やきそば
──首筋が痛い。
そんなことを考えながら、昼食を食べに外へ出た見た目は50代くらいのサラリーマンの男は足を前へ前へと進めていた。
周りにいる都会人も、雑踏の中をまるで雑踏で上書きするように足を進めていた。
立ち止まっているとただただ蒸し暑いだけのこの交差点も、歩き始めると不思議と涼しい風が吹く。
毎日のように感じ、見ているこのような現象には男はもう慣れてしまっていた。
また、周りの人々の目を見るに、彼と同じく"いつもの事"として全ての現象をごく日常の風景とみなしたようで、なんの関心もない様子だった。
いや、そもそも彼らは生きているのか、そんな懐疑的な感情が、人々の目を見ると容易に感じとれた。
いつもの地味な、それでいて小綺麗なラーメン屋。
いつもの客の居ないレンタルショップ。
いつもの客引きの中年のおっさん。
そんな光景を毎日見ている男がいつも通り"ではない"現象を見て不思議に思うことは当然なのだ。
都会によくあるごく普通の細い裏路地の前でふと、足を止めた。
いや、この言い方では語弊があるかもしれない。
男の足が自然と"止まった"のだ。
なぜ止まったのか、男にもまた、分からない。
丁度時は昼下がりだった。
いつも通りであればもう、昼食を食べていてもおかしくない時間だった。
地域のお祭りでよく見る、そういった普遍的な露店が、そこにはあったのだ。
「焼きそば」とでかでかと書いてある露店に、男は異様なほどの魅力を感じる。
今日はあのうどん屋でお昼をすまそう、と考えていた男の思考を一気に奪い去っていくような、そんな魅力がその露店にはあった。
しかし、雑踏を繰り返している都会人は、無関心である以前にそこには何も無いというような顔で足早に先へ進んでゆく。
そんな疑問をも持てないほどに何故か露店に首ったけになってしまった男は、逃げるはずもない露店を追うように駆け出した。
奥へ進んで行くと人の雑踏も次第に聞こえなくなっていった。
日々の通勤でかなり鍛えられている男にも、露店めがけて駆けて行くのには流石に厳しいものがあった。
その上、じめじめして蒸し暑い日本特有の気候が、男の心をじわじわと疲れさせていく。
やっとの思いで露店に着くと、今までぼやっとだけ見えていた「やきそば」という文字がくっきりと見えた。
露店の中には、若い着物を着た現代ではあまり見かけないような女性が、水滴を顔中にまとわりつかせながら、淡々と焼きそばを炒めていた。
焼きそばを食べることにしかもう目がなかった男は早速焼きそばを頼んだ。
「焼きそば1つ、ください」
そうすると女性はこっちをチラッと見て、
「分かりました」
と返事をした。
まるでクリスタルのような、そんな澄んだ温かさがその言葉の奥底には確かにあった。
焼きそばはその後すぐに男の前に出てきた。
「いただきます」
と礼儀正しく、理性を保てていない割には静かに言っていた。
そうするとさっきまで淡々と焼きそばを炒めていた女性が柔らかい笑顔を男に向けた。
「どうぞ、召し上がれ」
その後男は、何か悪いものに取り憑かれたのではないか、と思われる程に焼きそばにがっついた。
そうすると女性は焼きそばを炒めていた手を止め、今度は母親が自分の子供に対して向けるような優しい笑顔を作りながら、男を見守るように見つめていた。
食べ終わると同時に、男にも段々と理性が戻ってきた。
「ごちそうさまでした」
とても美味しかった。
子供の時に祖母が作ってくれたような、優しくて昔を思い出させるような、そんな美味しさが感じられた。
「祖母が昔作ってくれたような、そんな懐かしい味がしました。とても感動しました」
男が本心を嘘偽りなくそう語ると、
「あら、お母様は作って下さらなかったのかしら」
と、意外であったというような顔をしながら女性は言った。
「母は、小さい頃からいません。なので母に作って貰ったことはございません」
そう男が言うと女性は、
「いいえ、きっとお母様は作ってくださったわよ」
と、今度は子供を諭すような顔で言う。
いつの間にか首筋の痛みは消えていた。
私が困惑したような表情で言葉の意味を考えていると
「きっと作ってくださったわ、だってあなたみたいな子を持つ親だもの」
と頷きながら男に言った。
そうして暫く沈黙が続いていると
「そろそろお店を閉めますよ
またの機会があったら来てちょうだいね」
と、まるで自分の子供を言い聞かせるように言う。
男は女性に
「なぜこんな感動的な料理を作れるのに、このような薄汚い路地裏で露店を開いてるんでしょう」
純粋に疑問の声をあげる。
「なんででしょうね、私にも分からないわ」
と、困ったような顔を見せる。
「あなたに食べて貰いたかったからかもしれないわね」
そう言うと女性は今度は納得したような表情を浮かべ、片付けを今にも終えようとしていた。
「ごちそうさまでした、ありがとうございました」
と言って焼きそば代を机の上に出すと女性は
「お金は良いのよ、言ったでしょう、あなたに食べさせたかっただけだって」
そう言って頑なにお金を受け取ろうとはしなかった。
とうとう男が根負けすると女性は1番の笑顔を見せた。
そうして男が露店を去ろうとすると、
「じゃあね、晶ちゃん」
と少し涙を浮かべて少し申し訳なさそうに話しかける女性がいた。
男はその言葉にハッとした様な顔で
「ま、待ってください」
と急いで言ったが、そこはもう女性も露店も何も無いただの路地裏となっていた。
その後、女性が男の前に現れることは二度となかった。
──首筋が痛い。
そんなことを考えながら、昼食を食べに外へ出た見た目は50代くらいのサラリーマンの男は足を前へ前へと進めていた。
周りにいる都会人も雑踏の中をまるで雑踏で上書きするように足を進めていた。
立ち止まっているとただただ蒸し暑いだけのこの交差点も、歩き始めると不思議と涼しい風が吹く。
しかし、今日はいつにも増して活力がみなぎっていた。
心無しか男の目は太陽の光に反射して輝いているように見えた。
いつもの現象をまた目にしながら、男は力強く足を進めていった。