六匹目 後編
◆◇◆
「マジありえないんですけど。フツーオゴリっしょ」
「うっせ、金ねンだよ」
赤い薔薇を彷彿とさせる鮮やかな赤い髪を頭頂部で花開かせている女と、これまた燃え盛る炎のように赤いが染めたきり放置しているのか、根元が黒くなってしまっている男。胸元が大きく開いたキャミソールにパンツが見えてもおかしくない丈のミニスカ、その上に羽織っている彼氏のものと思しきジャケット。それにどう見ても徒歩に向かない高さのハイヒールで彼氏にしなだれかかっている女を、男がやる気なさげに支える。男のほうは柄もののシャツにカーゴパンツをおざなりに着崩していて、その上にこれでもかというくらい過剰にアクセサリーで飾り立てている。
蛇蝎さそりと虫明不亞武流である。
ここは阪急三番街南館の地下二階──グルメフロアである。和洋中華スイーツと多種多様なレストラン・カフェが立ち並ぶエリアで、ゴールデンウィーク真っただ中である今は人の出入りが激しい。どの店も行列ができていて、店員が忙しなく動いているのが見える。
その中のひとつ、珈琲の質を売りにしている喫茶店の窓際席から不亞武流たちを見つめる影があった。巨大なリュックをテーブルの下に置き、行儀悪くスマートフォンを弄りながらシフォンケーキを貪っている少年と、その隣で同じくスマートフォンを弄っている帽子を深く被ったおしゃれとは無縁そうな素朴な少年。それに、向かい側に座っているおかっぱ頭をふわっと広げさせて、これまたオフホワイトを基調にしたふわっとしている服を着こなしている純朴そうな少女。
渦巻でんでん丸と水目モグラ、そして蛾々我てふてふである。
「そろそろ夕食時のピークは過ぎるでんよ」
「う、うん……でもおらたち、ずっとここにいるけど……大丈夫?」
「えっと、大丈夫みたいだよぉ。ここの喫茶店、えっと……マーちゃんの協力人なんだってぇ」
麻薬取締部は厚生労働省内のいち組織であるが、おとり捜査を認められている関係上、麻薬売買の現場になり得る地区に協力人を持っていることが多い。ここもそのひとつであり、あらかじめてふてふたちの滞在が麻薬取締部を通して伝えられている。
日もすっかり暮れ、ぽつりぽつり行列が短くなっていく頃合。
適当に店を冷やかしてから夕食を取り、いよいよ潜入のタイミングだとでんでん丸がスマートフォンを操作する。
不亞武流のスマートフォンが音もなく震え、不亞武流はそういえば、と声を上げる。
「知ってっか? このあたりでヤバいモン流通してるらしーぜ」
「え? ナニそれ」
さそりが話に乗るふりをして不亞武流の腕に引っ付き、もにゅもにゅと豊かな乳房を押し付ける。
その時、でんでん丸のスマートフォンにメッセージが入った。
『ファーブルにさそりから離れるよう指示しなさい』
でんでん丸は無視して、そのまま経過を見守る。てふてふもこっそり蛾を一匹、さそりのブラウン色のバッグの底に引っ付けて〝フェイズ1〟感覚共有を行う。モグラも侵入ルートに人気がないか、数匹のミミズを通して確認する。
「風流会、知ってんだろ?」
「あ~、難波あたりにいる珍走団っしょ」
「そーそー。そいつらがな、ハマったらしんだわ。んで、イイモン貰えるからお前も行けつって道教えてもらったワケ。行くべ」
「え~? うちホテル行きた~い」
でんでん丸のスマートフォンがまた震える。でんでん丸は無視する。
「う、うまいねぇ……ふたりともぉ」
「ファーブルは元々ああいう環境にいたでんしね。さそりはファーブルに乗っかってノリノリになってるだけだと思うでん」
「す……すごい、ね」
指示係の三人がひそやかに見守る中、不亞武流とさそりはグルメフロアの華やかな表通りから外れて関係者以外立ち入り禁止のエリアに入り込む。
業者やスタッフしか入れぬエリアは表通りに比べるととても暗く、掃除はされているものの換気がそこまでではないのか湿っぽい。モグラのミミズであらかじめ人がいないのを確認しているとはいえ、ふたりは抑え切れぬ緊張でひと際強く鼓動する心臓そのままに、第三倉庫とプレートが掲げられている部屋に入る。
それからも演技を続けつつ、ふたりは入り組んだロッカーを縫って歩く。と、いうのも先んじて行われたモグラの調査によって盗聴器が仕掛けられていることが判明したのだ。でんでん丸が電波障害を仕掛けることもできたが、怪しまれないことを最優先にしてそのまま放置しておくことになったのである。
やがて埃を被ったロッカー群の中で唯一、埃の量が薄いロッカーを見つけて不亞武流は無造作に開ける。中には何も入っていない。が、よくよく目を凝らして見ればロッカーの背部分に指が引っ掛けられそうな穴がある。汗ばんで震えそうな手をどうにか押さえて不亞武流はそこに手を掛け、開く。二重扉──いや、三重扉である。ロッカーの裏にギリギリ人が入り込める空きスペースがあり、そこに扉がある。
今は使われなくなったボイラー室だ。さそりの不満たらたらな演技に合わせながら、不亞武流はさらに扉に手を掛ける。
つい、唾を呑み込んでしまいそうなのを堪えて不亞武流は細く息を吐いた。
「見ろよ、階段だ」
「えぇ~。マジで行くん? やだ、うち怖い! マジ行きたくないんですけど!」
「うっせ、じゃあひとりで帰れよ」
「ちょっ……置いて行かないでよ!!」
今の声は若干本気だったように思う。それも当然だ──廃ボイラー室の中はとてもカビ臭く、誰が取り付けたのかわからない小さな豆電球だけが辛うじて廃ボイラー室の奥に取り付けられてあり、壊れて体を成していない扉の向こうにある地下への階段を照らしていた。
蟲遣いとはいえ、さそりは一応女子高生である。本気でビビり、不亞武流の背中にぴったりと引っ付いていた。不亞武流も正直、内心ビビっていたが不良としての矜持、という名のイキりでどうにか誤魔化していた。
そんな半熟蟲遣いがふたり──封鎖されたはずの地下街へ足を踏み入れる。深度としては地下五階にあたるだろうか。ところどころ非常灯が点灯していたがとても暗く、不亞武流はスマートフォンのライト機能をオンにした。ぼんやりと、無人で荒れ果てた、何のテナントも入っていない地下街が浮かび上がる。
さそりがやだぁ、と呟きながら不亞武流の背に引っ付く。その拍子に不亞武流が背負っているショルダーバッグが潰れて、中にいたのであろうヒスイタランチュラが慌てて位置を変える。
「見ろよ、足跡がいっぱいある。やっぱ出入りあンだよ」
「知らないよそんなの。帰ろうよ、ねぇ」
演技にはとても見えない怯えた声色に不亞武流が思わず目を丸くして振り返ってしまう。さそりは本気で怯えていて、本気で帰りたがっている様子だった。しかし不亞武流の服を掴んでいる手はぐいぐいと不亞武流を前に押し出そうとしていて、帰りたいけど帰るわけにはいかないという彼女なりの矜持が感じられた。
「どっち行きゃーいいんだ?」
言いながら、ライトで照らすふりをしてスマートフォンの画面を確認する。でんでん丸からの連絡はつい一分前、電波の調子が悪いという一文で途切れている。このあたり一帯にはモグラのミミズも潜んでいるはずである。ミミズは視覚こそ衰えているが、振動を音としてキャッチする能力はある。モグラと感覚共有していれば不亞武流たちの様子もわかるだろうが、モグラたちから道の指示が下る気配がない。
「……?」
でんでん丸のカタツムリの調子が悪いのか? と考えながら不亞武流はとりあえず、非常灯が灯っている道を選んで進む。と、角を曲がったところでライトに照らされてぬうっと人影が浮かび上がりさそりが絶叫した。
「あ? ンだてめェら……」
不亞武流たちとそう変わらない年頃の男女だった。光源がスマートフォンしかないために色合いはよくわからないが、全体的に不亞武流たちとそう変わらない派手な恰好をしている。
ドラッグにハマった客か、と考えながら再度声を上げようとした不亞武流の隣で、さそりが再度、悲鳴を上げた。
「な、なんで……!!」
「あ? どうした」
「なんで──〝蟲人〟がここに!!」
そう言いながらさそりは自分のスマートフォンを取り出して、目にも留まらぬ速さでスワイプし始める。何度か親指がタップされて、発信画面に切り替わる。相手の名前は〝デデンデンデデン♪〟──でんでん丸である。
しかし待てど待てど、電話が繋がる気配はない。その間、男女のカップルは何も言わなかった。何も言わないどころか──虚ろな、色合いはよくわからないものの白く濁っているように見える両眼を空虚に彷徨わせてぼんやりと立っているだけだ。
ドラッグの中毒症状か何かじゃないのかと不亞武流は考えるが、さそりはどうもそうは考えていないらしく、繋がらないスマートフォンに焦りを見せていた。
「マズいマズい絶対マズいって……ファーブル、とにかく引き返そうっ」
「あ? おい、ちょっと待──うわっ!」
踵を返して走り出そうとしたさそりを追おうと足を踏み出した不亞武流は、しかし急停止したさそりにぶつかってしまう。
「な、なんだ?」
「ふぁ……ファーブル、ココ……壁、あったっけ?」
「あ?」
不亞武流は顔を上げる。
真っ赤な壁があった。
たった今通り抜けてきたはずの廊下が消失して、代わりに真っ赤な壁がそこにあった。
「は……!?」
白いライトに照らされ浮かび上がる、血染めの赤。しかも妙に、表面がぬらぬらと濡れた輝きを帯びている。なんだ、と不亞武流が気持ち悪そうに顔を歪める。
「蟲人って何だよ……! 蟲遣いなのか!?」
「違う! 蟲遣いの素質がない人間に蟲が寄生した状態を蟲人って呼ぶの! あの時──ベルゼブブが活動していた時も、こんな奴らがいっぱいいた!」
どくり、と不亞武流の心臓がひと際強く跳ねる。
ベルゼブブ。
母の、仇。
「蟲遣いの素質がない人間に蟲が寄生すると脳細胞が破壊されて廃人みたいになっちゃうの! 黄色く濁った目と黄色い涙、それに浮き出た血管が特徴で……でも、野生の蟲はそういうことをしないの! 素質がない人間に寄生しちゃうと癒着しちゃって死ぬまで離れられなくなるから……!」
〝蟲人〟はその当時、ベルゼブブが己に従わぬ蟲遣いを惨殺していく中で、蟲一匹従えられぬ一般人たちも存在意義がないと見做し、配下たるハエたちを寄生させた。
蟲遣いをはじめとする遣い手たちや、遣い手の存在を知る関係者の間では〝蠅の海事件〟と呼ばれ、遣い手の存在を知らぬ一般人たちには〝脳性コレラ集団感染事件〟として知られている。三千を超える一般人がハエに寄生され、脳細胞を破壊され廃人となった事件を表向きには〝脳性コレラの感染によるもの〟としているのだ。
「てか何なのこの壁! ヌメっててキモいんですけど! てかでんでん丸と全然繋がんないし!」
「マジで何なんだこの壁……なんかボコボコし、て──」
真っ赤な、血染めの壁。
ライトに照らされて表面をぬらぬらと浮かび上がらせる紅蓮の壁。
がさりと異変を感じ取ってショルダーバッグから這い出てきたヒスイタランチュラがそれを見て翡翠の目を赤く煌めかせる。同時に、半強制的に〝フェイズ1〟感覚共有が行われた。行われて、不亞武流の激痛苛む頭の向こう側ににょっきりと触角を伸ばして眼球をこちらに向けている、小さなナメクジの姿を捉えた。
「避けろ!!」
叫ぶよりも速く、不亞武流がさそりを掻き抱いて横に飛ぶ。それを掠めるように、真っ赤な血染めの壁が倒れた。
轟音はない。ぼたたたっと水が落ちるような音とともに、男女を巻き込んで倒れた壁が床一杯に広がる。すんでのところで赤い雨に打たれずに済んだ不亞武流は床に転がっていたさそりの腕を掴んで強引に引き上げ、逃げるぞと叫ぶ。
もぞりと、床一杯に広がった赤い水たまりが起き上がる。
ぬろっと触角が一匹、また一匹と伸びて──無数の眼球が一心に不亞武流たちを見つめる。無数の、ナメクジの視線が。
「ナメクジ!? キモッ!!」
「まさかでんでん丸と通じねえのアレのせいか!?」
「ナメクジにも電波効果あんの!?」
「知るかよ!!」
とにかく逃げるぞ、と不亞武流はさそりの腕を掴んだまま走り出した。それに追い縋るように、ナメクジの水たまりが動く。
「コレアレだろ!? 〝蛞蝓遣い〟だのなんだの仕業だろ!? ってことは今回のドラッグ騒ぎは蟲遣いが関わってたってことだよな!?」
「知らないし!! 〝フェイズ2〟肉体共有!!」
ぎらり、とさそりの両眼がアメジストに煌めき、目の周りにも数個の宝石が現れた──さそりが使役するホウセキサソリの目である。サソリは視力こそ弱いが夜目がよく利き、光を捉える力は非常に高い。
それを見て不亞武流も意識を向ける視界を〝動体視力〟から〝暗視〟に切り替えた。それに合わせて、ヒスイタランチュラが不亞武流の頭上に移動して視界を合わせてくれる。
「とにかく回り道して上に戻るぞ!」
「そーさね! ちょっとうちらだけじゃ無理っ!」
駆ける足を緩めぬまま、ほとんど怒鳴り合うように会話したふたりは前方に見えた十字路で右に曲が──れなかった。
先ほどの男女と同じような虚ろな目の若者たちがそこにたむろしていた。不亞武流は舌打ちして他の道を見やる。また、壁があった。血染めの壁が。いや、壁ではない。壁にしては丸みを帯びている。丸みを帯びた巨大な壁が廊下の奥からじりじりとこちらを目指して迫ってきて──壁ではない。
巨大なナメクジだ。
「んなっ……!?」
視線の先にはずりずり、ずりずりと通路いっぱいに体をねじ込んでいる巨大な血染めのナメクジ。
体が向いている先には十数人の、さそり曰く〝蟲人〟だという若者たち。
逃げてきた通路の奥からは数十、数百、下手すれば数千匹ものプチ・血染めナメクジ。
不亞武流は舌打ちしたい衝動を抑えながら最後に残った、十字路の最後の通路を見やる。暗視状態では半径十メートル、明るい色合いの物体であれば十五メートル先のものを視認できる。その範囲内で最後の通路に何も存在しないことを確認した不亞武流はそこに逃げ込もうと足を踏み出す。が、それをさそりが押し留めた。
「ダメ!! 向こうに中ナメクジがいる!!」
「中トトロみてえに言うんじゃねえ!!」
喚きながら、不亞武流はどうするか考える。こういう時のためのサポート係なのだが、灯籠やハサミはおろか、百足さえも来る気配がない。
「これ、おれらが来るってことバレてたんだよな?」
「たぶん! 蟲遣いが関わってたんならきっと、前調査の段階で蟲を見抜かれてたかも!」
だとすると、と不亞武流は歯を噛み締める。この事態が待ち伏せされてのことならば、灯籠たちも同様に待ち伏せされていると考えるのが筋である。ならば自分のことで手一杯で、助けは期待できないだろう。
「ファーブル! こっち行くよ!」
「こっちって……どうすんだ? ぶん殴って行くか?」
言いながらバキバキと指を鳴らす不亞武流にさそりは首を横に振って、腕を構えてアメジストに煌めく宝石の瞳をまっすぐ十数人の若者たちに向ける。
「こんなことならおっきいコも連れてくればよかったし! ──複数肉体共有!」
ビキビキビキと亀裂が走るように、さそりの腕を通る血管が浮き上がる。同時に、ぞろりとサソリの尾が大量に生えた。
「麻酔毒調合!」
「ンなことできんのか!?」
「余裕だし! ウソ大したことない! 雀蜂パイセンはもっと細かく調整できるんだけど!」
サソリ単体では毒の細かい調整が難しいが、さそりは幼いころより毒物・薬物に関する医学書を絵本代わりにしていたこともあり、〝フェイズ2〟肉体共有により取り込んだサソリの毒腺で薬を調合することができる。さそりが愛してやまないホウセキサソリは毒性の低いサソリだが、非常に豊富な種類のアミノ酸を含有しており、組み合わせ次第で薬も毒も麻酔も作れる。
もっとも、体内での調合は当然のことながら難しいとひとことで済ませられるレベルではない。サソリとて、己の尾先にある毒腺で意識して毒物を作っているわけじゃない。胃液を意識して作る必要がないのと同じであり、つまり体内での調合は見えもしなければ意識してどうにかなるわけでもない胃をどうにか動かして胃液を作るのと同じ無茶ぶりなのである。
だがそれでもやってのけるのが〝蟲遣い〟である。
体内で調合した麻酔毒を腕いっぱいに生やしたサソリの尾先に移動させたさそりは、腰を低く構えて腕を前に突き出し、そのまま突進した。不格好ではあるが、麻酔薬をなるべく人体に悪影響の残らない足に注入するために取った手法である。
「ファーブル! こいつら蟲に寄生されちゃっただけでフツーの人間だからなるべくそっとぶん殴って!」
「そっとぶん殴るって何だよ!!」
さそりの調合した麻酔毒を注入されて立っていられずふらつく若者たちを不亞武流が軽く払いのけて転ばせて、その隙に若者たちの群れをかい潜って逃げる。
「蟲人ってああいう風に動けないようにしなきゃヤバいのか!?」
「蟲に寄生されて自我がない状態だから、攻撃に自制がないの!! 骨がへし折れても目が潰れても手足がもげても、動ける限り蟲に操られ続けんの!」
先ほどの若者たちは動きがとても鈍く、ただ不亞武流たちを通せんぼして立ち尽くしているようにしか見えなかった。だがしかしあのまま放置していればいずれ、蟲に操られて不亞武流たちを攻撃していただろうとさそりは語る。どうやら、寄生している蟲がそこまで強くなかったようだとも。さそりの知る、ベルゼブブが暴走していた当時に見えた蟲人は体が動く限り際限なく暴れ続けるゾンビであった。
「たぶん寄生してるのはあのナメクジ! トロいから蟲人もトロかったんよきっと!」
「そうなのか──っ止まれさそり!!」
回り込んで上階への階段を目指していたふたりだったが、やがて見えてくるであろう踊り場を前に不亞武流がさそりの肩を掴んで止める。だがさそりもその時には既に、それに気付いて足を止めていた。
「うじゃうじゃうじゃうじゃ……ミミズがいるからまさかと思ったが……マジで蟲遣いが来るとはなァ」
全身ナメクジだらけの、ねっとりとねぶっているように聞こえる粘着質な声が不快感を与えてくる中肉中背の男がいた。
「スラッグス──〝蛞蝓遣い〟」
気怠そうに名乗りを上げて、ぞろりとまぶたと眼球の間からナメクジを這い出させた男──スラッグスに、不亞武流はぞわりぞわりと全身が粟立つのを感じながら、どうするか考える。
「てめーかよ? 〝QED〟を流行らせてるのって」
「……そこは名乗りを上げるのが礼儀だろう?」
不亞武流の怒鳴り声を舐るように絡め取って、いなす。スラッグスのねっとりとした視線が体中にへばりついている感覚に、不亞武流は忌々しげに表情を歪める。一方、さそりはさすがに蟲遣いとしての経歴が不亞武流より長いだけあり、落ち着いた様子で一歩前に躍り出る。
「蛇蝎さそり──〝蠍遣い〟」
ほら、とさそりのアメジストに煌めく瞳に促されて不亞武流も戸惑い気味ながら、名乗りを上げる。
「む……虫明不亞武流──〝蜘蛛使い〟」
これは遣い手たちの間で古来より暗黙の了解として浸透している名乗りの儀式のようなもので、義務付けられているわけではないが名乗りを上げなければ遣い手として浅はかだと烙印を押されてしまう。
「……ってか、こっちは本名名乗ってんのにそっちは明らかな偽名ってフェアじゃねえだろーがよ」
「しゃーないべ? なんせ失笑園(笑)だべ」
「あ? おいガキが舐めた口を利くなよ。それに失笑園じゃねえ、失楽園だ」
明らかに不愉快だという感情を隠しもせず声色を若干上擦らせて凄むスラッグスに、さそりはふんっと鼻を鳴らして腰に手を当てる。
「やっぱアンタ失楽園のメンバーだったんだ」
「……!」
ボロを出してしまったことに気付いてさらに不機嫌になったスラッグスはぬろり、と大量のナメクジを口の中から押し出して低く唸った。
「ガキが……舐め腐りやがって。てめぇらどこのモンだ? 獄蟲塾のガキか? まぁそれはナメクジをその乳臭ぇ体ん中に這入らせてほんの十分程度苦しめてやりゃあすぐ吐くか」
日本における蟲遣い養成校は蟲喰学園ただひとつだが、蟲遣いが全て蟲喰学園に入学するわけではない。大半の蟲遣いは家元で修練するか、近隣の蟲遣いが開いた小さな塾に通う。だから同じ蟲遣いとて、面識が必ずしもあるとは限らない──実際、スラッグスは二十前後と若い男であるように見えたが、さそりは全く知らぬ顔であった。
「来るよファーブル! あのナメクジめっちゃキショイんですけど!」
「どう見てもビョーキ持ちだもんなあああ!! フザけんな気持ち悪ィ!! 〝フェイズ1〟感覚共有──〝動体視力〟!」
〝暗視〟に意識を向けたまま、〝動体視力〟にも意識の糸を伸ばす。その際に人間の両眼は閉じ、なるべく脳への負担が軽くなるようにする。それでもふたつの視界は不亞武流の脳を圧迫していて、ズキズキと目の奥が眼精疲労にも似た痛みを訴えて疼く。
「ガキがイキんじゃねーよ。オレに勝てるとでも思ってんのか?」
その言葉に被せてずず、ずっずっと何かを引き摺るような音がしてはっと不亞武流の頭上にいるヒスイタランチュラが振り返る。同時に、共有状態にある不亞武流の視界も後方に向く。
先ほど振り切った巨大なナメクジがすぐそこまで迫ってきていた。
「……マジかよ」
虫明不亞武流──蟲喰学園に入学して一ヶ月。
未だ蟲遣いとしての心得も覚悟も収まりきらぬうちに、二度目となる失笑園との戦いを迎えるのであった。
【※サソリはクモの仲間なので別にエビの味はしない】




