8・追憶の夜
どうも目が冴えて眠れないとファオは宿舎のベッドに横になりながら思った。
ここは神殿内にある宿舎の一室だ。神官であるアルシアが、宿舎の個室を借りているのでファオは同居させてもらっていた。
個室には寝床が二つと申し訳程度の机が一つあり、ファオはアルシアに背を向けて横になりながら夜空を見上げていた。寝息は聞こえないがアルシアは既に熟睡しているのであろう。
修道士のミチェットも相部屋ではあるが、宿舎の一室を借りれる権利を持っている。しかしミチェットは未成年だ。神殿とはいえ、見知らぬ成人男性達との相部屋は色々と厳しいだろう。それに帰る家がないわけではない。
孤児である少年は、ある事件で知り合ったファオ達を追って神面都市にやってきた。
いろいろと揉めた末、この都市の制度により、軍神に仕える篤志家ヘイジホッグ夫妻が里親となった。このような一件があったので宿舎を借りることは、まず、なかった。
ミチェットも夫妻に対して、いらぬ心配をかけることは失礼になるからと、なるべく遠出や泊りがけの仕事は他班の者と神殿勤務と交換してもらい避けていた。
ディアモントは、口教区にあるスラム街に程近い地域にある木賃宿から出勤しているそうだ。
口教区のスラムには、イ・ルコ・ウルス人、俗にイ・ルコ人と呼ばれる難民達が多く居ついており、他教区にあるスラムとは違った危険さがあった。正直、近づきたくない場所だとファオは思う。
イ・ルコ人は、自分には理解できない存在だが、コ・パーダは海を挟んでイ・ルコ王国の隣にある島国だ。生粋の東方蛮人であるディアモントにとって、彼らは多分いつも隣に居る隣人くらいなのだろうとファオは思った。
グラードヤーの港から海岸線を北上したところにあるイ・チン・ウルスグルス帝国、さらに北上すると、北に刃を向けるように出っ張った鎌形の半島国家イ・ルコ王国にたどり着く。
その鎌の切っ先と称される半島の北端を覆うかのように、北東に展開している島々が島国国家コ・パーダを形成している。
イ・ルコ王国は、一時期、帝国から独立していたが、コ・パーダに攻められ一度滅び、帝国の助けを借りて復興した後は帝国の完全な属国となった。
神面都市にいるイ・ルコ人の多くは、王朝が復興した後も帰国せずに居座っている者や、復興後、帝国に楯突き追放され、流れ着いた者などである。
イ・ルコ人が帰国しようとしても、イ・ルコ王国は属国になって以後、鎖国政策を布いており、他国との交易はないので厳しいだろう。
イ・ルコ人難民の多くは、帝国の皇帝が祭主であり、神そのものである帝国正教の影響下にあるため、グラード・ヤー各神殿の仕事につくことは難しく、傭兵、非合法な売春業、犯罪組織の用心棒などを生業としていた。
イは皇帝の光届くところ、すなわち文明圏を著していて、続く二文字目以降が国名を表す。国名は短いほど良く、三文字以上は朝貢をしている国家である。
ちなみにコ・パーダ人のコは夷狄を著す。かつては、日出るイ・パーダを称していた時もあったが、今は、コ・パーダと呼ばれており、東方蛮族、東方蛮人と称されるのも此処からきている。
今では、東方蛮人の商船も来るようになったが、やはり、帝国商人の方が数も多く、交易の歴史が長い。帝国基準となるのは仕方がないことだ。
何時の日か、己の起原たるコ・パーダや、帝国にも足を運んでみたいと彼女は思う。思えば神面都市に来る前は、故郷のクリュオ森林王国しか知らなかった。
初めは右も左もわからず、ただ、自分の信奉する司法神の司祭という理由だけで、ビゼィ・クラミツの元へ仕官した。
剣の腕を買われ奉仕人として雇ってもらるだけでも幸運なのに、ビゼィが評議員の一人であることがわかり、自分はなんという幸運の持ち主なんだろう。これで出世の道が開けたと勝手に思い込み、喜んだこともあった。
ビゼィは法の神に仕える者だけあって、商業地区における裁きは神がかり的で、まさに司祭に相応しい人物であった。
ただ、一の汚点を除けば・・・その汚点とは汚職である。法の司祭であり、この都市の評議員でもある彼女には、その手の誘いが多い。
その汚職を取り締まるべき彼女が、誰彼憚ることなく、堂々と賄賂を受け取る姿にファオは驚愕した。
当初、これは敵の多い彼女が愚者の振りをして、あえて受け取っているものと解釈したが、後に恐ろしい事が起こった。
彼女に賄賂を贈る者の中に、犯罪組織を率いるドゥーラークという有名な悪党の手の者がいた。
これは、さすがに理解できないので問い質したが、無視され、数日後、港で大規模な麻薬の違法取引があると情報が入り、ファオも取り締まりに参加させられた。
どうやら先日の手下の手引きらしい。ファオはビゼィの命令どおり、件の手下だけ逃がし、他の者を皆殺しにした。
末端の自分には関係のない、なんらかの取引が双方の間にあったのだろう。先日の賄賂は情報を得るための必要悪と納得した。商売神の信者に捕り逃がしたことを罵られても、これも仕事の内だと思って耐えた。
が、本当の賄賂は数週間後届いた。高級住宅地にあるビゼィの屋敷に棺桶が二つ、中には黄金の塊が入っていた。高級住宅街に宮殿を買えるぐらいの価値はある。
邪魔な敵対組織を二つも始末してくれた礼であった。商売敵が居なくなったドゥーラークにとって、この黄金は、どれぐらいの価値があるのか?とファオは考えたが、直ぐに考えるのをやめた。
この時、ファオはビゼィが何故、誰彼憚ることなく、賄賂を受け取ることができるのか理解した。
そして、もう自分が何処にも行けないことにも・・・彼女の元を去るということは、この世を去ることと同義である。組織を抜ける者に、表の世界にも、裏の世界にも安住の地は無い。
事実、彼女の元を去った何人かの元同僚が辿った末路をファオは知っている。その内の何人かを犯罪者として、自分が手にかけたからだ。
絶望しかなかった。どこへ逃げても救いはない――いや、ただ一箇所だけ、高司祭と同等の力を持つといわれるチアノ・ヴァレンチノの館、女法皇の宮殿を除いては・・・
明日は早いのだがら、早く眠らなくてはと思うのだが、そんな日に限り目が覚めて眠れなくなる。まして、懐かしい知り合いに出会ったことや、朝の出来事が、更にファオを過去の記憶へと誘っていく。
女法皇の宮殿に逐電し、チアノの部屋で面接してもらったことは今でも鮮明に憶えている。
チアノの部屋には天蓋つきの寝台があり、体の僅かな部分を隠しているのか、隠していないのかわからない薄絹で覆った衣装らしきものを身に纏ったチアノが横たわっていた。
その周りを、己の肉体を美しさを強調するために、全裸に近い薄絹を纏った美男美女二組が、チアノの肉体を揉み解したり、羽扇で扇いで身の周りの世話をしていた。
この美男美女しか居ない部屋に、とり立て容姿が優れているわけでもないファオが、一人だけ全裸で、部屋中央に直立不動の姿勢をとらされていることに、なんだか恥ずかしくなってきてしまい、自然と顔が熱を帯びていくのを感じた。
「恥ずかしがらなくていいわ。貴方が刺客かどうかわからないから、そうさせてもらっているだけよ」
「は、はい」
これが女法皇の声か・・・思ったより優しい言葉をかけてもらって、ファオはなんだか照れてしまった。
チアノは、どこから取り出したのか、指揮棒を右手に持ち、いろいろとファオの肉体を検分した。
「噂は聞いているわ。立派な経歴のわりには傷一つないのね」
「す、すみません。でっ、でも、嘘じゃ」
「怒ってないわ。公式記録にも残ってるんだし、むしろ褒めてるのよ」
無表情に言い放ちながら、チアノはファオの体の隅々まで検分する。
思えばビゼィは、常に和やかに優しい言葉をかけてはくれたけど、褒めてはくれなかったなと、この世とは思えない世界で、ぼんやりと彼女は思った。
「未だ穢れを知らずか、良いんじゃない」
検分が終わったのか指揮棒をどこかにしまい、美しい侍女の一人に何かを命じた。腰まで伸ばした金髪を揺らしながら侍女の一人が出て行く、刹那!
「不浄ッツ!!」
チアノの右手がひらめく、右手には極楽鳥の羽で飾られた羽扇が握られている。チアノが右手を振るうと同時に、少しばかり重みを持った肉片が飛ばされた音が聞こえたが、悲鳴は聞こえなかった。
一瞬の沈黙、やがてチアノの叱責が木霊する。
「欲望にとらわれるとは修行が足りないっ!その醜いものを持って、この部屋から出て行きなさい!」
金髪に色白い肌の筋肉質の男は、苦痛に耐えながら鎌首をもたげてしまった己の欲望の蛇を拾い上げ、肉欲に穢れた血を滴らせつつ、女法皇の居室から出て行く。
入れ違いに、先程出て行った侍女が羊皮紙を携えて戻り、それをチアノに恭しく手渡した。チアノは文面を確認するとファオに向って告げた。
「リン・ファオ、穢れないところが気に入ったわ。今、ちょうど奉仕人の欠員ができたから、貴方を私の使う道具の一つ、剣として仮採用します」
「はっ、はいっ!有難うございますッツ!」
道が開けてきたと思った。ファオの心に希望の灯火が一つ灯る。
「早速だけど任務を与えるわ。貴方の剣としての、本当の腕前が知りたいの。もちろん、貴方の働き如何によっては、即、本採用してもいいわ」