▼7-心を溶かす涙の熱
▼7-心を溶かす涙の熱
カーチャがラーズグリーズに来て早くも一ヶ月が経過した。
光陰流水のごとし、である。
イオナのセクハラをしのぎ、アイリスの優しさに和み、ベルの意地悪を堪え、サイラの純朴さに癒される。
そんな毎日が怒濤のように過ぎ去っていった。もちろん、楽しいだけの日々ではなく、『戦闘訓練』という名目の治安維持活動も何度かあった。相変わらずカーチャは装備を固めるだけ固めて、何も出来ずに終わるのだが、とりあえず周囲へかける迷惑は少しずつではあるが減らしつつある。いずれ自らの手で引き金を引かねばならぬ時が来るのだろうが、それはまだ当分先のように思えた。
そんな日々が続く中、それはあまりにも唐突すぎる出来事だった。
カーチャの父が亡くなった。
レオニード・ファン・ヴォルクリング。享年六十八歳。
死因は急性心不全――と駆けつけた医者は言った。
発作は就寝中に起こり、おそらくは苦しまずに逝っただろう、とのことだった。
年齢を考えればさほど不自然な死ではない。が、この際、自然であるか不自然であるかどうかなど、娘であるカーチャには一切関係なかった。
幸い、長らく政界に貢献してきた功績もあったおかげで、葬式の準備には政府の重鎮である人々が動いてくれた。国葬である。不思議なことに、まるでその死が前もって予測されていたかのように迅速かつ的確な段取りで、父・レオニードの葬礼の準備は進められた。しかし、カーチャがその不自然さに気付くことはなかった。無理もない話だった。父親を亡くしたばかりの、ましてや八歳の子供に、そんな気を配る余裕など微塵もなかったのだから。
レオニードはかつての国家元首である。その葬儀は壮大に、かつしめやかに執り行われた。
国葬は一万人以上が収容できるドームで開かれた。喪主の名義はエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングだったが、実際の進行は現首相シーグル・ゼノの側近とも言われている、総務大臣エゴン・シスレーが行った。
国を挙げての行事になってしまったため、子供であるカーチャには出番が全くなかった。メイドのハンナもエルザもその事についてひどく怒っていた。この葬儀は旦那様のものだというのに、そこにお嬢様の居場所がないなんてひどすぎる――と。
今のカーチャには怒る気力さえなかった。父の死という現実があまりにも重すぎて、感情を司る回路が完全に麻痺してしまっているかのようだった。
カーチャはただ、椅子に座って呆然としていた。
国葬が執り行われているドームは、普段はスポーツの試合や芸能人のコンサート等が催されている場所だった。カーチャはその中にある、通常は控え室として使用されている部屋にいた。
メイド長のエルザは「総務大臣に抗議して参ります」と言って出て行ってしまったため、現在はカーチャとハンナの二人っきりだった。ハンナは先程からカーチャを気遣って何度も話しかけているのだが、天涯孤独の身となってしまった少女は虚ろな目をして生返事を返すだけである。
光沢のない黒無地のワンピースを身につけ、髪をまとめたカーチャは、椅子に座ったまま、じっと床の一点だけを見つめ続けていた。
死と運命を司る精霊を恨んでいるわけではなかった。恨んでも仕方がない、と考えているわけでもなかった。ただひたすらに、今のカーチャは何も考えていなかったのである。
母のルイディナ・ファン・ヴォルクリングは、カーチャが物心つく前に亡くなった。それから七年後の今、今度は父のレオニードが亡くなった。この大きく重く、そして辛すぎる現実を、カーチャの心は受け止めることが出来なかったのだ。
もう何も考えられない。否、何も考えたくないと、心の奥底が訴えていた。考えることを始めたら、父の死を少しずつでも受け入れなければならない。そんなことになったら、この小さい胸は張り裂けて死んでしまう。本能がそう察して、思考回路を停止させていた。
どこか遠くから、激しい足音が聞こえてきた。何者かが建物内を全速力で駆けているかのような、強い音。まずハンナがその音に気付き、あまりの激しさに驚いて腰を浮かせた。「何? どうしたのかしら……?」と呟くが、カーチャが返事をするわけもなく、ハンナは一人で意味もなくキョロキョロと辺りを見回すだけだった。
どうやら足音はこちらへ近付いてきているらしい。感覚の鈍っていたカーチャですら音に気付き、ゆるゆると面を上げた。
途端、足音が部屋のすぐ傍にまで来た。その瞬間、
「――カーチャァッッ!?」
バンと音を立てて部屋の扉が開き、何者かが飛び込んできた。
カーチャの琥珀色の瞳が、じんわりとその人物に焦点を合わせる。
髪を振り乱し、必死の形相で荒い呼吸を繰り返していたのは――蜂蜜色のカーリーヘアと澄んだラピスブルーの瞳を持つ、少女のような少年だった。
「よかった……! ここにいた……!」
喪服としての軍服、つまり純白のショートマントをも含めた最上位礼装――あくまで女物ではあったが――を身に纏い、猛然と部屋へ入ってきたベルは、カーチャの姿を認めると顔色を和らげ、ほっと安堵の息を吐いた。
「……ベル、さん……?」
しかし反応が妙に鈍く、表情の変化が薄いカーチャを見つけると、ベルは頬を張られたように顔付きを改めた。今日ばかりは色艶のないパンプスで足音を立てながらカーチャに歩み寄る。腰を上げかけた状態だったハンナが、その行動を止めるか否かと迷う素振りを見せたが、結局それは実行されなかった。
カーチャの前まで来ると、ベルは両手を腰に当て、足を肩幅以上に広げ、上体を前へ倒し、まるで頭上から食いかかる獣のようにその顔を近づけた。
カーチャの視線とベルのそれとが、真っ正面からかち合う。
目に光のない放心状態のカーチャはたっぷり五秒ほど経ってからそのおかしさに気付き、
「あ」
と小さく声を漏らした。が、そこで思考が止まったのか、それ以上唇は動かず、のろのろした動作で視線を斜め下に逸らし、しばらくして何かに気付いたように、また、
「あ」
と言うと、再びベルと視線を合わし、抑揚のない声で、
「……この度は、お忙しい中、父の葬儀に駆けつけてくださり、ありがとうございます……」
と言った。
「……きっと、父も喜んでいます。私はまだ、見ての通り、未熟者ではございますが、亡くなった父に笑われぬよう、精進していきたいと思っておりますので、どうぞ、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます……」
まるで機械のように。まるで入力されたデータを、ただ自動的に読み上げるように。カーチャは無機質に、典型的な喪主の挨拶を紡いだ。
その目は、多分、眼前のベルを見てなどいなかった。
あまりにも痛々しいその言葉を聞くベルの体は、小刻みに震えていた。その顔は、怒りを堪えているかのようだった。歯を食いしばり、眉を歪め――それが限界に達した時、
「バカッッ!」
と怒鳴ったベルは、勢いよくカーチャの体を抱きしめた。小さな体を、抱え上げるように、強く。
「……!」
若干だが、カーチャは驚き、息を呑んだ。その時、ベルがいつも薄く纏っている香水の匂いが、ささやかに鼻腔をくすぐった。そんなはずはないのに、何故だかとても久しぶりに嗅覚を使ったような気がした。
未だ感覚と感性に分厚い膜がかかっているような状態で、それでもカーチャは現状を訝しがっていた。
おかしい。これは、おかしい。異常事態だ。こんなこと、あるわけがない。
カーチャの胸の奥にあるノートには、ベルことベネディクト・ロレンスについてこう記されている。――意地悪な人。アイリスやサイラより、どちらかというとイオナに近い性格。他人をからかうためにはあまり手段を選ばないところがある。二重の意味でいやらしい。よく性的なことを口にしている。ある程度までいくとサイラが止めてしまうので程度はわからないが、それでもかなり助平なようである。顔は可愛いし、仕種も女の子っぽいし、声も鈴を転がすようだけれど、無邪気なように見えて実は腹黒で、まるで小悪魔みたいで、しかも本当は男の子。
だから、そんな人が、自分をこうやって抱きしめているのは、絶対におかしい。何かが間違っている。カーチャの中のベルは、こんな時にはきっと、「なーにしょっぱい顔してんのさぁカーチャー♪ 元気だしなよー。ジジイとかオッサンが死ぬとこなんて戦闘でもう何度も見てきてるじゃん? ほらほら、顔びろーん」とかするに決まっているのに。
「バカ……! 本当にバカだよお前っ……!」
どうして実際のベルは、こうしてカーチャを抱きしめて、鼻水混じりの涙声で喋り、肩を震わせているのだろうか。
「……いたい、です……」
ベルがあまりにも強く抱きしめるので、思わずカーチャの口からそんな声が漏れた。その途端、ベルがカーチャの両肩に手をかけて、ばっと体を引き離す。改めてカーチャの視界いっぱいにベルの顔が現れたのだが、その常ならば悪戯っぽい光が宿っている瞳に、この時は見慣れない物が付着していた。
涙だった。パッチリとしたラピスブルーの双眸に、今にも溢れんばかりの雫が溜まっていた。いつもの澄まし顔はどこへ行ったのか、口をわなわなと震わせ、今にも嗚咽しそうな表情だった。傍で見ているハンナからすれば、人形のごとく無表情のカーチャと並んでいて、実に対照的に見えたことだろう。
ベルは駄々っ子のように顔を歪めてカーチャを睨み付けると、絞り出すように怒鳴りつけた。
「なんで……なんで泣いてないんだよ! お前は本当にバカか!? 親が死んだんだろ!? こんな時にまで優等生の顔しなくたっていいんだよ! 無理しなくていいんだよ!」
これは演技ではなく、本気なのかもしれない。カーチャはそう思った。何故なら、ベルの声が、いつもの作った女声ではなく、普通の男の子の声だったからだ。故にカーチャは直感的に悟った。今、彼女――否、彼は、心の底からこの言葉を言ってくれている、と。
だが、凍り付いた心は、固着した仮面は、そう簡単には柔らかくならない。カーチャは思わず、何気なしに、小首を傾げた。するとベルの顔が更に歪み、とうとう目尻から涙が零れた。
「なあ、頼むよ、泣いてよ、カーチャ……僕にも解るんだ、親がいなくなった時の気持ち……だから、そんな風に無理してる顔を見ているのは辛いんだよ……!」
ベルの腕がカーチャの肩を揺さぶる。その動きで、ようやくカーチャの心と体に、亀裂が走った。壊れないよう、綻びないよう、心を止めて踏ん張ることで、悲しみの淵に落ちていくことがないようにしていたのに。抱きしめられた時に感じた力強さと、暖かさが。今も肩に触れる手の温もりが。カーチャの事を真剣に想ってくれている顔と声が。カーチャの心の奥深くにどんどん進入してくる。
目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛くなる。喉が締め付けられるように苦しくなってきた。
「ベルさん……」
無意識に、震える声で名前を呼んだ。そうしたら、ベルの両手が肩から頬へと移った。少年だと思えないほど綺麗で繊細な指が、優しくカーチャの薔薇色の頬を撫でた。それでも顔は涙を流しながら、歯を食いしばった声で、
「なあ、お願いだよ。悲しいのが大きすぎて、辛いなら……ぼ」
そこで嗚咽が混じった。「ひうっ」というしゃっくりのような音を混ぜて、無理矢理に彼女は言葉を絞り出す。それは濁音だらけで、およそ人間の話す言葉ではなかった。
「ぼくも、ぼくもいっしょにないてやるからさぁ……! はんぶんもたすけてあげられないかもしれないけど、ひとりでなくよりぜんぜんましだからさぁ……! おねがいだからぁ……!」
ぐちゃぐちゃだった。「泣け」と言っている本人の涙腺こそが完全に崩壊していた。もう言葉も紡げなくなったのか、ベルは顔をべちょべちょにしたまま再びカーチャを抱き締め――否、抱き付いた。幼い少女の肩口に顔を埋め、声にならない声で噎び泣く。
その姿が、硬直していたカーチャの心を強く打った。氷結していた魂に、熱を注いだ。
「――どうして……?」
カーチャの細い喉から漏れ出たその声もまた、他者には人の言葉に聞こえなかったことだろう。どう控えめに聞いてもそれは「どぶじで」としか捉えられなかった。その後はもう、言葉にすらならなかった。
――どうして、いつもはあんなに意地悪なのに、どうして、こんな時に限って、こんなにも優しいんですか……!
気がついた時にはカーチャの目からも涙が流れていた。鼻水が垂れ、すすり、収縮した喉奥から嗚咽が溢れ出る。短い腕は縋る物を求めるようにベルの腰に回り、軍服の裾をぎゅうっと握りしめていた。
「――~っ……!」
わかった。わかってしまった。自分が今まで泣かなかった、いや、泣けなかった理由が、カーチャにはわかってしまった。
自分には、足りなかったのだ。
一緒に泣いてくれる人が、足りなかったのだ。
ハンナもエルザも、その他の使用人も、皆が皆、父の死を当たり前のように受け止めていた。当然、涙は見せていたが、それはどこか予定調和のようにカーチャには感じられた。父は老人と言っても良い年齢であったし、使用人とは結局は雇い雇われの関係で、肉親ではない。だから悲しみもどこか他人行儀だった。そんな人々の真ん中で、どうしてカーチャ一人だけが本気になって泣くことが出来るだろうか。周囲とのあまりにかけ離れた温度差に、自然とカーチャの心も体温を奪われ、凍り付いてしまっていたのだ。
けれど、ベルはそうではなかった。本気で、恥も外聞もなく、泣いてくれた。使用人達とは違う、予定調和の涙ではなく、堪えきれない何かを吐き出すような嗚咽を聞かせてくれた。カーチャ一人では背負いきれない悲しみを、半分こにしようとも言ってくれた。
「――……っ!」
嬉しかった。この人は、私と悲しみを共有してくれる。私を抱き締めてくれるし、抱き締めさせてもくれる。父が亡くなった瞬間から、今この時まで、カーチャを包んでくれる人は誰もいなかった。だから、誰かの体温がこんなにも温かいなんて、すっかり忘れてしまっていた。それを思い出して、心にも血が通うように、温度が戻ってきた。
息を呑む。
「――あ……!」
声が、本音が、とうとう漏れた。
湧き上がる感情を抑えることは出来なかったし、そのつもりもなかった。カーチャはベルの肩に顎を乗せた状態で、大きく口を開き、泣き声を上げた。
体の中で荒れ狂う激情を吐き出すように、声を出せばそれだけ感情の熱が体外に放射されると信じているかのように、ただ一途に、火がついたように、カーチャは号哭した。
子供達が泣いている。
ハンナは互いに抱き合い、寄り添って号泣する八歳の女の子と十四歳の少年を、涙ぐみながら見つめていたが、やがてここに自分の居場所はないと判断し、静かに退室することにした。
お嬢様と共に泣くのは、自分の役割ではない。そうハンナはわきまえていた。その役割を果たすのは、お嬢様の【仲間】であるべきことを、彼女は知っていたのだ。
カーチャとベルが気付かないよう、密かに扉を開けて部屋を出る。廊下に身を移して扉を閉めると、子供達の泣き声はやや遠のき、密度の違う空気とわずかな静寂とが、彼女の白い肌に触れた。
と、人の気配を感じた。若干の予感を胸に抱きつつ、そちらへ視線を向けると、果たして扉のすぐ傍にその人物はいた。
「イオナ様……いつから、そこに?」
照明の光を受けて七色に輝く銀の髪と、それ自体が光を帯びているかのごとき金の瞳を持つ男のような女が、腕を組んで壁にもたれるようにして立っていた。いや、彼女だけではない。そのすぐ隣に、緩くウェーブのかかったブルネットと肉感的な肢体を誇る元男と、筋骨隆々の男戦士にしか見えない女も控えていた。全員、深紅の最上位礼装の出で立ちである。
ハンナと彼女たちは知己であった。
ハンナの問いに、イオナは片手をゆるく上げて、薄く微笑して見せた。一部始終を聞かせてもらっていた、とでも言っている風だった。その隣のアイリスも目を伏せて慈母的な表情をしていて、さらにその隣のサイラに至っては、どうやら貰い泣きしたらしく、サングラスの下から滝のような涙が床に向かって流れ落ちていた。音を立てないよう我慢していたせいだろう、とめどなく漏れ出る鼻水が、頭髪と繋がった鼻毛に絡まって、すごいことになっていた。
ハンナは先程自分が出て来た扉を一瞥し、小さく嘆息した。きっとこの三人は、部屋の中でお嬢様と一緒に泣いているベルに気を遣ったのだろう、と推測する。彼が孤児であることはハンナも知っていた。ちょうど今のカーチャと同じ年頃に、事故で両親を亡くしたと聞いている。その後、収容された施設で変態にひどいことをされたり、夜中に逃げ出して男娼になったり、紆余曲折を経てアインヘルヤル軍に入隊したりした彼は、同様の境遇となってしまったカーチャに強く共感するものがあったに違いない。三人もそのことを知っているからこそ、敢えて入室せずに、ここで見守っていたのだろう。
それはベルにとって重大なことであったろうが、同時に、カーチャにとっても重要なことでもあった。今のお嬢様には、身の回りの世話をするメイドではなく、共に涙を流してくれる【仲間】こそが必要だったのだから。
故に、ハンナは三人に向かって頭を垂れた。
「お心遣い、痛み入ります。これからもお嬢様――いいえ、我が当主を、よろしくお願いいたします」
面を上げた水色の両眼に、忠義に篤い者だけが持つ輝きが宿っていた。
発作のような悲しみの波が一旦おさまりかけた頃に、イオナ、アイリス、サイラの三人までもが部屋に駆けつけてくれた。
カーチャは彼女たちにも涙ながらに礼を言い、抱擁を交わした。
肩にのし掛かってくるような重い空気が充満する部屋で、少しでも場を和ませようと思ったのだろう。涙をハンカチで拭ったアイリスが、こんな事を口にした。
「カーチャちゃん、男の子ってね、可愛いと思っている女の子ほど意地悪したくなっちゃうものなのよ?」
「はい……?」
いきなりすぎる話に、カーチャは赤い目をキョトンとさせる。
「ね? ベルちゃん」
アイリスはそう言って、笑いながら目線を部屋の隅っこの椅子に座っているベルに向けた。水を向けられたベルは、吃驚したように肩を震わせて、唇に塗り直していたグロスを取り落とす。涙で崩れてしまったので、化粧直しをしていたのだ。
その場にいる全員から注視を受けたベルは、油の切れた機械のようなぎこちない動きで体をこちらへ向け、でも泣き腫らした目はちらりと一瞥させただけですぐについっとあらぬ方向に逸らし、唇を尖らせて、
「な、なんだよう……」
と拗ねたような声で言った。顔が明らかに茹でたタコよりも赤かった。そして、そのまま両足を大きく開いて椅子に深く腰掛けなおし、両手で股の間の座席部分を握り、ぐにぐにと弄りながら、
「ぼ、僕は別にカーチャのことを可愛く思ってなんかないし、ただこんな時まで意地悪なこと言うのもなんだし、ちょっと可哀想だから優しくしてやっただけで、僕は別に……」
僕は別に、と二度も繰り返しながら段々と声が小さくなっていく。その語尾に被さるようにイオナの笑い声が響いた。
「はっはっはっはっ! 良いことを教えてやろうマイ・エンジェル」
偉そうにふんぞり返るようにして椅子に浅く腰掛けていたイオナは、それこそ、いつものベルが浮かべているようないじめっ子の表情でにやりと笑うと、人差し指で女装少年を差し、
「ベルの奴この会場に着いた途端、何も言わずに一人だけで走り出してな。それはもうものすごい勢いだったぞ。もっと言うと、ここに来るための車に乗る前にも、俺達の準備が待ちきれなくて一人だけ『ディオネ』で飛んで行こうとしていたぐらいだからな。よっぽどお前のことが心配だったらしい」
イオナに恥ずかしいことを暴露されて、ベルが爆発した。
「ちょ――っ!? バ、バカッ! イオナ大佐のバカッ! 変なこと言うなよなっ! 違うし! ぜんぜんちがうしっ! 僕そんなことしてないしっ!」
真っ赤っかになった顔で叫んでも、説得力はまるでなかった。
さらに言い訳を言い募ろうとしたベルに、珍しくサイラが、
「……軍曹、足が。それと、言葉遣いも……」
と突っ込んだ。ぶっとい人差し指が、大股開きになったベルの下半身を示していた。それは女子の座り方ではない、男の座り方である、と。また、本人は気付いていないだろうが、先程からずっと声と口調がいつもの可愛らしい少女のものではなく、そこらにいるような普通の少年になっていたのである。
動揺しているのがモロバレだった。慌てて両膝を閉じてスカートの乱れを正し、咳払いをして喉を整えるが、誤魔化せるタイミングはとっくに過ぎ去っている。それでもベルは、手遅れと解っているだろうに、悪あがきをする。肩に掛かる髪を払って、ぷいっと顔を逸らしながら、
「きょ、今日だけなんだから! 今日だけ特別! 今日のボクは特別なボクなの! 明日からはいつも通りだもんね!」
無理矢理にとはいえ、あんなに泣いた後でもちゃんと声の調子をいつものものに切り替えたのは大したものだった。
わずかな沈黙。それを挟んで、イオナが居住まいを正し、急に控えめな声で話しだした。
「それにしても、すまなかったな。来るのが遅れてしまって。【事情】があってな、俺達にヴォルクリング氏の死がなかなか【公式に通達】されなかった。心細い想いをさせてしまった……お詫びにキスしよう」
「……結構です」
最後の一言さえ無ければよかったのに。カーチャの胸の中が残念な気持ちで一杯になる。
それにしても妙な言い方をするものだ、とカーチャは思った。【公式に通達】されなかった、とはどういう意味なのだろうか。そんなものが無くとも、ラーズグリーズへの連絡はエルザがしてくれていたはずなのだが。
「あの、【事情】というのは……?」
「ああ」
カーチャの問いに、イオナは大仰に頷き、視線をアイリス、サイラ、ベル、そして最後にハンナに向けた。それは何かの合図だったのだろう。期してカーチャ以外の全員が椅子から立ち上がった。
「えっ……!?」
驚くカーチャを他所に、まずハンナが少女の座する椅子のすぐ隣に立った。続いてイオナを代表とした四人が、カーチャと向かい合う形に並んだ。彼女たちを取り巻く空気に、先刻までの和気藹々としたものは残滓もない。急速に緊張感が高まる中、なんとイオナがその場に片膝をついた。後ろに控える三人も、一拍を置いてそれに倣う。
端から見ればそれは、まるで幼い女王にかしずく家来達のようだった。
「ヴォルクリング家の新しき当主、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング様にお話があります」
突如として質の違う声で語りかけるイオナ。その表情は『真剣』の一言に尽きた。その瞬間、カーチャは理解した。
今、イオナは、カーチャに話しかけているのではない、と。
イオナは、【ヴォルクリング家の当主】に話しかけているのだ。
訳がわからなかった。だが、イオナの双眸に宿る凄烈な意思が、ここでカーチャに狼狽えさせることを許さなかった。ここでカーチャが私人として振る舞えば、それは結果的にヴォルクリング家の名を貶めることになる。カーチャにとて、名門貴族の末裔としての矜持が少なからずある。目の前の女性が『イオナ大佐』ではなく『イオナ・デル・ジェラルディーン』として姿勢を決めた以上、自らも公人たる態度を貫かなければならなかった。
カーチャは椅子に座ったまま、背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた。呼吸を整え、まなじりを決し、低く抑えた声を発する。
「――それはどのようなお話でしょうか、イオナ・デル・ジェラルディーン様」
然り。今はもういない父が、そう頷いたような気がした。
「とても大切なお話です。聞いていただけるでしょうか」
それはもはや問いではなく、確認であった。故に、カーチャは厳かに頷いた。
「聞きましょう」
「ご厚意に感謝いたします。が……残念ながら、ここでは話せません」
その言葉の意味する所をたちどころに理解したカーチャは、傍に立つハンナに指示を出した。
「ならば、当方が場所を用意いたしましょう。ハンナ、屋敷に連絡を」
「かしこまりました」
深々とお辞儀をして、ハンナは携帯通信端末を手に退室した。客を迎える準備、移動手段の確保を行うためである。
ハンナの足音が聞こえなくなると、室内は急に静まりかえった。五人それぞれの吐息すら聞こえてきそうな静寂の中、耐えきれなくなったようにカーチャは唇を開いた。
「……詳細は後でかまいません。ただ、心の準備をしておきたいと思います。ジェラルディーン様、その話とは、我が父に関係することでしょうか?」
父の死に関連しているのか、とは敢えて問わなかった。
ここでは話せない話だ、とイオナは言った。そして、カーチャの父レオニード・ファン・ヴォルクリングが卒去したこの日に、イオナが改まって話を持ちかけた相手は【ヴォルクリング家の当主】だった。
この二つを合わせた時、予感が生まれた。
ここで話せない、ということはつまり、ここにいる誰かに聞かれては困る、ということだ。今日、この会場には、大勢の政治家や著名人が足を運んでいる。そんな人々には決して聞かれてはならぬ話を、彼女はしようとしているということだ。
政治のきな臭い匂いを、カーチャは感じていた。
「ご明察」
短く、しかしはっきりと、イオナは肯定した。カーチャは我知らず、固い唾を飲み込んだ。
人はこの世から去るとき、形のあるもの無いものを問わず、様々なものを遺していく。
カーチャの父が遺していったのは、一体どのようなものだったのか。
おそらくそれは、イオナの話を聞けば、おのずと判明するのものなのだろう。
ただ、それが決して軽いものなどでないことだけは、明白だった。