▼9-温泉で慰安旅行で
▼9-温泉で慰安旅行で
愛娘を人質に差し出して五体投地ばりに服従を示した父が、何故、謀殺されたのか?
改めて、真のラーズグリーズの一員となったカーチャはその事について考えた。
父が暗殺されたという事実は、すぐに確定した。イオナの持つコネクションを駆使した調査が行われ、数日中に報告が上がってきたのだ。
犯人は父のかかりつけの医師だった。その医師は、【とある筋】からの依頼を受け、彼を診察する際、遅効性の特殊な毒薬を注入したらしい――とイオナは言った。
仇を取らせて欲しいと、カーチャはイオナに願い出た。父の命を奪った張本人だ。娘である自分の手で始末をつけなければ、父の無念は晴らせない。覚悟ならもう決めている。自分に、殺させて欲しい。カーチャはそう主張した。
だが、イオナはその要求に首を横に振った。
「カーチャ、お前はナイフを恨むつもりか?」
「は……?」
「たとえばの話だ。もし仮に、レオニード氏の死因が刺殺だったとしよう。お前は彼を刺した人間と、実際に体を抉ったナイフ、そのどちらを憎む?」
「それは……もちろん、人間ですけど」
「だろう? なら、あの医者のような小物を憎んでも意味がない。奴を〝ナイフ〟として扱い、レオニード氏を刺し殺した人間が、俺達の進む道の先にいる。憎むのは【そいつら】にしておけ」
本当の仇は、その医師の背後に潜む黒幕であり、そしてそれは一人とは限らない。イオナはそう言ったのだった。一理ある、とカーチャは納得して引き下がった。
しかしやはり、何故父が殺されなければならなかったのか、その理由がわからなかった。カーチャを軍に入れるというメッセージが相手側に正確に通じなかった、ということだろうか?
「俺もその点については気になっている。とっくにこちらの思惑に気付いているのか、それとも、奴らも一枚岩ではないのか。あるいは、別の目論見があるのかもしれないが」
よくわからない。最終的にイオナはそう結論づけた。とはいえ、こちらの企みが看破されているのであれば、【敵】の対応はこれだけではあるまい。他にも何か動きがあるはずだ。まずはそれを見極めるべきであった。
そうして、早くも三ヶ月が経過した。
驚くほど何もなかった。
変わったことと言えば、まずはカーチャの周囲の環境である。屋敷の使用人達は、その全員が亡き父の思想に共感する人々で、味方だった。彼ら彼女らは、正式な承継を果たして新当主となったカーチャにとても良くしてくれていた。誰一人漏れることなく、『お嬢様』から『当主様』へとカーチャの呼び名を変え、尊重してくれている。
カーチャ自身にも変化があった。ワルキュリア軍に入隊することが決まった際に凍結させていた、喪失技術の研究プロジェクトを再開したのだ。
必ず必要になると、そう判断したからだった。完成すれば、これは自分たちの少ない戦力を劇的に強化してくれるはずだ。カーチャはそう確信していた。
父の暗殺以降、敵の動きは特にこれといって無かった。相変わらず『戦闘訓練』の指令は下りてきてはいたが、その頻度が多くなったわけでも少なくなったわけでもなく、要するに【いつもどおり】が続いていた。
カーチャは援護射撃ぐらいなら出来るようになっていた。
憎しみの炎も、悲しみの雨も、巨大すぎる感情の怒濤は長くは保たない。決して消えはしないし、止みもしないが、その影響は時間と共に日常と同化していく。勿論、そこに触れるものがあればいつでも爆発するだろうが、常日頃からそうであるのはエネルギーの無駄使いであると、人間は本能で知っていた。
何かを憎むことは、心にも体にも膨大な負担をかけるのだ。
心には決して消えない傷痕が残ったが、それでもカーチャは特に塞ぎ込むこともなく、元気に日々を過ごしていた。
そんなある日。
「慰安旅行に行くぞ!」
いきなりイオナが宣言した。彼女は時折、こういう突飛なことを言い出すのである。それに巻き込まれて迷惑を被るのは、ここ最近は主にカーチャの役目であった。以前はベルが担当していたらしいのだが。
「なんですか突然」
喪失技術に関する理論構築に忙しいカーチャは、ノートから目を話さないまま相槌を打った。マイクロ波に関する考察をつらつらと記している。
「俺の恋人――ではなく、仲間も増えた。ベルのセフレ――友達も増えた。地道ではあるが、着実に俺達は目標に向かって進んでいる。というわけで、そんな俺達にも疲労が溜まっているはずだ。ここで我が特務大佐の権限とラーズグリーズの特権を生かして、慰安旅行を企画立案実行したいと俺は思う!」
台本でも読み上げるように滑らかに放言したイオナに、カーチャは、
「はい。行ってらっしゃいです」
と振り向きもせずに涼しい声であしらった。余談だが、この間も同じような突発さでバーべキュー大会が行われたのである。ベルがカーチャの皿に野菜ばかり入れるので泣きそうになった。
「思うんだが、最近とみに冷たくないか、マイ・エンジェル?」
「気のせいではないですよ。実際に冷たくしていますから。流石に私もイオナ大佐の【ノリ】には慣れました。大切な仕事もありますし、もう甘やかしませんからね。近付いて変なことしようとしたらこのペン突き刺しますからね」
カーチャはすっかりクールになっていた。無理もない話だった。父を亡くしたカーチャの心の傷が、とりあえず立ち直れるほどには癒えたと見るや、イオナのセクハラとベルの意地悪とが揃って再起動したのである。
「そうつれないことを言うなよ、マイ・エンジェル……」
吐息混じりの艶声が耳元で囁いた。イオナが音も立てずに背後に忍び寄ったのである。
「――っ!? ちょっともう! 本当に刺しますからね!?」
言って、カーチャは本当にイオナの頭があるだろう位置にペンを突き込んだ。どんな危ないことをしてもどうせイオナには傷一つつける事なんて出来ない――そうわかっているからこその行動だった。
案の定、手応えはなし。
「何故だ? 今日はまだペロペロもクンカクンカもムッチューもしていないじゃないか」
「しなくて結構ですッッ! というか思い出させないでくださいッッ!」
「思い出したのか? それはやはりイエスと見ていいのか? いいんだな?」
「言っている意味がわかりませんよ!? あ、アイリスさん! アイリスさぁーん! イオナ大佐が浮気しようとしていますよぉぉぉぉっ!」
最近知ったことだが、イオナとアイリスは実は恋人同士だった。いや、正確に言えば、イオナの数多くいる恋人の内の一人が、アイリスなのである。元男と言っても、それとも元男だったからか、アイリスは意外と嫉妬深い性格をしていた。イオナの浮気現場、または証拠を見つけると、近くにある香茶やポットの湯をぶっかけるほど激怒するのである。ニコニコと笑顔のままで。そういう場面をカーチャは何度か見ていた。少し前までは、カーチャに対するイオナのセクハラは『子供とじゃれあっているだけ』と見られていたのだが、最近はずっとそれが続いているので、先日とうとう浮気扱いされてアイリスがマジギレしてしまったのである。
アイリスの名を叫ばれて一瞬肝を冷やしたような顔をしたイオナだったが、彼女が今は外出中であることを思い出したのだろう。すぐに調子を取り戻し、
「ふっ……耳たぶハムハムもしてないし、お尻スリスリもしていないぞ。太股サワサワも。だから今日の俺はまだ紳士だ。なぁ……いいだろ……?」
「【まだ紳士】ってどういう表現ですかっいいわけないじゃないですかぁーっ! この変態っ! 変態っ! ヘンタイっ! へんたいっ!」
「ああ……いいな。幼女に罵られるのは……イイ!」
「何か目覚めてます!? ちょっもうやめてくださいその変な表情! 鼻の穴広がってますよ!?」
「それはともかく、だ」
急にイオナが素に戻った。カーチャはゼーハーと肩で息をしながら、ほっと胸をなで下ろす。ようやく止まってくれた。いつもはこの勢いで押し切られ、妙な事をされてしまうのである。
「ともかく慰安旅行は決定事項だ。総員に通達! 明日だ! 宿の手配には心当たりがあるから心配するな!」
「……はぁ……」
カーチャは深い溜息を吐く。セクハラ行為は凌いだが、結局、別の勢いが殺せなかった。
――こんなことしていて、いいんですかねぇ……?
最終目標は軍事クーデターだというのに、そうと知れても、ラーズグリーズの面々は相変わらずだった。イオナは隙あらばいやらしいことをしようとしてくるし、アイリスはイオナとイチャイチャしたりお茶を淹れたりみんなとガールズトークするのが大好きで、ベルはことある毎にカーチャにちょっかいをかけては『ラケルタさんとこ行ってくるねー♪』と言ってアインヘルヤル軍の男を引っかけに行く。ちなみにラケルタ隊で唯一、隊長のラケルタだけがベルと肉体関係になかったことは、カーチャが後年になって知ることである。サイラも変わらず、暇があれば裏庭の花壇の手入れをしたり、拡張工事をしたりしている。そういえば、先日はニッチングでリリヤンを作る方法を教えてくれたな――とカーチャは思い出す。
『馬鹿なことをするのも作戦の内だ。楽しんで奴らの目を眩ませられるのなら、こんなにいいことはないだろう?』
三ヶ月前、あまりの変わり無さっぷりにカーチャが疑問を呈すと、イオナはしれっとそう答えた。しかし、こうまで無駄に遊んでばかりだと、その言葉の信憑性も薄くなってくる。
――もしかして、ちゃんとやる気出しているの、私だけ、なんでしょうか……
いずれ本当に、こうやってノートと向かい合っている自分が馬鹿馬鹿しく思える日が来るかもしれない。
そんな不安に駆られるカーチャだった。
温泉である。
本当に来てしまった。しかもラーズグリーズの五人だけではなく、ラケルタ達とイーヴァ隊も伴って。
場所は首都ガングニルから少し離れた観光地にある、山奥の温泉ホテルだった。なにやらイオナの知り合い――元恋人かもしれない、とアイリスが言っていた――が経営しているらしく、優先的に予約を入れられるのだとか。
東亜風のホテルはそこそこ大きく、総勢五十人ほどの軍人集団をあっさり受け入れてくれた。どうやら今日は貸し切りらしい。部屋に挨拶に来た女主人曰く、『うちは隠れた名所なんですよ』とのことだった。
――隠れた名所って、自慢できることなんでしょうか……?
素朴な疑問が脳裏をよぎったが、そんな些細なものは大浴場を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
「っわぁ……!」
思わず声が漏れる。自然を切り開いて設けられた温泉浴場は、見事の一言だった。
広く大きな石造りの露天風呂。男湯との仕切りがある方向以外は、全方角が山の眺望だった。木造の屋根もあり、雨が降っても入れる仕様だった。青い空の下で浸かる温泉は、見る者に極楽浄土を想起させた。
カーチャも所詮は子供である。女性陣全員で示し合わせて露天風呂へやってきたのだが、立派なこしらえに感激すると、我先に脱衣所から飛び出してしまったのだ。
ゆっくり、湯の温度と体温を合わせながら肩まで浸かると、背筋に気持ちの良い痺れが走った。
「ん~っ……!」
カーチャは研究職であるせいか、なんとこの歳にして肩凝りに悩まされていた。いつもは重く固い感じが残るその場所に、今はくすぐったいような甘い感覚が生じる。体の芯を流れる心地よさに、カーチャは体を震わせ、吐息し、大地と火と山の精霊に感謝した。
続いて、他の女性陣もどやどやと浴場に入ってきた。当たり前だが、皆、カーチャとまるで体付きが違う。言うなれば、大人の体をしていた。それがカーチャには、自分だけが仲間はずれにされているように感じられて、少し悔しかった。
ここで、問題が一つ生じた。騒動と言うべきか。
イオナとアイリスが恋人同士であることは、先述した通りである。そのため、アイリスはイオナが湯船に浸かった後、当然のごとくその隣に腰を下ろした。その時である。
あ、胸が湯に浮いている――カーチャがそんな事に気付いた瞬間だった。
「アンタ、なにしてんだい!」
気っ風の良い声が湯気と共に空気を引き裂いた。途端、何人かの背中がびくりと震えた。それは、声そのものに驚いたというより、これより起こるであろう事態に怯えているようにも見えた。
カーチャも吃驚して、恐る恐る声の主を盗み見る。案の定、タオルで隠すこともせず、均整の取れた裸身を晒してアイリスを睨んでいたのは、イーヴァ隊の隊長であるイーヴァ・クロフォード少尉だった。
赤い薔薇にさらに火をともしたかのごとく情熱的な赤毛の持ち主は、ジャブジャブと温泉を割って歩き、悠然と風呂に浸かっているイオナとその隣にいるアイリスの眼前へと身を移す。アイリスほどではないがそれでも充分に大きい乳房を、隠すどころが誇示するかのように胸を張り、腰に両手を当て、憤怒の視線でブルネットの美女を見下ろした。
ここで必要な情報を一つ開示しよう。
イーヴァ・クロフォードもまた、イオナの数多くいる【恋人の一人である】。
「あら、何かご用かしら? イーヴァさん」
「白々しい態度とってるんじゃないよ! なんでアンタがイオナ大佐の隣なのさ!」
どうでもいい話ではあるが、アイリスの階級は特務曹長で、イーヴァは少尉である。細かいことを抜きにすれば、その格差はほぼないと言って良いだろう。故に、彼女たちの間に〝遠慮〟の二文字は存在しなかった。
それに、任務中ならいざ知らず、今はプライベートである。今は憎き恋敵であるアイリスを、イーヴァは容赦なく指差し、食らいつく。
「いつもいつも大佐の隣にいるんだ、今日ぐらいは隅に引っ込んでな、この元男のド変態!」
髪をアップにしてまとめているアイリスの笑顔が、温泉に浸かっているというのに、ぴきん、と凍り付く瞬間をカーチャは見てしまった。
――あああああ、またですかぁぁぁ……!
カーチャは内心で頭を抱えた。このようなやりとりは、何もこれが初めてではなかった。『戦闘訓練』後はラケルタ隊とイーヴァ隊――他にもジンハルト隊とターニャ隊があるらしいがカーチャはまだ顔を合わせたことがない――を集めて反省会が開かれるのだが、いつもそこでイーヴァとアイリスがこうやってイオナを間において対立するのだ。
肝心のイオナはというと、我関せずの態度で頭にタオルを乗せ、気持ちよさそうに温泉に浸かっていた。今にも鼻唄でも歌い出しそうな表情である。
アイリスが無言で立ち上がった。大質量の移動で持ち上がった湯が、滝のように流れ落ちる。その一連の事象だけで、いみじくもアイリスのグラマラスさが強調されていた。
アイリスの爆乳とイーヴァの巨乳とが互いにぶつかり合い、歪み、芸術的な形に変貌する。そんな体勢で、アイリスがイーヴァに向かって聖母のごとく微笑んだ。
「元男だろうがなんだろうが、今の私は完全に女だと、何度説明すればおわかりいただけるのかしら? それとも、元男より胸が小さい女性は脳みそも小っちゃいのかしら? ねぇ、たまに他の人に浮気するビッチのイーヴァさん?」
そして顔には似合わない、どぎつい毒を吐いた。この笑顔で発せられる毒舌に、カーチャは胸の内で『ひぃぃぃぃっ!』と悲鳴をあげる。イーヴァと対決する時とイオナの浮気を追求する時、アイリスは恐ろしいまでに鋭い舌鋒を露わにする。その凄まじさは、端で見ているこちらの胃が痛くなってくるほどであった。
「今が女でも昔は男だろーが。ああん? 頭腐ったド変態が我が物顔でアタシのイオナ大佐にいつまでもくっついてんじゃないよ。大佐はアンタ一人のもんじゃないんだから、少しは遠慮したらどうなんだい? 女のルールってもんがわかってないのかねぇ。これだから元男ってやつは」
はーやれやれ、とわざとらしく肩を竦めるイーヴァ。浮気に関しては否定どころか触れもしない。カーチャの予想では多分図星なのだが、敢えて無視している公算が高かった。
「いつもはよそで腰を振っているくせに、こんな時だけ本命に甘えるだなんて……本当に浅ましい神経の持ち主ですわねぇ、この腐れビッチは」
ここまで悪し様に罵りながらそれでも笑顔のアイリスが、カーチャには背筋が凍るほどに怖かった。
温かい温泉に浸かっているはずが、どんどん寒くなっていく。他のイーヴァ隊のメンバーも顔面が蒼白になっていく。
「けっ。イオナ大佐に近付くためだけに性転換するようなド阿呆ド変態には言われたくないんだけどねぇ、アタシは!」
「正妻に絡む愛人ほど醜いものはないわねぇ。うふふ」
――そんな間近にいるのに、あなたはどうしてそこまで平然としていられるんですかイオナ大佐ぁぁぁぁ……!
ついに素知らぬ顔で鼻唄を歌い始めたイオナに、カーチャは恨みがましい視線を送った。
と、その時、意外な救世主が現れた。
「アイリスさんもイーヴァさんもさぁ、こんな所まで来てケンカなんかしなくてもいいじゃーん。っていうか、イーヴァさんはちゃんとお湯につかろーよーぅ。風邪引いちゃうよー?」
カーチャのいる位置から三メートルほど左斜めにいる、蜂蜜色のカーリーヘアを今はポニーテールにまとめているベルだった。
イーヴァが、チッ、と舌打ちし、アイリスが、ふぅ、と息を吐き、両者共にその場で大人しく湯に浸かる。
――ほっ……よかった。今日はベルさんが止めてくれました。
ちゃんと仲裁が入ったことに安堵したカーチャは、ふーやれやれ、と溜息を吐き、遅れてとんでもない違和感に気付いた。
――……………………あれ!?
青天の霹靂とはまさにこの事であった。蒼穹の下、光と音のない雷撃がカーチャを撃った。
「――っ!? な、な、な、なぁっ……!?」
湯の中で咄嗟に自分の体を抱いて、温泉を堪能するベルに顔を向け、陸に上がった魚のようにパクパクと口を開閉させる。思考が錯乱しすぎて上手く言葉にならなかった。
「んー? どしたのカーチャ?」
ひどく自然体に、火照ってピンク色に染まった顔に不可思議そうな表情を浮かべるベル。意外な救世主どころではなかった。彼女は有り得ない救世主だった。
「な――なんでベルさんがここにぃぃぃぃッッッ!?」
「許可したのは俺だが?」
カーチャの魂切る絶叫に、イオナが平然と答えた。カーチャは猛然と振り返り、火山の火口から飛び出してきた雪だるまでも見るような目でイオナを見た。
イオナは、はっはっはっ、と鷹揚に笑い、
「仕方ないだろう。ベルがラケルタ隊の連中と一緒に男湯に入ったら、それこそとんでもない事になるぞ?」
「そーそー」
イオナの説明になってない説明に、ベルが適当な感じで追従する。残念ながらイオナの言わんとしていることは、カーチャにとっては想像の埒外である。
「で、でもっ!」
納得できずなおも抗議の言葉を言い募ろうとすると、イオナは片手を上げて、
「まぁ落ち着け。大丈夫だ、安心しろ。ベルにはちゃんときつく言ってある」
そう言って、不敵に笑う。
「ベル、わかっているな? ――大きくしたら切り落とすぞ?」
「わかってるってー、まっかせてよ♪」
ベルは明るい声で請け負うと、ウィンクしつつ右手の親指をぐっと立てて見せた。
どこがどう大きくなるのかは、流石にカーチャも知っていた。故に少女は顔を湯あたり以外の理由で真っ赤にして、ぷい、と背中を向ける。悔しいやら恥ずかしいやら、複雑な心境だった。何が悔しいのかと言うと、騒いでいるのは自分だけで、イーヴァ隊のメンバーですらもベルの同行を認めていることがやけに悔しかった。これではまともな事を言っている自分が馬鹿みたいではないか。
――道理でサイラちゃんを誘ったら断られたはずです。これじゃ恥ずかしくて先に出れないじゃないですか……!
脳裏に、一人だけ部屋に残ると言って聞かなかったサイラの浴衣姿を思い浮かべ、どうして教えてくれなかったのかと怨嗟の念を募らせる。おそらくはサイラにも確信があったわけではなかったのだと思うが。
赤い顔の下半分を湯に浸けて、ぶくぶくと泡を立てる。
――こ、こうなったらベルさんが出て行くまでは我慢するしかありません……! よ、嫁入り前の娘が男の人に肌を見せるわけにはいかないのですっ……!
無意識なのだろうが、なんだかんだでベルのことを男として意識しているカーチャなのだった。
カーチャが一人で勝手に我慢大会をしていると、いつの間にやらイオナがすぐ隣に来ていた。既にほとんどの者は温泉から揚がり、屋内浴場へ戻っていた。今はカーチャとイオナを含め、4人が露天風呂に浸かっている。アイリスとベル、そしてイーヴァの姿は見当たらなかった。
初めて見たイオナの裸体は、予想以上に女性的なラインを描いていた。胸は確かに隆起に乏しいが、無いわけではないし、脇腹から腰、そして尻に沿って描かれる流線はいっそ憧れてしまうほどであった。自分も将来はこんな風になりたい、とカーチャに思わせるスマートさだった。
実を言うと、既にカーチャはのぼせる寸前だった。顔はトマトが真っ青になるほど赤くなっていて、意識も桃源郷に片足を突っ込んでいた。
油断していたのだろう。普段ならば絶対に気軽に聞けないようなことを、この時は口を滑らせて尋ねてしまった。
「そういえばぁ、まえからきになってたんですけどぉ、いおなたいさはぁ、どうしてですかぁ?」
へべれけになった中年親父のような口調で、カーチャはそんな質問をした。
「おいおいどうしたマイ・エンジェル? 大丈夫か? 妙に要領を得ない質問なんだが」
お前ももう揚がれ、と笑うイオナ。くらくらする頭で、それでもカーチャは何とか言葉を組み立てようとする。あふぅ、と熱い息を吐いて、カーチャはイオナの肩に自分の頭をもたれさせた。くす、とイオナが笑う気配を感じた。
「ですからぁ、いおなたいさがぁ、たたかうりゆうですぅ。せんそうとばくはぁ、いけないことですけどぉ、それだけなんですかぁ?」
そう口にした瞬間、イオナの肩がピクリと震えた気がした。
答えはしばらくなかった。が、頭が朦朧としていたせいだろう、カーチャには待っている感覚があまりなかった。
「カーチャ、俺の名前を逆に書いてみたら、どう読める?」
唐突に、イオナからそんな質問が来た。ふわふわする思考の海を漂いながら、カーチャは素直に考える。
「えーとぉ……? いおなたいさ、ですからぁ、I・O・N・A、ですよねぇ? ぎゃくにしたらぁ、A・N・O・I、ですかぁ? かんたんですねぇ。あははは」
カーチャが笑うと、イオナも笑った。それは、初めて聞く笑い方だった。砂漠のように乾いた感じがした。
「そうだな。笑えるほどに簡単だろう? イオナを逆さまにすれば、アノイになる。俺の名前は、こんなにもバカげている」
そうだ。これは、自嘲の笑みだ。カーチャの熱にほぐされた頭の中で、どこか冷静な部分がそう分析した。
「俺はアノイ・デル・ジェラルディーンのクローンだ」
「……はえ?」
湯あたり寸前の状態でこの告白を聞いてしまったことを、カーチャは後に後悔する。だが今の彼女は、頭がのぼせて思考の回転が遅い、ただの馬鹿だった。
イオナの告白は続いた。
「本当は英雄ジェラルディーンの末裔なんてどこにもいないんだ。かの英雄は結局、子を成さずに戦場で死んだらしいからな。だから俺みたいなクローンが何体も作られた。その中でも俺は成功例だったらしい。肝心なのは〝精霊核〟の再現度だったんだろう。だから俺はこんな髪で、こんな目だ。だが、元のアノイ・デル・ジェラルディーンは男だったというのに、クローンの俺の性別は女だった。だから名前もアノイを逆さまにして、イオナになった。ふざけた名前だろう? ついでに言うと、体は女だが中身はほとんど男だったりもする。だから俺はガチレズというわけだ。笑える話だろう?」
はっはっはっ、とイオナはいつものように笑う。でも何だか、いつものより力がないように感じられた。カーチャは彼女の言っていることの意味がよくわからなくて、返事が出来なかった。
また沈黙。
「カーチャ、生命は重いものだと思うか? それとも、軽いものだと思うか?」
また出し抜けにイオナは質問してきた。そのまま答えを待つように間を空けられたので、カーチャはのろのろと考えて、
「おもいものだと、おもいますぅ」
と答えた。するとイオナの手が、ざばり、と湯船から顔を出し、カーチャの頭を撫でた。
「だろう? 戦う理由なんてものは、それだけで充分だ」
そう言って、イオナがはにかんだ――ように、後のカーチャには思えた。結局、記憶が肝心な所以外はあやふやで、その真偽は確かめられないままだったが。
カーチャの頭を撫でていた手が、不意に背中に回った。カーチャの小さな体が、ぐい、と抱き寄せられる。
――?
刹那、異常事態に本能が一斉に警鐘を鳴らした。カーチャの脳髄に冷却水が注入され、正気が一瞬にして蘇る。焦点を取り戻した瞳がまず見たのは、鼻息荒く近づいてくるイオナの顔だった。
美しくない悲鳴が上がった。
「っギャァ――――――――ッッ!? なにやってんですかなにやってんですかなにやってんですかぁぁぁぁっ!?」
イオナは完全にカーチャを抱きかかえていた。素肌と素肌が隙間無く密着している。何だか触れあっている部分が、ヌルヌルしているような気がした。
「ふっ……何を言う。俺の肩に額を寄せて誘ってきたのはお前の方ではないかマイ・エンジェル! 火照った体がピンクに染まって、実に美味そうだ。いい加減これを機に俺の女になってしまえ? な? な?」
「うわあぁあぁあぁあぁあぁあぁっ!? 本気で意味がわからないんですけどどうなってるんですかこれ何がどうなっているんですかぁぁぁぁ!?」
「お前、誘った。俺、興奮した。お前、俺の女になる。ハァハァ」
「何で片言なんですか!? いやちょっ、鼻息が!? 鼻息が荒い! どれだけ興奮しているんですかイオナ大佐!?」
「仕方なかろう。幼女が全裸で隣にいるんだぞ? しかも寄り添ってきたんだぞ? これで興奮しない馬鹿がいるものか! ハァハァ、ハァハァ!」
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
カーチャは本気で貞操の危機を感じて、必死に抵抗した。何とかイオナの手を振り払い、身を離し、咄嗟に湯船から飛び出す。もはや体を隠す余裕もなかった。すると、イオナもカーチャを追って湯船から揚がるではないか。
――捕まったら、終わりです!
詳しい知識はなくとも、脳の視床下部がそのことを直感した。カーチャは一メートルほどの距離を空けて、イオナと対峙する。じり、じり、と互いが互いを牽制するように、肩や目のわずかな動きでフェイントを繰り返す。やがて、そうしている内に「あ、私たちお先に失礼しますねー」「どうもお先ー」と、カーチャ達以外に露天風呂に残っていた二人が、同時に屋内浴場へ行ってしまった。
「……え、えーと……わ、私たちも戻りませんか?」
「ああ、賛成だ。ただし、この昂ぶりがおさまってからな」
「ひ、一人でどうぞ」
「一人だけでは無理だ。お前だけでは無駄だ。俺だけでは嫌だ」
「わ、我が儘ですぅ!」
「ふふふふ、観念しろ、マイ・エンジェル……!」
少女と女はそれからもささやかではあるがハイレベルな攻防を繰り返した。時には走り出して鬼ごっこをして、時には立ち止まって双方共に相手の動きを牽制しあった。
素っ裸で。
オチを言うと、二人が帰りがあまりに遅いため、最後にはアイリスとイーヴァが揃って様子を見に来た。そんな二人が現れるまでの小一時間もの間、この無意味な戦いは続いていたのである。
浮気現場を恋人二人に押さえられたイオナが、ダブルキックで温泉に蹴り落とされたのは言うまでもない。
翌日、カーチャは風邪を引いた。
しかもそれをこじらせ、最終的には肺炎になってしまった。
医者が申し渡した入院期間は三週間だった。