05
「何のつもりなんだ――お前は」
「僕はただ、あなたの願いを叶えて差し上げるだけの存在……あなたの幸せを実現するための存在――」
「――僕の幸せは――こんなものなんかじゃ、ない」
「本当に?」
「……ああ」
「いいや、あなたは――『これ』を求めている」
僕の夢の中に勝手に入り込んできた悪魔は、僕の唇を奪った。
「うっ……」
彼女を振り払いたいのに、どうやっても彼女から逃れられない。彼女に触れられない――
確かに彼女の唇の感触はあるというのに。
「ほら……」
艶かしく、妖しく――悪魔はあくまで悪魔的に、僕の体を奪おうとする。僕のシャツの下に手を這わせようと――僕の背中にもう片方の手を
回そうと――
そこでいつも目が覚める。
彼女が迎えに来てくれていた。あの日以来、両親は気を使ってくれているのか単に仕事が忙しいだけなのか、彼女が迎えに来るよりずっと早く家を出るようになっていた。だから、この家には僕一人だ――彼女のチャイムで起きたので、ようやく今から朝ごはんということになる……しかしそれでは、彼女をとても待たせてしまう。
それ以上に、僕はなんだか彼女と目を合わせるのが怖かった――こんなに大好きなはずの彼女なのに、僕はなんでこんな風になってしまうんだろう、と自分でも情けなくなる。
「入れてよー? ねえ」
「……今日はちょっと……」
「え?」
「体調が――悪くて」
*
初めて学校をさぼった。インフルエンザで休んだことはあるが、それ以外では学校に行かなかったことなどない僕だったのに――初めてだ。
それも、些細な理由で――彼女と目を合わせたくない、というただそれだけの理由で、学校に行かなかった。
心臓がどきん、どきん、と跳ねている。――きっと、こうやってさぼっていても親にはバレない。学校から電話がかかってくるのは家の固定電話で、親の携帯ではないし――大丈夫、うまく誤魔化せるはずだ。
ああ、でも今日は一日中こんな風に過ごさなくてはならないのか――と、僕は辛くなる。何より寂しい――彼女に一日中会えないなんて。学校に行きさえすれば会えるのに。
でも、僕は学校には行かないし、彼女にも会いたくなかった。体調が悪いと既に言ってしまっているから、その嘘がばれるのだけは嫌だった。彼女に対する、僕の下らない見栄でしか無い……一日をドブに捨てて、それで得られるのは僕の自己満足だけ――いや、自己満足すら得られない。ただ時間を無駄にするだけ――
「ぴんぽーん」
と間抜けな音が鳴る。……しかし、まだ両親が帰ってくる時間には早い――だって両親が帰ってくるのはいつも夜中だけれど、今はまだ午後三時だ。
それでも少しは身構えてしまう。もしかしたら僕がさぼっていることを見抜いた学校の誰かなのではないか――とか。ただ、学校だってまだ終わっていない時間だし、その予想だって当たってはいなかった。
「よ」
そう言って颯爽と現れたのは――今日の僕の憂鬱の一番の原因、美しい長髪、一人称が『僕』の――悪魔だった。
「学校、さぼってんだろ?」
僕は事務的に、作業的に扉を開けて、彼女を迎え入れる。彼女を人ではなく物だと思うように――彼女を迎え入れたことは僕の感情に関係したものではなく、ただただ人として当然なことをするだけだと思うように、意識しながら。
「――何か嫌なことでもあったのか?」
僕が無言でいると、彼女はもう一度僕に問いかけた。
僕は『お前のことだ』と言い掛けて――そして留める。あの夢が悪魔によるものであるのか、それとも本当にただの夢なのか、僕には分からないのだ。もし悪魔とは関係ないただの夢なんだとすれば――そんな恥ずかしいことはないし――それに。
……いや、そんなことはない。僕はもうこの話題を考えないことにする。
「……普通は体調とか、そういうのだろ。なんでいきなりサボりだって決めつけんだよ」
「普通は……ってことは、今は体調じゃない、ってことだな?」
「……」
僕は黙ったまま答えられない。けれど……答えない、というのが既に答えになってしまっているということは分かっている。
「サボりだってことは分かってるんだ」
「……不安なんだよ」
彼女の詰問を完全に無視して、僕は独りごちた。
「不安?」
「彼女と付き合ったままで、本当にいいのか。もしも、僕が彼女の前で死んでしまう事になったら……その時彼女がどう思うか」
「そんなの、二十四年後に考えれば良い事じゃないか? 何故今考える必要がある?」
「先延ばしにしていたら、結局最後までこの問題には答えが出ないから……遅かれ早かれ、答えを出さなきゃいけないんだ」
「……だからって、あと二十四年もあると言うのに」
「……」
僕は無言のまま、何も言うことが出来ない。
だって、僕の心の内がこんなふうに疑問を投げかけてくるんだ──
『他に、理由が──あるんじゃないのか?』
『彼女と目を合わせたくない理由が』
『彼女に会いたくない理由が──』
「僕は」
「君は」
「「本当に──彼女の事が好きなのか?」」
*
その疑問をつい声に出してしまう──それと同時に、彼女も全く同じ質問をした──被ってしまった。あるいは意図的に被せたのか──
「ごめんごめん、被ってしまった」
悪魔はそう言って笑った。にやにやと……目元は笑っていないのに、口元だけが不気味に歪んでいる。……一言で言って気持ち悪い──
僕は心から後悔していた──
何に?
彼女のことを本当に好きなのか、という疑問を口に出してしまったこともそうだ、この悪魔を家にあげてしまったこともそうだ、そして──あの時悪魔に、彼女を生き返らせてくれと願ったことも……
「……帰ってくれ」
僕は心の中で頭をぶんぶんと振って、どんどん悪い方向へ進んでいく僕の思考を追い出しながら、言った。
人生で今まで一度も出したことがないような、冷たい声のつもりだった。
頭が痛い――ズキズキとしている。僕の脳裏に彼女の姿が映り――そしてアナログテレビかAMラジオの砂嵐のように、彼女の姿が消えていく。こんなの僕の想像であり、妄想にしか過ぎない……と分かっていながら、僕の脳みそを侵食していくその砂嵐は、僕を帰ることのできないどこかへ連れて行ってしまうような気がした。
「本当は」
と、悪魔は呟く。もう悪魔は、僕の方を向いてはいない。ドアを開けて僕の部屋から出ていこうとしながら、見方によれば捨て台詞にも思えるような言葉を残す。
「時間の矢が真っ直ぐに進み続ける限り、君は――過去へ戻ることなんかできないんだけれどね。それは――ある意味で、君はどこにも帰ることができないということを意味す」
る、と言うよりも前に、悪魔は扉を閉めた。
僕は怖かった。
初めて悪魔と会ったときよりも――彼女が亡くなった知らせを聞いたときよりも――
そうか、そうだった。悪魔というのは――
人を不幸にするための存在だったじゃないか。