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短編時代劇 急ぎ足

作者: 黙雷⚡︎

時代劇好きなので、書いてみました。


 お菊は身じたくを済ませると、土間の縁に腰掛けて表通りの気配に耳を傾けた。お菊を迎えに来るはずの男の気配を探しているのである。だが、表から聞こえてくるのは通行人の話し声や、駆け回る子どもの声といったものばかりで、お菊は落胆した。戸の隙間から差し込んでいる夕日は、闇を帯び始めている。日暮れが近いのだ。


 お菊を迎えに来るはずの男は、去年所帯を持った夫の弥助である。弥助は十日ほど前から、大工の仕事で遠方に出かけている。弥助が遠方の仕事にも駆り出されるようになったのは最近のことで、その理由を弥助は「俺が腕を上げたからだ」、と言っている。

 実際、遠方の仕事に行くようになってから、弥助は生き生きとし始めた。しかし、長い間家を留守にすることに多少の後ろめたさはあるらしく、毎度帰ってくる期日をお菊と約束して出かけていた。隅田の花火までに帰ってきて、二人で花火を見に行く。それが今回の約束であり、今日がその花火の日だった。


 表の通りが少しずつ騒がしくなっている。お菊の家からそう遠くないところに橋がある。その橋から花火がよく見えるので、毎年橋のあたりは見物人でいっぱいになる。この時刻になると、集まった見物人でお菊の家の表通りが賑やかになるのは毎度の事だが、お菊はそれにまだ加わっていない自分がもどかしかった。


 お菊はひょっとするとこのまま弥助が現れず、明日の昼ごろになってひょっこり帰ってくるんじゃないかという気がしていた。二人が出会ったのは二年前、お菊は料理屋の女中で、弥助は見習いの大工だった。お菊が勤めていた料理屋は、腕のいい料理人を置いてから客足が伸び続け、とうとう建て増しをするに至った。その建て増しを請け負った大工達の中に、弥助がいた。当時はお菊も勤めが始まったばかりで、覚えた仕事がひと通り終わると、大工達に休憩の水を出す役に廻された。新入りというのは黙っていても目立つもので、お菊も弥助も勤めは違えど新入りであるお互いを見とめた。そして、大人だらけの集まりで顔を合わせた子どものように、どことなく互いの気を惹いていた。


 ある日、弥助が誤って手を傷つけ、お菊が手当をすることになった。木を切らずに自分を切る大工か、とからかいながら手当をしたあと、台所からこっそり握り飯を持ってきて弥助に出してやった。弥助は握り飯を食べながら、お菊の話を聞いた。お菊は、弥助の冗談にころころと笑った。土間の隅で、初めて話した時のことだった。


 それからというもの、弥助はお菊を縁日にさそったり、お菊は弥助に台所の余りの飯を食わせてやったりということが何度かあって、清水屋の建て増しが終わってからもつき合いは続いた。そうこうするうちに一緒になろうと言ってきたのは弥助で、お菊は迷わずにそれを受けた。


 祝言をあげ、狭いが日当たりの良い借家に所帯を持ってから少し経つと、弥助は家を空けるようになった。初めて遠方の仕事に行った時は、三日遅れで帰ってきてお菊を心配させたが、帰ってきてからはお菊を大いに可愛がった。それからそういうことが何度かあり、留守の家を守ることにも慣れはじめた。そして、お菊は弥助が出かける度に心配はするものの、大工の女房とはこういうものかもしれないと思うようになっていた。


 お菊は土間から家に上がって床に座ると、とうに仕上がった縫い物を手に取ってみた。戸のすぐそばで、外の気配に耳を澄ませながら弥助を待ち構えている自分が、なんだがはしたないように思われたからだった。何かに馬鹿にされているような、少しの腹立たしさもある。


 待つことに慣れ始めたお菊を今日に限って焦らせているのは、昨日大家から聞いたある一言だった。家賃を払いに行くと、大家は決まって茶と菓子をすすめるので、お菊はよく大家の家に長居する。話し好きの大家と、若夫婦の暮らし向きとか、どこの家で双子が生まれたといった世間話に花を咲かせるのだ。話がはずむにつれて、話題が弥助の仕事のことに移ると大家はすこし声をひそめて切り出した。

「ご亭主の噂はもうお聞きかな?」

いつか聞いてみようと用意していたような口ぶりだった。

「いいえ、私は何も」

「そうかい、いずれお菊ちゃんの耳にも入るだろうから言うけどね」

「ご亭主に、ほかに女がいるという噂が立っている」

お菊は不意打ちを食らった気がした。

けしからん噂だ、と続けた大家の言葉は、ほとんどうわの空で聞いた。

「皆さん、そう言ってらっしゃるんですか?」

「いやいや。だが世の中には、そういう根も葉もない噂を流すやつもいるということだ」

お宅のご亭主に限ってそんなことはないだろうとか、生きていれば噂の一つや二つは立つものだから気にしちゃいけないよ、というような話を大家は続けたが、うわの空で聞いたお菊はだいぶ遅れて相槌を打った。


 大家の家を出てから、お菊は何か得体の知れないものを渡されたような気持ちで家に帰った。弥助を疑う気はなかったが、この信用だけでは押しのけられない不安をお菊は感じた。日が暮れて床につくまでの間、お菊は大家に言われたことが頭を離れなかった。弥助の帰りが遅れているのは何故か、お菊は安心できる理由から考えた。怪我でもしているのかしら。だが怪我や病気をすればすぐに知らせが来ることになっている、と思い出した。


 今朝になって少し気が重くなったが、洗濯をしたり近所の女房達と立ち話をするにつれ、不安はいつの間にか影を薄くした。気がつけば今日一日をお菊は普段通りに過ごしたが、いざ弥助を待つ身になると忘れていた考えが首をもたげてきたのだった。昼を過ぎ、夕方になっても弥助は戻らなかった。家の中で時が経つにつれ、弥助が来ないという事実が、無言で噂を説明しているように感じた。


 お菊は表に出て、橋へ向かうことにした。一人でもいいから、花火を見てやろうという気になっていた。日は暮れていて、道に連なる祭提灯と、橋へと急ぐ人々の手提げ提灯を頼りに歩いた。前に橋と人だかりが見え始めた頃、一発目の花火が上がり、歓声が上がった。お菊は少し拍子抜けして、毎年見た花火はこんなものだっただろうか、と思った。橋のたもとあたりまで来た時に、二発目が上がった。お菊には花火よりも、人混みの中の若夫婦や、川に浮かんだ船から聞こえる楽しそうな声の方が、美しく華やかなものに感じた。


 お菊は行く当てが突然消えてしまったような気がした。花火を見るきも失せたそのとき、橋の向こう側のたもとが騒がしくなるのが聞こえた。見るとまだ若い職人風の男が、見物人にぶつかりながら人ごみを走り抜けて橋を目指している。さらしを巻いた片腕を首から吊り、もう一方の手で道具箱を抱えたその男を、お菊はひと目見て弥助とわかった。走りながら弥助はふとお菊に気づいたのか、こちらを見て笑ったように見えた。弥助は橋を渡りはじめた。だが橋の上は花火を見ようとする人でいっぱいで、弥助は急ぎ足で歩くしかない。弥助の姿が橋の上で濃い人ごみに隠れた時、お菊は我に返った。

 

 対岸に弥助の姿を見た時から、お菊の心からは、例の噂のことや、一人で花火を見に行こうと決めた時の猛々しい気持ちは、跡形もなく消しとんでいた。そして恥じらいと、次に焦りが湧き上がった。お菊の足は、いま来た道を戻り始めていた。ここにいてはいけない。急ぎ足だったが、お菊は笑顔だった。

弥助は橋を渡ってまっすぐ家に駆け込んでくるだろう。先に家に着いて、土間の縁に座って待っていてやろう、と思っていた。


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