第一部 第七章「決壊」
二〇一七年。十月二十五日。
想志先輩は困惑しているのだろう。急にあんなことを送られたら戸惑うのも無理はない。
「どうするのがいいのかな‥‥‥。」
一年A組の教室。授業中にもかかわらず
『先輩に振り向いてもらう大作戦!』
と、ノートにでかでかと記されていた。
「先輩と仲のいい人に当たってみて、好きな女子のタイプとか好きな髪形とか聞いてみるのが良さげかな。それで、どんどん先輩の好みに合わせていって。」
案を書き留め、方針を固める。
「あれ‥‥‥。」
今までのことを思い返して、ふと漏らす。
「私、先輩と色んなことをたっくさん話したのに、先輩の好きな食べ物とか趣味とか、何にも知らない‥‥‥。」
彼の何を知っていたのか。何を理解していたのか。
『知っていた気になっていたのか』『理解していた気になっていたのか』
「先輩のこと、もっとちゃんと知りたい‥‥‥。」
今更ながらそれに気付く自分に自嘲してしまう。
「フラれたのは当然か‥‥‥。相手のことを知ろうともせず、ただずっと傍にいたいって思う人のことを好きになるなんて‥‥‥。そんな都合の良いことあるわけないよね‥‥‥。」
結愛は再びペンを握り、ノートに大きく書き記す。
『方針!先輩のことをもっとよく知る!』
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時を同じくして、二年B組の教室。想乃華は何とも言えない違和感と不安に駆られていた。もちろん、視線の先にあるのは彼の姿。想乃華の列の一番前の席に位置しているため、表情までは窺えない。
「何かおかしい‥‥‥。」
いつもは友達から声をかけられたら、どんな時でも必ずそれに答えていた。それは当然といえばそうだが、今日の彼は事務的なこと以外の全てのことから無視、あるいは冷めたことを口にしていた。友達や後輩からも。例に漏れず、私も。結愛も例外ではないのだろうか。
「まあ、直接聞かなきゃ何もわかんないか‥‥‥。」
少しの躊躇いを抱えたまま、メッセージアプリを開く。
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「何で来ないのっ‥‥‥!」
昼休み。想乃華は体育館裏で一人立ち尽くしていた。待ち人は来ず、寒さに震える。彼からの既読は付いていない。
「気付いていない?」
だが、疑念を振り払う。
「んなわけないか。」
「アイツが下校する前に、ぜっっっったい捕まえてやる!」
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「こんにちは~。想志先輩いますか?」
放課後。結愛は彼の所属するクラスに赴いていた。廊下からでは教室内にいるのかが判別できなかったため、廊下側の席に座っている彼のクラスメイトであろう人物に声をかけた。
「想志君なら、想乃華に引っ張られてどこかに行っちゃったよー。」
『先越されちゃったか。』と心の中でつぶやく。
「ちなみに、どこに行ったとかってわかりますか?」
「ごめん、そこまでは‥‥‥。」
申し訳なさそうに首を振る。
「行先に宛はないんだけどね。でも、想志君なんだか変だった。いつもと違うっていうか。冷たいっていうか‥‥‥。それに、想乃華もすごくピリピリしてた。あんなにイライラしてるのは初めて見たよ。」
「え‥‥‥。」
いったい、何がどうしてそうなってしまったのか見当もつかなかった。
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「ちょ、何してんだよ。」
想志には想乃華の行動が理解できないでいた。それもそのはず、彼女は彼の腕を強引に引っ張り、どこかに連れて行こうとしているのだから。傍目には男女がイチャついているようにしか見えなかった。そのため、二人が通った道や廊下からは、期待と好奇の目が向けられている。だが、二人はそんなことに気づいていない。ギャラリーや野次馬が集まってもおかしくはない状況だったのだが、想乃華の鬼の形相を目にした途端、それらは散っていった。それはまるで
『君子、危うきに近寄らず』
を体現しているようだった。
「まあ、ここでならいいでしょ。」
赤くなった想志の手を放す。
「ったく、痛いっての。」
想志は手の痺れを払うかのように手を握ったり放してみたりを繰り返す。
「まず、最初に謝るね。」
「ごめんなさい。こんなやり方で連れ出してしまって。」
深々と頭を下げる。想志は少し驚いているようだった。
「こうでもしないと、話すらできないと思ったから。」
彼は私から目を逸らす。それは昼前に私が送ったメッセージのことを気にかけているような仕草に見えた。その様子に少し安堵する。今日は何か変だったけれど、彼のそういう所は何も変わっていないと確信することができた。だからこそ、気を落ち着けて尋ねることができた。
「今日はどうしたの?何かあった?」
文化祭の時に、茜が私にそうしてくれたように。彼が悩んでいるのなら力になりたい。仮に、力になれなくても彼の辛さを少しでも軽くしてあげたいと、そう願って。
「何もない。いつもと同じだよ。」
両手には固い握りこぶし。貼り付けたような笑顔。そんなハリボテだらけの嘘でいったい何を騙し、隠し通そうというのか。私には分からなかった。でも、そんな私でも一つだけ確かなことがあった。
『アイツのあんな顔は見たくない』
今はそれさえあれば十分。姿勢を正し、毅然とした態度をとる。その姿勢は彼と正面から向き合うことを決心した態度にも見えた。
「そうかな。私にはそうは見えないけど。」
「‥‥‥。」
彼は小さく息を吐く。
「美鮮には‥‥‥関係のないことだ。悪いけど、もう俺には関わらないでくれるか?」
「お前を見てると‥‥‥、心底イライラする。吐きそうになるんだよ。」
カチンときた。頭にきた。暴言を吐いた彼にではなく、あんな今にも泣きそうな顔をさせ、無理やり吐かせてしまった自分自身に。思わず声を荒げてしまう。
「私は!アンタの力になりたい!」
「アンタが困ってるなら少しでも役に立ちたい!」
「そんなに辛い重荷を一人で背負うんじゃなくて、私にも背負わせてよっ‥‥‥!」
「だから‥‥‥、もう‥‥‥そんな顔しないで‥‥‥。」
本心をぶつける。身体は小刻みに震えている。声も震えが止まらない。いつの間にか、私の瞳は潤んでいた。そして、気づけば彼の瞳も潤んでいるように見えた。それは、私の視界が歪んでしまっているからそう見えたのだろうか。
「ごめん‥‥‥。」
「美鮮‥‥‥。一生のお願いだ。」
普通であれば軽いお願い事をするときに言う謳い文句を、彼は本気で口にする。
耳を塞ぎたい。聞きたくない。
「俺は大丈夫。大丈夫だから―――」
「もう‥‥‥俺のことは放っておいてくれ‥‥‥。二度と‥‥‥関わらないで―――」
まるで懇願するようだった。彼は『一度やると決めたことは最期まで徹底的にやる』人間だということは、特にこの一年間で身に染みて理解していた。その上、誰よりも他の誰かを気にかけていた。あまりにも他人には優しいが、自分には厳しすぎる人。自分を甘やかすことを知らない。困っている人を見かけたら、それが誰であろうと手を差し伸べていた。傷つけることは決してしない。私には、なぜ彼がそこまでする必要があるのか全く分からない。去年の文化祭のあの時だってそうだった。彼が自身を勘定に入れないのは、いつも決まって誰かのため。知り合いだろうがなかろうが、彼を好いている人だろうが嫌っている人だろうが、そんなことは関係ない。そんな彼が他人を傷つけてまで、何かをしようとしている。
『そんなの‥‥‥私に止められるわけ‥‥‥ないじゃん』
心の中で叫ぶ。私には何もできない。力になることも、ましてや彼の痛みを一緒に背負うことも。彼の氷のようなココロを溶かすには、私はあまりにも無力過ぎた。気付いた時には、既に彼の身体の震えは止まっているように見えた。
「ありがとう。」
彼は心からの笑顔で言う。立ち去っていく彼を私はただ‥‥‥、見つめることしかできなかった。
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「これで‥‥‥、これで良かったんだ。」
自分に言い聞かせるように口にする。
「こうするしか‥‥‥なかった。」
美鮮と話すまでは、他の誰を拒絶してもココロは痛まなかった。でも、彼女だけは違った。とても胸が痛かった。心が痛かった。全ての想いをぶちまけたいとすら思った。俺のことを心配してくれていることは分かっている。そんな彼女を傷つけるべきではないと理解している。でも―――
『先輩!』
あの時の光景をフラッシュバックする。あんな顔をさせないためにはコレしか方法がなかった。
「コレしか‥‥‥」
目元を拭い、歩みを進める。
もう、迷わない―――
想志は自分の信じる道を迷いながらも、それでも確かな歩みで前に進む。その果てに、全てを失ったとしても。何も得られなかったとしても。
迷うのは決して悪いことではない。むしろ、そうして悩み続けるということは自身の想い、覚悟を確かめることに繋がる。迷いもなく進むというのは、その行いの正否を見極めることから逃げているだけのこと。自分と向き合うことから目を背けている人間の言い訳に過ぎない。何が正しくて何が間違いなのか。それは誰のための、何のための覚悟なのか。それを常に理解したうえで前に進む事こそが、本当の重みを背負うということ。だからこそ、彼は自身に問い続ける。今も、これからも―――。
その在り方を痛ましく思う者もいるだろう。
『家族でも恋人でもない、赤の他人が傷つかないために己の人生を捨てる』という行為を決して理解することなどできない。誰であれ、最終的には自身を最優先にする。それが当たり前。人間である以前に、動物として当然のことであり、本能的に備わっている機能。例えばの話にはなるが、彼に命の危機が迫っているとする。自身の信念を捨てることができれば命だけは助かるという状況。通常であれば、命を選ぶ。だが、仮に本当にそのような状況に直面したとしても、彼は信念を貫くことを選ぶだろう。それは、哲学上では綺麗な在り方とされるが、動物としてはあまりに欠陥であり、彼が異常であるということを意味する。
想乃華までをも拒絶した時点で、彼の運命は決まったも同然だった。もはや、引き返す道はない。いつか、彼の心を融かし、未来を変える人間が現れるかもしれない。仮に、それによって未来が変わったとしても、運命までをも変えるには至らないないだろう。彼は捨ててきた多くのモノのためにも、大切な人たちのためにも、自分を曲げることは決してない。ココロを深く固く閉ざし、自身の信念を体現し続ける。それこそが、彼にとっての生きる意義であり、彼の存在証明だった。
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二〇一六年。十月二十六日。
想志は体育館裏に結愛を呼び出していた。
「先輩、どうしたんですか?」
結愛は彼の異変にすぐに気付いた。心の中がざわめく。何か良くないことが起こっているという予感が脳裏を霞める。
「急に呼び出してごめん‥‥‥。」
「こんなことを聞くのはアレだけど‥‥‥。」
「結愛は俺のことが今でも好き‥‥‥なのか?」
一瞬の戸惑い。彼からその話題を口にするとは思ってもみなかったのだろう。それもそのはず、ラインのメッセージには未だに既読が付いていなかったからだ。故に、彼から『避けられている』と、そう思うのは当然のことだった。
「もちろん!大好きですよ‥‥‥。」
「‥‥‥そっか‥‥‥。」
一瞬の沈黙。だが、想志はすぐに口を開く。
「俺はお前のことが嫌いだ。心底嫌いだ。顔も見たくない。だから‥‥‥、お前の想いには応えられない。」
その言葉に凍りついた。『想いには応えてくれない』なんてことは私自身わかっていたことだ。一方的な感情の押し付け。相手からしてみれば迷惑でしかない行為。それを受け取ってくれるなんて、都合の良いことなんて存在しないと理解していた。それでも、ここまで完全に面と向かって拒絶されるとは思っていなかった。言葉が出なかった。私はどうしたらいいのか分からず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。それだけ言って、先輩は立ち去った。
「どうして‥‥‥こうなっちゃったのかな。」
私はやり場のない感情を地面にぶつけた。
「嫌われるのは‥‥‥別にいい。」
「でも‥‥‥。」
後悔は一つだけ。
「なんで先輩にあんな顔させちゃったんだ!私は!」
見たことのない表情。彼の瞳には以前は灯っていた、輝きや真っ直ぐさが跡形もなく消えていた。そうさせてしまったのは、きっと‥‥‥私のせい。そんなのは嫌でもわかる。心の底から愛していたからこそ、自分の馬鹿さ加減に苛立ちが止まらない。
「あぁ‥‥‥。」
私の中から、先輩がどこか遠くに行ってしまう感覚に襲われる。先輩と楽しく居られたのはつい最近のことだったのに、どこか遠い昔のように感じる。
それとも‥‥‥
『楽しかったのは私だけ‥‥‥だったのかな』
そんな思考が脳裏を霞める。
「ごめんなさい‥‥‥。ごめんなさいっ‥‥‥!」
心のあちこちに穴が開いた気がした―――。
結愛の懺悔が彼に届くことはなく、たった一つの後悔だけが彼女の胸を締めつける。
「私は‥‥‥もう‥‥‥先輩と関わっちゃダメだっ‥‥‥!」
「先輩をもっと苦しませちゃうっ‥‥‥!」
「馬鹿だ‥‥‥私‥‥‥」
「ごめんなさいっ‥‥‥」
最後まで彼女の懺悔が届くことはなかった―――ー
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彼と彼女と彼女の、最初の出会いと別れのお話はこれにて一旦の閉幕。自己を喪失したようで何も失っていないヒトの形をした何か。そして大切な人を失い、後悔ばかりを抱えた彼女たちの物語が動き出すのは、ここから約三年後のこと―――