七匹目 後編
「……戦うことはできねえけどよ、でもあのナメクジ野郎を少しでも足止め出来たら……灯籠とさそりがどうにかしてくれるよな?」
「そ、そうっちゃね……でも俺っちたちに何が……」
「ハサミ、ツノ貸せ」
ハサミの頭から生えているクワガタムシの角は刃こそ欠けてボロボロだったものの芯はしっかり通っていて硬い。これならいける、と不亞武流は己の手のひらを見下ろした。ヒスイタランチュラは巣を張らないタイプのクモであるが、糸は出す。ならば自分にも、と思った瞬間手のひらの中央部に小さな孔が空き、いきなり白い糸を噴出した。顔面に白い噴水をしこたま浴びる羽目になった不亞武流はしばらく、糸をほどくべく格闘する羽目になってしまった。
「えっと……壺糸と、鞭糸……」
クモが巣を作る際に用いる、粘着性のない壺糸と粘着性の高い鞭糸。どうやって使い分けるのか想像もつかなかった不亞武流はとりあえず、右手からはさらりとしたイメージの糸を、左手からはねばねばと粘着テープのようにへばりつく糸を出すイメージを脳裏に描いた。瞬間、両手から糸がまたもや噴出して再度、格闘する羽目になってしまった。しかし右手から出た糸は手の上を滑るようにすぐほどけたのに対して左手から出た糸はゴキブリホイホイの如く不亞武流にひっついて離れなかったところを見るに、どうやらうまくいったようだ。
「と、とりあえず網作るからナメクジ野郎捕まえるぞ!!」
「おう! ファーブルっちは暗視できるっちゃな?」
「おう。そういやクワガタムシって夜目利くのか?」
「いや、目は悪いっちゃ。カマキリは目がすごくいいっちゃが、クワガタムシはそうでもないっちゃ。代わりに嗅覚がよくて、あと体表の微細な毛で振動をキャッチできるっちゃ」
クワガタムシは基本的に夜行性であるが視力はあまりよくなく、体毛で風の流れをキャッチし、嗅覚を用いて移動する。蟲のほうのクワガタムシも似たようなもので、だから今の自分は犬並みの嗅覚を持っているのだと言って、ハサミは笑う。
「ナメクジ人間と灯籠の場所は匂いでわかるっちゃ。ファーブルっち、どうすればいいっちゃ?」
「ちょっと待て……網作るの結構難し……ああくそっ、絡んだ!」
壺糸はともかく、粘着性のある鞭糸を絡まず網状にしていくのがとても難しく、不亞武流は半ばヤケクソで鞭糸を束にしてトリモチ状にしてしまった。ハサミの角からぶら下がるトリモチは一見とてもシュールで、そんなものをぶら下げる羽目になってしまったハサミは何とも言えない面持ちになった。
「とにかく動きを止めりゃいいんだ! このトリモチぶん回してこい! アイツが怯んだら俺が抑える!! 毒は効かねえからな!!」
「さそりっちが編み物得意だって言ってたっちゃから一度教えてもらえっちゃ!! 何が網っちゃ!」
「うっせーってマジかよ似合わねえ!」
理想的な形にはならなかったものの、どうにか体裁を整えたふたりは痛む体を押して立ち上がり、灯籠とスラッグス目掛けて駆け出した。不亞武流はまっすぐ、ハサミは回り込むように。
灯籠はさすがに優等生なだけあり応用力が高い。いち早く回り込んでくるハサミの存在に気付き、スラッグスに気付かせないよう立ち回り出した。感覚共有なり肉体共有なりで背後に蟲の眼を向けてしまえば意味はないのだが、今のスラッグスに背後を気にする余裕はない。少しでも気を抜けば灯籠操る、ノコギリよりも鋭利で鉈よりも重い鎌に首を削ぎ落とされてしまう。
たったの一撃。たったのひとかすり。少しでも攻撃が入れば蟲毒で蝕める。だというのに、この灯籠という少年は目が良すぎる。良すぎて、その上回避を確実に行うよう心掛けている。
カマキリの目はクモと違い、一般的な蟲に多く見られる複眼である。二個に見える眼球の中には無数の小さな眼があり、それをもってカマキリは三次元的に世界を見つめている。三次元と言っても、人間が左右の眼球を用いて奥行きを掴む類の立体視ではない。文字通り世界を三次元的に捉える。背景と動くものを完全に切り離し、己と動くものの位置関係を数値で解する。いわゆる〝神視点〟の箱庭世界のように現況を捉える立体視。暗闇であろうと関係なく発揮される目の良さこそが灯籠の回避を助けているのだ。
そうしてスラッグスの気を引いている灯籠の視界に、角を勢いよく振り回しながら音もなく突進してくるハサミが入った。何故トリモチを振り回しているのか灯籠には理解できなかったが、ともあれハサミの意図を理解してスラッグスに一撃入れて、防がれてから距離を取る。
「だらああぁあああぁぁ!!」
「!?」
トリモチスイングが見事、スラッグスの顔面に炸裂した。いきなりの不意打ちにスラッグスが反射的に手を顔に伸ばして取り除こうとして、しかし逆にトリモチに取り込まれて絡み、もがく。スラッグスと肉体共有している大量のナメクジたちもあるじを救おうと這い出てトリモチに纏わりつこうとし、逆に呑み込まれていく。トリモチ状にしたのが逆に功を成した瞬間であった。
「さっきはよくもやってくれたなナメクジ野郎!!」
灯籠の背後から不亞武流が飛び出して、ナメクジが付着するのも構わずスラッグスに猛烈なタックルを喰らわせ、押し倒した。
「今ですさそり!!」
「あいよっ!!」
灯籠の叫びにさそりが飛び出してきて、スラッグスに馬乗りになっている不亞武流の背に跨った。そのまま、不亞武流の肩越しに腕を振り下ろして手首から生えた三本のサソリの尾をスラッグスの喉元に突き刺す。
「がっ……!!」
スラッグス操るナメクジ──チゾメナメクジは神経毒を持つ。それも現時点において血清が存在しないと言われているイモガイの毒に近い。しかしいくら毒といえど所詮は生物の作り出すタンパク質である。なればと、さそりはタンパク質を破壊する出血毒を作った。
細胞膜を破壊し、血液を瓦解させ、筋肉さえも分解する出血毒。
みるみるうちにスラッグスと肉体共有状態にあるナメクジたちがどろどろに溶けていき、スラッグス自身も毒のダメージでどす黒い、内臓混じりの血を吐く。
「やったっちゃか!?」
〝フェイズ2〟肉体共有状態を保てなくなったらしいハサミが巨大なクワガタムシを抱えながら声をかけてくる。それに灯籠が動かないよう指示し、不亞武流とさそりにも離れるよう申し付けた。
「トドメを刺します。彼も蟲毒使いである以上、解毒される可能性はありますから」
「……こ、殺すのか?」
スラッグスから離れ、灯籠の隣に立った不亞武流はつい、怯んだ声を零す。
「捕縛しておけるならしておきたいですがね。我々にそこまでの力量はありません。捕縛は強い者にしか許されない高度な技術ですから。下手な捕縛をして、隙を突かれて全滅するよりはここでトドメを刺すのがずっと安全です」
言われて、不亞武流は不良時代の殴り合いを思い出す。
暴れる人間は押さえつけて大人しくさせるよりもボコボコにして動けなくするほうがずっと楽で、ずっと安全だった。
ましてや、今は〝ケンカ〟ではない。〝戦い〟である。それも、相手はこちらを完全に殺す気でいた。だから灯籠もまた、確実に相手を殺す気でいる。不亞武流たちを守るために、殺す気でいる。
ごくりと誰かが唾を呑み込む。ハサミだ。クワガタムシを抱えたまま固唾を飲んで灯籠を凝視している。そこに灯籠を止めようとする気配はない。
さそりもまた、何も言わず灯籠の傍に控えている。さそりは元よりベルゼブブ率いる失笑園と戦うつもりでいた。だからそこに躊躇はない。
では自分は? と、不亞武流は己を顧みる。わからなかった。殺すか、殺されるか。そんなことを真面目に考えたこと自体、これが生まれて初めてであった。不良時代にはあんなにも人を傷付け、傷付けられ、時には死を連想させられるほどの目にも遭ったというのに──考えたことがなかった。
父親への憎悪。大人への敵愾心。社会への反発。ただ言うことを聞きたくないと、それだけで人から嫌われ、蔑まれる生き方を選んだ。いや──大多数が選択する生き方を選ばなかった、と言った方がより正確だろう。大多数の標準を嫌う。大多数の理想を拒む。大多数の道徳を蔑む。不亞武流はただただ、脊髄反射の反発心で〝お前らは人から責められたり捕まったりするのが怖くてやらないが、自分はそんなもの怖くないから殴れる〟と反社会的な生き方に付随していただけだ。イキっていただけなのだ。
だから、わからなかった。
いざ〝戦い殺し殺される〟現場に立ってみると、自分の取るべき行動がわからなくて立ち尽くすしかできなくなっていた。いかに、かつての自分がどれだけ浅い思考でケンカに明け暮れ、たかがケンカができるというだけで強くなった気でいたか痛感する。
不亞武流は、弱い。
どうしようもなく、弱かった。
「ファーブルさん、ハサミさん。目を閉じていてください。別にアナタがたがワタシとさそりのように生きる必要はないんです。蟲遣いとひと口に言ってもピンキリですからね。むしろ、蟲遣いではなく一般人として生きる方の方が多いのです」
例えば灯籠の母親。
灯籠と同じく蟷螂遣いであるが、料理人としての道を選んだ。灯籠の父親がベルゼブブに殺されるまではごくごく普通の定食屋を営んでいて、裏に仕事を持つこともしなかった。カマキリは好きだから従えていたが、戦いにも潜入にも諜報にも関わらなかった。今では蟲喰学園を支えるべく食堂のおばちゃんとして、寮母として関わっているが──ベルゼブブの一件がなければ今ごろもきっと、戦いとは無縁の平穏な定食屋をやっていたはずだ。
だから、と灯籠は不亞武流とハサミにこれが普遍的な蟲遣いの生き方ではないと注意する。まだ中学校を卒業して間もない高校一年生の言葉とは思えない、真摯で重い言葉だった。
もしも不亞武流が暴力事件を起こさず、入学取り消しにならず普通の高校に入っていたならば──きっと、いや絶対。未だに〝他人と違う生き方するおれかっけェ〟チンピラのままだったろう。己の生き方について考えようとするどころか、己の現状に疑問さえ見出さずイキっているままだったろう。
それがよくわかるからこそ、不亞武流は何も言えなかった。
「では、トドメを刺し──ッ!!」
一閃の突風が吹いた。
かと思えば礫の雨が横凪ぎに吹き荒れて、不亞武流たちの体が横倒しに払われた。ひと粒ひと粒にエアガン並みの威力があり、きりきり舞いに床を転がりながら全身に降り注ぐ激痛に絶叫を上げ、けれど防衛本能からか顔だけは腕で覆っていた。不亞武流も、灯籠も、さそりも、ハサミも。
エアガンと侮ることなかれ。エアガンとて、当たり所が悪ければ人を殺せる程度には殺傷力がある。急所にでも入ったか、灯籠が吐血して血飛沫が上がるのが見えて不亞武流は灯籠に手を伸ばそうとして、しかしあまりにも容赦なく吹き荒れる礫の雨に腕を顔から外すことができず地面に蹲る。
がふ、と不亞武流の口から血が吐き出された。礫が連続で不亞武流の脇腹に入ったためだ。激痛が過ぎて、もはや熱さしか感じない全身に不亞武流はのろのろと腕をズらし、周囲を窺う。未だ〝フェイズ2〟肉体共有状態にある不亞武流の眼にはナイトビジョン特有の緑がかかった世界が広がっている。暗視は確かに暗い場所でも問題なく視認できるが、吹き荒れる礫のせいで視界が非常に悪く、しかも横凪ぎに吹き荒び続けている礫の速度が尋常じゃないために姿形を捉えることができない。
ギリ、と歯軋りして不亞武流は熱い全身に否応なしに行き渡ってしまう意識を強引に、眼に集めた。暗視に加えて〝熱感知〟〝動体視力〟を司る眼を、まぶたを持ち上げるイメージで脳に認識させる。途端に迸る頭痛は全身の痛みのおかげで気にならない。ビキリビキリと顔の血管が浮き上がって今にも千切れそうだが、それでも不亞武流は視界を認識する。
「──蟲!?」
吹き荒れる礫の雨のひと粒ひと粒が、展開された動体視力によって姿形をかろうじて捉えられる程度には視えるようになった。
砂粒よりは大きく、しかし小石よりは小さい──まさに礫程度のハエ。
それが無数に、飛び交っていた。
「と──灯籠!! ハエだ!! こいつら、ハエだ!!」
「!?」
急所に入った礫に喘ぎ、床に平伏するかたちでなるべく礫の影響から逃れ、傷の修復に勤めていた灯籠が目を見開いた。
同様に、さそりもハエという単語に反応する。反応して、叫んだ。
「──ベルゼブブ!!」
途端、吹き荒れていた礫の雨が止む。
不亞武流の視界には動きを止めたハエが踵を返して、隊列を組みながら弧を描いて奥に飛んでいくのが視えた。千匹どころではない。万単位のハエだ。
「べ……べるぜ、ぶぶひゃま」
礫の雨が止み、一気に静まり返ったそこで誰かの弱々しい、ささやかな声が響く。スラッグスだ。未だ床に仰向けになり、身動きひとつ取れない状態にあるスラッグスが息も絶え絶えに、奥にいる誰かに声を投げかける。
「成程成程、素晴らしいな。成程、勇敢な少年少女が力を合わせて悪の手先スラッグスを打倒。素晴らしい」
朗らかな男の声だった。低く耳障りのいいバリトンボイスが優しく鼓膜を揺らしてくる。スラッグスがなおもべるぜぶぶさま、ともはやほとんど吐息にしかなっていない声を上げる。
「ああいけない、今にも死にそうじゃないか。大丈夫かね、スラッグス君」
心配そうな声とともに、かつりこつりと靴音が響く。その頃には不亞武流たちも全身の激痛からどうにか上半身を起こせるようになっていた。
「成程、出血毒か。調薬したのはどなたかな? いや、素晴らしい。こんなことを言ってはいけないが……素晴らしい調薬能力だ。スラッグス君、解毒できるかね?」
「けふっ……かふっ」
「動かなくてよろしい。そのまま安静にしていなさい。ふむ、君たちは……ああ、そこの少年は憶えているよ。鎌切灯籠君だろう? 大きくなったね」
柔和で優しげな目元が印象的な男性だった。
採寸の上で設えたのであろうスーツに身を包んで、根元から丁寧にカールをかけた髪をなだらかに後ろに流している四十前後の紳士だ。口元に携えられた微笑みはとても上品で、血錆と腐臭漂う地下街にはあまりにも似つかわしくない。裕福な事業家が自らの意思で養護院を幾つも建設し、その運営を直接行っている──そう説明されても信じ込んでしまう程度には、とても穏やかな雰囲気を纏っていた。
その穏やかな空気を、不亞武流は知っていた。憶えていた。いや、思い出された。
いつだって不亞武流に優しく微笑みかけ、温かな愛情で包んでくれていた母と全く同じであった。不亞武流のことを心の底から愛し、慈しみ、不亞武流の一喜一憂に全身全霊で応えていた母の姿と少しもズレることなく重なった。
「……おかあ、さ」
おかあさん、と母を恋い慕う幼子のように不亞武流の喉が勝手に奏でようとしたのを遮って、灯籠が鎌を床に突き立てて杖代わりに立ち上がった。
「──ベルゼブブ!!」
「無理をしてはいけないよ、灯籠君。痛いのだろう? 安静にしていなさい」
憎悪に目を滾らせる灯籠とは対照的に、紳士は柔和な空気を崩さぬまま、心配そうに眉を顰めて優しく声をかけた。そのあまりにも優しい声に不亞武流はつい、灯籠に非難の視線を向けてしまう。別におかしなことではない。紳士は灯籠のことを心の底から心配していて、だというのに灯籠は憎々しげに紳士をねめつけているのだから。紳士はこんなにも、優しいのに。温かいのに。穏やかなのに。
紳士と初対面であるはずの不亞武流は、さも紳士の人柄を昔から知っているような感覚に陥ってしまっていた。
不亞武流だけではない。ハサミもまた、灯籠が何故紳士に敵意を向けるのかわからず戸惑っていた。紳士はこんなにも優しい人物であるのに、だ。初対面であることさえ忘れて、不亞武流もハサミもすっかり紳士の人柄を刷り込まれていた。
「ファーブル!! ハサミ!! 騙されないで!! あの時もそうだった!! アイツは──アイツは、優しい人間であることをハエの擦り手のように刷り込んだんだ!! そんで信頼させて……!! アイツは……アイツはパパとママを……!!」
さそりが涙声にも聞こえる震えた声で叫んで、不亞武流とハサミははっと我に返った。
今、自分が友だちよりも初対面の紳士を信じようとしていたことに気付いた。
「呑まれないでください。アイツは〝ベルゼブブ〟──失笑園のボスです。それをしっかり念頭に置かないと、すぐ親友にされます」
すぐ親友にされます。
不亞武流は唾を飲んだ。もしも我に返らぬまま、紳士に〝友だちになろう〟なんて言われていれば躊躇ひとつ、疑問ひとつ、違和感ひとつ抱くことなく喜びに満ちた感情のままに首肯していたかもしれない。
それくらい、紳士は──ベルゼブブは信頼に足る人物であった。
「…………」
不亞武流は恐怖した。
〝敵〟であると──母・虫明蟲姫を殺した仇であるとわかっているのに、それでもこちらに柔和な眼差しを向けてくるベルゼブブを信じてしまいそうになる自分に、恐怖した。感情がまるでコントロールできなかった。〝敵である〟と理性的に判断し続けていなければすぐ、心の底から友だちになりたいと願ってしまうことが──恐ろしくてたまらなかった。
母を殺した仇。
それさえ塗り潰してしまいかねない、信頼。
それをベルゼブブは刷り込んでくる。
必死になって抗っていないと、母の面影さえベルゼブブの穏やかで優しい空気に乗っ取られてしまいそうで、不亞武流はギリッと唇に歯を立てた。ぶつりと皮膚が裂けて血が流れ落ちる。
「べるぜぶぶ、さま……」
「ああ、スラッグス君どうだい? 解毒は……できそうにないみたいだね。苦しいかい? 大丈夫、僕が今助けるよ」
苦しみに喘ぐスラッグスにベルゼブブが優しい声を投げかけて、皮膚が爛れ腐り落ち崩壊しかけている顔面にも構わず、そっと優しく手のひらを載せた。
ああなんて優しい人だ、と不亞武流がつい、見惚れた次の瞬間──ボコボコとスラッグスの皮膚が沸いた。が、あ、がふ、とスラッグスの喉がいびつな音を奏でる。既に腐っていたのであろう眼球がこぽこぽと沸き立つ皮膚に押し上げられて零れ落ちる。やがて、沸き立った皮膚からぷつりぷつりと血が浮き出る。ベルゼブブはなおも優しい眼差しを向けていて、だから不亞武流はベルゼブブがやっていることを〝酷いこと〟だと微塵も思わず──そして、そんな自分に気付いて顔面蒼白になった。
明らかにスラッグスの様子がおかしく、そんな状態にしているのは間違いなくベルゼブブだ。
だというのに、ベルゼブブの行いを〝悪〟だと認識しなかったのだ。我に返りさえすれば、気付きさえすればベルゼブブの行いがとてつもなく恐ろしいものだとわかるのだが──逆に言えば。
気付かない限り、ベルゼブブのどんな行動も善性に則ったものだと思い込んでしまう。
「安心しなさい、君たち。僕は君たちの敵ではないよ」
その言葉と同時に、スラッグスが割れた風船のように大破して中から湯水の如く夥しい数のハエが溢れ出た。生まれたてのハエは統制を成してベルゼブブの周囲を螺旋状に飛び交う。
それさえ、気を付けていないと異常行動だと捉えられない。
「それともうひとつ──〝失笑園〟ではなく〝失楽園〟だよ」
ベルゼブブ。
失笑園のボス。
とてつもなく、恐ろしい男であった。
【※ナメクジはビールが大好きなので放置にご注意】




