04
「プール行こ」
と彼女に言われたのは昨日の事だった。プールなんてかなり久しぶりだ。僕は少しワクワクしている。彼女の水着姿も見られる事だし。
「このプール。大きくて綺麗で、ウォータースライダーもあって、凄いんだって」
彼女がスマホで指さしているそのプールは、たしかに楽しそうだった。
「行ってみようか」
*
「──お前」
僕が男子更衣室から出ても、まだ彼女は女子更衣室から出てきていないようだ。……しかしその代わり……いや、こいつが彼女の代わりになることなんか無いけれど、でもそこに居たのは悪魔だった。
「こんにちは」
悪魔は男子更衣室からの出口で僕を待っていたらしい。男子更衣室を覗こうとしている変態にも見えなくはないから、ちょっと危険なんじゃないかと思う。
「何しに来たんだ」
と問いながら、僕は前に会ったのがいつだったか思い出そうとする。何故かつい最近も会ったような気がする。……でも一度目以来会ったことは無いはずだ。夢の中ででも会ったのだろうか……。単なるデジャヴの類いだろうか。
「何って、ただプールに遊びに来ただけだよ」
悪魔はニコニコとして言う。悪魔だというのに、オレンジ色の水着を着ていた。……『悪魔だというのに』というのはおかしいか。悪魔には悪魔のファッションがある。
ただ、フリフリが着いてかなり派手だと思う。ビキニというのだろうか? 上下に分かれていて、胸が強調されている……目のやり場に困る感じだ。
「ねえ」
と、悪魔は言う。若干上目遣いで僕を見据えている。ぶりっ子と言えばぶりっ子的でもあるが、しかし悪だくみをする子供という雰囲気もあった。何にしても、あまり悪魔的では無い。
「…僕のこと、どう思ってる?…君は僕のこと、どう思っている?」
「……どういうことだ」
彼女は微笑んで言う。
「僕は君のこと――好きだよ」
これが僕にとって二回目の告白だと気づくまで、五分はかかった。しかし――その間彼女は更衣室から出てこなかった。
*
僕は当然ながら、こういう時の慣習に従って『ごめんなさい』と言わせていただくことにした。
僕は彼女と付き合ってるんだ、悪魔なんかに掻き乱されるようではいけない──でも。
悪魔は僕たちの幸福を願ってくれるのでは無かったのか?
「お待たせー!」
女子更衣室から彼女が出てくる。気付くと悪魔は居なくなっていた。いちいちずる賢い奴だ。
「大丈夫、全然待ってない」
と、僕は笑顔で返す。……笑顔だったつもりだ。悪魔なんかに僕の笑顔が崩されてたまるか。
彼女もやはりフリフリが着いた水着だった。ワンピースの形だ。悪魔の方が、肌の露出は多い。
「何。もっと刺激的な水着の方が好きだってこと?」
「……そういうことでは無い。というか『だってこと』も何も、僕はまだ水着について喋ってないじゃないか」
「大体分かるもんなのよ」
「……へえ……こわいな」
「恋人同士だもの、親密でなくちゃ」
……こいつってこんなキャラだったっけ……? 恋人同士だから相手の感情を読むだなんて、一歩間違えば共依存だ。
「別に私は君に依存なんかしてないけどね……いつだって君を切り捨てられるわ」
「……そうなのか?」
「ええ、私はいつ死んでもいいように最高の彼と過ごしたいの」
「……最高の」
「そう。今は君が最高の彼ってわけ。もっとこの幸運をありがたがってもいいのよ? なにせこの私が直々に君を最高の彼氏だ、と認めてあげたんだもの」
……こんどはお嬢様キャラなのか。キャラクターが掴めない……。もちろんそれも彼女の魅力ではあるが。
「じゃあ僕は、最高の彼であるように努力し続ける」
*
プールは彼女の触れ込み通り、とても楽しかった。流れるプールで何もせず漂ったり、ウォータースライダーに二人で乗ろうとして怒られたり。彼女と一緒でなければできない、いろんな経験をした。でもはしゃぐ彼女の顔を見ている時、つい悪魔を思い出してしまう。悪魔はどこに行ってしまったのだろうか。悪魔は帰ってしまったのだろうか?
あの悪魔は何がしたいんだろう――僕は悪魔に、僕たちの幸福を願ったはずなのに。僕が二股をすることが僕たちの幸福になるなんて、そんなわけない。彼女がどんなに怒り狂うか、想像するだけでも恐ろしい。僕と別れるという場合も同じことだ。
ただ――あいつは悪魔だ。悪いことをするのが仕事のやつに、何かを願うほうが馬鹿なのかもしれない。
それでも――悪魔の上下の水着の間から見えたあのへそが、眼に焼き付いて離れなかった。
*
それ以来、悪魔は時々家に来るようになった。それも彼女の居ないときを狙って。――彼女がいつ家にいるのかなんて悪魔には知らせていないから、本当に狙っているのかはわからないが……しかし、実際来訪はいつも狙いすましたようなタイミングだった。悪魔の予知能力とか、千里眼的な何かを持っているんじゃないかと思わせる、というか実際に持っているのかもしれない。
こうなってくると、本当に彼女の思惑が分からない。初めは──思春期の男子らしく、二人の女性が僕を取り合うという状態を想像しなかった訳でもないけれど……女性で悪魔というとやはりサキュバスが思い浮かぶし……しかし悪魔は僕の部屋にずかずか踏み込んでくる割に僕に干渉する様子はなく、ただ本を読んだり昼寝をしたりして帰っていく。
僕はだんだん悪魔を置物として扱うようになってきていた。
そんな事より──彼女が大事だ。自転車事故から奇跡的に立ち直り、こうやって人生を送れるのもあと二十三年と少ししかない──
*
「おはよぉー」
今日寝坊してしまった僕のために、彼女が迎えに来ていた。ドアを開けて彼女を迎え入れると、彼女は微笑んだ。……可愛い。
普段から中学校へは二人で一緒に行っているけれど、わざわざ迎えに来てくれたのはこれが初めてだ。普段は暗黙のうちに決まった集合場所──近所の空き地に集まるのだが……。
「遅いから、迎えに来たんだよー」
……眠いのだろうか。普段と全然キャラクターが違う。
「お……う」
一方僕はたじろいでいた。今日はたまたま親の出勤が遅くて、彼女の姿を見られてしまった。背中で親がニヤニヤしているのを感じる……。ドアを開けたことすら後悔しているくらいだ。もちろんドアを開けるのは人間として当然のことではあるが。無駄な思考が頭の中を巡っていて、頭が痛い。寝不足だろうか……実際、昨日は寝たのが一時だった。どう考えても遅すぎる。彼女も眠そうだが、僕に比べれば大した事はないだろう。
「うーん?」
彼女が首を傾げて僕を見上げる。
「ほら、早く行こうよー」
「ちょっと待ってて」
「まだ支度終わってないの……?」
「ちょっと寝坊して……でも普段なら公園で待っててくれる程度の遅刻じゃないか」
「こういうときは、ただただ謝ればいいのよ」
「……ごめん」
*
「ごめんなさいね、出勤するので玄関を開けてくださいね」
僕が顔を洗っているうちに、母親はもう出かける時間になっていたらしい。上がり框に座っている彼女に声を掛けていた。
「色々ご迷惑を掛けているだろうけれど、あいつをよろしく頼みますね」
「ちょ、ちょっと母さん!」
全く……油断も隙もあったものではない。
「ははは……」
彼女が乾いた笑い声を上げていた。
そのうちに父親も家を出て、僕と彼女の二人だけになった――けれど、時間には余裕がない。折角朝来てもらったのに申し訳ないが、ちょっと走って登校しなければ――
「ちょっと、話があるの」
「でも、学校――」
「一日くらい遅刻しても問題ないわ。それに、大した話じゃない」
「……なんだよ」
「悪魔――あの悪魔の女のこと、君はどう思っている?」
少し考えてから、答える。
「……ただの悪魔」
「……」
彼女は何も言わない。
「だと思ってる」
彼女は少し、ほんの少しだけため息をついて、僕の方を向いた。
「私は君のこと大好きよ? ――君以外を好きだと思ったことなんて、一度もない」