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だから私は貴方を捨てる

作者: 真ん中 ふう

朝、家族の誰よりも早く起きて、朝食を作り、夫と子供を見送る。

そして、パートの出勤まで1時間と迫るなか、朝食の片付けをし、リビングだけでも掃除機を掛ける。


そして6時間のパートが終わるとすぐ帰宅し、夜ごはんの準備に取り掛かる。


主婦になって10年。


これが私の日常だった。


「おい。これいつものドレッシングと違うじゃないか。」

家族三人の夕食の時間は夫のそんな不満から始まった。

「ごめんなさい。いつものがスーパーになくて…。同じようなのがあったからそれにしたんだけど…。」

「これじゃあ、だめだ。俺がこの前健康診断で引っ掛かったの知ってるだろ?いつものドレッシングはコレステロール値を下げるって書いてあったろ?このドレッシングはそれがない。と言うことは、コレステロール値を下げられないだろ。」

「ごめんなさい。」

「お前がそんなだから、俺の健康が脅かされるだよ。」

夫は一度「これ」と決めたら譲らない。

でも今日は仕事でも疲れていて、もう一件スーパーに寄る余裕は私にはなかった。

類似品でなんとかなるとは思ってなかったけど、たまに機嫌が良いと、いつものドレッシングじゃなくても許してくれる時があった。

だからそれに賭けてみたのだ。

しかし今日の彼には通用しなかった。


私は彼に見えない所で小さくため息をついた。


「分かったわ。買ってくる。」


もう夕食は始まっていると言うのに、私はいつものドレッシングを求めて、違うスーパーに向かった。


そしてご所望のドレッシングを持って家に帰ると、夫がソファーに横になっていた。

みれば、食事は終わっていて、ご丁寧にサラダだけが残されていた。


「遅かったな。」

彼は私を見ることなくそう言った。


私達は夫婦なのだろうか?


時々そう考える。


これでは、ご主人様と召使い。

王様と下僕。


はっきり言って、こんな彼に愛情なんてもうない。


でも彼と離れないのは、子供の存在があるからだ。

それに私ももう40。

大きな変化にも臆病になってくる。

だから、別居や離婚などと言うことは、空想の世界の話。


パートを始めたのは、家にばかりいると気が滅入るから。


少しでも自分に新しい風を入れたくて始めた仕事。


最初は楽しかった。

何もかもが新鮮で、少し位怒られても、理不尽な夫の言葉よりは我慢できていた。


しかしそれも3年たつと、仕事場の環境も変化していった。


事の始まりは、ある一人の女性の異動だった。


私はファミレスで、時間帯責任者として働いてた。


そこはチェーン店なので、同じ地域に何店舗かある。


なので、他の店でやりづらくなった人が異動してくるのはよくある事だった。

今回異動してきた西田さんもそのうちの一人だった。

彼女は私と同じ40代で、子供はすでに成人していて、時間に余裕があると言うことで、私の勤めるお店に来た。

もともと人手不足で時間帯責任者の私が休むと、店長や一人しか居ない社員さんに負担が掛かってしまう。

なので、私と同じ立場の西田さんがこの店に来るのは、ありがたい話だった。


しかし彼女にも、他のお店でやりずらくなり、こちらに異動してきただけの理由があった。


異動してきた初日、挨拶もなく休憩室に入ってきた西田さんは、我が物顔で椅子に座り、たばこを吸い始めた。


西田さんのその姿に、私は言葉を失ってしまった。


彼女はたばこをふかしながら私に軽く頭を下げた。

しかしその態度は私の目にはひどく横柄に映った。


そんな彼女の姿に、旦那の姿が重なって見えてしまったのは、私が負の感情に覆われているからだろうか?



彼女は私と同じ時間帯責任者としてお店に入ってたが、彼女の仕事ぶりは私を唖然とさせた。


接客を任せれば態度が悪いとクレームを言われ、厨房に入れば見た目が悪い商品を平気で出してくる。

お陰で彼女が作るものはもう一度作り直し、時間がかかってしまい、お客さんからは私が怒られた。

しかし彼女は悪びれた様子もなく、謝ることもしない。


それだけではなく、彼女は面倒な仕事から逃げる。

資材管理や発注といった仕事は「苦手だから。」と言う理由でやらない。

同じ時間に一緒に入っている私は、彼女がやらない仕事までしなくてはならなかった。

しかしそんな彼女に文句一つ言えない自分にも問題はあった。


ある寒い日、息子が通っている小学校から連絡が入った。

息子が熱を出したので迎えに来て欲しいと。

周りのパート仲間は事情を察して、早く帰るように言ってくれた。

そんな中、西田さんがすれ違いざまに私に呟いた。


「急に帰るとか、迷惑だわ。」


その言葉が私に彼女への後ろめたさを確実なものにしたのだ。


そうだ…仕事を途中で抜けるのは、迷惑な話だ。

それを他の仲間は気を使ってくれているだけで…。


そう気付いてしまった私は、どんどん仕事が辛くなっていった。


ある日の夕方、私はいつものように彼女が残していった仕事を片付けていた為、帰りが遅くなってしまった。


「ごめんね。すぐにご飯の支度するから。」


リビングで宿題をしている息子、俊樹に声を掛けながら、エプロンを結ぶ。


「おかあさん、これ。」

俊樹が出してきたのは、今日返されたであろうテストだった。

しかし焦っていた私は、後で見るからテーブルに置いといて、と言って支度を始めた。

すると、玄関の方でドアが開く音がした。


(こんな日に限って!)


夫がいつもより早く帰ってきたのだ。

私は内心イライラしながら、でも、それを押し殺して彼の鞄を受け取った。

彼は、ネクタイを外しながら、テーブルに置いてあったテストを拾い上げた。


「俊樹。なんだ、この点数は。」

背中から彼の声がして、私は後悔した。

早くテストを閉まっておけば良かったと。


「こんな点数でこの先どうするんだ。」

彼はテストを俊樹の前に投げて、ポケットに手を突っ込んだまま横柄な態度で俊樹に説教を始めた。

「今回のテストは難しいんだよ。友達だって50点取れてないんだから。」

「みんなが取れてないのか?違うだろ?まったく、言い訳ばかりするようになって。」

夫のため息が大きく私の耳に届いた。

「お前の育て方の問題じゃないのか?それに、頭の悪さもお前に似てしまったんだな。かわいそうに。」


私の鞄を持っていた手がプルプルと震えていた。

そして知らない間に涙が頬を伝っていた。

彼の言葉に怒りを通り越して、悲しくなってしまった。


家でも仕事でも、私は一体何をしているのか。


そんな思いが込み上げてきた。


夫は私が泣いているのを見て、呆れたように頭をかきむしり、お風呂場へと向かった。


私はリビングの床に静かにしゃがみ込んだ。


すると私の背中に優しい感触がして、思わず顔を上げた。


「おかあさん。」

「俊樹…。」

息子が私の背中を撫でてくれている。

そして、俊樹があるものを出した。

小さな紙だ。

私はそれを受け取った。

それはレシートだった。


お店の名前。

利用日。

金額。


「さっきお父さんが落としていった。」


私は思わず俊樹を振り返った。


それは子供が目にするものではない。

してはいけないものだ。

しかし俊樹はそのレシートが示す事実が何なのか、理解していた。


彼が落としたのは、ラブホテルのレシート。


誰と使ったのか分からない、レシートだ。


「おかあさん。もう、良いんじゃない?我慢しなくて。僕は大丈夫だからさ。」


そう言って俊樹は笑った。


「俊樹!」


私は息子をしっかりと抱き締めた。


すると私の中で、熱い何かが込み上げてきた。

旦那に対する怒りや憤りが形になっていく気がした。

そして、抱き締めた息子の暖かさが、私に力を与えている。


このままではいけない!

私が泣いていては!


彼がなんと言おうとも、俊樹は立派に成長している。

見たくもない親の黒い部分を見せられても、大丈夫と微笑んでくれる。


私には俊樹がいる!


そう思うと、とんでもなく勇気が湧いてきた。



次の日仕事が休みだった私は銀行に向かった。

通帳には心もとない金額が記される。

これでは、俊樹と二人であの家を出ても暮らせない。


なら、私の収入を増やそう。


私はそのままの足で、仕事先へ向かった。



「社員にしてください。」

私は深々と頭を下げた。

ここの社員になれば、今よりももっと稼げる。

そう考えたのだ。

目の前では店長が何事かと、目をパチパチさせている。


パートから社員にあがる人はたまにいる。

しかしそれにはかなりのハードルがあった。

特に私の様な主婦は時間も自由ではない。

それに社員になるためには、会社の試験に合格をしなければいけない。

そのためにも勉強時間もいるし、店長からの推薦もいる。

仕事は今よりもはるかにハードになる。

そんな社員に私の様な、大人しくしていた主婦が名乗り出るなんて、店長からしたら、考えても見なかっただろう。


「でも、旦那さんが許さないでしょ?」

店長は困ったように眉毛を下げて言った。

「大丈夫です。旦那の許しは入りません。私が決めたことなので。」

「一体、何があったの?」

なかなか首を縦に振ってくれない店長に、私は詳しくは言えないものの、「お願いします」と繰り返し、頭を下げた。

私は食い下がったのだ。

そんな私の姿を見て、店長は天を仰ぎながら言った。

「やると決めたら、もうやめられないよ。途中で嫌になったら、もうここでは働けないよ。」

「大丈夫です。」

何度も店長に念を押されながら、私は何とか社員になるための権利を手にした。


その日から私は主婦をやめた。


「おい!俺の朝ごはん!」

起きてきて開口一番、彼が何もないテーブルを見て、私に怒りをぶつけてきた。


私は彼の前に財布を置いた。


「これはもう使いません。」

「はぁ?」

「今日からあなたと私たちとで、お金を別にします。こちらはあなたが稼いできたお金。私はもう使いません。そのかわり、ご飯はご自分でどうぞ。」

「何を言ってるんだ!」

「あなたが言ったんでしょ?私のせいであなたの健康が脅かされるって。だったら、自分でなんとかしてください。」

私はそう言って、彼に背中を向けた。

「そんなことを言って!お前には金がないだろ!結局は俺の稼ぎでしか生活できなくなるんだぞ!」

彼の遠吠えが聞こえたが、私は無視して玄関に向かった。

急がなければ、私には仕事があるのだ。

彼に構っている時間がもったいない。


「ご心配なく。僅かですが貯蓄はありますから。」

「そんなもの、すぐに消えたなくなるぞ!」

「大丈夫です。」


そのあとも彼が何かを叫んでいたが、私は知らん顔で玄関のドアを閉めた。


私は早速店長から社員になるための教本を受け取った。

そこにはお店を経営するための様々ないろはが書かれており、その本の分厚さにも驚かされた。

しかしそんなことに、臆している場合ではない。

私は休憩時間になると店長の元へ行き、分からないところを聞いてメモを取った。

パートとしての営業業務ももちろんこなしていく。


「申し訳ありません。」

そんな声が、またしてもお店の中に響いた。

それは私が発したもので、後ろには西田さんが無愛想に立っていた。


忙しいランチタイムに彼女はまた、クレームを出したのだ。

今回は先にファミリーで来ていたお客さんのオーダーを失くしてしまい、それに気づかず後から来た老夫婦の方のオーダーが先に出されてしまったと言う。

オーダーを受けたのは西田さんだ。

そして子供を連れてきていたファミリーの女性が、「私たちの注文したものはいつ来るのか?」という問い合わせに対して彼女は不機嫌な態度で接していて、その女性を怒らせたのだ。


「なんで、そんな態度なのよ!そっちのミスでしょ?!」

「はい。おっしゃる通りです。申し訳ありません。」

深々と頭を下げる私に対して、西田さんは謝りもせずに立っている。

私はその事に怒りを感じていたが、普段息子の早退などで迷惑を掛けていると思うと、何も言えなかった。


「すぐに、ご用意いたします。」

私はそう言うと、改めて注文を取り直し、すぐに厨房に入り一人でファミリーのオーダーを作った。

忙しいランチタイムに、厨房に入っているメンバーは、その他のオーダーを作り続けてもらわないと、お店が回らないからだ。

私が仕上げた料理を西田さん以外のメンバーが運んでくれて、しっかりと謝ってくれたお陰で、そのお客さんをそれ以上怒らせることなく終えることができた。

その事に私は安堵して、厨房を出てホールに戻った。

すると、西田さんが私に近づき、こう言った。


「あんた、何様よ。うざっ。」


そして私を一瞥して、休憩室へと歩いていった。


西田さんに言われた言葉がひどく私の心を挫いた。

何も言い返せない情けなさと、彼女への後ろめたさが憎らしく思えた。


「ちょっとあなた。」

ふとそんな言葉をかけられ、顔を上げると、先程のファミリーとオーダーが前後していた老夫婦の女性が私を手招きしていた。

何かクレームかと思いながら、女性の元へ行くと、女性は私に微笑みかけた。

そして、私の手をとりこういった。


「あなたは責任者として、立派よ。頑張りなさいね。」


思いがけない女性の言葉に気持ちが緩んで、気付かないうちに涙が溢れていた。

そんな私の背中を年老いた女性の優しい手が撫でてくれる。

他人であるはずの女性の手に、私は癒されていた。

「大丈夫。大丈夫だからね。」

そう言ってくれた女性の声がいつの間にか息子の声に変換されていく。

(私は一人ではない)

そう思わせてくれた。


私は仕事が終わらなければ、息子の俊樹をお店の休憩室に置いて、仕事を続けた。

俊樹は10歳だし、家で留守番も出来る年ではあるけれど、帰ってきた夫と二人きりになることを考えると、俊樹に申し訳なく思えて、私の近くに置くことにしたのだ。

また、仕事を持ち帰ることも出来たが、夫に詮索されるのが嫌で、仕事場で終わらせることに拘った。

そんな私たちを夫は白い目で見ながらも、何も言わなくなった。


「そのうち泣きついてくるだろう。」


そんな自信があるのかもしれない。


夜9時にもなると、さすがの俊樹も目を擦り出す。

「眠かったら、横になってもいいよ。」

私が振り返りそう言うと俊樹は軽く頷いて、休憩室のソファーに横になっていた。


しかしこれで良いわけがない。

いつまでも子供を仕事の犠牲にするわけにはいなかい。

私は自分の仕事を長引かせる原因の一つを絶ちきらなければと考えていた。


「はぁ、疲れた。」

いつものように休憩室に入ってきた西田さんは、ため息を付きながらソファーに座った。

いつもいつも楽ばかりして、何がそんなに疲れるのか。

西田さんが出したクレームの対応も残した仕事も私たちがしている。

西田さんはただ、時間が来るまで店に居るだけのようなものだ。

しかしこちらも子供の事で迷惑を掛けているのも事実。

だから私は控えめに西田さんにお願いしてみることにした。

「西田さん、これからは発注もお願い出来ませんか?」

「は?なんで?私苦手だから、そんなの出来ないわよ。」

西田さんは相変わらずの態度で答えた。

私はそんな彼女に、夫の自分勝手さが重なって仕方がなかった。

(自分のことばかり!)


「なら、時間帯責任者を降りるべきです。」

私からひどく冷たい声が出た。

そして言葉を止めることは出来なかった。


「仕事が出来ないことを、そんなに自慢されても困ります。それに苦手だと言うなら教えてあげますから、勉強してください。そうでないと、あなたが溜め込んだ仕事で私が迷惑してるんです。」

オブラートにも包まず放つ私の言葉に、西田さんはただ私を見ていた。

「私と同じ立場にありながら、同じ仕事量ではないのですから、不公平ですよね?」

ずっと言いたくても言えなかった言葉が私から出てきたことは、私自身も驚いている。

言いながらも、手が微かに震えているのが分かる。

私はもともとこんな強い口調や言葉で人を攻めるタイプではないし、そんなことは調和を乱すだけで、何の意味も持たないと思っていた。

しかしこれからはきちんと自分の意思を伝えなくては、生きていけないと感じたのだ。

俊樹と二人だけで生活することを決めたのだから、俊樹との生活を守るのは私しかいない。

私がしっかりしなければ!


すると、西田さんは私を睨み付けて反論してきた。

「斎藤さんが抜けた穴を埋めているのは私よ!」

「確かにそこは感謝しています。それでも、クレームを出しても平気な顔したり、謝りもしないのはおかしいし、あなたはこのお店に貢献しているようには思えません。」

私は西田さんを見据えた。

「私は社員になります。だから私にはあなたを指導する権利があり、今の勤務態度も考慮して、評価をしなくてはいけなくなります。」

それがどう言うことか、西田さんでも分かるはずだ。

パートの評価は時給に繋がる。

そして評価を下すのは社員だ。

私はその一員になるのだから、正直に彼女の評価を店長や社員に伝えることが出来る。

私は彼女の未来を左右する一人になるのだ。


「なによそれ、パワハラじゃない。」

西田さんは唸るように、そう言った。

「パワハラ?」

私はそう言われて、冷静さを取り戻した。

そのかわり、手の震えが収まらなくなってしまった。


私は人を脅してしまったのだろうか?


「待ってください!」

突然休憩室に響いたのは、同じパートとして働いている安田さんの声だった。

安田さんは緊張気味に手を握りしめながら言った。


「パワハラはあなたです、西田さん。この前のクレーム…オーダーを失くしてファミリーのお客様を怒らせた…あの時ファミリーのお客様のオーダーを入力せずに帰ってきましたよね?そしてそのまま次のお客様の所へ行き、オーダーを入力した。そんな事をしたら、後でお越しになったお客様のオーダーが先に通ってしまうのは当たり前じゃないですか。」

すると、隣に立っていた同じくパートの山根さんも声を上げた。

「斎藤さんがいる日はいつもわざと失敗したりクレームを出したりしてますよね。」

そしてもう一人のパート仲間の宮城さんも真剣な表情で西田さんに訴える。

「私が貸した10万。いつ返してくれるんですか?会うたびにお金を貸しているのに!」

私は次々と出てくる、みんなの言葉に驚くことしか出来なかった。


「どう言うことか、説明してもらおうかな。」


突然休憩室に店長の落ち着いた声が響いた。

私も西田さんも店長を見た。

店長は真剣な表情で西田さんを見返している。


そして休憩室のドアを閉めて中に入ると、いつも店長が座っている事務所の椅子に腰を下ろしながら言った。


「この前のお客様から、連絡があった。」

「連絡?」

店長は頷く。

「このお店では、いじめを容認しているのかと。」

「いじめ?そんな大袈裟な。」

西田さんは鼻で笑った。

「大袈裟?事の大小が分かるってことは、何かしたんだね。」

「わ、わたしは…別に…。」

店長の言葉に、西田さんは言葉をつまらせる。

「斎藤さん。この前の老夫婦のお客様、覚えてる?」

急に話を振られ、私は戸惑いながらも答えた。

「はい。…よく来てくださいますし、よく覚えています。」

私の言葉に店長は満足そうに頷いた。

「そのお客様、実はこのチェーン店の大株主さんなんだ。」

「え?」

驚きの声を上げたのは、西田さんの方だった。

「あの方たちは、うちの会長の昔馴染みさんだ。いつもいろんな店舗に足を運ばれている。」

店長は語気を強め、眉間に皺を寄せた。

「以前、西田さんが働いていた店舗にも、足を運ばれてたんだ。その店舗での君の奔放ぶりをお二人は覚えていて、うちに君がいることに不安を覚え、君をずっと見ていたんだよ。何をしたのかまでは分からないが、君が斎藤さんにきつく当たっているところを何度も見たと仰っている。」

怒りを滲ませた店長の話を、西田さんは俯いて聞いていた。

「それに、パート仲間からお金を借りるなんて…規則違反だよ。」

その場にいたみんなの視線が、西田さんに突き刺さる。

「お、お金は返します。すぐに…。」

西田さんは弱々しい声で答えた。

「すぐって、いつ?」

「それは…。」

店長の冷たい言葉に、西田さんの肩は震えていた。

事務所内は、重苦しい空気に包まれる。

「あ、あの…。」

私はこの状況をなんとかしなくてはと、思った。

「西田さん。私がその10万、立て替えます。」

「え?」

私の言葉に、事務所にいた全員が疑問の声を上げた。

「なんでですか?」

「斉藤さん、優しすぎますよ。」

しかしこんな空気のまま、明日から同じメンバーで仕事なんて出来ない。

「10万なんて、そんなすぐに用立てられる金額じゃないでしょ?私少しだけなら、まとまったお金を出せるし、返すのはゆっくりでも…。」

「なんなのよ!」

私の話を西田さんが強く遮った。

「そう言うところよ!そう言うところが嫌いなの!何でも受け入れますって顔してるくせに、私みたいな人間には一線を引いて、上から見てる!見下した目で見てる!」

そう言いきった西田さんの目には涙がたまっていた。

「初めて会った時からそうよ。私の事を訝しい目で見てさ!」

そう言われて、思い出した。

あの時西田さんは挨拶もせずに事務所に入り、いきなり煙草を吸った。

私はその事に驚いて何も言えなかった。

「私はそんなつもりは…。」

「あんたみたいな温室育ちの主婦には、私みたいな女がバカに見えたんでしょ!旦那に逃げられて、女手ひとつで子供を育て上げてきた私が惨めに見えたんでしょ!」

西田さんから次々と出てくる言葉は、私にとって衝撃的な物ばかりだった。

西田さんにそんな過去があったなんて、知らなかったのだから。

「旦那がいて、さぞかし幸せな生活でしょうよ。わざわざ仕事するなんて、嫌味だわ。どうせ道楽の癖に!私はね!必死だったのよ!子供を育てるのに、お金が必要で、働かざる負えなかった。体はクタクタでもお金のためにその場にいなきゃ行けない!やっと子供が成人したんだから、少し位、楽したって良いじゃない!」

西田さんの思いは、自分勝手な物だけど、私にはなんだか他人事には思えなかった。

頼る人もなく、一人で子育てを…。

それは私の未来にも襲いかかってくるのだろうか?

「それは違うだろう。」

西田さんに向けられた店長の声に私は我に返った。

「君がどれだけ斎藤さんに劣等感を持っていたとしても、君にどんな過去があったとしても、仕事には関係ない。自分だけが辛い思いをしてるわけじゃないんだから。」

そうだ。

私だけが辛いんじゃない。

きっと世の中にはもっと大変な思いをしている人が沢山いるはず。

人の大変さなんて、見た目だけじゃ分からない。

西田さんが私を「幸せだ」と思い込んだように、私もまた、西田さんを自分の基準から外れた人だと思い込み、いつの間にか深く関わらないようにしていた。

でも彼女の態度の中には、SOSがたくさんあったのかも知れない。

気づいて欲しかったのかも知れない。

ただ必死に生きてきたから、素直さがなくなっていて、そのSOSが霞んでしまっていたのかも知れない。

「…ごめんなさい。」

私の口から自然とそんな言葉が紡がれた。

「私、西田さんを見た目で判断してました。自分とは違うって、どこかで思って、一線引いていたんだと思います。」

私は自分から西田さんを分かろうとしなかった。

その事が西田さんに変な誤解を与えていた。

もしあの時、事務所で初めて会った彼女に、今までの生活で沢山の鎧を身に付けてしまった彼女に、笑顔のひとつでも向けられていたら、こんな風にはならなかったのかも知れない。

「西田さん。あなたは私を幸せと言いましたが、そんなことはありません。」

私は、彼女と向かい合わなければいけないと感じた。

社員になるのなら、尚更。

私は覚悟を持って、社員の道を選んだのだから。

「私は近々、離婚します。」

私の一言が、周りを凍りつかせた。

誰も私がそんな事を考えているなんて思っていなかったんだろうと思う。

私はそのくらい、ポーカーフェイスで仕事をしていたんだとわかった。

「主人から長い間、モラハラを受けていました。ずっと我慢してきましたが、ついには、浮気をされました。主人のポケットからホテルの領収書が出てきたんです。その事で、私は決心しました。自立して、息子を育てていこうと。だから、あなたが思うような幸せな家庭なんて私には築けなかったんです。」

私の話を目を見開いて聞いていた西田さんは、自嘲した。

そして、こう言ったのだ。

「なんだ、同じ穴のむじなじゃない。」

そう、私たちは同じ苦難を持ち合わせてる。

どちらが上でも下でもない。

私たちは平行線上に立っている、同じ「主婦」なのだ。


数日後、西田さんはお店を辞めた。

宮城さんに借りていたお金は、店長が立て替えた。

店長は30代の独り身。

自分以外に迷惑は掛からないと言っていた。

だから、西田さんは店長に毎月、少しずつでも返済することになった。


「店長、良いんですか?西田さん、ほんとに返すと思います?」

事務所のパソコンを叩く店長の横で、社員の木下さんは言った。

「さぁな。」

店長はパソコンから目を離さずに、気のない返事を返す。

「10万。とぶに捨てましたね。」

「そうかもな。」

そんな二人のやり取りは、勉強をしている私の所にも聞こえてくる。

「西田さんさ。なんでお金、借りたんだと思う?」

「そりゃあ、お金に困ってるからでしょ?」

「子供はもう成人してるし、そんなに生活が苦しそうにも見えなかっただろう?」

「そういえば、そうでしたね。」

木下さんは、考え込むように上を見た。

「俺も最近知ったんだけどさ、西田さんの子供さん、目が見えないんだよ。」

店長のその一言に、私と木下さんは絶句した。

そんな話、聞いたことがなかった。

「離婚した年に、お子さんが交通事故にあって、両目を失明したらしい。」

店長は淡々と語る。

「だから、自分が死んだあとが、心配なんだってさ。今は自分が居るからいいけど、親は先に死ぬだろう?その時に子供さんが困らないように、少しでも蓄えを残しておきたかったらしいんだ。」

静かな店長の語り口調だけが、事務所に響いていた。

「貯蓄を優先してたから、生活費が足りなくて、宮城さんに借りてたって事ですか?」

「みたいだな。」

そう言うと店長は両腕を上げて思いっきり、伸びをした。

「でも、どんな状況であれ、お金を借りたのに返さなくて良いなんて事にはならないけどな。」

「…すみません。私、何も知らずに…。どぶに捨てるなんて事言って。」

木下さんは後悔を滲ませた言葉を紡ぐ。

「いや、実際、返ってこなかったら、ほんとに捨てたようなもんだよ。でもさ、一緒に働いてて、気付いてやれなかった俺にも落ち度はある。うちの店での受け入れを許可したのは俺だしな。そこんとこの責任は取らなきゃな。」

そう言って店長は微笑んだ。

「きっと返ってきます!」

私は立ち上がり、大声で叫んでいた。

店長と木下さんがビックリした顔で私を見返している。

でも、言わずにいられない。

同じ主婦として、母親として。

「子供に後ろめたい想いをさせる親なんていませんから!」

私は強く願うように言い切った。

同じ親として、西田さんを信じたかった。

「そうだな。」

店長は穏やかな表情でそう言った。


(子供に後ろめたい思いをさせる親なんて居ませんから)

私はそう断言した。

ならば私は自分もそうでなければいけない。

もちろん、夫も。


西田さんがお店を辞めて、しばらくして、私は店長に呼び出された。

そして、こう告げられた。


「斎藤さん。来月の採用試験、受けてみる?」


それは私が一番待っていた言葉だ。

やっと、社員の試験を受ける権利を与えられた。

私は膨れ上がる喜びと、受からなければと言う責任感の両方を感じ、収まらない胸の鼓動に手を当てた。


それからは、試験までの間に、店長と詰の作業をしなければならなくなった。

面接の練習や、経営に関する情報の確認、今回の試験で求められる人材の掘り下げなど様々だ。

時間はいくらあっても足りなかった。

そして、夜遅くなることも予想されたので、俊樹をしばらく同じパートの安田さんや、山根さん、宮城さんに預け、店長と夜遅くまで採用試験の対策を行った。


「よし、やれるだけの事はやった。あとは、斎藤さんの度胸だけだよ。」

店長は冗談交じりにそう言って、私を励ましてくれた。

普段は若さからかどこか頼りなげに見えてしまう店長だが、この数日間はとても頼もしく思えた。

そんな店長に教えてもらったことを、あとは、本番に見せるだけだ。

しかし、どんなに準備をしていても、私から不安は消えない。

もともと小心者で、大それたことなんてしたことのない私には、今回の事は人生で一番の大勝負と言ってもいいくらいだ。

そんな私の重苦しい空気を感じたのか、駐車場を先に歩いていた店長が足を止めて振り返った。

「斎藤さん、変わったよ。」

「え?」

店長の思いがけない言葉に思わず顔を上げた。

「社員になりたいって言われた時は、絶対無理だと思った。だっていつも真面目な顔で、ひたすら、仕事をこなしていってるって感じで、どこか悲壮感があったと言うか…。」

「私、仕事を始めたきっかけが不純なんです。」

「え?」

ここ何日かずっと店長と接してきたお陰で、私の心は、店長に開いていた。

だから、自然と自分のマイナス面を話すことが出来た。

「家にいても夫の暴言にさらされて、気が滅入るばかりで…だから、そこから逃げたくて…。」

私は自分の情けなさに顔をあげられなくなってしまった。

すると店長がやけに明るい声でこう言った。

「良かった。斎藤さんも普通の主婦だね。」

「え?」

私は驚いて思わず店長を見た。

店長はにこにこしながら答えた。

「パートを希望する主婦の人は大概がそうだよ。

何かから逃げたい、もしくは変えたい、そう思って新しい世界にチャレンジするんだ。きっと安田さんや山根さん、宮城さんだって何かしら抱えていると思うよ。」

「そう…でしょうか…。」

私には信じられなかった。

みんな、楽しそうに仕事をしているのに、そんな裏側があるのだろうか?

「たまには、みんなと世間話をしてみると良いよ。今の斎藤さんなら、みんなも信頼してるし、良い関係が築けると思う。大丈夫。斎藤さんは良い方向に変わったんだから。」

私はなんだか、救われた気がした。

私と言う存在が認められた気がしたのだ。

そう思ったら、体の力がふっと抜けてしまい、私は足元から崩れそうになった。

「おっと、危ない。」

私が地面に膝をつける前に、店長の両腕が私の腕を力強く支えてくれた。

「すみません。なんか、気が抜けて。」

私は店長に向かい合う形で支えられながら、なんとか両足を踏ん張った。

「まだ早いよ。試験はこれからだ。」

「すみません。」

「さ、俊樹くんを迎えに行くんだろう?しっかりしてよ、おかあさん!」

「はい。」

私が店長の冗談に笑顔で答えた時、突然誰かが叫びなから、近づいてきた。

「何やってんだ!」

私も店長もその声のする方向を見つめた。

すると、そこには仕事帰りと思われる私の夫が目をつり上げながら歩いてくるのが見えた。

私は咄嗟に店長の腕から体を離した。


「毎日、毎日、夜遅くまでなにやってるのかと思えば、若い男とよろしくやってたのか!」

夫は制御が効かなくなった人形のように怒りをぶちまけてきた。

「何を言ってるの?違うわよ。」

「違わないだろう!さっき抱き合ってたじゃないか!」

「あれは、私が倒れそうになったのを店長が支えてくれただけよ!」

「どうだかな。」

夫は全く聞く耳を持たない。

夜遅いお店の駐車場の中には私達三人の姿しかない。

広い駐車場に夫の怒鳴り声が響く。

「あんた、この店の店長?やけに若いね。」

夫の怒りの矛先は店長に向けられた。

明らかに店長を見下した言い方だった。

「はい。32歳ですので。」

店長は突然の夫の激昂に驚きもせずに淡々と答える。

「こんなことして、もう会社には居られないね。人の妻に手を出したんだ。訴えさせてもらうよ。」

「何を言ってるの?!店長は関係ないって言ってるじゃない!」

私は思わず夫に叫んだ。

今まで、夫にこんな大声を上げたことはない。

だからだろうか?夫はますます、誤解した。

「そんな必死なお前の姿、初めてみたよ。そんなにこの男が良いのか!世間に後ろ指指されて生きていきたいか!この阿婆擦れ!」

夫の罵倒に私は絶句した。


「夜中に何さわいでんのよ。この阿婆擦れ男。」


そんな声が私の後ろの方から聞こえてきた。

声の主に目をやる。

「西田さん!」

私は思わず叫んでいた。


西田さんは気だるそうに私達に近づき、ちらっと私を見てから、夫の前に立った。

「阿婆擦れはあんたでしょ。」

「はぁ?何言ってんだ。部外者は引っ込んでてくれ。」

「あんたが斎藤さんの旦那か。なるほどねぇ。」

西田さんは鼻で笑い、そして目の前の夫を睨み付けた。

「こんな夜中に、おうちで一人なの?寂しいわね。不倫相手にでも愛想を付かされたのかしら?だから慰めて欲しくて、斎藤さんを見に来たってわけ?はぁ、情けない男。」

「な、何言ってんだ。この女は。」

西田さんの口から「不倫」と言うワードが出たとたん、夫は焦りだした。

西田さんはそこを見逃さず、畳み掛ける。

「あんた、うちの従業員の間ではもう有名人よ。モラハラ夫で、浮気を平気でする阿婆擦れ男だってね。あ、でも、浮気相手にはもう捨てられたんだから、今度は、阿婆擦れじゃなくて、哀れな中年男に命名しなきゃね。」

「捨てられたんじゃない!こっちから、縁を切ったんだ!」

「そう。やっぱり浮気は事実なんだね。」

西田さんのその言葉に夫は言葉を失った。

すると西田さんは夫を睨み付けたまま、低い声で話し出した。

「あんた、最低だね。人を見下して、家族を裏切って。それでも、斎藤さんがあんたから離れないと思ってるの?」

そう言われ、夫は私を見た。

「なんで、毎晩遅いと思う?それはね、斎藤さんが正社員になるからよ。そのための勉強をしてるの。それもこれも、あんたみたいな最低男から逃れるためよ。」

「社員だって?そんなもん、こいつに出来るわけないだろうが。ただの主婦なんだから。」

「何も分かってない、バカ男が。」

西田さんは呻くように呟くと大きく息を吸った。

そして夫に怒鳴り始めた。

「主婦をバカにするのも大概にしろよ!主婦ってのは、毎日毎日、頭ん中ぐるぐる回転させて、家事と仕事を両立させてんだよ!あんたなんか、どうせ家事も育児も任せっきりで、文句言いたいときに言うだけだろ!子供がいつ熱を出して、いつ病院に行ってるのかしってるの?!その間、仕事に穴を空ける事への罪悪感を引きずりながら、子供の世話するのがどれだけ大変か、あんた知ってんの!主婦は毎日何かと戦いながら生きてんの!会社で戦うあんたたち男となんら変わらないのよ!見下される理由もないわ!そんなだから、妻からも浮気相手からも見捨てられるのよ!」

西田さんの止まらない発言に夫は圧倒されていた。

そんな夫を見て、私は西田さんの強さを初めてしった。

それも、そうかと思う。

だって、西田さんの言葉は、西田さんが経験してきた主婦として、母としての生き様が感じられる。


西田さんは夫を足元からゆっくりと見上げた。

「あんた、襟元、よれよれね。靴も汚れてる。情けない姿。どうするの?もう、誰もあんたの世話なんかしてくれないわよ。自分でシャツにアイロンあてて、靴を磨かなきゃね。そんなだらしない姿じゃ、会社から追い出されるんじゃない?今度は会社から愛想を付かされたりして。」

そう言うと西田さんはけらけらと笑った。

夫は押し黙る。

「あなた、まさか。」

私は察した。

「リストラ、されたの?」

夫は悔しそうに口元を結んでいる。

額には、うっすら汗も浮かんでいた。

「今季までだ。今季で退職することになった。」

夫が絞り出す言葉が私には信じられなかった。

しかしそれは事実なのだろう。

それを裏付けるのは、夫の悲痛な表情だ。

「斎藤さん、可哀想とか思わないでよ。これは当然の罰なんだから。ここでこの男を許したら、あなたの努力は水の泡。そこんとこ、よく考えなさいよね。」

西田さんはそう言うと、店長の前に行き、何かを手渡した。

そして、そのまま去っていった。

店長の手に握られていたのは、封筒だった。

「返しかたも雑だね。」

店長は微笑みながら、その封筒を見つめていた。


「お前は俺を見捨てるのか。」

私達夫婦の話し合いは、そんな夫の一言から始まった。

駐車場での騒ぎの後、私と夫は近くの喫茶店に入った。

それを提案したのは私。

家に帰って二人きりでいるなんて、なんだか怖くて出来なかった。

それに俊樹を話し合いの場に連れてくるのも違う気がして、私は今日俊樹を預かってくれている宮城さんに事情を説明した。

宮城さんはなんだか少し興奮気味に「頑張ってください。俊樹くんの事は心配しないで。」と言ってくれた。


「見捨てるなんて…。」

「お前、一体どうしてしまったんだ。」

夫は半ば呆れた様に聞いてくる。

「いきなり財布を別にするとか、なかなか帰ってこないとか、あり得ないだろう?それが家を守る主婦のすることか?」

そう切り出され、私はさっきまで抱いていた、夫への少しの同情心が薄れてしまった。

やっぱりこの人は、何も分かっていないんだ。

はっきりと言わないと、この人は俊樹にとって、「後ろめたい想いをさせた父親」のままで終わる。

夫としては終わっていても、血の繋がりがある以上、俊樹にとっては一生父親なのだ。

その父親が、こんな人ではいけない。

私の中に、ある使命感が芽生えた。


「あなた。私と離婚してください。」

私は向かい合う夫に頭を下げた。

「何を言ってるんだ。」

案の定夫は喫茶店の他の客への目線を気にしながら、私に問いただす。

「あの女なら、もう終わってる。そもそもあっちから色目を使ってきて、俺には気持ちはなかったんだよ。それを証拠にもう縁は切れてる。」

夫は体を前のめりにして、小声で言ってきた。

「あなたの不倫なんて、どうでもいいの。私はあなたと言う人間が許せない。」

厳しい言い方かも知れない。

でも、はっきり伝えなきゃ、夫には通じない。

すると夫の表情は、みるみるうちに赤くなり出した。

爆発しそうな感情をなんとか押さえ込んでいるようだ。

夫からすれば、まだまだ周りの事を気にかける余裕があるのだろう。

こんな場所で大声をあげることも、テーブルに強く拳をぶつけることも出来ないでいる。

(やっぱり、外を選んで正解だった。)

私は怒りに震える夫を見つめながら、自分の判断は間違っていなかったと確信した。

もしこの場所が家ならば、夫は怒りに任せ、何をするか分からない。


「どういう意味だ。」

夫は低く唸るように呟いた。

「私はあなたから発せられる言葉に毎日怯え、俊樹にそのとばっちりが行かないように、心掛けて生活してきました。親が離婚することが一番子供を不幸にすると思い込み、私が我慢すれば、全てが丸く収まるのだからと自分に言い聞かせて。でも、あなたが落としたホテルの領収書を俊樹が拾い上げた時、私の今までの考えは間違っていたと気づいたんです。私は子供を守っていたはずが、いつの間にかあなたを助長させていただけなんだと。」

私は続けた。

「あなたに少しでも家庭を思いやる気持ちがあったならば、あんな領収書を不用意に落としたりしない。せめて、家に入る前に証拠隠滅でも図るでしょう。でも、あなたは不倫の証拠を堂々と家に持ち込んだ。そして、子供の前に晒したんです。」

別に不倫を良しとしたわけではない。

私には俊樹の心を傷つけたことの方が重大だった。

「それは、…悪かった…でも、もうあの女とは!」

夫の声が少しばかり大きくなった。

「それだけではありません。」

私は夫の話をばっさりと遮った。

いつもなら自分の言いたいことを通そうとする夫が、今回ばかりは言葉を止めて私を見た。

「もう、何年も抱いていた感情があります。」

「感情?」

私は夫を見据えた。

「私達は本当に夫婦なのだろうかと言う疑問です。」

「何を言ってるんだ。俺たちは夫婦だろう!俺が外で働き、お前が家庭を守る。今までずっとそうだっただろう!」

「違います!」

やはり夫は分かっていないんだ。

「私はあなたの下僕だったんです。」

「どこがだ!」

「あなたのお気に召すドレッシングを求めて、食事を中断してまで買いに行くなんて、召し使いの他ありますか?」

私がそう問うと夫は信じられない言葉を放った。

「それはお前が勝手に行ったんだろう!」

その一言に全てが込められているじゃないかと私は思った。

「行かなければ、食事の席であなたはずっとその事について私を責めるでしょう?それがいつもの事だから、私は買いに行ったの。私はあなたのお気に召すままに行動しなければいけなかった。でなければ、俊樹に不穏な夫婦関係を見せ続けることになるし、あなたの矛先が俊樹に向くでしょ!それが嫌だったの!」

やっと言えた。

長年胸につえていた大きな塊が、お腹のなかに落ちていく思いだった。


夫は私を黙ってみていた。

もう夫が驚いているのか、呆れているのか、それとも怒っているのか、分からなかった。

夫の感情などもう、どうでも良くなっていた。

「お願いします。離婚…。」

「俺はな!」

私が切り出した瞬間、夫は喫茶店中に響き渡る大きな声で、私の話を遮った。

「俺はな!お前の従者だと思ったよ!俺がどんなに疲れて帰っても、昇進しても、お前はいつも澄ました顔で俺を見ていた!俺の出世を祝うより!俊樹の方に夢中になって!俺は金だけを運ぶ役割を与えられたお前達の従者だった!そしていつの間にかお前は笑わなくなった!俺はそれが嫌だったよ!」

夫の本音を初めて知った。

今まで、お互いにどんな風に思っているかなんて確かめた事なんてなかった。

私達は夫婦でありながら、親でありながら、お互いにお互いを見ていなかったのだ。

(私は同じことをしていた。)

そう感じた私の頭に浮かんだのは、西田さんとのやりとり。

私は西田さんのSOSに気付かなかった。

そして、夫のSOSにも…。

(私は身勝手なんだわ。)

そう思うと再び、私の胸に大きな塊が引っ掛かり出した。


「だから、浮気をしたの?」


突然、私の後ろからそんな声がした。


「俊樹…。」

そんな夫の呟きに私は反射的に振り返った。

「どうしてここに…。」

私達の話をいつから聞いていたのだろうか?

俊樹が宮城さんと一緒に立っていた。

「ごめんなさい!どうしても連れていって欲しいって言われて…。」

宮城さんは申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げる。

俊樹は眉を上げ、怒っている。

「お母さんが僕に構うから、浮気したの?」

俊樹の口から聞きたくなかった言葉が飛び出す。

「だとしても、浮気してお母さんを裏切って良いことにはならないよね。」

今まで見たことのない俊樹の顔だった。

俊樹は夫に怒りをぶつけ出した。

「僕はずっと見てきたよ。お父さんがお母さんにひどいことを言ったり、怒鳴ったりしているところを。」

「こ、子供が大人の話に首を突っ込むんじゃない!」

しかし、俊樹は止まらなかった。

「お父さんは会社で働いて、すごく立派だ。ずっとそう思ってた。なのにどうして、浮気なんてしたんだよ!お母さんじゃない人を好きになったお父さんなんて嫌いだ!今まで尊敬してたのに!どんなにお母さんに辛く当たっても、お父さんにはお母さんしかいないと思ってたのに!全部!信じられなくなったよ!」

そう叫んだ俊樹の目には涙が溜まっていた。

肩を震わせながら、怒り、悲しむ俊樹を私は急いで抱き締めた。

俊樹は私の肩越しに、夫に再び叫んだ。

「お父さんには、僕らが要らないなら、僕らだって、お父さんなんていらないんだ!お母さんを解放しろ!」

「俊樹!」

もう、いい。

もう、これ以上俊樹を傷付けなくない。


私は俊樹から体を離し、夫を見据えた。

夫は俊樹から出た言葉が信じられないのか、言葉を失っている。

「私達はもう、終ってるわ。お互いにお互いを理解しようとしていなかった。私はあなたが望むような妻にはなれなかった。ほんとうにごめんなさい。でもね、あなたも私が必要とする夫にはなれなかったのよ。」

「偉そうに…。」

夫が肩を震わせて唸る。

そして、私と俊樹を睨み付けながら言った。

「そんなに俺が邪魔なら、こっちから別れてやるよ!俺はな!会社ではかなりの実績を上げている。それをもってすれば、すぐに再就職だ!金もすぐに稼げる!お前の給料なんて!比較にならない程にな!でも、ここまで俺をバカにしたんだから、慰謝料も養育費も払わんからな!どんなに泣きついてきたって!俺とお前達はもう!赤の他人だ!分かったな!」

夫は静かな喫茶店内に響く大きな声で怒鳴ると、つかつかと出口へと向かった。

私はその背中に叫んだ。

これだけは絶対に忘れないで欲しい。


「お金は要りません!でも、俊樹の自慢できる父親でいてください!」

私が夫に願うのはその事だけ。

父親は、どんなに離れても、あなたしか居ないのだと伝えたかった…。

それが俊樹の母親の私に与えられた使命だと思うから…。



あれから15年。

色んな事があった。

それは嵐のようでもあり、時には穏やかな波間のようであったと感じる。


夕方17時。

仕事を終え、帰路に着く。

その途中、俊樹から私の携帯に連絡が入った。

画面を開くとそこには、待ち合わせ場所のお店の地図が添付されていた。

「まったく、過保護なんだから。」

そう呟く私の声はきっと弾んでいたに違いない。

久しぶりに俊樹から食事に行こうと誘われたのだ。

就職して3年。

だんだんと仕事先でも、自分の居場所が出来る頃だ。

すこし気持ちにも余裕が出てきたのか、最近はよく連絡をくれるようになった。

そんな彼の成長が私にとっての喜び。

俊樹に会ったらまずは何を話そうか。

私の近況?いや、それは時々掛けてくる電話でしている。

じゃあ、俊樹の仕事について?

せっかく仕事が終わったのに、また仕事の話しなんてつまらないかしら?

お店に着くまでの間、いろいろ考えてしまう。

でもそんな時間が持てる今の私の生活は、満たされているのだと思う。


「母さん!」

落ち着いたダウンライトの店内に、俊樹の声が響いた。

私は慌てて、人差し指を口元に立てた。

「こんな静かなお店で、なんて声?」

「あ~ごめん。」

俊樹は頭をかいて、身を竦めた。

私は俊樹と向かい合って座る。

思わず「よいしょっ」と小さく言っていたようで、俊樹に「すっかり歳を取ったね。」と冗談めかしに言われてしまった。

「あなたがもう社会人になって3年も経つんだもの。私だって歳を取るわ。」

「いや、母さんは若いよ。とても50代には見えない。」

そう言いながら、俊樹は私にドリンクのメニュー表を渡してくれた。

「今日は僕の奢りだから。」

私は革のカバーを掛けられたメニュー表を受け取り、しばらく思案する。

「母さんなら、赤ワインかな?ほら、これ、」

俊樹が指差したのは、25年もののヴィンテージワイン。

「こんな良いものを?」

私は値段を確認して、思わず顔を上げた。

「たまには良いじゃない。」

しばらくすると、俊樹の選んだ赤ワインが運ばれ、私の目の前で注がれた。

コクコクと小気味良い音を立てながら注がれるワインに私は見とれた。

「じゃあ、お互いに仕事お疲れってことで、乾杯。」

そう言う俊樹のグラスと乾杯をして、ワインをひと口含む。

深みのある味わいのなかに、少しの苦味が感じられる。

しかし、鼻から抜ける香りも芳醇で、喉越しもスッキリとしていてとても飲みやすい。

「随分と味わってるね。」

「それはそうよ。なにせ、あなたの大切な稼ぎから頂いてるんだから。」

私はふと、俊樹のグラスを見た。

店内が暗めで分かりにくかったが、俊樹のグラスには泡が残っていた。

「あなたは、ビールでいいの?」

「うん。最近はビールが美味しくてさ。それに、僕にはワインは早すぎるよ。」

そんな心遣いが嬉しかった。

まだまだ安泰とは言えないお給料の中で、私の事を優先してくれる。

そんな事を悟られないように自分にはまだ早いと言える俊樹が誇らしい。

私達は運ばれてくる小料理をつまみながら、穏やかな時間を過す。

「こんな素敵なお店、どうやって見つけたの?」

「この前、会社の先輩に連れてこられたんだ。取引なんかに使うにはこういう静かな店が良いってさ。」

「あら、私はあなたと今から商談でもするの?」

私はクスクスと笑った。

「違うよ。こんなに落ち着いてて、ワインもお料理も旨い店なら、母さんのお祝いにぴったりだなって思ったんだよ。」

「お祝い?」

思わず天井を見上げた。

今日は何かの記念日だったかしら?

思案するも、私には心当たりがなかった。

「今日は母さんが就職して、初めての給料日だった日だよ。」

そう言われ、記憶が甦った。

15年前の今日、私は無事に就職できたあのファミレスで得たお給料の一部を俊樹との食事の費用に当てたのだ。

その時は「お給料が出たから」なんて、言わなかったのに、どうして分かったのだろう?

「自分が就職してみて、母さんの大変さがほんとうに分かったよ。初めての給料日。通帳をみて、きっと一生忘れられないだろうななんて思った。その時にふと、思い出したんだ。そういえば、子供の頃に一度だけ、ステーキハウスに行ったなって。普段、外食なんてほとんど行かなかったのに、あの時だけ、母さんが連れてってくれた。あれって、母さんの社員デビューの初めてのお給料だったんじゃないかってさ。」

確かにそうだ。

私は夫と離婚してすぐ、入社試験に受かり、社員になった。

あの時は、貯蓄もほとんどないまま、離婚したので、生活も切り詰めていて、俊樹に不憫な思いをさせていた。

お給料が入ったら、俊樹に美味しいものをお腹いっぱい食べさせたい!

そんな思いで日々を過ごしていた。

そして念願の給料日、私は迷わず俊樹を連れて、ステーキハウスを訪れたのだ。

「今考えたら、10歳の食べ盛りの僕を抱えて、まだまだ安い給料で、大変だったよね。しかも、父さんから慰謝料も養育費ももらえないままさ。」

「それは仕方がないことよ。離婚は私が求めたんだから。」

「原因を作ったのは、父さんだ。」

「いえ、どっちもどっちだったのよ。」

あの頃の私達は、お互いが背中を向けあって生活していた。

私は子育てに夢中で、夫は仕事に追われていた。

お互いを思いやる余裕はなかったのだ。

そう思えるのも、今の生活があるからかも知れない。

「父さんはそう思ってないよ。少なくとも、今はね。」

「え?」

俊樹の含みのある言い方が気になった。

私達は離婚してから一度も会っていない。

連絡さえも取ってなかった。

それなのに、なぜ俊樹が今の夫の気持ちを言えるのか?

俊樹は小さく息を吐いて、私の顔を見た。

「母さんは、父さんに会いたいって思う?」

俊樹がまっすぐな瞳で問う。

その眼差しには、悲しみや怒りなどではなく、穏やかな空気を感じた。

もう、この子も大人だものね。

そう思うと、俊樹に気遣いは無用だと感じた。

むしろ、余計な気配りは俊樹を困らせるのではないかと思えた。

「会いたくないわ、今さら。」

私が答えると俊樹は一瞬驚いた表情をしたが、すぐにほっとしたような笑みを見せた。

「そうだよね。実はさ、先月、父さんに会ったんだ。」

今度は私が驚く番だった。

「どこで?どうして?」

「たまたまだよ。会社の外回り中に偶然に立ちよったビルの中で。」

俊樹が言っているのは、最近駅前にできた、新しい商業ビルだろうとすぐに分かった。

あのビルには若者をターゲットにしたファッションブランドがたくさん入っているし、主婦層に向けて、今人気のインテリア雑貨のお店などもある。

今この街で一番ホットな場所だ。

「なぜ、そんなところに…。」

不思議だったのは夫がそんな場所に居たことだ。

昔から買い物は女がするもので、男が店に寄り付くなど、あり得ないと言っていたのに。

「仕事だよ。」

「仕事?」

ますます分からない。

まさか、若者や女性向けのアパレル会社にでも、就職したのだろうか?

私が戸惑っていると、俊樹が教えてくれた。

「ビルの警備だよ。父さんは今、あのビルの警備の仕事をしてるんだ。」

「まさか…。」

「ほんとだよ。僕、父さんと話したんだよ。」

そう話す俊樹はどこか、年齢以上に大人びて見えた。

「最初は分からなかった。でも、目があった時、父さんがビックリしたみたいに僕を見返したんだ。だから、やっぱり父さんなんだって確信した。」

「あなたが話しかけたの?」

「そうだよ。」

俊樹はしっかりとした口調で答えた。

「緊張しなかった?」

「した…。でも、僕よりも父さんの方がカチコチでさ。」

その時の事を思い出したのか、俊樹はクスクスと笑いだした。

それは決して夫を見下げた笑い方ではなく、どこか懐かしむような雰囲気だった。

「嫌な思い、しなかった?」

「大丈夫だよ。ねぇ、母さん、あんな別れ方をした父さんにどうして僕から話し掛けたと思う?」

それは私にとって難題だった。

あの喫茶店での一件は、俊樹に暗い影を落としたはず。

だから離婚してから、夫の事を話題にすることなんてなかっし、俊樹からも聞かれたりしなかった。

そして私は俊樹に父親を憎い存在だと思わせてしまったと思っていた。

「僕はね、父さんが仕事をしてる姿を見たから話し掛けたんだ。」

「どういうこと?」

「僕が小さい頃から父さんは仕事に一生懸命だった。それが寂しく感じることもあったけど、疲れて帰ってくる父さんの背中はかっこよかった。それは自分が働いてみて改めて感じたんだ。もう何年も離れていたけど、仕事をしている父さんの後ろ姿を、僕はまたカッコいいと思った。」

それは俊樹が大人になったからこその発言だと感じた。

「母さんと別れてから、父さんはずっと今の警備会社で働いているみたいだよ。」

それは私が初めて知った夫の人生だった。

「すぐに前の会社と同じような規模の企業に再就職できるとたかをくくっていたって、でも、面接で必ず聞かれるだって、前の会社を辞めた理由を。」

私は頷きながら俊樹の話を聞いた。

「でも、40歳の働き盛りの男がリストラなんて、何かあったんだろうと深読みされて、どこも採用してくれなかったみたい。そして、未経験でも雇ってくれる警備会社に行き着いたみたいだよ。」

なんだか、夫の事が不憫に思えた。

やりたい仕事につけない悔しさは、彼の性格上、負け組に入ったのと同じだ。

きっと、暗い顔で立っていたんだろう、私はそう思った。

なら、なぜ俊樹はそんな夫の姿を見て、話し掛けようと思ったのか。

その答えは俊樹がしっかりと持っていた。

「父さんさ、今の警備会社で取締役なんだって。先代の社長からその立場を任されたらしい。僕が見たのは、父さんが他の警備員をまとめ上げている姿だったんだ。」

俊樹が言うには、夫は時折、ビルを歩き回り、自分の会社の警備員の仕事振りを見回っていたらしい。

そこにたまたま、俊樹が立ちよった。

「父さんが言ってた。今の自分があるのは、母さんのお陰だって。」

俊樹の言葉に、私は大きく息を吸った。

吐くのを忘れるくらいに驚いた。

「あの人が?…まさかそんな事を?どう言うことなの?」

捲し立てる私に、俊樹は微笑む。

その笑みを見ると少し落ち着いた。

「母さんが言った言葉が頭から離れなかったって。俊樹の自慢の父親で居てください。って言葉がさ。」

それは私が使命感にかられて、放った言葉。

「何社も落ち続けて、どうしようもなく辛い時も、その言葉の意味をずっと考えてたみたい。それに…。」

俊樹は少し照れ臭そうに鼻を押さえながら言った。

「あの時に言った僕の言葉を思い出したって。」

そう言われ、記憶の奥を探ってみた。

そういえば、喫茶店で俊樹は夫に訴えていた。

「お父さんは会社で働いて立派だ!そう思ってたのに…。」

あの事だろうか?

「自分から仕事を取ったら何もなくなる。だから、必死で仕事を探したんだって言ってた。」

「そう。」

私は座っていた椅子の背もたれに寄りかかった。

あの人に届いていたんだ…私の言葉が、俊樹の思いが…。

なんだか、体の力が抜けてしまった。

私は心底安心していた。

「母さん。僕はもう大丈夫だよ。やっと大人になれたんだ。父さんと母さんのお陰で。」

俊樹の声が、言葉が、私の中にすっと、染みていく。

俊樹は夫を認めることが出来たのだ。

永い年月を掛けて。

「でもさ、母さんを裏切ったことは許さないよ。だから、母さんも父さんを許さなくて良いんだ。突き放していても、父さんは生きていける。」

俊樹は笑っている。

私が選んだ道は、間違いではなかったと改めて感じた。

「もちろんよ、許さないわ。許さないからこそ、今の私がある。」

「そうだね。だから母さんも強くなったんだ。僕は今でも信じられないよ。母さんが会社を興したなんてさ。」

そう、私は5年前に起業した。

きっかけはあのファミレスで出会った老夫婦。

私は入社3年目に店長職に着くことができた。

以来ずっと、店長として様々なお店を見てきた。

そして、俊樹が20歳を迎えた頃、私はある思いにかられていた。

それは、西田さんや私の様なシングルマザーを社会的に支える術はないのかと言う理想だ。

しかし、ただの会社員である私に、何が出来るのか全く分からずにモヤモヤとしていたときに、あの老夫婦に声を掛けられたのだ。

「悩みがあるなら、言って頂戴。」

私はその言葉に甘えて、思いの丈を伝えた。

すると二人から私に融資したいと申し出を受けたのだ。

私の思いに賛同してくれる人が居ると思うと、私に勇気が湧いた。

私は二人の気持ちを受け取り、シングルマザーや、就職に悩む女性の相談窓口を開いた。

それが、私が起業した会社「ハッピーマザー」だ。

いろんな女性が抱える、様々な問題に立ち向かい、就職の斡旋からその後のケアーまでを請け負う。

人の人生に関わる仕事は大変だ。

その中でも一番てこずるのが、就職の斡旋だった。

しかしその部分に対しても、老夫婦の人脈の広さに助けられ、いつの間にか会社に興味を持ってくれる企業が増えていた。

私はワインに移る自分の姿に、昔の記憶の中をさ迷った。

本当にいろんな事があったわ…。

「なんだか、嬉しそうだね。」

俊樹にそう声をかけられ、ふと現実に戻った。

私は昔を回想しながら、微笑んでいたらしい。

「そんなに楽しい過去でもないのにね。」

自分でもそう思う。

でも、今は穏やかな気持ちだ。

「昔を思い出していたの?」

「そう。」

私はワインを飲み干した。

本当に美味しいワインだ。

少しの苦味がまるで私の過去のよう。

そして、後味に残るしっかりとした旨味は、今の私の人生かしら?

「良い飲みっぷり。」

俊樹は空になった私のグラスに改めてワインを注ぐ。

グラスに満たされたワインは穏やかに波打っている。

きっと、幸先は良い。

明るい未来を私はまだまだ手に出来る。

そんな自信に充たされて、私はゆっくりとワインを飲み干した。


おわり。

読んで頂き、ありがとうございました。


また良かったら、見に来てくださいね。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み終えて、読了感がすごくいいです。 思わず同じ主婦で息子を持つ母として物語りの中に引き込まれ、時間を忘れて読んでいました。 不思議なリアリティさがありドラマあり涙あり…いい作品に出会えた…
[一言] なかなかにリアルですねー(ニヤニヤ オモシロかった。堪能しました。ありがとうございます。
[一言] なんか主婦のルサンチマン炸裂って読後感でした なろうの作品には少なからずそういう話がありますが、 書く人の立場によって 「さえないオレが異世界でチート無双ハーレム!」 になったり 「喪女の私…
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