四匹目 前編 【アオバラオウガ】
人間が勝手に分類して、勝手に穢れを決める。
四匹目 【アオバラオウガ】
蟲学。
読んで字の如し、蟲に関する、ひいては蟲遣いに関する授業。
「虫と蟲は言うなれば猿と人のような関係性だ。進化の過程でそれぞれ違う方向に進んでいっただけで、元を辿れば同じなんだ」
音鳴先生によれば、虫と蟲の最も違う点は〝寄生性〟にあるのだという。蟲のみならず〝爬〟や〝鰭〟といった生物たちも同様に寄生性が存在するかどうかが普通の爬虫類や魚類と大きく違う点だと言われている。
「つまり木上生活のまま進化した猿と、地上生活に適応していく形で進化していった人のように──虫はそのまま変わらぬ生活を維持して進化。蟲は他生物に寄生し共生する形で進化、というわけだな」
今も人に見つかっていないだけで、多々いる虫に紛れて他生物に寄生しながら生きている野生の蟲はいる。この〝寄生性〟というのはいわゆる寄生虫とは性質が異なり、五感及び身体能力及び身体機能及び身体構造の貸し借り関係を指す。
「虫明もゆうべ経験したはずだ。〝フェイス1〟を」
「あ、ああ……なんか、視界がいきなり増えたな……」
不亞武流の言葉に頷き、音鳴先生は板書に移る。その間も、語る口は止めない。
「〝フェイズ1〟感覚共有。〝フェイズ2〟肉体共有。〝フェイズ3〟肉体寄生。そして──〝フェイズ4〟覚醒」
〝フェイズ1〟感覚共有──蟲と五感を共有し、蟲が見ている視界や聞いている音などを知ることができる。
〝フェイズ2〟肉体共有──蟲と身体を共有し、蟲の羽や触角などの部位を獲得できる。加えて、身体能力も自分のものに蟲のぶんを加算できる。
〝フェイズ3〟肉体寄生──これまでとは逆に自分が蟲に寄生し、蟲の特性を何十倍にも引き上げて己がものにすることができる。
〝フェイズ4〟覚醒──未知の領域。
ゆうべ、不亞武流はヒスイタランチュラと視覚を共有した。膨大な視覚的情報に脳味噌がねじり切れそうになるほどであった。あれこそが〝フェイズ1〟感覚共有であったのだ。ヒスイタランチュラに寄生され、五感のうち視覚を共有したのだと改めて状況を理解した不亞武流は手元で撫で繰り回されて八本の肢を投げ出して蕩けている白いクモを見下ろす。
「〝フェイズ1〟感覚共有はこのクラスの全員ができているね。共有は脳のリソースを割くから、日常的に共有しておいて慣れておくといい。最初は混乱するだろうからなるべく同じ視界、同じ音で共有できるよう頭の上とか耳の横とかに蟲を置くようにね」
慣れてくると違う場所の蟲と感覚共有しても混乱しなくなるし、腕が上がれば複数の蟲と共有できるようになる。風紀委員長をこなしている雀蜂などは、学園内を飛び回っている数百、数千匹ものスズメバチと二十四時間感覚共有しているとのことだった。
また、共有する五感については蟲によって得手不得手があり、例えばモグラの使役するミミズの場合、視覚が発達しておらず視覚共有は意味を為さない。逆に不亞武流のヒスイタランチュラは視覚が異常に発達しているため、共有するならば断然視覚だ。
「〝フェイズ2〟の肉体共有、できるやつ挙手―」
はーい、と不亞武流とハサミ、モグラ以外の全員の手が挙がる。
それを受けて不亞武流はそれまで一心不乱に音鳴先生だけを見つめていた目をそろりと、教室内のクラスメイトたちに向ける。
クラスメイトたちの容貌が見事に、元に戻っている。さそりはホウセキサソリというらしい、文字通り宝石のように透明度が高く美しい体を有している生きているサソリをアクセサリーの如く全身に飾り付けている。てふてふは〝フェイズ2〟肉体共有によって青く美しい羽を持つ巨大なチョウチョと融合して、ぷっくりと根元が膨らんだ二本の触角に青い羽を持つ蝶人間と化している。
灯籠は、初対面こそ着ぐるみだと錯覚したものの実は本物のカマキリと融合していたらしく人体に巨大なカマキリが覆いかぶさったようなナリをしている。でんでん丸も巨大なカタツムリと融合して殻を背負う恰好となり、カタツムリの特性であるヌメった皮質も受け継いでいた。
モグラはまだ〝フェイズ1〟感覚共有までしかできていないものの、全身にミミズを這わせている様相はもはや〝フェイズ2〟肉体共有である。ハサミはクワガタムシの角を模したカチューシャこそしていれど、普通に数匹のクワガタムシを体に引っ付けているだけであった。百足も初対面時同様、オシタリムカデと呼ばれる〝音亡き歩行〟が卓越しているムカデをタスキのように斜め掛けしている。
不亞武流は頭を抱えた。
クラスメイトたちの理解は深く、不亞武流に近付く際には蟲をあらかじめ離しておいてくれる。だがこうして距離があれば躊躇なく蟲を全身に纏い、愛でている。ヒスイタランチュラがいる手前、その気持ちがわからなくもない状態になってしまった不亞武流としては口を出しづらく、視界に入ってくる蟲の大群に呻きながら耐えざるを得なかった。
「肉体共有は見ての通り、蟲と肉体を共有することだな。こうすることで例えば、蛾々我は空を飛べるようになる」
「はいぃ……地元では夜になれば、うちの子たちみんなでお空を散歩してましたぁ」
「いいなぁ……おらもミミズたちと、地面にうずまりたい……」
「…………」
その感覚はわかんねぇ、と言わんばかりの不亞武流の顔に隣の百足が苦笑する。
「これは〝フェイズ1〟感覚共有を続けていくと自然と移行できる。虫明、鍬形、水目頑張れよ~」
「う、うっす……」「はいっちゃ!」「はい……」
言われて不亞武流は改めて、手元のヒスイタランチュラを見つめる。そんな不亞武流の視線に気付いてかヒスイタランチュラがシャキッと前肢を挙げた。同時に、ぐっと不亞武流の視界が狭まって脳が圧迫される。
「ぐっあ……!!」
視界を圧迫する八つの視界のうち、ゆうべのように動体視力に長けた視界に意識を集中させて脳への負担を減らしにかかる。傍目には目を極限にまでかっぴらいた不亞武流が呻いているようにしか見えない。が、ここには蟲遣いしかいない──ゆえに、誰も何も言わない。
「姉貴に聞いたけどさ、クモの八つある目ってそれぞれが違う働きを持つ単眼らしいよ。それ全部使いこなせたらすごいよね」
「だ……ろうなァ……!!」
余裕のない声で百足に応じつつ、不亞武流はつい昨日相対した蜘蛛を思い出す。
八つの目を持つ、蜘蛛の姿を。
あれは間違いなく蜘蛛の八つある視界を全て我がものにした状態だろうと考えて、不亞武流はぞくりぞくりと体を震わせた。このまま、ヒスイタランチュラとともに蟲遣いとしての腕を磨いてゆけばいつか──自分もああなれるのではないかという期待と、興奮と、憧憬にも似た渇望。
「大丈夫か? 話続けるぞ~。〝フェイズ2〟肉体共有までなら問題なく移行できるだろうが、ここで蟲遣いは壁に当たる。それが〝フェイズ3〟肉体寄生に至るまでの壁だ」
この中では百足だけが至れているな、という音鳴先生の言葉に教室内の視線が百足に集中する。
「先生はどうなのですか?」
「先生ね、そこらの才能あんまねーの。戦闘もニガテだしね。だから〝フェイズ2〟止まり」
〝フェイズ3〟肉体寄生はそれまで蟲に寄生される側だったのが逆転して、人間側が蟲に寄生することになる。これには高い身体能力や蟲との深い信頼関係が必要で、警察や自衛隊などで活躍している蟲遣いは須く〝フェイズ3〟に至っているそうだ。
「……そういやお前らって何の仕事したいとか、あんのか?」
不亞武流の何気ない呟きに真っ先に反応したのは意外にもモグラで、世界一の農場を作りたいと満面の笑顔で言った。
「おらん家、農家……おらも、農家、継ぎたい。ミミズたちと……いい土さ、作って立派な農作物……育てたい」
「かァ~っ!! いい夢じゃん最高じゃん! それ叶ったらうち絶対作物買うし! ああ、ちなみにうちは夢とか特にないかな。ベルゼブブぶっ倒したいって思ってるからとりあえずケーサツとか自衛隊とか視野に入れてる感じ?」
「俺っちは……まだわかんねっちゃ。クワガタムシ好きだし山好きだし、それに関係する何かできればいいっちゃけど」
「ワタシはここで働きたいですね。数年は外に出て働いてみたいですが、いずれここに戻って教師をやりたいです」
「でんはイラストレーターになりたいでん」
「めっちゃ意外なんですけど。でんでん丸絵描けたっけ?」
「適当に言ってみただけでん」
「ふざけんなし」
「え……えっと、わたしは……薬剤師に、なりたいかなぁ? うちの子たちの……鱗粉には色んな種類があるしぃ……うちの子たちが集めてくるミツもぉ……色々あるからぁ」
クラスメイトたちのコントめいた会話を気怠そうにしつつもしっかり聞いて、不亞武流はそのまま百足に視線を向けた。その眼差しに応えるように百足が笑顔を浮かべる。
「ぼくは姉貴のサポートやりたいかな。姉さんもそうみたいだけど、姉貴は既に警察や政府に顔が利くレベルで活躍してるから」
ふぅん、と頷きつつも不亞武流はいまいち掴み切れない様子でぼんやりしていた。将来何をしたいか、何をやりたいか。それを考えようにも現実感が湧いてこない心地であった。まだ入学したばかりで、まだ未成年で、まだバイトすらしたことがなくて、社会の仕組みどころかどんな税金があるかさえわからない。そんな状態でいざ将来を考えてみても、まだ先のことだからとやる気になれないまま思考放棄するのだ。
別に不亞武流だけがこうというわけではない。不亞武流くらいの年代の子であればさして珍しくもない。
「その蜘蛛ちゃんだけどな。蟲喰学園内で唯一、〝フェイズ4〟覚醒に至れている超一流の蟲遣いだ。警察や自衛隊にいる蟲遣いだってそこまで至れているのは片手で数えられる程度だ。だから蜘蛛ちゃんが理事長になっても誰も文句を言わなかった」
淀んでいた思考を切り替えて、不亞武流は授業に意識を向ける。
〝フェイズ4〟覚醒──読んで字の如し、蟲遣いとしての本領が〝覚醒〟すると言われている。この領域にまで至れる遣い手は数えるほどしかいないために詳細はほとんど語られていない。が、蜘蛛によれば〝人であり、蟲〟とのことであったという。
「人であり、蟲……」
言われて思い出すのはやはり、八つの目を眼球に宿した蜘蛛の姿。
「──ついでに言うなら、しつらく……失笑園のボスも〝フェイズ4〟に至っている」
失笑園のボス、ベルゼブブ。
不亞武流の母を殺した犯人。
無意識か、不亞武流の表情筋に力が入る。ヒスイタランチュラと感覚共有している最中なこともあってびきりびきりと血管が浮き出て今にも千切れそうになる。ふっと百足が不亞武流の眼前で手を閃かせて意識を逸らし、阻止する。
不亞武流は眼球を動かさないまま、ヒスイタランチュラが見つめる百足を八つの視界のうちひとつから眺める。
「〝フェイズ1〟感覚共有中は神経が張り詰めているから、慣れないうちは力を入れないようにしなよ」
「あ、ああ……」
不亞武流は大きく深呼吸をして、ヒスイタランチュラを頭の上に載せて視界がなるべく重なるよう調整する。不亞武流の左右の目から見えるふたつの視界と、ヒスイタランチュラの八つの目から見える八つの視界。どちらにも黒板に板書しながら解説する音鳴先生が映っている。それぞれで違う視界が映るよりもずっと負担が軽いように思えて不亞武流は細く息を吐いた。
◆◇◆
午後の授業を終え、掃除の時間となり不亞武流はてふてふとともに担当である中庭へ向かうことになった。鬼灯館と彼岸館、勿忘館に囲まれている中庭は芝生と花畑で構成されていて、チョウチョが多数飛んでいた。
「ふたりだけで中庭って、ココ広くねえか」
「え……あ、そっかぁ……ファーブルくん、昨日のオリエンテーションいなかったもんねぇ。あのねぇ、ここではお掃除とか授業の準備とか色んなことに蟲を使うよう、推奨されているんだよぉ」
ばたばたと背の羽を羽ばたかせながらてふてふがおっとり気味に微笑む。
「ファーブルくんはその子だけだよねぇ……でも、わたしにはいっぱいいるからぁ……すぐ終わるよぉ。えっと……呼んでも、いい?」
虫嫌いな不亞武流を気遣っているのだろう言葉に不亞武流は構わねえよとぶっきらぼうながらに首肯する。
「チョウチョは、わりと平気だし」
「あ、そうなんだぁ……あぁ、でもぉ……」
風に乗って舞い散る花吹雪のように多数の、色とりどりのチョウチョがてふてふの周りを舞う。
「……このコたち、ほとんどぉ……蛾なんだよぉ」
「はっ? ガ?」
不亞武流がぎょっと体を強張らせるのを見て、てふてふが哀しそうにへにゃりと触角を曲げる。
「やっぱり……蛾は、きらい?」
「嫌いってか……毒ありそうってか」
蛾と聞くと夜更けに灯る電灯に集っているイメージを抱く一般人が多いのではないだろうか。大きく不気味で、チョウチョのような優雅さに欠ける羽虫としてあまり好かれない虫だ。
てふてふは哀しそうにしながらもでもね、と接続助詞を口にして折りたたまれていた羽を広げる。重ねて折りたたまれているうちは見えなかったあでやかで美しい、青い薔薇を彷彿とさせる幻想的な模様が姿を現した。青い模様は発光すらしているように見えて、てふてふという存在をファンタジーに登場する妖精か何かのように思わせる。
「──わたしの相棒もねぇ、蛾なんだよぉ」
「え? ……え!? この、キレイな羽が?」
「ありがとぉ。このコねぇ、アオバラオウガっていうんだぁ。──あのねぇファーブルくん、チョウチョと蛾の違いって……知ってる?」
「え? ……いや」
言われてみれば何が違うのか考えたことがないな、と不亞武流は顎をしゃくる。
「実はおんなじなんだよ。元々はみーんな蛾だったの」
チョウチョと蛾は人と猿のように近いが違う生き物、と思うかもしれない。が、実は全く同じ生物なのである。元々チョウチョという生物はいなく、蛾という羽虫だけがいた。夜行性で樹液や果汁などを啜りながら森の中で暮らしていた蛾が、長い歴史の中で次第に木々の密集しない場所でも暮らす蛾が現れ、花の蜜を吸える昼行性に適応していった。
──そう、それが〝チョウチョ〟と呼ばれるようになったのだ。
その他にも、チョウチョは花に停まる際に羽を折りたたまない・蛾は木に停まる際には羽を折りたたむ。チョウチョは触角の先端が膨らんでいる・蛾は触角の根元が膨らんでいるなど細かい違いが見られるものの、それは生活環境の違いによる身体の変化であって生物的には同じであるらしい。
「蛾は夜行性だから地味な柄が多いし……天敵を脅かすためにおっかない柄の蛾もいるからねぇ。だから、蛾は汚いってイメージを、持たれちゃうんだよね」
こんなに綺麗な蛾もいるのに、とてふてふは寂しそうに微笑む。
「……そう、なのか」
不亞武流は記憶に朧げに残る母を思い浮かべる。チョウチョが楽しげに母の周りを舞っていて、だから不亞武流もチョウチョならわりと平気だと口にしたのだが──考えてみれば母の周りを飛んでいたのがチョウチョなのか蛾なのか、不亞武流にはわからない。
「ファーブルくんも、蛾だけど綺麗って……思ってくれる?」
「……あ、ああ。綺麗だよ。青い薔薇……みてえで」
「ふふ、ありがとぉ。中学校の時ねえ、普通の、蟲じゃなくて虫の蛾が教室に入ってきてぇ……すっごく綺麗だったからクラスの女子たちがはしゃいでたんだけどぉ……」
男子のひとりがチョウチョじゃなくて蛾だと指摘した瞬間、気持ち悪いと汚いと嫌の阿鼻叫喚になったという。てふてふがその蛾を逃がしていなければ潰されていたかもしれないと語って、やはり寂しそうに微笑む。
「どうして呼び方で、こんなに変わっちゃうんだろうねぇ?」
「…………」
不亞武流は何とも言えなかった。
つい昨日己が踏み潰したカブトムシの感触が足の裏に蘇ってきて、謝罪は許さないと冷淡に微笑んだ雀蜂も脳裏によぎって──不亞武流は苦しそうに表情を歪めた。