四匹目 後編
「ファーブルくん、だいじょうぶぅ? やっぱり蟲……多かった?」
「! い、いや……平気だ。大丈夫──掃除、何すんだよここで」
「うん……あのねぇ」
その瞬間、大地が震えた。
「おわあっ!?」「きゃあ!」
震えた、というよりは地面がいきなり持ち上がって重力に圧し潰されたような、エレベーターに乗って上階へ上がった時のような感覚に体勢を崩してふたりはしりもちをつく。
「な、なんだ!?」
「あ……移動、するんだ。そういえばぁ……午前中にそんなアナウンス、してたかもぉ」
「は!? 聞いてねえぞ──って、寝てたからか」
空を仰いでもネット越しに青空が広がるばかりで、特に何か変化があったようには見えない。何が起きたんだ、と戸惑う不亞武流にてふてふは学校が移動しているのだと、さらっととんでもない答えを返す。
「は……学校が、移動?」
「うん……話に聞いただけだったけどぉ、ほんとだったんだ……。えっと、五年くらい前かなあ? 蜘蛛せんぱいがまだ十二歳くらいの時……コクドムソグモっておっきなクモにねえ、蟲喰学園を載せて移動式にしちゃったんだって」
「は……はあ!? ……はああ!?」
そうこうしている間にも地面はゆらゆらと覚束なく揺れていて、空港によくある動く歩道の上にいるような心地で不亞武流は呆然とする。
「クモの……上……?」
「コクドムソグモっていう、世界最大のクモをオーストラリアから連れて来たんだってぇ。蟲喰学園が乗っかるくらいだから、ほんとにおっきいねぇ」
コクドムソグモ。
胴体長八十メートルの、別名〝島〟と呼ばれる──読んで字の如し、島そのものと紛うほどの大きさを誇るクモ。足の裏に大量の浮きがあり、音を立てぬ隠密行動と水上移動を自由自在にこなす怪物として遣い手たちや一部の生物学者には知られており、苔生したような体表をうまく活用し山脈に紛れることが多い点を踏まえて〝山擬き〟とも呼ばれている。主に日本を生息地としていた──かつては〝土蜘蛛〟なんていう妖怪として人々に語られたこともあるクモだが、急速な近代化に追いやられる形で外海に拠点を移していた。
そうしてほとんど忘れられた伝説の怪物と化していたクモを蜘蛛が大勢のクモを率いて探し出し、クモに己の力を認めさせ、配下に加えた。蟲喰蜘蛛、十歳のころの出来事であった。
「いや……いやいや! ンなデカいクモが移動したらパニックになるだろ!?」
「えぇっと、〝擬態糸〟を使ってるから大丈夫だと、思うよぉ。ほら、ネットってふたつあるでしょ? 鋼鉄の太い網と、細くて丈夫な白い糸……あれねぇ、どっちも蜘蛛せんぱいのクモが編んだらしくってぇ……」
クモの糸にも種類があり、蜘蛛はそれを巧みに使い分けて蟲喰学園全体を擬態可能なネットで覆い、移動要塞を作り上げたのだとてふてふはうっとりする。
「失笑園対策らしいんだけどぉ……ほんと、すごいよねぇ。蜘蛛せんぱい」
蜘蛛と雀蜂、百足──そして不亞武流の祖父にあたる蟲喰螽斯がベルゼブブと相打ちとなり、その命を散らした直後──蜘蛛は大量のクモを引き連れてまず、蟲喰学園の要塞化を図ったという。並行して新たなクモを仲間に加えながら蟲喰学園で働いてくれる人材も集め、十二歳の時に正式に蟲喰学園を高等部と大等部のみ再開させ、現在に至るのだとてふてふは聞きかじった話を語るが、不亞武流は話についていけないとばかりに呆然としていた。
ついていけないなりに、かろうじて拾えたいくつかの事柄を元に、蜘蛛がそうしてまで対策を取らなければならないほど〝失笑園〟は──母・虫明蟲姫を殺めたベルゼブブは手強いのだと悟る。
「……こんなすげぇことできんのに、それでも倒せねぇのか。失笑園」
「……みたいだねぇ」
そこで不亞武流はいくらか逡巡しつつも、てふてふに失笑園を倒したいのか問うてみた。
「……うん。わたしは強くないけどぉ……できることはなんでもするから、倒したいよ。……わたしのお父さんねぇ、海上保安庁だったんだぁ」
「そりゃ、すげぇな」
「うふふ、ありがとぉ。でもねぇ……ベルゼブブに殺されて、家に……手首が入った箱がねぇ、届いたの」
「っ……」
「お母さんは蟲遣いじゃなくて、普通のひとだからぁ……それから寝込むようになっちゃってぇ……」
てふてふは寂しそうに目を細めて、だから自分が蟲喰学園に戻ることも母に引き留められたと語る。
「行かないでって、泣いてた」
「…………」
「ひどいかなぁ……わたし」
不亞武流は、何も言えなかった。
何かを言えるだけの気質も、何かに応えるだけの気概も不亞武流にはなかった。何をどう答えればいいのか、不亞武流にはわからなかった。まともに人間関係を築いてこなかったツケがここにきている。
いつもならば内包するもどかしさや不満、不快感を全て父親のせいにしていただろうが、それさえも今の不亞武流にはできなかった。
「あ……ごめんねぇ、気まずい話しちゃってぇ……だいじょうぶ、わたしはもう決めたから」
「…………」
「わたしねぇ、蜘蛛せんぱいのようになりたいんだぁ。わたし、こんなんだからぁ……蜘蛛せんぱいのように、いつでも自信満々で胸を張れるようになりたいんだぁ」
蛾は嫌われ者だけれど、それがどうしたって胸を張れるようになりたい──そう囁いててふてふは揺れる地面に手を這わせて、芝生を撫ぜる。その動きに合わせてひらひらと、数匹の蛾が舞う。
「ファーブルくんも、すごいよねぇ」
「え? ……あ? 何で、だ」
「いろいろ。ここにいるのが嫌だからってすぐ出ていく行動力とかぁ……虫嫌いなのに、わたしたちに蟲と一緒にいてもいいと言ってくれたりとかぁ……不亞武流くんは強くて、優しいなぁって思うよ」
「…………」
そんなんじゃねぇよ、と不亞武流の唇が音もなく言葉を紡ぐ。本当に、そんなんではないのだ。
すぐ出ていく行動力があったのではなく、思考放棄して逃げただけ。
思いやりから受け入れたのではなく、罪悪感を誤魔化すために許容しただけ。
不亞武流は己の矮小さに苛まれてばかりであった。
「そんなこと……ないと、思うけどぉ……。え、えっとぉ……だってファーブルくん、蛾とチョウチョがおんなじってこと、ちゃんとわかろうとしてくれていたし……」
「……それが、何なんだよ」
「えっと、えっとね……嫌いなものでもちゃんとわかろうとするってのは、たとえ罪悪感があったとしてもできないことだと思うんだ」
しどろもどろになりながらもどうにか言いたいことをゆっくり、ゆっくりかたちにしていくてふてふに不亞武流は何も返さない。返さないが、唇を尖らせて何らかの反応を見せる。一体どういう感情からそういう仕草をしているのかてふてふにはわからなかったが、それでもやはり不亞武流は優しいと微笑んだ。
「わたしの……この、もたもたした喋り方……ちゃんと聞いてくれるところもぉ、優しいと……思うんだぁ」
「……ンだそりゃ」
「ほ、ほんとだよぉ」
ファーブルくんは優しいと思う、となおも言い募ってくるてふてふを不亞武流はもういい、と突っぱねる。拒絶に一瞬肩を震わせたてふてふではあったが、そっぽを向く不亞武流の耳たぶが赤くなっていることに気付いて──嬉しそうにはにかんだ。
それからふたりは──主にてふてふの操る蛾たちが、ではあるがともあれふたりは中庭の落ち葉やゴミ、小石などを拾い集めて綺麗にして、ともに教室へ戻るべく彼岸館へ入った。
「うぃーっす! ファーブルどうよ? てふてふとのラブイベントは」
「ンだそりゃ。ただの掃除だろうが」
彼岸館に入ってすぐ、一階廊下の掃除をしていたさそりと鉢合わせた。かt思えばさそりの寸劇がいきなり始まった。
「〝きゃっ!(転ぶヒロイン)〟〝おっと! おい気を付けろよ(やれやれ顔)〟〝あ……ありがとう、ファーブルくん……(うっとり)〟みたいな?」
「おれをどういうキャラだと思ってんだてめーは」
「でもてふてふカワイイっしょ」
「知るかよ。ンなの興味ねー」
「嘘吐くなし! 思春期ズンドコ男子高生が女子に興味ないとかありえないっしょ! チンコ反応した女子とかいるっしょ! 誰よ?」
「大声でチンコ叫ぶんじゃねェボケ! てめーホントに女か!?」
げらげら笑うさそりとがなる不亞武流の間でてふてふが顔を真っ赤にさせてあわあわと手を彷徨わせているそこに──何処までも澄み切った冬の空のような、清廉で身が引き締まる声が響いた。
「──風紀委員長として、わたくしからもやめるよう進言いたしますわ」
がなっていた不亞武流の顔がかすかに弛緩して、弾かれるように振り向く。
蟲喰雀蜂。さそりもギャル雑誌の表紙を飾れる程度には抜群のプロポーションを持っているが、それでも雀蜂の完璧な肢体には及ばない。ハリウッド女優をしております、と言われてもああやっぱりと納得してしまうほどの整いすぎた容姿。
さそりの言い分を認めるわけではないが、己が〝いいと思った女子〟をひとり指名するのであれば間違いなく雀蜂だろう、と考えて不亞武流は何を考えているんだと内心ツッコミを入れる。
「お姉さまの仰る通りなのです」「お姉さまの仰る通りなのです」
と、そこでようやく不亞武流は雀蜂の背後にもうふたり、人影があることに気付く。あの──不亞武流が踏み潰してしまったカブトムシを手に涙を流していた女生徒を慰めていた数人の中にいた双子である。
「風紀委員、蜜月みつななのです」「風紀委員、蜜月みつはなのです」
〝蜜蜂遣い〟なのです──とコンマ一秒のズレさえなく声を重ねたその双子は合わせ鏡のようにそっくりであった。雀蜂は百足同様、蟲を一匹も纏っていなかったが双子──みつなとみつははミツバチと肉体共有していた。様態としてはてふてふに近く、首元を覆う白くふわふわとしたファーのような毛が印象的だった。腰からお尻にかけてミツバチの胴体に挿げ替えられていたが、違和感はなかった。ミツバチを擬人化したような、と言って差し支えないほどによく似合っているのだ。
「不亞武流くん、お加減は如何ですか?」
「え? あ、ああ……別に、なんとも……ねえよ」
ゆうべは、と言いかけて不亞武流は口を噤む。
何故口を噤んだのか? 至極単純かつ、いつも通りの理由である。不亞武流はどう礼を言えばいいのかわからなかった──それだけだ。〝ありがとう〟のひと声を、どう口にすればいいのかわからなかった。ただありがとうと言えばいいだけ──そう人は言うだろう。だが、〝それだけ〟では済まない人間も確かにこの世にはいる。そのひとりが不亞武流であり、不亞武流の場合はこれまでまっとうに人間関係を築いてこなかったのと、礼も謝罪もしたことがなく、いつだって全てを他人に、特に父親になすりつけていたのとで言葉に詰まったのである。
「…………」
どうすればいいのかわからないまま、不亞武流は冷や汗を流して硬直する。てふてふとさそりが首を傾げて不亞武流を見上げるが、不亞武流は反応しない。雀蜂が微笑みを携えたまま不亞武流を見つめているが、不亞武流の喉は枯れるばかりで声が出ない。
〝ありがとう〟を、どう言えばいいのか?
ただ発音すればいいだけだろうか? あ・り・が・と・うと順に発音すれば、それでいいのだろうか? それで礼を言ったことになるのだろうか? 何ならスマートフォンの読み上げ機能を使って機械音声でアリガトウと再生すればそれでいいのではないか? さて、〝礼を述べる〟とは一体全体、どうやってこなすものなのだろうか。
〝ありがとう〟とは、何であろうか。
「きゃあああぁああぁああぁぁ!!」
「うおおぁああぁああぁああぁ!?」
いきなり雀蜂が絶叫を上げながら不亞武流に抱き着いた。反動で思考全て置き去りに絶叫した不亞武流に、さらにさそりとてふてふの絶叫が被さって不亞武流の体がさらに重くなる。
「いやーっ!!」「いやーっ!!」
双子も抱き合いながら絶叫していて、何事だと視線を巡らそうとする不亞武流だったが、首に抱き着いているさそりのせいで首が回らない。キィキィと頭上にいたヒスイタランチュラが鳴く──そうだ、と不亞武流は呻いて〝フェイズ1〟感覚共有を発動させる。
不亞武流の絶叫が木霊した。
ヒスイタランチュラの八つの視界のうち、唯一活用ないし認識できている〝動体視力〟の目越しに見えた、彼岸館一階廊下の床。
手のひら大のゴキブリの群れがいた。
「どうしたっちゃ!? うおっゴキブリッ!! うおっ飛んだっちゃ!!」
「ファーブルさんアナタこんなところで不純異性交遊はってか離れなさい!」
「それどころじゃないと思うよ、灯籠。みんな完全にパニック状態だ」
絶叫を聞きつけてか、二階からハサミと灯籠、百足が降りて来たが阿鼻叫喚の廊下を前に踏み出せず、二の足を踏んでいた。
「俺っちもゴキブリは苦手っちゃ……」
「ファーブルさん!! ってかさそり!! いい加減離れなさい!!」
「ムカデ遣ってもいいなら退治できるけど……」
ガサガサガサと這い回る音が耳障りに反響する中、百足がぞろりと詰襟の中からオシタリムカデを出す。
「あ~勘弁勘弁。やめてくれよ、百足ぇ。俺様のカワイイベイビーちゃんたちを虐めてくれるな」
軟派で軽薄な、いっそ酷薄と言ってもいい淡泊な声とともに、二階からひとりの男子生徒が降りてきた。
「……御鬼先輩」
五紀御鬼。高等部二年の〝蜚蠊遣い〟である。ファッションモデルや舞台俳優をやっていても違和感がない程度には整った顔の、いわゆる〝イケメン〟であるが──頭から生えた長い二本の触角と、一見すればカブトムシやクワガタムシのようだと言っても差し支えない程度には硬質な羽が不思議なことに──生理的嫌悪を他者にもたらす。
「御鬼!! このゴキブリたちを収めなさい!! 苦手な生徒が多いから人目は避けるよう何度も申し付けているでしょう!?」
不亞武流にしがみついて、足も不亞武流の足の上に乗せて雀蜂がキレ気味に叫ぶ。御鬼は軽薄な笑みを浮かべたまま、はいはいとおざなりに返事して手のひらを閃かせた。途端に、あれだけ縦横無尽に這い回っていたゴキブリの群れがどこかに消えてしまった。そう、どこかに。そこかしこに。
ブツブツと粟立っている肌をそのままに、雀蜂があたりを警戒しながら不亞武流から離れる。
「今度また、同じことがあれば蜂の巣にしますわよ──貴方を、わたくしのこの手で」
「おっかねぇなおい。ゴキブリにだって這い回る権利くらいあるんだぜ? 遥かな古代より一切姿形の変わらない、完成された究極の生物への敬意を忘れるなよ」
「ですから人目を避けろと申し上げているのです。本能的な恐怖、不快感、生理的嫌悪というのはどうしても拭いきれないものですから。死ねとは申し上げておりませんでしょう? まあ、今度同じことがあれば死んでいただきますが」
ぞぞぞぞ、と拳大のスズメバチを全身に這わせて御鬼を見つめる雀蜂に、御鬼は降参とばかりに両手を挙げて笑う。
「さそり、いい加減ファーブルさんから離れてください。不純ですよ」
「うっせ! サブイボ立ったわ! あ~マジだるいんですけど」
「ううう……ゴキブリだけはぁ……やっぱり、慣れないねぇ」
さそりとてふてふも不亞武流から離れてそれぞれ、強張りきった筋肉をほぐしにかかる。
「どうしてゴキブリは……こんなにだめなんだろ? 百足くんのムカデとか……ファーブルくんのクモとかもぉ……嫌われやすいほうだけど、へいきだし……」
「〝大人が怖がる様子を幼いころから見ているから〟〝異常な身体能力と生命力に対する生物的恐怖〟〝予測不能な動きに対する生理的嫌悪〟〝人類の打ち出す対策に即座に適応してみせる進化能力への遺伝子レベル恐怖〟〝生きた化石と称されるほど太古から生きる不滅の怪物に対する生存本能〟──色々理由づけられておりますけれど、おそらく最大の原因は〝共生不可能〟にあると思いますわ」
人間とゴキブリの生活範囲は同一である。と、いうのもゴキブリが人間の生活環境を好み、共生を望むからなのだが──ここで厄介なのはゴキブリが望む〝共生〟とは即ち〝寄生〟に近い点であった。
例えばクモ。一般家庭に現れては人々に恐怖を与えるアシダカグモが有名な例であろうか。見た目の恐ろしさから忌避されがちだが、人間にとっての害虫や害獣を駆除し、かつ無駄な巣は作らず、加えて決して人を攻撃しない。このことからアシダカ軍曹などと呼ばれ、受け入れる一般人も比較的多い。
だがゴキブリは真逆で、人の生活範囲に侵入して場所を問わず巣を作っては大量繁殖し、好き勝手食い散らかしては痕跡をそこかしこに残す。加えて、病原菌を撒き散らす。〝共生〟という名の〝寄生〟に嫌悪するのは生物としての本能だろうと雀蜂は語った。
「ネズミやムカデ、蚊など害ある生物たちの中でも特に嫌われているのは……ひとえに無遠慮さから、でしょうね」
クモは臆病である。ムカデやネズミも臆病で小心者である。蚊はあまりにも小さすぎる。だがゴキブリはそこそこ大きい。かつ、恐れない。人を恐れない。決して、人を怖がらない。
ゴキブリは、人を恐ろしく大きい生物だと認識しない。
そこが人に恐怖を与えるのだ。
人を恐れない生物への、恐怖。それこそが──ゴキブリへの生理的嫌悪の正体であろう、という推察であった。
「ひどい言われようじゃねえの。俺様泣いちゃうぜ~? 畏れ知らず、天敵知らずのゴキブリとか厨二病ハートドストライク設定だろ? もっと愛してくれていいんだぜ」
「黙りなさい。姉様に言いつけますわよ」
「それは勘弁」
さしもの御鬼も蜘蛛は敵に回したくないのか、そそくさとその場から素早く──それはもう、ゴキブリの如く素早く去っていってしまった。
御鬼がいなくなり、しばしの静寂ののちにようやく落ち着いたらしいてふてふが深いため息を吐いた。
「ゴキブリも……嫌ってばかりじゃだめだって、思ってるんですけどぉ……。わたしの蛾だって嫌われてるの、かなしいから変えたいって思っているのに……」
「仕方がないのです。無理なものは無理」「仕方がないのです。無理なものは無理」
みつなとみつはが抱き合ったまま、てふてふを撫でて慰める。てふてふとて蛾が本当に嫌いな人間に押し付けるつもりはないだろう、と続けて慰めればてふてふは頷き、ようやく笑顔になった。
「さそりさんはゴキブリ普通に叩き潰していたじゃないですか。虫のほうの」
「それだって毎回鳥肌立ちまくりだっつの!! それがこのサイズとかマジ無理」
「まあ……御鬼先輩のは大きくてさすがのワタシも少し怯みましたがね……それにしても、雀蜂先輩も苦手なのですね。ゴキブリ」
「ええ……蟲喰一族の蟲専用温室にもゴキブリはいなかったですし……あれらは五紀一族一子相伝の蟲で、遡れば室町時代まで辿ることができるそうですわ」
何と驚くべきことに、御鬼には兄弟が十四人いるそうだ。蟲遣いとして最も優秀であった御鬼を蟲喰学園に通わせ、御鬼以外の兄弟はゴキブリ育成に精を出しているとのことで、それを口にした雀蜂が顔色を悪くする。
「蟲のゴキブリに害はない……それはわかっているのですが」
虫のゴキブリは害虫であっても、蟲のゴキブリは五紀一族に管理され、完全に統制の取れている無害な生物である。それは理解していても、どうしても虫のゴキブリと同一視してしまい、生理的嫌悪に苛まれてしまうと雀蜂はため息を零した。
「さて、混乱のせいで廊下が少し汚れてしまいましたわね。ここはわたくしたち風紀委員がやります。貴方がたは教室に戻ってください。姉様の移動もそろそろ終わるでしょうし、担任の指示を待ってくださいませ」
風紀委員長としての顔になった雀蜂の指示に一同は頷き、そういえば何処に向かうのかとさそりが問う。
「大阪だと伺っておりますわ」
「マジ!? 週末アウトレットに買い物行こっかな」
「週末を迎える前に担任や寮母から改めてご説明があるかと思いますが、外出の際には単独行動が禁止されています。必ずどなたかと一緒に行ってくださいませね」
「おっけっす! 灯籠は当然として、てふてふも行くっしょ? どーせなら一年全員で行く?」
「ああ、いいかもね。不亞武流の気晴らしにもなりそうだし」
蟲遣いがベルゼブブ率いる失笑園に狙われている今、移動要塞としての役割を担っている蟲喰学園から出ることは得策とされていない。だがそれでは思春期の青少年たちには辛かろうと、蜘蛛が監視役のクモを連れていくことを条件に週末の外出を許可したようだ。
蟲喰学園はかなり恵まれているほうで、鰭遣いを養成する学園などは入学したが最後、一切の外出を禁じられるという。
「あっ、やっぱり蟲喰学園だけじゃないっちゃ? 俺っちココと姉妹校の鱗谷学園しか知らないっちゃから……」
「もちろん。一般人には知られてないけど、日本だけじゃなくて世界中に遣い手を養成する学校、ないしは組織があるよ。日本の遣い手養成校は大概が山奥とか渓谷の底とかに隠れ潜んでる感じだね」
ハサミの初歩的な質問に百足が気安く答えて、今はどの養成校もピリピリしていると神妙な面持ちで続けた。
「失笑園が狙っているのは蟲遣いだけじゃないからね。どの遣い手も優秀な人材をかなり殺されているんだ」
「怖いっちゃね……」
「だからどこも身を守るために気を張り詰めているんだけど、そういう意味で姉貴のこの移動要塞はかなり強いし安全だよ」
未だに揺れは続いているが、とても緩慢な揺れで慣れてしまえば違和感はない。数ある学校・組織の中でもここほど安全な場所はないと百足は誇らしげに胸を張った。自分のことのように自慢に思っている百足にハサミも笑い、改めてすごいところに来たのだと興奮する。そうしてすっかりゴキブリの恐怖が和らぎその場に平穏が流れたころ──思い出したように、みつなとみつはが声を重ねる。
「ところでファーブルさんの反応がないのです」「ところでファーブルさんの反応がないのです」
「あら……そういえば、そうですわね」
不亞武流が無反応であることにようやく思い至った面々が不亞武流の様子を窺う。
白目を剥いて失神していた。立ったまま。
【※夜の街灯に集る蛾は実はチョウチョなことも多い】