8.餌1
ふと、目覚めた。しんと痛いほどの沈黙が重圧となって千穂にのしかかっている。
まただ―
千穂は体がこわばった。昨日の今日でまた攻めてくるのか。ごそごそと枕元から携帯を取り出しいじる。
「点かない」
今日はそう来たかと千穂は唇を噛む。のしかかってくる何かがさらに重くなっていく。中にいるのか?外にいるのか?単純に考えれば後者なのだけれど。千穂は扉を睨みつける。そこに罠はあるのか。千穂はぎゅっと携帯を握りしめる。
いったい誰が?何が?何を目的に自分を狙っている??
いらだちと共に降ってわいた疑問に、千穂は薄く笑った。
―そんなこと知れている
銀の器は果実のようなものなのだと先生は言っていた。際限もなく大きく、養分を蓄え続ける果実。それを食べればより強い力が得られるという。
「そんなに、食べたいの?」
声は震える。涙がにじんできたのが分かった。どうにか耐えるようにぎゅっと握るのは、壱華が渡してくれた札だ。千穂でもこれで時間稼ぎくらいはできるだろう。携帯は使えない。だったら、どうにか合流するしかない。そうしたほうが安全だ。昨日のことを考えると、一人でいるのは危険だった。考えろと千穂は深呼吸をする。
壱華は自分の部屋にいる。啓太と樹はリビングだ。速攻性があるのは啓太だ。樹と壱華は攻撃に時間を要する。
―啓太のところに行こう。
壱華もまだ本調子ではないだろうし。千穂はそう判断して、そっとベッドを下りる。意味などないと分かりながら、どうにか気配を隠せないかと息をひそめながら一歩一歩進む。一度息を吐き出し、ぎゅっと壱華がくれた札を握りなおす。心を決め、ゆっくりと扉を開ける。きーっと音が廊下に響いた。廊下にはひんやりとした空気が流れていた。昨日を考えればあまりに静かだ。しかし、見ている。狙われている。
ひたひたと廊下を歩く。足の裏から体温が奪われていくのが分かる。じわじわと、何かが距離を詰めてきているのが分かった。ごくりと息を飲む。走り出したいけれど、走り出したが最後一思いに飲み込まれてしまう気がする。
かちゃりと、どうにかリビングの扉までたどり着きドアノブを回す。音もなく扉を開け、中に入る。
「どうして!」
千穂があげたのは悲鳴だった。啓太も樹もいない。そこはいつも通りのきれいなリビングだった。
ざわりと空気が動く。リビングの奥で何かがうごめいている。
―ここはだめだ。
千穂は駆け出した。それと同時に何かが追いかけてきたのが分かる。後ろを振り返らず、壱華の部屋の扉を開ける。
「壱華ちゃん!」
―そこは空っぽだった。そこに姿を現しているのは、確かにいつも通りの壱華の部屋なのに、壱華だけがいない。
―結界だ。
千穂は思い至る。自分だけ結界の中に隔離されたのだ。同時に自分が選択肢を誤ったことを理解する。絶望に胸が締め付けられる。
どうしようかと考えていると、ひやりとしたものが手首を掴んだ。はっとして横を見ると、黒い何かがにたりと笑った。
「っ!!いや!!!」
千穂は握っていた札を投げつける。壱華の札に、それはぎゃっと悲鳴を上げて千穂から手を放した。その隙に千穂は玄関に向かって走り出した。後ろでうめき声が聞こえる。唸り声が聞こえる。まだあいつは生きている。やっぱり時間稼ぎにしかならない。根本的な解決にはならない。
千穂は玄関から飛び出す。外も、初夏とは思えない寒さだった。それが、ここも結界の中だと告げてくる。
どこだ。結界の終わりはどこだ。果てはどこだ。
千穂は夢中で走る。ばんと扉が力づくであけられた音がした。あいつが部屋から追ってきたんだ。
「っ!」
千穂は無意識に上に行くことを選んだ。結局千穂は誰かを頼るしかできなかった。ずるずると背から音がする。怖くて振り返ることもできない。
階段を駆け上がる。息が切れる、時々足が引っ掛かる。それでもどうにかよたよたと階段を上って行く。目指すのは二階堂の部屋だ。頼れる人間はもう彼しか千穂には思いつかなかった。どうにか階段を上る。追っ手の気配は、まだ階段だ。そこから震えてくじけそうになる足を引きずるように走る。時々壁に手をつきながら、体を打ち付けながら歩く。ずるりと、廊下に出てきた音がした。
速く!速く!!
点いているはずの外灯も点いていない。暗い、冷たい廊下を裸足で歩く。冷え切った足は感覚を失い始めていた。
ずるずる ずるずる
音はゆっくり。しかし気配の接近は音の印象よりもずっと速い。
嫌だ、嫌だ!!
あと一歩で二階堂の部屋のドアノブに手が届くところで何かが足に絡みつく。
「あっ!」
だんと千穂はしたたかに体を床に打ち付ける。なんだと足元見ると、黒い影の一部が伸びて足首に巻き付いていた。
「いや!放して!!」
ばたばたと足を振るが足は自由になりはしない。影は千穂の足をとらえ余裕があるのかゆっくりと近づいてくる。にたりと口と思わせる部分が笑みを刻んだ。牙まで黒いその姿に千穂は震える。
ずるり ずるり
「いやぁ!!!!」
千穂はただただ悲鳴を上げる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。誰か助けて、誰か。壱華はいない、啓太も樹もいない。ポケットからこぼれ落ちた携帯の画面は真っ暗なまま。
シャラン
涙はこぼれる。体は震える。その感覚すべてを凌駕して襲ってくるその音。
シャラン
黄金が視界を占める。でも、千穂には分かる。これは幻影だ。あいつは消えてはいない。だって、足はこんなにも冷たい。でも、だったら、どうして
ギー
重いものが動く音がする。背に熱を感じる。千穂はにじむ視界でどうにか振り返る。目指していた扉が開き、光が廊下に差し込んでいる。
助かった
千穂はただそう思った。するりと、足が解放されたのが分かった。
「あ」
千穂はただ手を伸ばす。少年は千穂の望み通りその手を取る。熱が、流れ込んでくる。
「に、かい、ど」
「うん」
二階堂はもう大丈夫とでもいうように、千穂の小さな体を自分の方へと引き寄せた。そして、暗い廊下の先を睨みつける。陰に、何かが潜んでいる。
「おまえ、何」
二階堂は低く声を響かせた。彼の声が届いた面積だけ、元の姿を取り戻すように、いくばくか外灯が明かりを灯しだす。
光から、二階堂から逃げるように、ずるりとそいつは一歩下がったのが分かった。
「こいつが欲しいの?」
その言葉に、千穂はぎゅっと二階堂にしがみつく腕に力を込めた。大丈夫と、大きな手が軽く後頭部を撫でる。
睨みつけるその先で、姿の見えぬそれはまた一歩下がる。それを感じ取って、決してその選択を相手はしないと分かっていて、二階堂は笑った。
「いいよ?俺に勝てたら」
狙い澄ますように目を細める。それがとどめと言わんばかりに黒いそれは姿を消した。階段にまで明かりがともったのが分かった。ふわりと空気が軽くなった。体に絡みつくすべての冷たいものが消え去る。
「ふ」
千穂は、安堵で嗚咽をこぼす。
「あ、あああああああああああああああああ!」
二階堂にしがみつき、ただただ泣いた。怖かったと何度も繰り返す。
「うん」
二階堂は千穂が何か言うたびにただただ頷いて頭と背を撫でてくれた。二階堂が触れたところから、体が熱を取り戻す。
「寒い」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、千穂は二階堂から体を離した。
「幼馴染たちは?」
二階堂に尋ねられて千穂は首を横に振って答える。
「やられたの?」
千穂はまた首を横に振る。それにとりあえず幼馴染も無事らしいと確認すると、二階堂は立ちあがる。
「歩ける?」
座り込んだままの千穂に問いかける。千穂は首を横に振る。逡巡したあと、二階堂は提案した。
「・・・上がる?」
千穂は首を縦に振った。




