俺と彼女を信じて付いて来てほしいということ。』それら全てをクラスメイトに伝えた。それしか彼にできることはなかった。
結果だけを言うなら、想乃華は最後まで弾ききり、一年B組はその他クラスを押しのけて優勝した。
そのようなことを続けているうちに、生徒や教師たちは彼の在り方を認め、尊敬するまでに至った。
それらは褒められべき行いなのかもしれないが、エゴに満ちた行為であることに変わりはない。そもそも、何が正しいのか悪いのかなど、彼が理解しているわけではない。
そうして、まだ人間らしさが残っていた想志は想田結愛と出逢う。その先は結城茜が語った通り。
少年を愛した少女の愛が強大過ぎたためか、少年が安全機能を突破し、既に人間から『ニンゲン』へと片足を踏み入れていたためか。明確な原因がどちらにあるかなんてわからない。否、その両方が重なり、邂逅したために彼は『ニンゲン』となった。
―――告白。それはとても大きな大切な想いを伝える行為。受け入れられなかった者が悲壮な表情を浮かべてしまうのは無理のないことだ。不条理を正し続けると心に誓った壊れかけの人間が、その強大な想いを受け止め続けて正常でいられるわけがない。なぜなら、彼の目に映るのは、自分の信念に基づいた言動を行うことで、なぜか知らぬ間に相手から好意を持たれるようになり、それを断ることで相手を傷つけていたという構図。つまり、自身の行いで救いたかったはずの人たちを傷つけてしまったという事実のみが映った。その複雑で理解し難い心情を、誰が理解することができるだろうか。そうして、
『信念のために行動することが他者を傷つける』という考えが、実想結愛と美鮮想乃華と深く接していくことで、それがより強固なものになる。
結局、彼は自分の信じた信念、理想に裏切られた。そういう意味では、彼は自身の在り方を、それが意味するところを本当の意味で理解できていなかったのだろう。ただ、
『そう在りたい。悲しい顔を見たくない』
という信念を持つだけでは、他人を巻き込んで行動するには不十分だったのだ。そうするのであれば、
『自分の行いで周囲にどれだけの影響を及ぼし、どれだけの害をなすことになるのか。それによって得られるもの、失うもの、残るものはいったい何なのか』を見極め続けるべきだった。
そうして、彼は今までの信念のために行動する理由をなくした。
『二度と‥‥‥、誰からも好かれないために』
それだけを考えて彼は行動するようになった。自身の感情も未来さえも、それら全てを捧げて行動する『ニンゲン』に変わり果てた。
もはや人間でなくなってしまった『誰か』にを恋し、愛した彼女らにはその経緯を、彼の想いを知る由もない。