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蟲喰学園  作者: 椿 冬華
第一章 梅田ダンジョン編
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二匹目 後編


 書類片手に呆然としている不亞武流を百足が促して、流れるまま八人で寮へ向かうことになった。寮は彼岸館から長めの渡り廊下を通った先にあり、男女共用フロアにある食堂は全校生徒及び教職員が利用でき、平日昼間の給食にも用いられている。メニューは固定だが日替わりで、お残しは絶対に許されないと渡り廊下を歩きながら灯籠が解説してくれたのを不亞武流はぼんやりと聞き流す。

 学生寮は共用フロアを中心に、右側に女子寮が。左側に男子寮がというように分かれていた。共用フロアには食堂の他にラウンジや会議室などもあり、夜はそこで学生たちがたむろするという。


「本当は今夜新入生歓迎会が予定されていたんだけど、日を改めるってさ」

「……なんでだ?」

「蟲遣いならではの歓迎会を予定していたとかでね。ホラ、そんな歓迎会開かれちゃったら不亞武流気絶しちゃうでしょ」

「……しねえよ」


 そう言いつつも、想像してしまったか不亞武流の声は震えていた。それに百足は笑いつつ、だから普通にみんなで食べようと明るく言う。

 そして不亞武流はまたしても自分が気遣われているという事実に直面し、何とも言えない心地になるのであった。

 時刻は夕暮れ時。入学式及びオリエンテーションが開かれる午前中を丸々サボった不亞武流は昼食を取っておらず、かつ午後は散々たる目に遭ったこともあって──ぐぎゅるるるると、腹の虫が雄叫びを上げた。


「…………」

「うっひゃひゃひゃ! すっげー音! クマでもいんじゃね?」

「ふふっ……おなか、すいたねぇ」


 不亞武流の顔が赤くなる。それをからかって爆笑するクラスメイトたちに、不亞武流は不思議と腹が立たなかった。今朝までの自分であれば笑われたことに激昂して怒鳴り散らしていただろうと考えて、けれどやはり自分の心境の変化を言語化できなくてもどかしさに唇を噛んだ。

 痒いところに手が届かないような、思い出せそうで思い出せないような、そんなもどかしさで。


「先輩たちは歓迎会の練り直しで遅くなるみたいだ。ぼくらだけで夕食済ませよう」


 食堂は百人程度なら問題ない程度に広く、厨房からは味噌汁特有の香ばしい匂いが漂ってきていた。自分でトレイを手にし、出された皿を順序に取っていくセルフサービス形式であるらしく、不亞武流は先導してくれる灯籠に倣ってトレイを手に取った。


「おかえり灯籠。どうだった?」

「ただいま母さん。──ああ、ワタシの母なんですよ。寮で働いているんです。普通に食道のおばちゃんって呼んでいいですよ」


 厨房から四十代半ばと思しき女性が顔を覗かせてきて、不亞武流ににっこりと笑いかける。無言で軽く目礼した不亞武流の視界にふと、厨房の奥でせかせかと体を動かしている──人と変わらぬサイズのカマキリが、映った。

 咄嗟に灯籠を盾にして後ずさりする不亞武流に体勢を崩しそうになりながらも、灯籠は苦笑して許してやってくださいと言う。


「無害です。母の使役する蟲たちで、ここで働いているんですよ。あれらがいないと母が大変になるので、どうか大目に見てやってください」


 すみません、と頭を下げる灯籠に不亞武流は何故だか胸が苦しくなって息を詰める。


「ああ、虫嫌いの子だね? 蜘蛛ちゃんから通達は来ているよ。一応奥に下がらせてはいるけどね、勘弁しとくれよ。この子たちがいなきゃあたしの腕が回らないんでね」

「あ……いえ……」


 蟲喰蜘蛛。

 高三であり、生徒会長であり、理事長──八つの目を持つ、絶対的強者。彼女の気遣いがここにまで及んでいることに不亞武流はさらに胸を苦しくさせる。

 その後、カマキリたちを視界に入れないようにしながらトレイに料理を並べていって、一年生の八人でひとつのテーブルを囲むように座った時──不亞武流は、口を開いた。


「お前ら……なんで、そんなにおれを気にするんだよ? お前ら虫好きなんだろ? 虫嫌いに合わせてどうすんだよ」


 不亞武流の言葉にクラスメイトたちは一瞬目を丸くして互いの顔を見合わせ──破顔した。


「いきなり何かと思えばソレとか、ファーブルってば気にしぃじゃん! ンなの当たり前っしょ? キライな人間にスキ押し付けたってしょーがないじゃんね?」


 さそりは相変わらずの毒気が一切感じられない笑顔を浮かべながらVサインを作って、我先にと味噌汁を掻き込む。


「うん……だいじょうぶ、だよ。わたしたち……慣れて、いるからぁ……蟲……虫嫌いな人って……多いもんねぇ」


 てふてふはおどおどとした調子ながらも、少しも不亞武流に忌避感を覚えていない様子でにこやかに答える。


「とりあえず、ここにいるのは虫じゃなくて蟲だよ。まだわからないと思うけど、虫と蟲ってかなり違うから、蟲は平気でも虫は苦手って人もわりといるんだよ」


 百足は何でもないことのように不亞武流の間違いを正して、入学祝いの赤飯にごま塩を振りかけた。


「ワタシたちは中学校まで普通の、地元の中学校にいたのですよ。当然ながら蟲が──虫が平気な人間というのは少ないので、まあ自然と身に付いたといいますか……」


 灯籠は百足からごま塩を受け取って赤飯に振りかけつつ、不亞武流にも手渡しながら言う。


「おら……みんなと……ファーブルと、仲良く……なりたいから」


 モグラはもそもそと肉じゃがを頬張りつつ、ぼそぼそと小さい声ながらもはっきりとした意思を示す。


「でんなー。そりゃ好きに振る舞える方がいいでんけど、それよりもでんは仲良くなりたいでん」


 でんでん丸は呟くように中学校じゃあ友だちがいなかったから、と続けて味噌汁を啜った。


「俺っちは蟲遣いとかまだよくわかんねぇけど……仲良くなるためにはまず、相手を知って歩み寄ることっちゃよ。人間も、虫も、蟲も」


 ハサミはアジフライにたっぷりかけたタルタルソースを掬って口に含みつつ、ここはいいところっちゃと笑う。


 不亞武流は、何も返せないまま味噌汁を啜る。


「ワタシたち……さそりさんとてふてふさん、百足さんにでんでん丸さんは小等部二年生まで蟲喰学園にいたのですよ」

「小等部二年まで……?」


 反復する不亞武流に灯籠は頷き、自分たちはいわゆる幼馴染なのだと続ける。この中で高等部から入学した新顔は不亞武流とモグラ、ハサミの三人だけのようだ。


「あ、だからここについて妙に詳しいっちゃね?」

「ええ。昔と何も変わっていなくて懐かしかったですよ」

「……何でここを出ていったんだ?」

「当時、ちょっとこの界隈が不穏になっててね」


 百足が当時のことでも思い出しているのか、遠くを見るような切ない表情になる。そしてぽつりと、蟲遣いが殺される事件が多発したのだと続けた。


「む……蟲遣いが?」

「そーなんよ。蟲遣いって政府とかケーサツとか自衛隊とか、色んなところにいるんだけどさー。それが次々と殺されちゃったワケよ! 怖いっしょ?」


 時には研究者として。時には戦闘要員として。時には諜報員として。時には外交官として。日本各地で表沙汰にならないながらも活躍をしてきた蟲遣いたちが、次々と命を落とす事件が発生し、それは蟲喰学園に勤める教師たちにまで及んだ。この事件を受けて当時の理事長であった百足の祖父、蟲喰(むしくい)螽斯(きりぎりす)が学園の閉鎖を決め、さそりたちは散り散りになる形でそれぞれの地元へ帰っていったのだという。


「それぞれの地元って……」

「うち鳥取出身~」「わたしは……富山県……」「ワタシは京都出身です」「でんは岡山でん」


 百足は高知出身、モグラは山口出身、ハサミは栃木出身と見事にバラバラであった。ついでに言うならば不亞武流は愛媛出身だが、父親の転勤に合わせて全国を転々としていたため特定の故郷はない。


「蟲遣いってのがイマイチよくわかってねぇけどよ……す……すげぇんだろ?」


 〝虫狂い〟と貶した手前気まずいのか、不亞武流は少しどもりながらも蟲遣いがそんな簡単に殺されるのかと問う。

 それに答えたのは灯籠だった。


「──相手も、蟲遣いだったのです」

「え?」

「我々蟲遣いは〝人にも蟲にも仇なさない〟を原則としております。犯罪に加担するのはもちろん、特定の人間や企業に肩入れするのもご法度です」


 猛獣を使役する〝獣遣(けものつか)い〟──爬虫類・両生類の亜種たる()を使役する〝爬遣(はつか)い〟──魚類など水棲生物の亜種たる(ひれ)を使役する〝鰭遣(ひれつか)い〟──鳥類の亜種たる(とり)を使役する〝禽遣(とりつか)い〟──そして蟲を使役する〝蟲遣(むしつか)い〟──……

 古代より歴史の裏には常に、決して語られることはない影の遣い手たちが暗躍していた。中世までは各々の野望に則り統一性なく活動する色が濃く見られたが、第一次世界大戦以降、己らの在り方を改め、国家のために、ひいては国民のために支え手で在ろうとする考え方が浸透するようになった。


「ですが時折、〝はみ出し者〟というのは現れるものです」

「一般人でいううちとファーブルみたいな? うちチューボーん時は三つ編みにメガネでチョー地味ッ子だったけど!」

「──当時、多くの蟲遣いを殺した蟲遣いは国際指名手配されていて、未だに捕まっていない。ぼくらの中にも多くの犠牲者が出た」


 百足の静かな言葉に、何人かの表情が曇る。


「あーねー……うちの両親も殺されたし。てふてふと灯籠も父ちゃんが、でんでん丸は両親と兄が」


 蟲を遠ざけたことで〝普通〟の高校生らしくなったクラスメイトたちの、あまりにも〝普通〟からはかけ離れた境遇に不亞武流は目を見開いて呆然としてしまった。


「あ、気にすんなってファーブル! モグラとハサミもンな顔すんなって! うちらソレ乗り越えて、その蟲遣いぶっ飛ばすためにまたここにやってきたようなモンだからさ!」

「ぶっ飛ばす……って」

「ムカつくっしょ? うちらの大切な人殺された時、うちらなんにもできなかったじゃんね。もっと強くなって、蜘蛛パイセンくらいすごくなって、ボコボコにして裁き受けさせたいじゃん?」

「…………」


 強い。

 不亞武流は──愕然と、そう思った。自分の方が体格も筋力もクラスメイトたちを上回るとなんとなく自負していただけに、彼女たちのそんな強さに打ちのめされた気分だった。自分は相手がどんな年上だろうと、どんな不良であろうと負けない自信があった。あったというのに、何故か彼女たちには勝てない──そう思ってしまった。


「それで……その、犯罪者って……?」


 モグラのぼそぼそとした問いかけに灯籠が眼鏡を上げ、忌々しいものを思い出すような眼光で静かに──しかし、なにがしの想いが込められた声で答えた。


「〝ベルゼブブ〟──自らをそう名付けております。呼称の通り、(はえ)遣いです」


 ベルゼブブ。

 蠅の王。

 大悪魔の名としても知られる神話上の存在だ。


「ベルゼブブは〝失楽園(しつらくえん)〟という組織を作り、本来の蟲遣いの在り方からはかけ離れた、殺しや武器密輸、人身売買に麻薬流通といった犯罪活動をしています」

「ンだそりゃ……失楽園ってカッコつけてんのかよ……失笑園でいいだろ」


 不亞武流がそうぼやいたと同時にその場が沈黙に包まれて、不亞武流は面食らって戸惑う。何か悪いことでも言ったか、と焦り出したころに──クラスメイトたちが、大爆笑し始めた。


「うっひゃひゃひゃひゃっぷぇぷぇ!! ファーブル最高!! ソレいいじゃんソレ! 失笑園!! 大草原不可避ってか草生え散らかす通り越して森羅万象っぷぇぐぇっへへへへへ!!」

「っぐ……っくふふ、っふはは、さそり笑いすぎっ……んふっ、不亞武流それナイス……」

「ふふふっ、ふっ、んふふふっ、うふふぅっ失笑園……うふふうふぅっ」

「ふはっははは! 確かに失楽園って何気取ってんだ、ですよね。ふはっ……おなかが」

「ファーブル最高でん! 失笑園、コレ広めるでん! メッセ送りまくるでん!」


 不亞武流同様、蟲喰学園に来たばかりのモグラとハサミも最初は呆気に取られていたものの、大爆笑するクラスメイトたちに釣られて笑い始めた。あまりにも爆笑するクラスメイトたちがおかしかったのか、不亞武流もそのうち──笑いすぎだと、突っ込むように噴き出して笑った。

 不亞武流自身気付いていなかったが、こんな風に笑うのは──実に十年ぶりのことであった。いつだって他人を馬鹿にし、嘲るような笑いしか浮かべてこなかった彼の──心からの、楽しそうな笑顔。




 ◆◇◆




 寮内をひと通り案内された後、不亞武流ら男子は風呂に入ることにした。従来であれば上級生による点呼のあと、掃除をすることになっているのだが今日は上級生不在のため取りやめとなった。寮母は灯籠の母親が食堂の業務と兼ねてこなしているらしく、本当に人材不足であることが窺える。

 風呂場はさすがに蔓の浸食がなく、銭湯を彷彿とさせる広々とした浴場になっていた。風呂掃除やタオルの洗濯は交代制で朝やることになっている旨も説明されながら、不亞武流は熱いシャワーを全身に浴びてひと息吐く。

 色々ありすぎた一日だった、と不亞武流は今日一日の出来事を振り返る。正直、彼は未だに今日一日の出来事を整理しきれていなかった。理解しきれない部分も多々あり、感情の言語化さえ後回しにして押し流されるがままであった。それが今になって押しかかってきたように思えて、不亞武流は眉を顰める。

 蟲喰学園。蔓だらけの校舎。虫だらけの領域。虫好きなクラスメイトたち。蟲。蟲喰百足。蟲遣い。ここから出られない。出るには理事長に。蟲喰雀蜂。巨大なスズメバチ。父親の消失。出て行っても行くところがない。帰るところもない。転校先はヘビやカエルの巣窟しかない。金もない。蟲喰蜘蛛。八つの目。踏み潰したカブトムシを抱えて涙を流す女生徒。雀蜂の冷淡な眼差し。蟲が一匹もいなくなった教室。普通になったクラスメイトたち。好きな恰好もできないのに気にしないクラスメイトたち。明るく声をかけてくるクラスメイトたち。笑いかけてくるクラスメイトたち。突っ込んでくるクラスメイトたち。〝友だちになりたい〟と言ってきたクラスメイトたち。

 不亞武流は、何も言わずただただ熱いシャワーを浴び続ける。


「そういやファーブルっちって百足っちと同じ部屋っちゃね?」

「うん。まだ部屋に行ってないよね。不亞武流の荷物もいっぱい届いてるから後で整理するといいよ」


 荷物の整理。そう言われても、不亞武流には自分がこれからこの学園で過ごすビジョンが少しも見えてこなかった。

 かぶ子と呼ばれた少女の嗚咽と、不亞武流によくしてくれるクラスメイトたちの気の良さ。それらが八つの目を持つ蜘蛛と、蜂蜜色の眼差しなのにひどく冷淡に見える雀蜂とともに不亞武流の脳内を渦巻いていた。

 気に入らないことがあれば殴ればいい。ムカつくことがあれば適当な、弱い奴を蹂躙すればいい。金が足りなければ盗めばいい。大人たちが歯向かってくれば未成年を武器にすればいい。

 つい今朝までの、そう思っていた自分が急激にちっぽけで惨めな存在に思えて、不亞武流は熱いシャワーから顔を離せずにいた。ただただひたすら、熱い湯を浴び続ける。浴び続ける。浴び続ける──。


「…………」

「お? やっと洗い終わったっちゃね。てかお風呂の時はピアス外さないっちゃか? サビそうっちゃけど」

「……知るかよ」

「ボディピアスのような商品はサージカルステンレスで作られていることが多いので、この程度は大丈夫かと思いますよ。安物の粗悪品であれば錆びて身体にも悪影響を与えるでしょうが……」


 そういえば、と不亞武流は灯籠にこの髪や格好が怖くないのかと問う。その問いかけに灯籠は一瞬面食らったような顔をして、すぐ苦笑を浮かべた。


「そうですね。普通はそうなんでしょうね……でもほら、ワタシたちの方がよっぽど奇特というか」

「……自覚はあんだな」

「久々にみんなを見た時、ぼくも何かひとひねりした方がよかったんじゃないかって思ったよ」

「……あの()()()で十分だろ……」


 人間の腕とさほど変わらぬ太さを誇るムカデが鎌首をもたげる様子を思い出して、不亞武流はわずかに顔色を悪くして足早に湯船に浸かった。


「アレはぼくの子飼の一匹で、相棒はまた別にいるんだけどね。相棒は人間の胴体と変わらない太さで、めちゃくちゃ長いよ」

「やめろ」


 にこやかに笑いながら背筋が凍る事実を暴露する百足に湯をかけて、不亞武流は寒くなった体を温めるように擦った。


「お前ら……何匹も飼ってんのか? 虫……蟲を」

「ええ。相棒となる蟲を軸に、眷属とも言える部下たちを従えます」

「俺っちはまだ十匹っちゃけど、モグラっちは千匹くらいいるっちゃな?」

「うん……」

「うぐ……」


 幸せそうに頷くモグラと、気持ち悪そうに呻く不亞武流。相反する反応にハサミは笑い、逆にでんでん丸には一匹しかいないよなと問う。


「でん。でも寄生蟲はいっぱいいるでん」

「きせっ……」


 渦巻でんでん丸。蝸牛(かたつむり)遣い──同時に、カタツムリに寄生する数多の寄生蟲も操る蟲遣いであった。

 不亞武流がそっとでんでん丸から距離を取って、百足の後ろに隠れる。でんでん丸が自分には寄生蟲はいないでんよ、()()──と少しも安心できない言葉を笑いながら吐く。

 それからしばらく談笑し、程よくのぼせかけた頃に湯船から上がり、それぞれの部屋に引き上げて荷物の整理をすることになった。

 不亞武流は百足と同室で、中に入れば中央部にカーテンが引かれており、ちょうど真ん中でスペースを区切れるつくりになっていた。百足のスペースは既に整理整頓されていて、不亞武流のスペースは段ボールだらけであった。蟲喰学園入学について不亞武流はノータッチであったため荷物を送ったのは十中八九父親である。

 と、そこでようやく父親が消息不明らしいことを思い出して不亞武流はスマートフォンを取り出した。電話を掛ける。が、予想していた通り繋がらなかった。苛立ち紛れに父親の電話番号宛てにメッセージを数十件ほど送り、スマートフォンをベッドの上に投げた。


「荷物の整理手伝うよ」

「……いい、別に。適当にしとく」


 どうせここにいるつもりはねぇし、とは続けなかったが──不亞武流は気のない目で段ボールの山を眺める。

 とりあえず、手ごろな段ボールを開けて服を着替えることにした不亞武流を見守って、百足もまた自分の机に向かう。




 ◆◇◆




 深夜二時。

 上級生たちが帰ってきて喧騒としていた寮も静まり返り、音ひとつ、光ひとつない闇夜の中不亞武流はベッドから抜け出る。

 音が鳴るアクセサリーは全て置いて行くことにし、けれどたったひとつ──母がくれたお守りだけは大切そうに首にかけて、不亞武流は細く息を吐く。




 ──これは不亞武流を守ってくれるお守りだから、大切に持っていてね。




 不亞武流に母の記憶はほとんどない。しかしそう優しい声で紡ぎ、不亞武流の首にお守りをかけてくれた母の姿は朧げに覚えている。とても暖かく、優しい手を持つひとだった。母が亡くなった時には〝死〟を理解しきれず、葬式で父親に母をどこに隠したんだと罵倒したのも──不亞武流は覚えていた。

 それくらい不亞武流にとって母は特別な存在だった。記憶が朧げになった今でも、その想いだけは残ってしまっているほど──特別な存在だった。

 中学校時代、お守りを馬鹿にされたことは一度や二度ではない。その度に不亞武流は相手を何度も電柱に打ち付けて血みどろにしてやっていたし、警察に没収されそうになった際には警官相手に大暴れし、少年院へ半年間送られることになってしまった。

 お守りを握り込んで不亞武流はしばし、黙する。お守りの中に何が入っているか幼いころに一度だけ確認したことがあるが、白くて丸い石が入っているだけであった。おそらくは霊験(れいげん)(あらた)かなパワーストーンか何かだろう、と不亞武流はあたりをつけて、そこは気にしないでいたが。

 ふと、拳の中のお守りがかすかに震えた気がして不亞武流は手を開く。灯りのない宵闇の中、夜目に慣れてきたとはいえうすぼんやりとしか見えていない。手のひらにあるお守りに──変化はないように思う。

 まあいいか、と思考を切り替えて不亞武流は音を立てぬよう、そうっと部屋を出る。廊下も非常灯の灯りがあるだけでとても暗い。部屋の中までは侵入していなかった蔓も廊下には這っている。蔓を踏んで余計な音を出さぬよう、細心の注意を払って一階に降りて、まずは食堂へ向かう。

 不亞武流が眠っていることになっている今、蟲が徘徊しているかもしれないという恐怖もあって不亞武流の全身にはじっとりと汗が滲み出ていた。息を呑む音さえにも注意しながら厨房に入って、例のカマキリもいないことを確認しながら包丁を一本、手に入れた。


「ふーっ……」


 せっかく風呂でさっぱりした髪が汗でぐしょぐしょになっているのを自覚しつつ、またもや息を殺しながら、今度は寮の出入り口へ向かう。


「!?」


 ひゅっ、と不亞武流の喉が鳴る。

 一瞬──ほんの一瞬ではあるが、食堂の出入り口で何かが()()()気がしたのだ。蟲かと警戒するが、しばらく待ってもそこに変化はなかった。

 気のせいかとすっかり濡れそぼってしまった手のひらを服で拭って、包丁を握り直して玄関へ向かう。その道中、またもやお守りが震えたような気がして足を止めたが、やはりお守りには何の変化もない。緊張からくる錯覚だろうと解釈して玄関脇の、非常用出入口の鍵を摘んでひねり、そのまま力を込めて押し開く。

 そうして寮を去っていった不亞武流の後ろ姿を──闇夜から、闇夜よりも黒く昏い八つの目がじっと見つめていたのも知らず。

 クロコゲグモ。

 可視光を99.965%吸収する世界で最も黒い塗料、ベンタブラックと性質をほぼ同じくすると言われる、世界で最も黒い蟲。

 蜘蛛の相棒である()()は、静かに闇夜の奥へ消えていった。




 【※クモも実は昆虫ではない】


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