八匹目 前編 【ヒスイタランチュラ】
虫明不亞武流の決意。
八匹目 【ヒスイタランチュラ】
ベルゼブブ。蠅の王。
自称する通り、〝蠅遣い〟であった。
「灯籠君がいるということは、君たちは蟲喰学園の生徒かな? また開校したというのは聞いていたけれど、場所がどうにも掴めないんだよね。何処にあるのかな?」
穏やかな声色での問いかけ。
注意していなければすぐにでも答えてしまいそうになる。不亞武流は唇を噛んで必死に母を脳裏に描き、ハサミはクワガタムシを抱きかかえて顔を埋め、堪えていた。
さそりと灯籠は変わらず、憎悪に満ちた眼差しをベルゼブブに向けている。このふたりとて平気というわけではない。〝憎悪〟という名の感情をベルゼブブに関する前知識とともに思考の最上部に敷いているからこそ呑まれないだけであり、もしもこれが寝起きの一幕であれば考えるよりも早く、呑まれていたかもしれない。
「ああ、すまない。まずは怪我の治療をしなくてはね。大丈夫、僕に任せて」
「ッフザけるなぁああぁあ!!」
「さそり!!」
昔と変わらず優しく、人当たりの好い〝大好きなおじさん〟にさそりは激昂し、ありとあらゆる毒という毒を体内で練り込みながらベルゼブブ目掛けて駆け出した。
幼いころはこの紳士が大好きであった。さそりだけではない。灯籠も、でんでん丸も、てふてふも──百足も。この紳士を心の底から慕い、敬っていた。
それが壊れたのは、あの事件の時であった。蟲遣いをはじめとする遣い手たちや、遣い手の存在を知る関係者の間では〝蠅の海事件〟と呼ばれ、遣い手の存在を知らぬ一般人たちには〝脳性コレラ集団感染事件〟として知られているあの事件。
社会を裏から支える多くの遣い手たちをベルゼブブが惨殺し、一般人も三千人余りが廃人となった事件。
さそりは両親を。灯籠とてふてふは父親を。でんでん丸は両親と兄を。百足もベルゼブブに母を殺害されているという。──そして不亞武流も、母・虫明蟲姫をベルゼブブに殺された。
あまりにも理不尽な裏切りに、さそりは復讐を誓い蟲喰学園に舞い戻った。そして今。募らせに募らせた憎悪を蟲毒という形に乗せて、肉体共有したサソリの尾を拳に纏ってベルゼブブに殴りかかった。
だがその拳は届かない。
ベルゼブブの周囲を飛び交っていたハエの大群が大蛇の如く鎌首をもたげて、さそりに咬みついた。
「ああぁッ!!」
「さそり!!」
灯籠が羽を唸らせて滑空するように駆けながら鎌を振り回し、さそりの肩口に咬みついた大蛇を横凪ぎに払う。ハエは飛散してさそりから離れこそしたものの、すぐ大蛇を模って今度は灯籠目掛けて大口を開けて飛び掛かった。
灯籠は咄嗟に鎌を構えて防ごうとした──が、それがいけなかった。
ごきりと灯籠の腕が鳴った。灯籠の顔が苦痛に歪むよりも早く、血飛沫を上げて腕がもげた。
「灯籠!!」「とうろぉ!」
不亞武流とさそりの絶叫が重なる。その時には既に、不亞武流が駆け出していた。ハサミも数秒遅れる形で〝フェイズ2〟肉体共有に移行しながら駆け出した。
「灯籠から離れろ!!」
「やあ、こんにちは」
灯籠に纏わりつくハエの大群を振り払いながら灯籠を抱え上げた不亞武流に、ベルゼブブがにこやかな挨拶を手向ける。不亞武流は一瞬、状況を忘れて目の前にいる人の好さそうな紳士に「あ、ども」と頭を下げそうになった。
「ッ……!!」
「ファーブルっち! 腕は拾ったっちゃ!!」
ハサミが灯籠の腕を抱え込み、紳士に視線を向けぬよう必死に顔を逸らしながら後退していった。それを追って不亞武流も灯籠を抱えたままさそりの腕を掴み、駆け出す。ベルゼブブは変わらず柔和な笑顔を浮かべたままで、やんちゃな若者を見守る余裕ある大人の空気に包まれていた。
「いけない、じっとしていなさい。まずは止血をしなければ」
とても優しく、温かな声。
灯籠の腕をこんな風にした張本人だというのに、頼れる大人の登場に心許し縋りたくなってしまうほどの透明感あふれる清涼な声。
不亞武流は心の底から、ぞっとした。
不良として反社会的なふるまいをしてきた不亞武流は当然のことながら、反社会的な連中との付き合いも深かった。中には本物の反社会組織に属する人間もおり、人間を人間として扱わない〝悪〟の権化のような存在もいた。
だというのに。
今の不亞武流には、かつて肩を並べていた〝悪い奴ら〟が実際には〝悪〟でも何でもない陳腐なチンピラにしか思えなくなってしまっていた。本物の反社会組織に属し、人を殺したことさえある人間とも接したことがある。だというのに、そんな人間さえ所詮はチンピラだったのだと不亞武流は今、痛感していた。
〝純粋悪〟
どこまでも純粋で、どこまでも無垢な透明感あふれる〝悪〟──ベルゼブブこそがそうなのだと、不亞武流は心の底から恐怖していた。
「来るな──来るな!!」
不亞武流の声が震える。灯籠を抱え、さそりを引き摺る腕の力は緩めないままにしても、不亞武流の声は弱々しく恐怖に戦き、震えていた。
「来るな!!」
「大丈夫。僕は君らの味方だよ。安心してこっちにおいで──早く応急手当しないとね」
安心できる優しい声。
今にもほっと胸を撫で下ろしそうになる声。
今すぐにでも手を広げて体を預けに行きたくなる微笑み。
本当に安心できるのだ。見ているだけで、聞いているだけで心が落ち着くのだ。だというのに、その下には悪意しか詰まっていない。
否応なしにも母の面影と重ねてしまう自分に吐き気を催しつつ、不亞武流はただ必死に意識をベルゼブブから逸らした。
「仕様のない子たちだ。ふふっ、元気だね」
言うことを聞かない子どもに向ける困ったような、けれど子どもの元気さに嬉しく思ってもいるような笑顔を浮かべてベルゼブブはぽん、と優しく手を打つ。
ハエの大群が再び統制を取って羽ばたき、今度は何十本もの槍を形成した。こちらにおいで、と我が子を呼ぶ母のような慈愛に満ちた声で呼びかけてくるベルゼブブに揺らぐ心を抑え、不亞武流は再度来るなと叫ぶ。
槍が、解き放たれた。
不亞武流は咄嗟に〝動体視力〟の眼を働かせて──けれど〝フェイズ2〟肉体共有状態を維持しているだけで精一杯であったためか、ズキリと激痛が目の奥に走って一瞬、視覚に集中させていた意識が飛んだ。それが、致命的だった。
「ぐあっ……!!」「あァっ!!」「ぐぅっ!!」「うわあっ!!」
槍が四人に降り注ぎ、貫通こそしなかったものの骨がひしゃげ内臓が潰れる程度には、節々に衝撃を喰らった不亞武流たちはあえなく床に倒れ込んでしまう。なおもベルゼブブは微笑みを携えたまま、次の一手を放つべく手拍子を打つ。
「う、うぅうう……!!」
激痛に絶叫してしまいたくなるのを堪えて、不亞武流はギリッとベルゼブブを睨み据えながら両足でしっかり床を踏み込み、立ち上がった。
不亞武流が離さず腕に抱え込み続けていた灯籠が肉体共有状態を解除してしまい、ぐったりと力なく頭を垂れている。腕からは止めどなく血が流れ続けていて、灯籠から離れてしまった巨大なカマキリも鎌を失った状態で床に倒れている。
さそりは槍を頭部に喰らってしまったか、頭から血を流しながら不亞武流に腕を掴まれたまま床に臥せって動かない。
ハサミは気を失っていないようだが、灯籠の腕とクワガタムシを両腕に抱え込んだまま床に蹲り、えずいている。
このままでは死ぬ。
全員、死ぬ。
死ぬ。
──いきなり何かと思えばソレとか、ファーブルってば気にしぃじゃん! ンなの当たり前っしょ? キライな人間にスキ押し付けたってしょーがないじゃんね?
虫嫌いの不亞武流を気遣うクラスメイトたちをがなった不亞武流に、さそりはあっけらかんとした笑顔でそう言ってくれた。
──うん……だいじょうぶ、だよ。わたしたち……慣れて、いるからぁ……蟲……虫嫌いな人って……多いもんねぇ。
てふてふはおどおどしながらも優しい声で不亞武流を落ち着かせてくれた。
──とりあえず、ここにいるのは虫じゃなくて蟲だよ。まだわからないと思うけど、虫と蟲ってかなり違うから、蟲は平気でも虫は苦手って人もわりといるんだよ。
百足は別におかしくないし仲間外れでもないと言ってくれた。
──ワタシたちは中学校まで普通の、地元の中学校にいたのですよ。当然ながら蟲が──虫が平気な人間というのは少ないので、まあ自然と身に付いたといいますか……。
灯籠は理路整然とした質でありながら不亞武流の感情に理解を示してくれた。
──おら……みんなと……ファーブルと、仲良く……なりたいから。
モグラは口下手ながらも素直に気持ちを言葉にしてくれた。
──でんなー。そりゃ好きに振る舞える方がいいでんけど、それよりもでんは仲良くなりたいでん。
でんでん丸はマイペースながらも仲良くなりたいと笑ってくれた。
──俺っちは蟲遣いとかまだよくわかんねぇけど……仲良くなるためにはまず、相手を知って歩み寄ることっちゃよ。人間も、虫も、蟲も。
ハサミは焦らなくていいと促してくれた。
そんな〝友だち〟が──死ぬ。
「う、ぅううう……!!」
嫌だ、と不亞武流は心の底から想う。
まだ一ヶ月。わずか一ヶ月。たったの一ヶ月。されど一ヶ月──不亞武流は己でも気付かぬ間に、クラスメイトたちのことが好きになっていた。
虫は変わらず嫌いだし蟲も近付かれると絶叫してしまうが、それを踏まえてもこれから先一緒に仲良くやっていけたらきっと楽しいと朧げに思う程度には、クラスメイトたちのことを好いていた。
そんなクラスメイトたちが死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
「────」
ビキリビキリビキリと不亞武流の顔がひび割れる。文字通り皮膚が破れ肉が裂け、顔全体が乾いてひび割れた大地のようになる。
だというのに、血は流れない。赤黒く裂けた断面図は覗いているが、そこから血が流れることはない。流れず──全ての血が、不亞武流の両眼に凝縮される。いつの間にか〝フェイズ2〟肉体共有によって不亞武流の両眼の周りに現れていた翡翠の宝石は消失していた。
ベルゼブブの手拍子に合わせてハエの大群が細かく分裂し小隊を汲み、それぞれで星の形を象り──暗黒の地下街に星空が形成される。
やがてベルゼブブが、唄い出す。〝きらきら星〟だ。愛し子をあやす音色で童謡を奏でるベルゼブブに合わせて、星が降り注ぐ。
地下街に轟音が響き渡り、あたり一面が戦塵で埋め尽くされる。
「──おや」
舞い散った戦塵はすぐ収まり、床を半壊状態に至らしめたハエの大群もすぐベルゼブブの周囲に戻ってきた。が、そこに不亞武流たちの無残な姿はなかった。
「はぁ──はぁ──」
星が降り注いだ範囲から少し外れた奥まった場所で、不亞武流がぽたりぽたりと顔面から夥しい量の血を流しながら立っていた。灯籠とさそりを両脇に抱え、ハサミもズボンのベルトを噛んで持ち上げ、ぶら下げている。
その時ようやく灯籠が意識を取り戻し、己を抱えている不亞武流を見上げた。見上げて──灯籠の目が大きく見開かれた。肉体共有状態にない、ただの人間の肉眼しか持たぬ今の灯篭には暗闇しか映らない。だが、そんな中だというのに不亞武流の両眼はよく見えていた。
暗闇に浮かび上がる、左右の眼球に宿された八つの虹彩が。
右目に四つ、左目に四つ。翡翠の虹彩が爛々と煌めいている。
「──覚醒」
ほとんど吐息のような声で灯籠が囁いた瞬間、不亞武流の両眼が瓦解した。して、そのまま不亞武流は崩れ落ちてしまった。その拍子に体をしこたま床に打ち付け、灯籠は痛みに身悶える。が、すぐ取り繕って不亞武流に大丈夫かと鋭く問うた。
「ぐ……う、ぅうう……」
灯籠はすぐさまカマキリと〝フェイズ2〟肉体共有状態に移り、不亞武流を確認する。灯籠と元々共有状態にあったダイオウテイカマキリは残念ながら、事切れていた。だから別途、懐に忍ばせていた別種のカマキリと肉体共有してひとまず視界の確保に努めたのである。
「ファーブルさん!」
不亞武流は顔面血みどろで、両眼からも止めどなく血を流していた。驚いたことに意識はまだあるようで、息も絶え絶えながらに灯籠に無事かと問うてきた。無事だと答えれば、不亞武流は心の底からほっと安堵する。
「すごい! その若さで〝フェイズ4〟に一瞬とはいえ、手を掛けるなんてなかなかできるものじゃない──本当にすごいよ! 君、名前はなんて言うんだい?」
ベルゼブブが我が子の成長を喜ぶ親のような声色で、心の底から嬉しそうに──いや。〝そうに〟という様態の助動詞さえ必要ないだろうと確信してしまうほど間違いなく、確定的に嬉しんでいる。だからやはり、こんな状況でこんな状態だというのに不亞武流はつい、心を預けてしまいそうになった。なって──ふざけるな、と己の浅ましい感情を踏みつける。
不亞武流の両眼はもう見えていなかった。しかし辛うじて、不亞武流の肩に掴まっていたヒスイタランチュラと〝フェイズ1〟感覚共有状態にあった。だからヒスイタランチュラを通してベルゼブブを睨み据え、湧き上がるベルゼブブへの信愛を切り刻みながら怒りに身を焦がす。
不亞武流自身、今の一瞬で何が起きたのか把握していなかった。灯籠たちが死ぬと思った瞬間全身の血という血が眼球に流れ込む感覚とともにヒスイタランチュラとの肉体共有状態が解け、次の瞬間には全てが視えていた。
文字通り、総てが。
宵闇に包まれた地下街を斜め上から見下ろしたように、地下街の全てとそこに存在する総てが手に取るように──いや。
糸を這うようにわかった。
奇妙な感覚だった。クモのように糸を張ったことなぞないのに。トリモチにしてしまったことはあったが。
地下街の全貌も、そこにいる蟲人や蟲も、ベルゼブブも、ハエの一匹一匹も──地下街に張り巡らされた配管も、そこを高速で這い抜けていく百足の姿も。
全てが糸に掛かった獲物のようにわかり、その感覚のまま降り注ぐ星々のひとつひとつを避けながら灯籠やさそり、ハサミを抱え込んで逃げたのだ。おかげで目は見えなくなっているし全身の筋繊維という筋繊維が千切れ弾け飛んで動けなくなったが。
呼吸筋も大部分が弾けたせいで呼吸さえままならない不亞武流はただただ必死にベルゼブブを睨み据え、灯籠に自分の後ろに下がれと言う。
「大丈夫。心配しなくてももう何もしないよ。君、是非僕のところに来なさい。見たところ、社会に対して不満がありそうだ──わかるよ。今の日本はあまりにも偏りすぎている。君が不満を持つのも当然だ」
もしも一ヶ月前の不亞武流であれば。
ただ社会に、大人に、父親に反発したかっただけの幼い不亞武流であれば──この優しく信頼できる言葉に全力で応じただろう。そう確信しながら、不亞武流はつくづく自分が幼かったと自嘲する。
「ざっけんな……反吐が出らァ」
「心配しなくても僕は君を否定しないよ。君は君のやりたいように、好きなようにやればいいんだ。僕がそうできるようにしてあげる。僕を味方だと思わなくてもいい──利用できる大人だ、そう思っていいんだよ」
もしも数時間前の、クラスメイトたちがひとりも倒れていなかったころの不亞武流であったならば応じてしまったかもしれない。だが今の不亞武流には、守るべき友だちがいる。
「強情だね。それも君らしさなんだろうなぁ。ふふ、でもダメだよ。状況はきちんと見なくてはね。友人たちをこれ以上放っておくのはまずい──そうだろう? 大丈夫、僕に任せて」
もしも数分前の、あの全てが総て視える奇妙な感覚を味わっていなかったころの不亞武流であったならば応じてしまったかもしれない。だが今の不亞武流は、知っている。
ここに百足が来てくれていることを、知っている。
轟音。のちに、砂塵が舞い上がってベルゼブブの姿ごと、ハエの大群が見えなくなる。同時にぞろりと、不亞武流たち四人を取り囲むように一匹の──象牙色の巨大なムカデが、現れた。
「ごめん、遣い手二人を相手取っていたら遅くなった」
「へ、へへ……なんだァそのバケモノじみたカッコ……」
不亞武流は血に塗れた顔面で笑う。その隣に這い出るは、象牙色のムカデと化した蟲喰百足。その顔はムカデのように三又の顎に分かれていて、映画〝プレデター〟シリーズに登場する地球外生命体が装備の下に隠す素顔を彷彿とさせるグロテスクさだ。それのみに留まらず、百足の上半身は胴体が伸びている。伸びているというよりは、胴体が幾重にも連なっている。それこそ本物のムカデのように胴体が幾つも連結されている状態で、それぞれの胴体に人間の両腕がちゃんと生えている。下半身は二十、三十ほど連結された胴体の先にようやく確認できたが、こちらはちゃんとズボンを履いていた。下半身まで裸だったらどうしようと思った、と不亞武流は他人事ながらに思う。
「蟲喰|百足──〝百足遣い〟」
これぞ百足の本領、己の使役する蟲に逆に寄生してみせ、蟲の特性をそのまま人体に写し取ることができるようになる〝フェイズ3〟──肉体寄生!!
「──やあ百足!! ああ、大きくなったなあ! 驚いたなあ、あんなにちっちゃかった百足がこんなに大きく……こんなに立派に成長しているなんて。ああ、会いたかったよ百足」
砂塵の向こう側からベルゼブブの、慈愛に満ちた歓喜の声が奏でられてくる。こつりこつりという革靴の上品な足音も響いてきて、百足は警戒心を露わに不亞武流たちを己の体で囲んだまま、唸る。
「よくもそんな台詞を──〝父さん〟」
え、と不亞武流は目を見開く。
意識を取り戻したらしいさそりが不亞武流の背後で哀しそうに百足の名を囁き、灯籠も己の千切れた腕を断面図に押し付けながら沈痛そうに押し黙る。
「と……父さん? お前の……父さん?」
「……うん。そうだよ不亞武流」
「……ま、待て……待てよおい。待て……お前、言ったよな? 俺とお前はいとこだって……か、母さんの旧姓は蟲喰だって……蟲喰、蟲姫だって──」
不亞武流の震える声に反応したのはベルゼブブで、砂塵から姿を現した柔和な笑顔の紳士が驚いたような眼差しを不亞武流に向けていた。
「──蟲姫? おや、おや……面影が全くなかったから気付かなかったが……そういえばファーブルと呼ばれていたね。そうか、君は虫明不亞武流君か」
親しみしか感じない朗らかな声を聞きながら、不亞武流は呆然とヒスイタランチュラの目越しに百足を凝視する。百足はがりっと床を指で抉りながら憎々しげにベルゼブブを睨んで──首肯した。
「そう。実妹である虫明蟲姫を殺害し、自分の妻である蟲喰レディバも殺し──果てには、自分の父親である蟲喰螽斯さえも殺した蟲喰一族の恥さらし──蟲喰蠅。通称〝ベルゼブブ〟」
それがこの男だ──そう言って百足は、憎悪に身を焦がす。
実の息子にそんな眼差しを向けられているにも関わらず、ベルゼブブは息子との再会が嬉しくて仕方ない父親の顔をしていた。
「妹、を……母さんを」
そういえば、と不亞武流は自分が最初にベルゼブブを見た時、母と重ねたことを思い出す。そして言われてみれば確かに、ベルゼブブの柔和で穏やかな面持ちはどこか母に似ていた。
「懐かしいね。不亞武流君は憶えていないだろうけど、蟲姫が生まれたばかりの君を僕に抱っこさせてくれたことがあったんだよ。そうか、百足と同い年だもんなあ。仲良くなったんだね」
親戚のおじさんがするような調子で世間話をするベルゼブブ。その顔に、自分の妹である蟲姫を殺害したという自負は見えない。だからもしかしたら百足の勘違いで実は殺していないのか、と不亞武流は一瞬思いかけて、すぐかぶりを振った。百足がそんな嘘を吐くわけがないし、ベルゼブブの不整合性は嫌というほど味わっている。
「何で……なんで、母さんを殺したんだ?」
「不亞武流君、〝殺す〟なんて言葉を使っては駄目だよ。百足も気を付けなさい。蟲姫はね、本当に残念だった。不運だったとしか言いようがない」
「誤魔化すな!! 全ての始まりは父さん──お前が蟲喰蟲姫、改め虫明蟲姫を殺したところから始まった。その数年後、お前が実妹を殺したのだと気付いた母さんを、蟲喰レディバを殺した。それから〝蠅の海事件〟が起きた」
今でも母さんの死に様は憶えている、という言葉に、不亞武流は百足が目の前で母親を殺されたのだと知り目を見開く。
けれどそれでも、ベルゼブブは微笑みを崩さない。穏やかな空気も、変わらない。
「殺してなんかいないよ。そんな非道いことはしない──蟲姫もレディバも本当に残念だった。哀しかった……」
心の底から悲しみ、傷付いている面持ちのベルゼブブになおも百足は憎悪を向ける。百足だけではない──灯籠もさそりも、動けない身ながらに憤怒に顔を歪ませている。
「百足。僕は殺してなんかいないよ。これでもシスコンって自覚はあるし、妻だって何年かけて口説き落としたか……殺すわけがないだろう?」
もしかしたら本当に冤罪で、真実が別のところにあるのではないか?
そう思わせるほど真摯な面持ちのベルゼブブに不亞武流は呑まれかけ、けれどすぐ凍り付いた。
「彼女たちは死んでしまっただけなんだ」
殺していない。
ただ死んでしまっただけ。
ベルゼブブに実妹と妻を殺した自覚はない。そういえば、と不亞武流はこの戦い中ずっと、ベルゼブブに敵意らしい敵意、殺意らしい殺意が一切見えなかったと思い至る。ベルゼブブに誰かを害するつもりはない。傷付ける気も、殺す気も一切ない。その上で害為す行動を取り、その結果死んでしまったのだと心の底から悲しむ。
純粋悪。
ひたすらに純粋で、ひたすらに無垢な──透明度の高い悪意。それとはつまり、こういうことなのかもしれない。




