一匹目 後編
◆◇◆
「クソがっ!!」
十数分後、正門前にはどう足掻いても外へ出ることを許してくれない堅牢な門に悪態を吐いている不亞武流の姿があった。門の錠前はとても硬く、人力ではどうにもできない代物であったので登ってネットに隙間がないか試したのだが、腕が通れるくらいの鋼鉄製の網以外にピアノ線のような、テグス糸のような細く鋭利な糸で指さえ通らない細かい網目状に編まれたネットが張り巡らされていて、とてもじゃないが強引に破るにはそれ専用の道具が必要そうであった。
「クソがぁっ!!」
がいん、と正門を苛立ち紛れに蹴りつける不亞武流であったが、己の足が痛むだけに終わり、さらに腹を立てて地団駄を踏む。
「──そのようなことをしてはいけませんわ。虫明不亞武流くん」
突拍子もなく鼓膜を華やかに奏でた、聞いているだけで胸がすくような澄み渡った清廉な声。
はっと背後を振り返った不亞武流はまず、その存在に見惚れてしまった。
「はじめまして。わたくし、風紀委員長を務めさせていただいております高等部二年の蟲喰雀蜂と申します」
蜂蜜を溶かし込んだような輝く黄金の髪に、これまた蜂蜜を閉じ込めたような濡れそぼった黄金の眼差し。どこぞのモデルではないかと思ってしまうほどの抜群のプロポーション。百八十を超える不亞武流と相対しながら決して過剰に不亞武流を見上げることのない高身長。何より──蜂蜜色の髪と眼差しを宝の持ち腐れにしておかないほどの、美しく整った顔。
不亞武流は、見惚れてしまった。
「不亞武流くん?」
「えっ? あっ……お、おう……あ? 蟲喰?」
数十秒ほどのタイムラグを置いて蜂蜜色の少女──雀蜂の名をようやく認識した不亞武流は百足と同じだな、と呟く。それ以前に、そもそもこの学園と同じ名前だなとも今さらながら気付く。
「はい。百足はわたくしの弟です。弟から、不亞武流くんについて連絡を受けましたのでこうして馳せ参りました。姉様のもとへ行かれたいのでしょう?」
「あ? 姉様……? ってかちょっと待て!! スズメバチ!?」
何もかもがワンテンポ遅い殿方ですわね、と雀蜂は声に出さず思う。
「はい。雀蜂遣いの雀蜂と申します。ですがご安心くださいませ──弟より虫嫌いである旨、お聞きしておりますので今は遠ざけてあります」
虫が傍にいないことにほっとしつつも、目の前にいる少女も虫を飼っているらしい事実に不亞武流はドン引いて数歩ほど距離を取る。
「本当に虫がお嫌いなのですね」
「当たり前だろ……虫好きとかどうかしてんだろ。頭おかしい」
「嫌いなのは仕方がありませんけれど、他人の嗜好をそのように言ってはいけませんわよ」
穏やかで澄んだ声色で宥めるように言われ、不亞武流はぐっと息を詰めて不機嫌そうに舌打ちする。
「てか風紀委員長だと? おれのこのカッコに文句でもつけにきたのか?」
雀蜂は百足と同じく、蟲喰学園の制服として定められているセーラー服をかっちり型通りに着こなしている。アクセサリーなどもっての外で、スカートの丈さえ一センチたりとも弄っていないのが窺える。
胡乱な目つきでねめつけてくる不亞武流に、雀蜂は微笑む。
「服装規定などはございませんので、どうぞご安心ください。ですが学園の性質上、蟲たちの害になり得る危険物──例えばマッチやライター、殺虫剤などは持ち込みが禁止されておりますのでご注意ください」
そう言いながら雀蜂がひらりと手のひらを閃かせる。その中には、使い捨てライターと煙草。不亞武流があっと声を上げて手を伸ばすが、その前に雀蜂は懐に仕舞ってしまった。
「今時電子タバコをお使いでないのは珍しいですわね。ですが未成年の喫煙は法律で禁止されておりますわ──没収させていただきます」
「返せ! ぶん殴るぞおいっ!!」
不亞武流が拳を振りかぶり殴る意志を見せる。殴る気など毛頭もなかった。ただ不亞武流は、どうしようもなく腹立たしかった。雀蜂が自分を馬鹿にしているように思えて、どうしようもなく腹立たしかった。だから殴る素振りを見せて怯えさせようと思ったのだ。
しかし寸止めするまでもなく、ヴーンという金切声にも近い不快な振動音とともに不亞武流の腕が動かなくなった。ぎちっと、腕が重みと痛みを覚えて不亞武流はあ? と呆けた声を出す。
「──あ?」
腕に、大量のスズメバチが停まっていた。ただのスズメバチではない。オオスズメバチよりもはるかに大きく、凶悪な拳大ほどのスズメバチが大量に、ぎちぎちと肢を腕の肉に食い込ませて停まっていた。
不亞武流は、絶叫する。
「やめなさい、あなたたち。離れなさい──彼にわたくしを殴る意志はございませんわ。離れなさい。離れて、遠くで待機していなさい」
絶叫し、しかし腕を振り回そうにも振り払おうにもスズメバチの針が恐ろしくて弱々しく腕を振るしかできずにいる不亞武流とは対照的な、雀蜂の静かで清廉な声が染み渡る。
不亞武流の腕を拘束していたスズメバチたちはあっさりと腕から離れ、高音の羽音を響かせながら何処かへ去って行ってしまった。スズメバチから解放された不亞武流はその場に崩れ落ち、脂汗で濡れた顔を拭うこともせず浅く呼吸を繰り返しながら虚ろに宙を見つめる。
「申し訳ございません、わたくしの子たちが。大丈夫ですか?」
「っ……」
声も出ない、とはこのことである。
怒りも恐れも怯えも、何もかも根こそぎ出し尽くしたような調子で茫然自失としている不亞武流に雀蜂はいたわしそうに眉を顰め、申し訳ありませんと重ねて謝罪する。
「立てますか?」
「あ、ああ……っう」
べちゃりと不亞武流の肘が地面を擦る。腰が抜けたわけではないにせよ、膝に力が入らないようだ。雀蜂が不亞武流の手を取って引き上げ、しばし支えとなってやる。震える膝が落ち着くのを待ちながら不亞武流は惨めさに心がどうしようもなくかき乱されるのを感じて、だというのに指先に触れる雀蜂のしっとりとした手の感触に意識が向く本能も自覚していて、だから雀蜂の顔をまともに見れずにいた。
雀蜂はそんな不亞武流の様子を意に介することもなく、落ち着くのを待ってから手を離して泥を払ってやり、数歩距離を取った。
「大丈夫ですか?」
「…………」
蜂蜜色の眼差しを直視できないまま、不亞武流は俯く。虫に対する恐怖。醜態を晒した惨めさ。こんな場所へ来てしまったことへの怒り。そこにほんの少しだけ混ざる、雀蜂という美少女への興奮めいた浅ましい本能。それら全てがどうしようもなく情けなくて、不亞武流は言葉を失っていた。
ただ一刻も早く、ここから出たかった。
それを察してか、雀蜂が蜂蜜色の髪を揺蕩わせながら身を翻す。
「それでは参りましょうか、姉様のもとへ」
「あ……? 姉様……」
そういえばさっきもそんなことを言っていたな、と少し落ち着いた頭で思い返しながら不亞武流も歩き出した。
「蟲喰蜘蛛──わたくしと百足の姉で、ここの理事長をやっておられますの」
今度はクモか、と自嘲めいた笑いを零しながら不亞武流はそういえば学園の名前と同じだな、と返す。
「ええ。蟲喰学園はわたくしたち、蟲喰一族が運営している私立学園なのです。本来ならばもっと年嵩の、実績ある方が運営の実権を握るべきなのですけれど……諸事情で今、姉様がこの学園を支えておられます」
力ない不亞武流の足取りに合わせて雀蜂もゆったりと歩を進めながら、つらつらと語る。
それによれば蟲喰蜘蛛は現在高三で、生徒会長を務める傍ら理事長としても活躍しているのだという。蟲遣いとしての手腕も相当のものであるそうだが、そのあたりは不亞武流が顔色を悪くしていたのもあって雀蜂は掘り下げるのを控えた。
「こちらですわ」
正門正面に聳える建物、鬼灯館の一階に足を踏み入れて、雀蜂が重厚そうな両開きの扉を示す。
「わたくしも参ったほうがよろしいでしょうか?」
「…………」
「承りました。では、参りましょう。──失礼いたします、姉様」
雀蜂先導のもと、不亞武流はふらふらと両開きの扉を潜って理事長室へ入る。
不亞武流は恐怖した。
恐怖して──すぐ、あれっと拍子抜けした顔になる。
「あれ……あれ?」
「如何なさいましたか、不亞武流くん?」
「いや……あれ?」
理事長室。
やはり蔓に浸食されて全体的にビリジアンではあるものの、木目調の壁や紅蓮の絨毯の名残りがかすかに見えて、それがこの部屋の高級感を匂わせている。
その、奥。
客人に対して正面であり、窓に対して背面であれるよう設置された執務机に革張りの椅子。そこに、ひとりの少女が気怠そうに腰掛けていた。雀蜂や百足の姉というからには大人っぽい女性をイメージしていた不亞武流であったが、それに反して雀蜂や百足より幼い顔立ちの少女であった。
髪や目の色は百足と同じ黒色だが、模範的な妹弟と違い切り口が揃っていないざんばら髪だ。加えて、三白眼がどこか妖しげな空気を漂わせている。改造制服どころか制服ですらないゴシック調のミニドレスを着用していて、爪先も黒いマニキュアに包まれている。
理事長室に入った瞬間。
不亞武流がまず、その少女を目にした瞬間。
目が八個あるように見えた。
右目眼球に四つの虹彩、左目眼球に四つの虹彩で、計八つの目。
しかしそれは本当に一瞬で、まばたきした次の瞬間には普通の三白眼になっていた。だから不亞武流は目の錯覚かと目を擦りながらため息を零した。
「やー、はじめましてェ。聞いてると思うけど、僕は蟲喰蜘蛛。三年生だけど生徒会長と理事長を兼任しているからよろしくねェ」
少女──蜘蛛は口元を不敵に吊り上げて嗤う。
「んで、雀蜂と百足から聞いたけどさァ……何も聞いてなかったんだってェ? お父さんから」
「……あ、ああ」
「ご愁傷様ァ」
蜘蛛が爆笑する。
不亞武流は怒る気にもなれず、疲れた顔でため息を零した。
「どうでもいいからよ、ここから出してくれ」
「出て、どうするのォ? もう虫明博士は家を引き払ってるし、帰る家もないでしょォ?」
「は?」
──は?
と、不亞武流の目が豆鉄砲を喰らった鳩のようになる。
「あれ? もしかして聞いてない?」
「は……? え……家を引き払った……って」
「息子がそっちに行ったら家を売り払ってメキシコに行くって言ってたよォ? 今日飛行機で発つって言ってたし、もういないんじゃないかなァ」
「は……」
とうとう思考回路がショートしてしまったか、不亞武流がその場に座り込む。座り込む、というよりはへたり込んだ、の方が正しいかもしれない。雀蜂が慌てて支えていなければ上半身も崩れ落ちていたかもしれない。呆然自失、虚脱状態、真っ白に燃え尽きる、オーバーヒート、諸々。それを体言したような様相だ。
虫明隆。
不亞武流の父親にして、世界に名立たる昆虫学者。不亞武流の名前の由来であるジャン・アンリ・ファーブル博士の〝ファーブル昆虫記〟がきっかけで昆虫の世界に魅せられ、その道を選んだ。大学教授としても活躍しており、その筋の界隈では有名人であった。だからここ蟲喰学園でも虫明博士の名を知らぬ者はひとりとしておらず、不亞武流の入学を心待ちにしていた生徒も多かった。
不亞武流にとっては息子よりも虫を優先する糞親父でしかなかったが。
「…………」
「おーい、大丈夫ゥ?」
「姉様……連絡は取れないのですか?」
「電話してるんだけどねェ。全然繋がんないの。今、僕の子どもたちに住所確認しに行かせてるけどォ……ああ、帰ってきた帰ってきた」
不亞武流を気遣っていたため不亞武流は知る由もなかったが──蜘蛛は子飼の小グモたちを不亞武流の実家へ向かわせ、たった今小グモが不亞武流の視界外を通って蜘蛛の元に帰ってきたのだ。今、不亞武流の前にいる蜘蛛の服の中では小グモの群れが蠢いていると知ればどれだけ発狂することか。卒倒するかもしれない。
「やっぱりもぬけの空だってェ。鎌玉町三丁目の緑色の家でしょォ?」
「…………」
不亞武流の顔がいよいよビリジアン色になる。
「ここでの七年間分の費用は全部貰ってるから、僕としてはこのままここにいてほしいんだけどねェ」
「は……七年間?」
「高等部三年間と、大等部四年間。寮の費用も含めて結構な金額だったんだけどさァ、一括でぽんって振り込まれちゃったよ。さっすが虫明博士だねェ~」
「は……」
高等部の三年間と、大等部の四年間をこの虫だらけの学園で過ごす。
父親の用意した今後の生活プランを前に、不亞武流はショートしきっていた思考回路を怒りの方向に振り切れさせて、吠えた。
「ふざけんな!! 誰がこんな虫狂いの学校行くかッ!! おれは今すぐ出ていく!!」
「帰る家がないのに? お金も持ってないよねェ、キミ」
「んぐっ」
不亞武流の尻ポケットには薄い合皮の財布があるが、千円札二枚に百円玉一枚、十円玉三枚、一円玉四枚しか入っていない。
「まー……単純にここが嫌、って話なら姉妹校に転校手続きも可能だけどさァ」
「姉妹校? そこにも虫いんのか?」
「いないよ。〝爬遣い〟を養成する鱗谷学園ってトコ」
「はつかい?」
「爬虫類及び両生類と似て非なる存在、〝爬〟を使役する人間のコト。まあ要するにヘビとかトカゲとかカエルだねェ」
不亞武流は沈黙した。
「ヘビやカエルのが好きってんならそっちに──」
「虫も蛇も蛙も嫌に決まってんだろがボケッ!! クソきっしょい集まりしかいねえのかここには!!」
「虫明不亞武流」
ひゅっと不亞武流の喉が鳴った。
執務机に肘をついて気怠そうにしていた蜘蛛の両眼が常闇を吸い上げたような黒に染まり、左右それぞれに四つずつの、血滴るような紅蓮の満月が昇る。
四つの紅い虹彩を持つ、真っ黒な目。それを左右に携えて──蜘蛛は、不亞武流をまっすぐ見据えていた。八つの目で、まっすぐ。射抜くように。射殺すように。
不亞武流の喉がひゅうひゅうと頼りなく鳴る。歯はがちがちと小刻みにかち鳴らされていて、指先もひどく震えている。
絶対的強者。
それはまさしく、この少女──蜘蛛のことだと不亞武流の本能が絶叫を上げて訴える。
「キミが虫嫌いなのは構わないけどねェ。でもだからって僕らや、僕らの学園を貶すのは──領域侵犯だよ」
悪口は影でこそこそ言ってね──そう付け加えて、蜘蛛はにっこりと目を細めて笑った。理事長室に張り詰めていた緊張感がふっと雪解けのようにほどけて、不亞武流はまたもや──腰を抜かした。
「とりあえず出ていくにしても転校するにしてもお父さんに連絡つかないとどうしようもないからさァ、しばらくは保留ってことでここにいなよォ。数日もすれば連絡取れるでしょォ」
弛緩した空気そのままに、ゆるい喋り方で話す蜘蛛の目は──もう普段通りの三白眼に戻っていた。
先ほどのアレは何だったのか、問い詰める男気は──不亞武流にはもう、残っていなかった。
「雀蜂、不亞武流クンを教室まで送ってあげてェ」
「はい、姉様」
雀蜂に促されるまま、不亞武流は抜けた腰をどうにか奮い立たせて覚束ない足取りながらも、雀蜂の支えを借りながら理事長室を後にするのであった。
ひとり、理事長室に残された蜘蛛はそれまで隠れるよう指示を下していた子飼のクモたちに出てきていいよと唄うように声かけ──それを呼び水に、ぞぞぞぞぞぞと大中小様々なクモがそこかしこに湧いて出た。
「──アレが虫明隆と虫明蟲姫の息子、虫明不亞武流かァ。想像してたのと全然違ってて捧腹絶倒」
人間の頭部ほどもありそうな、赤と黒の斑模様が毒々しいクモを胸部に載せて撫ぜながら蜘蛛は不敵に口を吊り上げる。
「今年は色々起きそうだ」
気合いを入れていこう、と口遊む蜘蛛に同調するように、理事長室を埋め尽くす勢いで犇いているクモたちが体を揺らす。
【※ムカデは実は昆虫ではない】