餌4
ひどい空気だと千穂は思った。起きていること自体は普段と変わらないのだが、受け取り手がそうとは思っていない。
千穂の隣で二階堂はいつものごとく伏せて寝ている。その後頭部をただただ睨みつける男が一人。普段の本間ならこぶしの一つや二つ握って震えていそうなものだが、ただじっと見ているだけだ。それが恐ろしい。この男は残念なことに基本がなり立てるスタイルだ。その差が千穂には恐ろしい。千穂からは本間の顔が見えないこともさらに不安を煽った。
「おまえは」
つぶやかれた声は干からびているように生気がない。しかし、何か強い意志で満ちているようでもある。その陰った声が、びりりと千穂の肌を打った。横眼だけで本間を見ていた千穂は、その感覚に首を動かして本間を見据える。そこにあるのは存外細い背だ。
「本当に」
―本当に、なに?
心が、勝手に問う。吸い込まれるように続きを待つ。ぎゅっと、やっと手が握られた。
「いい加減に!」
振り上げたのは逆の手にある教科書だ。千穂はただじっと持ち上がる教科書を見ていた。まっすぐに。それが振り下ろされていく。ゆっくりとゆっくりと、それは着実に二階堂の頭にへと落ちていく。教室には静寂が満ちている。ちょっとした好奇心と恐れが混じっている。きれいに落ちていく教科書は、二階堂の頭ではなく机に落ちた。
「!」
動揺が、背から伝わってきた。
「なっ!」
教科書を持つ腕は机におさえつけられて、背中も後ろから机の方へ倒される。
ガタン
という大きな音と共に、机に本間の貼り付けが一つ出来上がった。
「あれ?先生何してんの?」
その声は二階堂のものだ。寝ぼけたような声が、本間の神経を高ぶらせる。
「何してるのかじゃないだろう!」
「え?」
叫ばれて、二階堂はまじまじと自分が押さえつける本間を見た。手は首を押さえつけ、背には足を乗せ体重をかけている。
「あ、ごめん」
二階堂は何度か瞬きを繰り返した後謝罪を口にしたが、解放はしない。
「さっさと放せ!!」
「・・・・そっか、そうだよね」
捕まえたものは放すよね、とよく分からないことを言ってからやっと二階堂は本間から足をおろし、手を放し、椅子に座った。二階堂は大きなあくびをしている。
―昨日、遅かったもんね
千穂もつられて小さくあくびをする。平素の言い合いが始まったせいで緊張スイッチがオフになったようだ。
「・・・・起きてるんだったら授業受けろよ!」
本間はなんだかんだ二階堂から距離を取って怒鳴った。二階堂は首を横に振る。まだあくびが止まらない。
「起きてない。寝てた」
「嘘つけ!」
寝ててあんなことが出来るか!!と教科書を振る。やっとあくびが止まった二階堂は、ゆっくりと視線を上げた。その見透かすような瞳に、本間は結局ビビる。それを見て満足でもしたのか、二階堂はゆるりと笑った。
「だって、すごい殺気がしたから」
無意識に反応しちゃった。
「毎度毎度寝るからだろうが!!!」
確かに、毎回ここまで寝られたら殺気立つかもしれないと千穂は寝不足でぼうとする頭で考えた。
―ああ、だめだ。景色がぐらぐらしてきた。
かくりかくりと千穂の頭が揺れ始める。
―1限なのがいけない
―私、よくさぼらなかったよ
脳内で自分を褒める。ここから先は、休み時間に優実とあかりに千穂は教えてもらうことになる。
「先生も眠そう」
二階堂は机に頬を付けながら本間を見上げる。
「は?」
「隈できてるもん」
夜更かしでもしたの?そう笑って問いかける二階堂に、本間は諦めて背を向けた。教卓に向けて歩いていく。
「―授業の準備があると言ってるだろうが」
「そうだね。先生だもんね」
先生は。二階堂は顎を机に付けて視界から本間が消えないようにする。
「俺はね、先生」
二階堂はやっと体を起こした。
「先生からもらった問題集はすぐ終わったんだけど」
嫌味を忘れないのはさすがだとあかりは後程千穂に伝えた。
「ちょっと、怖い夢見ちゃって」
観察するように、一挙一動見逃すまいと言うように、しかし緩やかな表情で、二階堂は本間を射る。
「それは残念だったな」
「全部真っ暗でさ。電気も点かない。そんな真っ暗な中に、黒い何かがいるのが見えるんだ」
二階堂は思い出したように目を細める。
「じっと見てたら消えたんだけど」
あれ、なんだったんだろう。先生知ってる?
それは一種妖艶に、尋ねたのだとあかりは表現した。大きめの瞳が、絶対に逃がさないと言外に告げる。それを感じ取っているからこそ、本間は絶対に二階堂と目を合わせようとはしなかった。
「―教科書の12行目から、飯田、訳してみろ」
とばっちりを食った飯田は慌てて立ち上がり、しどろもどろに訳してみる。
「先生無視するの?」
ひどいな。バンと、本間は教卓をたたいた。二階堂に怒っているのだろうが、自分が訳をしくじった可能性がないわけでもないため、飯田心底不安げにあたふたと二人を交互に見つめる。
「お前の夢の話で授業をつぶすわけないだろうが」
わなわなと震える。しかし、決して目は二階堂を見ない。
「それは残念」
先ほどの本間の言い方を真似てみせる。
「ねえ、先生、俺、先生だったら詳しいと思ったんだけど、違ったみたい」
それだけ言うと、二階堂は視線を外へと移した。その日は少し曇りだったけれど、ほんのりと青空が顔を出していた。
「―洗濯すればよかったな」
二階堂のつぶやきはどこまでも平和だったけれど、教室には本間が放つ殺気で満ちていた。
※
「それで、結局千穂はどこにいたの?」
あかりと優実が昼休みを待って問いかけてきた。千穂は目を泳がせる。一応言い訳は壱華に考えてもらっている。
「お腹、突然痛くなっちゃって、医務室に・・・」
平常利用されるのは保健室だったが、寮生が急な体調不良になった場合に備えて医務室が用意されている。
「痛かったのに一人で行ったの?」
「飯島さん起こさなかったの?」
あう、と千穂は変な声が出そうになった。
そんなに壱華ちゃんとセットだと思われてるのかな
壱華ちゃんと一緒じゃないと何もできないと思われてるのかな―
「だって、壱華ちゃん、まだ熱下がってないし」
「ああ、そうか。風邪ひいてるんだったっけ」
忘れてた、と優実がぽんと手を打つ。打たれた手はすーっとポテトチップスの袋に伸びて、優実は小さめのポテトチップスを口に丸まる入れる。
―よし!いけそうだ!!
内心ガッツポーズした千穂だったが、強敵が一人残っている。
「あら、私は違うと思っているのだけど」
ふふふ、とあかりが黒く笑っている。それに何が来るのかと身構えていると、優実が食らいついた。
「え?何?何か知ってるの?」
どうしようかしら~とあかりは笑う。千穂はなにも言わないでくれと懸命に祈った。それを見て、これくらいいいかなと3人の間でだけ聞き取れる声の大きさであかりが推理ショーを始めた。
「壱華から連絡があったでしょう?『千穂は来ていないの?』って」
「きたきた」
あれも結構嬉しかったんだよねー。壱華に頼られるってさ。と優実が軽やかに笑う。これはあとで壱華に教えてあげようと千穂は思った。
「それで、私、『二階堂のところにはいないの?』って返信したの」
「え!マジ!!」
あかりは残念そうに首を振った。
「そこから先は壱華から返信は来なかったわ」
でも。あかりはゆるりと笑った。
「返信がなかったってことは見つかったのではないかしらと思ってるの」
「二階堂の部屋で???」
嘘!マジ!え!と優実はあかりと千穂を交互に見る。その目の動きはせわしない。
「だから、聞いてみようかと思って」
―どうしよう
千穂の背には冷たい汗が流れまくりだった。
―YES or NOになってしまった
これは非常に嘘がつきにくい。ただでさえでっち上げも難しいというのに。
―いや、待て
千穂は落ち着けと首を横に振る。
「行ってないよ。医務室にいたって言ったじゃん」
少しこわばっているかもしれないがどうにか笑顔で答える。
二階堂の家に泊まったとなれば大騒ぎだ。大騒ぎされるのは明白なのに、誰がおとなしく白状などするものか。
―なんかひっつけたがられてるみたいだし
―そりゃ、顔はちょっとかっこいいかもしれないけど
と千穂は金髪の少年の顔を思い出す。少しきつめの大きめの瞳だ。はっきりとした顔のつくりは、あまり村では見かけない。
―貴ちゃんもきれいな顔してた
貴輝はもっと涼しい顔をしていた。穏やかな目で、穏やかに笑うのだ。
―あんなに怖くないもん
二階堂はちょっと迫力がありすぎる。と考えたところで、あかりが爆弾を投げた。
「じゃあ、医務室行ってみましょうか」
「へ!?」
声は完全に裏返っていた。
「そこまでしたらいじめだよ」
やめなよ~と優実が笑う。
「そうかしら」
珍しく不服そうにあかりが唇を尖らせる。同じ表情をしてもこう色っぽさが違うことに千穂は衝撃を受けた。なんて自分は子供じみているんだと心でしくしくと泣く。
「いじめっ子にはなりたくないから、あきらめるわ」
残念だとあかりは長い髪を背に払った。その判断に、千穂は安堵の息をつく。ほっと息をついていると、学食組の男子が帰ってきた。彼らはクラスでも目立つ集団のため、教室がよりにぎやかになる。それに二階堂は引っ張りまわされて大変そうだと千穂は思っている。二階堂は疲れた顔で自席に戻ると机の中から乱暴に教科書やらノートを引っ張り出す。
「で、誰がどれ」
どうやら予習集りにあっているらしい。苛立っているようで、リンゴジュースの紙パックに刺さったストローを噛んでいる。へこんでいるから中身は空っぽだろう。
「俺が古文!」
「俺が数学!」
「できたら次の生物の小テストのヤマ」
「最後は却下」
そんなやり取りがなされる。男子の会話が真新しくて千穂は自然と隣を見ていた。すると大島が振り向いたところで視線がかち合った。大島はバスケ部で背が高い。啓太と同じくらいありそうだが啓太より華奢だ。軽薄なイメージの強い大島から、千穂は慌てて視線を外す。大島も何もなかったように二階堂の方へ体の向きを変えた。
「なあ、二階堂」
それは大島の声だった。
「なに」
古文、出てないじゃんと机の中のものを引っ張り出しながら答える。
「俺さ、噂聞いたんだけどさ」
「噂??」
新作ゲームの発売日じゃなくて?と二階堂は聞き返す。どきんと、なぜか千穂の心臓が大きくなった。
―嫌な感じがする
そらした視線を持ち上げる。そこにあるのは背の高い少年の背だ。
「高野原を、お前が泊めたって」
ぽんと軽く投げられた言葉は教室中を震撼させる。壱華がナンパされたと二階堂が言った時と同じくらいの衝撃だ。視線が痛い。どうなるのだろうと千穂はそろそろと二階堂を見る。二階堂は一瞬目を見張ったものの、古文のノート捜索に戻る。
「それさ、誰に聞いたの」
大島は問われて、首をかしげる。
「誰だったかな」
部活の奴かな。
「いつ聞いたの」
「わかんね」
ただ、高野原さんの顔見たら思い出した。その台詞に、千穂はまたびくりと肩を揺らした。
「でもさ、噂ってそんなもんだろ?」
大島は肩をすくめた。
「そうだな、噂なんてそんなもんだ」
根も葉もないなんて言うしな。二階堂は、パンとノートで手を打った。
「噂はみんなで楽しむものだ」
「だろう?」
で、真偽のほどは?と瞳を輝かせる大島に、二階堂はにこりと氷点下の笑顔を見せる。
「で、お前はそんな話を持ってきて本当にこのノートを借りるつもりがあるのか?」
ひらひらとノートを振る。
―そうか、古文を借りたいのは大島だったのか
と千穂はいらぬ理解を深める。
「あ、愚民の愚問はお忘れになってさくっとノートをお貸しください」
「ほら」
さんきゅーと大島は古文のノートを受け取って自席に戻って行った。時間のある限り写すつもりだろう。
―すごい、二階堂の予習ノートパワー
自分もあやかったことのあるその救いの手は、いろいろ使い方があるらしい。
「で、本当に泊めなかったの?」
まだ残っていた佐々木が携帯をいじりながら掘り返す。彼は自力で予習を完遂させられるタイプだ。ここで少しばかり二階堂を怒らせたところで被害はない。
「―考えてみてよ」
「たとえば何を?」
二人は視線を交わらせることなく会話を続ける。多くの注意はまだこの話題からなくなってはいない。
「俺が本間に特別課題だされてることとか」
「はいはい」
「飯島が熱出して病人だってこととか」
「はいはい」
うーん、と佐々木は携帯をポケットに仕舞うと窓から背をはがす。
「お前には人招く時間なんかなかったし、高野原も部屋から離れるわけにはいかなかったと」
「そういうこと」
一度佐々木は黙る。外を眺めてから金髪の頭を見下ろす。
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
「そういうことなんだよ」
それ以外ないんだよ。二階堂は一度佐々木を睨みつけると、ずいぶん前から空になっていただろう紙パックをゴミ箱に向かって投げた。
―失敗しないなー
その行く末を見守っていた千穂は素直に感心する。ゴミ箱を見ていた千穂に声がかかる。
「って二階堂は言ってるけど、高野原さん的には言い分無いの?」
「へ?」
もう終わったものだと思っていた千穂は、慌てて佐々木の顔を見上げた。眼鏡を通して見える瞳がいくばくか冷たく見える。
「言い分?」
「そう」
「佐々木君は、二階堂が言ってることは本当なの?って千穂に訊きたいみたいよ?」
佐々木の言葉を困ったように繰り返す千穂に、あかりがフォローを入れる。
「え?本当だよ?」
我ながらほめたくなるほど自然に千穂は笑顔で答えた。
「ちょっと、朝方お腹痛くなっちゃったから、医務室行ってて壱華ちゃん心配させちゃったけど」
「壱華から鬼電来たもんね」
誇張して優実がけたけたと笑う。
「その話が、どこからか漏れたのかもしれないわね」
あかりがまたも見事にまとめあげる。
「そうなんだ」
佐々木は視線を教室の前に向ける。
だったらいいんだけど。
そう小さく言って、彼は自席にへと戻っていった。
「なんだったのかね」
いつも会話など皆無に等しい佐々木に話しかけられて、優実は声を潜めてそう言った。
「さぁ~。彼なりに思うところがあるんじゃないかしら」
少なくとも大島よりは賢そうだし。と毒を吐いておくことも忘れない。なんだったんだろうな~と千穂も考えていると、ぱんぱんと手をたたきながら斉藤が入ってきた。
「ほら、もう予鈴鳴っただろう。座れ~」
間の伸びた調子で座れと促す。そして、はたと大島が視界に入り、珍しく声を荒げた。
「あ!お前!自分で予習しろよ!!」
「え!!ちょ!先生来んの早くね!?」
「いいから見てるノート渡せ!」
待って待ってと二階堂のノートを隠そうとする大島だったが、もうばれているのだから逃げられる術などどこにもない。するりと二階堂のノートを大島から取ってしまう。そのノートをぱらぱらとめくって斉藤はため息をつく。
「二階堂、簡単に答えを見せるな」
回せと手近にいた伊崎にノートをまわしながら、斉藤は窓際にいる少年に向かっていった。
「あれ?俺、ノート名前書いてないんだけどな」
なんでわかったの?と二階堂は不思議そうにする。それに斉藤はため息をついた。
「字と回答の質で分かるわ!」
その悲痛な叫びに二階堂は一言かえした。
「先生を名乗るだけあるな」
さすが。それはちっとも褒めているようには聞こえなかった。




