七匹目 前編 【チゾメナメクジ】
戦う理由はどうであれ、人を守るのに理由は要らない。
七匹目 【チゾメナメクジ】
不亞武流はヒスイタランチュラをつついて視線を前に戻し、八つある視覚のうちふたつの視界でしっかりスラッグスの姿を捉える。スラッグスの体を縦横無尽に這い回る血染めのナメクジの動きにも注意しながら、ショルダーバッグに手を突っ込んで革手袋を取り出す。
不亞武流が愛用している、手の甲に〝殺〟と刺繍された不良のイキりをそのまま具現化したような黒い革手袋である。毒物・薬物に高い耐性を持つ不亞武流である。たとえ血染めのナメクジが毒持ちだったとて、効かないだろう。だがしかし素手では死んでも触りたくない──そう、たったそれだけの話である。
「とにかく潰しゃいいんだろ!?」
「あっちょっ」
さそりが制止の声を上げたが不亞武流には届かず、不亞武流は勢いのまま雄叫びを上げながらスラッグス目掛けて拳を振りかぶった。
スラッグスは、避けない。
革手袋越しにぐんにゃりとおぞましい、生々しいやわい肉の感触が腕を伝う。不亞武流が狙ったスラッグスの頬に血染めのナメクジが集結して、真っ赤な肉塊を作っていた。不亞武流の拳はそれを潰し──びゅうびゅうと、何なのか考えたくもない生臭い悪臭を放つ液体を撒き散らした。
かと思えば、ぼこりと肉塊の表面が沸騰する。
「ファーブル!! 避けて!!」
「なっ──」
ドパンッと水風船が弾けるような音を響かせて不亞武流が潰した真っ赤な肉塊が爆ぜ──血の、雨を降らした。
真っ赤な、刺だらけの雨を。
「ぐあァっ!!」
「うわわわわ!! イタッ!! ちょっと刺さった!!」
スラッグスの間近にいた不亞武流はまともに刺の雨を全身に浴び、さそりは慌てて距離を取ったものの避けきれず何本かを喰らった。
「あーんたら……初心者だなぁ? ちっともなっちゃいねぇ」
スラッグスは低い笑い声を上げながら、ゆらゆらとナメクジが張り付いている両手を揺らす。挑発しているようだが、不亞武流たちに応じる余裕はない。
「そのうち毒がじわじわ、じわじわまずは血を殺す。黒ずんだ血はやがて皮膚にも現れて、全身がまだら模様になっていく。死んだ血が眼球に巡ると黒ずんで黒い鼻水が垂れてくるよーうになって、爪先も真っ黒になるころには心臓も腐った血を循環していて、めでたく腐れ死亡、だ」
「ざっけんなこのキモメン野郎!! 蠍遣いだっつったでしょーが!! こんな毒効くわけねーし!」
太ももに刺さった刺を抜きながらさそりがアメジストの瞳を怒りに燃やして、言う。不亞武流もまた、刺を抜きながらスラッグスを睨みつけていたが──同時に己の不甲斐なさに叫び出したい気分でもあった。己の浅はかな、短絡的すぎる攻撃のせいでさそりが傷ついた。これは〝不良のケンカ〟とは違うのだ。入学式の夜に襲われ、雀蜂に助けられた時にも喧嘩と戦いの違いを痛感したというのに、それでも不亞武流はわかっていなかった。
不亞武流はどこまでも、ただのチンピラでしかなかった。
「ファーブル! 動ける?」
「これくらい大したことねぇよ」
「おっけ。あのね、遣い手との戦いはまず相手が使役するモノの能力を見定めるのが原則なんよ。あ~、ンな顔してる暇あるならあのキモメン野郎ぶっ倒す方法か、逃げる方法探すべ! まさか初っ端から戦うハメになるなんて思ってなかったししゃーないっての」
「……わかった。ごめん、ありがとう」
未だじくじくと自責の念に苛まれてはいたものの、不亞武流はブチっと首に刺さった刺を勢いよく抜いて殺意の籠った眼光をスラッグスに向ける。
今は、戦いに集中する時である。
「……蟲遣いにも十分効く毒なんだけどな。効かねーとか……めんどくせぇな」
「うっせぇ!! おれも好きでこんな体になってねぇんだよナメクジ野郎!!」
「はいはーい……効かねぇならアレだ、蜂の巣にすればいいんだ」
ぶくり、と背後から不穏な音がして不亞武流とさそりは弾かれるように振り返った。
じりじりと少しずつ迫ってきていた巨大なナメクジの表面が、ぶつぶつと粟立っていた。それはやがてぼこぼこと沸騰した水のように膨れ上がり、みちみちに通路を圧迫していく。
「ちょ……ヤバ」
「……!!」
不亞武流はせめて、と図体だけは大きい己の体でさそりの体を巨大なナメクジから遮った。自分のせいで傷付いてしまったさそりにこれ以上傷を与えたくないという想いから、不亞武流は無我のまま動く。
いや。
もしかしたらもっとシンプルに、ただ純粋に。贖罪も意地も自尊も関係なく。ただただ無垢に、ただただ己が本能の赴くままに。
〝守る〟と、そう想っただけなのかもしれない。
ビキビキと不亞武流の顔の表皮下を走る血管が膨張して浮き上がり、不亞武流の両眼を縁取るように八つのエメラルドが花開いた。一見すれば、翡翠の宝玉をボディピアスとして肌に埋め込んでいるかのよう。
〝フェイズ2〟肉体共有だ。
通路を埋め尽くす血染めの肉塊が、爆ぜる。
だが不思議と、不亞武流の視界には爆ぜゆく肉塊の挙動がひとつひとつ、スローモーションに見えていた。頭上にいたヒスイタランチュラのおもみはいつの間にか消失していて、あんなにも頭を苛んでいた頭痛も和らぎ──不亞武流の頭上から見下ろす形であった八つの視界も不亞武流の両眼から、不亞武流の両眼と同じく己の視覚としてごく自然に備わっていた。
〝フェイズ1〟感覚共有では不亞武流が元々持っている左右の視界に圧しかかる形で八つの視界が上乗せされていたのに対し、〝フェイズ2〟肉体共有では左右の視界を認識するのと変わらない自然さで、それぞれの視界を脳で処理することができている。これはヒスイタランチュラの、視覚的情報処理に長けた脳との肉体共有も成されてるからこそなのだが、不亞武流が知る由もない。
だが、それでも一度に八つの視界を認識するにはまだ不亞武流の脳が未熟すぎた。左目を閉じて右目で視るような感覚で、〝動体視力〟と〝暗視〟の眼球で世界を見渡す。
「フ──ァ──ブ──ル──」
背後のさそりからの呼びかけさえ、ゆっくりに聞こえる。感覚共有状態よりもはるかに引き上げられた動体視力が、脳の知覚速度も引き上げたのだ。それによって体感時間が狂い、一秒が数秒に引き伸ばされたような感覚を味わっている。いわゆるクロノスタシス状態である。
不思議な心地に、不亞武流は全能感さえ覚えて高揚する。して、直後にブツッと顔面の血管が切れて血が噴き出し──そう長く続かない状態であることを悟り、内心で調子に乗りやすい自分を殴りつけながら背後のさそりを腕に抱き込んだ。ぷつりぷつりと、筋肉が何本か切れた感覚もして、不亞武流は焦る。超感覚そのままに動くには、不亞武流の体は脆すぎるのだ。所詮──チンピラ風情の運動神経しか持ち合わせていないのだから、当然である。
喧嘩と、戦いは違う。
「──だらああぁぁぁあ!!」
ふくらはぎが裂けたかのような、いいや実際に裂けているのであろう激痛を覚えながら不亞武流はさそりを抱え込んだまま踵を返して駆ける。目指すは、スラッグス。
一秒が数秒に引き伸ばされた超感覚空間では、スラッグスの反応も遅い。自分目掛けて駆けてくる不亞武流にスラッグスが気付いたのは、不亞武流が己の頭を掴んだ時だった。自分の顔を掴む不亞武流の手に反応する間もなく、首がねじれる勢いで引っ張られた。
巨大なナメクジが、爆ぜる。
先ほどとは比べ物にならないほど大量の、そしておぞましく太い刺が暴風雨となって吹き荒れた。不亞武流の引き上げられた知覚速度でも掴み切れぬほどに速い刺の雨はあっという間に不亞武流たちの元へ到達し、降り注いだ。
「がぁああぁあああ!!」
スラッグスの絶叫が木霊する。
スラッグスの肉盾では防ぎ切れなかった刺が不亞武流の脚に降り注ぎ、絶叫が上がる。だがスラッグスを掴む手は緩めず、もう片方の腕に抱え込んださそりも離さない。
時間にすれば暴風雨が吹き荒れたのはほんの五秒であろうか。たったの五秒、されど五秒。不亞武流がとうとう堪えきれなくなり膝から崩れ落ちて、スラッグスも離してしまったころには──あたり一面、血の草原であった。血染めの刺が生い茂る、血染めの草原。
ハリネズミと化したスラッグスが倒れ込んで動かなくなったところでようやく、不亞武流の引き上げられた超感覚が解除された。ヒスイタランチュラとの肉体共有は未だ継続されているが、〝動体視力〟に集中させていた意識が途切れたのだ。ぜえぜえと荒く短い呼吸を繰り返しながら床に項垂れている不亞武流の顔は血管から噴き出た血で真っ赤に染まっていて、刺が幾十も突き刺さった脚も痛々しい様相を曝け出している。
どうにか無傷でしのぎ切れたらしいさそりが慌てて不亞武流を支えて、足に突き刺さった刺を抜きにかかり出す。
「無茶しすぎだし!! おかげで助かったけどボロボロじゃん!!」
「ハッ……ハッ……な、んてことねェよボケ……クソ……痛ェ」
「当たり前っしょ! 刺を抜くから止血しろし! 〝フェイズ2〟肉体共有は蟲の自己治癒能力も使えるから、それ借りろし!!」
そう言われて不亞武流は改めて、〝暗視〟の眼でさそりを見る。先ほど、不亞武流の迂闊さのせいで傷付いた部分がすっかり癒えていた。
だが自己治癒能力を借りろと言われても不亞武流にはどうやればいいのかわからない。とりあえず、足に意識を集中させるが──切れた腱と刺で裂けた肉の傷みばかり意識してしまって、どうにも頭が回らない。
「でもやったじゃんファーブル! 失笑園(笑)のメンバー倒すなんてマジすごいし!」
「だれが、たおされたって?」
さそりがはっと顔を上げるよりも早く、さそりの体が吹っ飛んだ。頬を張られたのだ。そのまま、壁に激突して床に倒れ込み、床を覆い尽くしていた血染めの刺で傷付く。
ワンテンポ遅れて不亞武流も痛む体と頭を堪えて頭を上げ、憎しみに顔を歪めているスラッグスを見上げる。ぼこぼこと皮膚が沸き立ち、でろりと両眼が飛び出す──いや、触角だ。眼窩から先端に眼球を収めた触角を伸ばしているのだ。〝フェイズ2〟肉体共有状態だ。
「ざけんなよ、クソガキどもがァ……」
「ぐ……!」
不亞武流はどうにか立ち上がろうと下半身に力を込めるものの、完膚なきまでに潰された足は未だ癒えない。それどころかとめどなく血が流れ続けているせいで貧血状態になり、視界が霞んでいた。
「はっ。毒耐性のあるてめーらに〝QED〟やってもキマらねぇしなァ……知ってっか? 〝QED〟でキマった人間はな、蟲がむちゃくちゃ寄生しやすいんだ。脳がイっちまってるからなァ……おかげで奴隷がようやく百人超えたところだ。てめーらにチクられちゃガサ入れされてめんどくせーことになるからなァ……」
死ねや、と冷酷に穿き捨ててスラッグスの、ぼこぼこと表面が沸き立っている血染めの腕が不亞武流に伸びる。いくら高い毒耐性を誇る不亞武流でも、目や鼻などの粘膜から直接ナメクジを送り込まれれば──死ぬ。
「安心しろよ。脳味噌ぐちゅぐちゅにしてやるだけだから火葬はできる。葬式くれぇ開いてやんねぇと家族が可哀想だもんなァ?」
「……!!」
ぬろり、とスラッグスの腕から分泌されるように這い出てきたナメクジが不亞武流の鼻先に顔を近づける、その時だった。
「あ?」
スラッグスの拍子抜けしたような声とともに、ごとりと腕が落ちた。遅れて、ぶしゅうっと噴水のように血がスラッグスの肩から噴き出る。そこでようやく、スラッグスの喉が悲鳴を奏でた。
「──大丈夫ですか? ファーブルさん。……さそり」
「灯籠!!」「と……うろぉお」
「間に合ったっちゃ! ごめんっちゃ、ナメクジたちの相手をしていたら遅くなったっちゃ!」
「ハサミ!」「お、っせぇ……マジ、で……でもナイ、ス」
本来、不亞武流たちのサポート役として近くで見守るはずであった灯籠とハサミ。そのふたりが、不亞武流の前に立っていた。かしゃりと腕から伸びる巨大な、見るも禍々しい血に濡れた鎌を煌めかせて灯籠が腰を低く構える。どうやら、スラッグスの腕を斬ったのは灯籠だったようだ。
「鎌切|灯籠──〝蟷螂遣い〟」
「く、鍬形ハサミ──〝鍬形遣い〟」
名乗りを上げるふたりを前に、スラッグスはでろりと眼窩から伸びる触角を動かして、真っ赤に染まった眼球でふたりを見つめる。その顔は当然のことながら──憎悪に歪んでいる。
「とぉろぉお」
「動けますか? さそり」
壁際にいるさそりに視線を向けないままに問いを投げかける灯籠に、さそりはうんと答えてふらつきながらも立ち上がった。
「今、てふてふさんがナメクジの成分を分析しています。そのうちわかれば、でんでん丸さんから連絡が入ります。それを参考に毒を生成してください」
「うん」
灯籠が助けに来てくれたことで安心したのか、ぐずぐずとしゃくり上げながらもさそりは頷いて床の刺に気を付けながら距離を取る。
「ファーブルっち、大丈夫っちゃか? 掴まれっちゃ」
「わ……悪ィ、な」
「そりゃこっちの台詞っちゃ。ナメクジが配管という配管をぎゅうぎゅうに塞いでいたっちゃ」
灯籠とハサミは天井裏の換気ダクトを通っていたところ、換気ダクトを塞ぐナメクジの群れに出遭って交戦状態にあったのだという。百足は別ルートとのことだったがおそらく同様に襲われているだろう、と語るハサミはよくよく見れば、血まみれだった。〝フェイズ2〟肉体共有により表出した本物のクワガタムシの角もボロボロで、とてもじゃないがもう戦える状態には見えなかった。
「毒耐性がないっちゃからえらい目に遭ったっちゃ。肉体共有で自己治癒能力を押し上げていなかったらヤバかったっちゃ」
「自己治癒……おい、それ、どうやんだ?」
「んー、蟲によるっちゃから……俺っちの場合、クワガタムシの角でチョッキンって傷口を閉じるイメージでいけたっちゃ」
ちっとも参考にならない説明に不亞武流はがっくりと頭を垂らす。
ある程度距離を取ったところでハサミが不亞武流を刺のない床に降ろし、そこでようやく不亞武流はスラッグスの方に視線を向けた。灯籠とスラッグスの死闘が、繰り広げられていた。喧嘩ではない。死闘だ。
灯籠は毒に対する耐性が蟲遣いの平均以下である。ハサミよりははるかにあるものの、蟲毒を操るスラッグスに対しては相当な不利を強いられる程度にしかない。だから灯籠は己の鎌のみでスラッグスが飛ばしてくるナメクジと蟲毒、刺をかわしていた。鎌以外の部位、例えば二の腕や顔、足元などに攻撃が及べば必死で避ける。かすり傷さえひとつも許そうとしない。
対するスラッグスも斬り落とされた腕をそのままに、己の体内に取り込んだのであろう大量のナメクジをぼこぼこと輩出しては攻撃に転じ、灯籠の鎌が迫ってきてはナメクジを集結させて防ぎ、犠牲にする。灯籠の鎌はとても鋭く、しかも的確に急所を狙ってくる。だから鎌の軌道を瞬時に見定めてナメクジを二十、三十匹ほど固めて盾にしなければならなかった。
どちらも紙一重の、まさに命を取るか取られるかの戦いであった。両者ともに相手から少しも視線を逸らさない。一歩も退かない。攻撃の手を緩めない。防御を怠らない。詰められる間合いは詰める。詰めてはいけない間合いは牽制する。
「……っ」
つい昼方まで肩を並べて気安く笑い合っていたクラスメイトが織り成す死闘に、不亞武流はようやく──〝蟲遣い〟に求められる覚悟と直面した。直面して、誰もが腹を括って臨んでいる中自分だけがぼんやりと現実を捉えきれず、不良のケンカに応じる調子で臨んでいたと実感した。実感して、それではダメだと──それでは、仲間を──友だちを失うだけだと唇を噛み締めた。
不亞武流は大きく息を吸って、自分の脚を見下ろす。穴ぼこだらけの上、見えないが腱が断裂してしまっている脚。〝フェイズ2〟肉体共有では蟲の高い能力を共有し、己のもののように扱うことができる。だから不亞武流もまた、ヒスイタランチュラの能力を使えるはずなのである。
ヒスイタランチュラ。タランチュラ。クモ。
ならば、と不亞武流はクモの糸が傷口を縫い合わせるイメージを脳裏に描いた。数秒ほどのタイムラグを刻んで、じゅくじゅくと傷口が少しずつ塞がって行くことに安堵しつつ、不亞武流はまた灯籠とスラッグスの戦いに目を向けた。
灯籠の身体能力は相当高い。対して、スラッグスは攻撃手段こそ豊富であれど運動神経はさほど高くない。そのおかげで拮抗しているが、有利不利で語るならば灯籠の方が明らかに不利である。毒耐性の弱い灯籠は毒を一度でも喰らえば致命傷となり得る。
どうすればいい、と思った矢先にポケットのスマートフォンが震えた。慌てて取り出せば、でんでん丸からのメッセージが入っていた。やはりナメクジによる電波障害に妨げられてようで、さそりのバッグに忍ばせていたてふてふの蛾だけを頼りに不亞武流たちの動向を探りながら灯籠たちと突破口を探していたようだ。既に音鳴先生や雀蜂に一報を入れているようで、雀蜂がこちらに向かっている旨も伝えられる。
『てふ☆分析結果:二十八種類のアミノ酸がペプチド結合したものの混合物による神経毒。コノトキシンと呼ばれる血清の存在しない毒だと思われる。ペプチド結合を分解するべし。ファーブルの体内にはあらゆる分解酵素があるため、不足成分はファーブルから補うことを推奨』
☆マークにフザけるなと一瞬思ったものの、その後に続けられた真面目な文章に不亞武流は大人しく文を追う。自分で補う、という一文に片眉を上げた時、さそりが自分の名を呼んだことに気付いて顔を上げる。
「献血のご協力あざっす!」
「ぬおッ!!」
ブスッとサソリの尾を首筋にぶっ刺されて不亞武流の背が脊髄反射で跳ねる。許可した覚えはねぇ、と言おうにもずるずると血が抜かれていく感覚に言葉を紡げない。
「やっべ、ファーブルの血やっべ。これだけで解毒剤になるじゃんやっべ」
「いいから早くしろ! 灯籠が持たねえぞ!」
「わーってるって! えーっと、プロテアーゼにディスインテグリンにホスホリパーゼに……ヒアルロニダーゼも。ヘビ出血毒作る感じでいくかな」
プロテアーゼ。筋肉分解・血管分解。
ディスインテグリン。血小板破壊。
ホスホリパーゼ。細胞膜破壊。
ヒアルロニダーゼ。細胞組織破壊。
どれも蟲学の授業で学んだたんぱく質成分であったが、不亞武流はひとつたりとて覚えていなかった。〝知っている〟ことは武器になると音鳴先生は語っていたが、当時の不亞武流にとっての武器と言えば拳に足に筋肉に体格に、と所詮〝不良のケンカ〟しか知らぬチンピラの浅はかな想定であった。
喧嘩と、戦いは違う。
不良として暴れていた時代に学校の授業を〝お勉強(笑)〟などと揶揄して嘲っていた不亞武流は絶対に生き残れない戦いが、眼前で繰り広げられている。
「……っ、クソ!! ハサミ、何かできることねえか!?」
「焦るなっちゃ! 俺っちたちみたいな素人が焦って動いたって邪魔になるだけっちゃ! 俺っちも──俺っちも、それで灯籠っちにめちゃくちゃ迷惑かけたんだっちゃ」
そう言ってギリッと悔しそうに歯軋りするハサミを不亞武流はつい、見上げてしまう。不亞武流を支えているハサミは灯籠以上にボロボロで、クワガタムシ自慢の立派な角も欠けてしまっている。じゅくじゅくと少しずつ再生してはいるが、その速度は不亞武流より遅い。
ハサミの毒耐性は灯籠よりもはるかに低い。一般人として中学卒業まで過ごしてきたのだから当然であるが──ハサミはそれを顧みず、〝フェイズ2〟肉体共有に至れたことへの喜びと誇りそのままにナメクジの群れに突進し──あえなく、毒の餌食になった。
灯籠はそんなハサミを庇いながら戦い、自身の持っていた解毒剤も全てハサミに処した。だから今の灯篭には本当に、毒に対抗しうる手段がひとつもない。
足手纏いになってしまった事実にハサミは苛まれていた。状況を弁えず行動したことで足手纏いになってしまい、友だちを追い込む結果になった。ハサミもまた、不亞武流と同じ心境にいた。それを察して不亞武流は悔しさに歯軋りする。
どうにかしたい。友だちを助けたい。
しかし、自分たちはあまりにも戦い方を知らなさすぎる。弱すぎる。
強くなりたい、と不亞武流は心から想う。




