▼6-乙女と花壇と筋肉
▼6-乙女と花壇と筋肉
流石に三日ほど出勤拒否になった。
カーチャの心が負った傷は深かった。
あの後、目が醒めてからも、ずっと介抱してくれていたアイリスにしがみついて離れることが出来なかったし、そのアイリスがどうしても席を外さなければいけない時は相手がイオナだろうがベルだろうがサイラだろうが関係なく抱き付いて離れなかった。着替えの時も、シャワーの時も。トイレの時でも外で手を繋いでもらっていた。体はひどい風邪をひいた時のようにずっと震え続けていた。
屋敷に帰ってからも傍付きメイドのハンナにずっと手を繋いでもらっていたし、最初の晩なんかは久々に父親のレオニードに添い寝して貰ったぐらいだった。
カーチャ自身にも何が何だかよくわからないが、自分が生きていることそのものがとんでもなく危ういことのような気がして、一人でいるのが心細くてたまらなかったのだ。誰かに掴まっていないと、いきなり足元に穴が開いて死の淵に落ちていくかもしれない――そんな不安。自分が生きていたのは、こんなにも簡単に人が死んでいく世界だった。もしかすると自分は今までずっと、薄氷の上で何も知らずにはしゃいでいただけではないのか。ふとした瞬間に、なんだかよくわからない理由で自分はあっけなく死んでしまうんじゃないのか――
つまりは極端な被害妄想に陥ってしまったのである。
とはいえ、幼い心は脆く傷つきやすい反面、柔軟でもある。幼い魂は肉体と等しく、いつまでも同じ場所に止まっていられないのだろう。
三日も経てば流石に落ち着いてきて、本能にやられっぱなしだった理性もそろそろ反撃を開始する頃合いだ。
なんだかんだ言って、自分は生きている。そう、冷静に考えよう。思い返せば、彼我の戦力差は圧倒的だった。だからこそイオナも問題ないと判断して、自分を戦場に連れて行ったのだ。つまり、最初から自分の安全は考慮されていた。それはきっと、これからもそうに違いない。
軍隊なのだ。戦争もしているのだ。人が死ぬのは当たり前ではないか。何を甘えたことを言っているのだ。情けない。これのどこが天才少女だというのだ。これではただのヘタレではないか。
この際、カーチャの思考からは『自分の年齢から考慮されるべき甘さ』という成分は除外されている。これは客観的な話ではなく、主観的な問題なのだ。矜持に関する自問自答なのだ。
ダメだ。これではダメだ。このまま屋敷に引き籠もっていたら自分はダメになってしまう。それはいけない。許せない。そんな自分を許してはいけない。
四日目の早朝、ベッドで半身を起こして思索にふけっていたカーチャは、不意に顔を真っ直ぐ前に向けた。琥珀色の瞳には迸るほどの決意が滾っていた。
そうだ。自分にはやるべき事がある。皆に言わなければいけない事もある。逃げていてはダメだ。何も解決しないし、進まない。
有り体に言うと、無意識の部分で屋敷に籠もっていること自体に飽きがきているだけなのだが、そのような自身に都合の悪い事情は自動的に排除されるよう出来ているのが子供の思考というものである。カーチャは賢くとも、まだまだ子供であった。
幸い、今日のカーチャは早起きだった。というより三日目の晩にしてようやく眠れぬ夜が終わり、昨晩は心底ぐっすり眠れたのである。
――よし、行きますか! 皆さんにお礼も言わなければなりませんし!
カーチャはベッドの上に跳ね起きた。両手の拳を握り、脇を締め、柔らかい頬をぷっくり膨らませ、
「ふんす!」
と気合いを入れる。そのままベッドから飛び降りると、急いで支度に取りかかった。
カーチャは他の上流階級の娘とは違い、自分のことは自分でする少女だった。勿論、可能な範囲で、の話である。半分は常人より発達した知性がそうさせているのであろうが、もう半分はカーチャ自身の性格でもあった。昔から、何でも自分でやってみなければ気が済まない質なのである。あるいは、そういった志向こそが今の彼女を作り上げたのかもしれない。
世間における旧帝国貴族の令嬢の場合、八歳ならまだ服の着替えまで使用人にしてもらっている年頃だ。カーチャは知識としてそのことを知ってはいたが、自身がそれに倣おうとは思わなかった。そういうのは格好悪いと思うのだ。
それは母親がいないからではないのか――他人からそう言われたのなら、きっとカーチャは全身全霊でもって反発したであろう。違います、そんなことはありません、乳母のミリーナさんもいるし、メイドの皆さんもいるし、お父様だって優しいから、私はお母様がいなくたって平気です――と。
そうは言っても無関係でないはずがなかった。本人は頑なに自覚するまいとしているが、母親の不在が幼い少女の精神の地平に、不毛の凍土を形成させているのは紛れもない事実なのだから。
カーチャの母親はもう亡い。カーチャが物心つく前に病気でこの世を去った。以来、父は再婚することもなく、使用人の手を借りながらではあるが、男手でカーチャを育てている。
カーチャの頭の中には母親に関する想い出がない。顔は写真で見て知っているが、そこに写っている栗色の髪と琥珀の瞳を持つ淑女が、自分の母親である実感はまるでなかった。結婚当初から母の年齢は父の半分以下で、まだ若かったという。実の娘であるカーチャから見ても容姿端麗な母が何を思って、昔の写真の中ですら白髪の父と結婚したのか、全く想像がつかなかった。
「それは勿論、旦那様が奥様を愛し、奥様も旦那様を愛しておられたからですとも」
とは乳母のミリーナの言である。だが若い女と老人が結婚するというのは、幼い子供でもおかしいと思えることだった。元より余命が少なく、結婚を急いだのかもしれない――そんな可能性を考え、質問したこともあった。するとミリーナは驚いた顔で、
「お嬢様。お産というのはとっても大変なものなんですよ。病気の体ではとてもとても……。ですからね、お嬢様、そんなことは有り得ません。絶対に。わかりましたね?」
全部が全部そうであるとは限らないが、少なくともカーチャはミリーナの言葉から嘘の匂いを嗅ぎ取った。口には出さなかったが、カーチャはこう考えた。きっと母は体が悪いのに自分を産んだのだ。そして、そのせいで天国に行ってしまったのだ。なら自分は、その母の分まで立派に生きなければいけない――
幼心にそう決意したことを、しかし今のカーチャはもう覚えていない。それでも、その時の決意の〝核〟は、今もカーチャの中に根を張って生き続けている。
顔を洗って歯を磨き、髪を梳いて寝癖を直し、ラーズグリーズの軍服に着替えた。部屋を出て食堂に行くと、先客がいた。
「おはよう、カーチャ。気分はどうだい?」
父のレオニードが、新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいた。カーチャは小走りに父の元へ寄って、爪先立ちになって頬に挨拶のキスをする。
「おはようございます、お父様。今日はとても良い気分です」
笑顔で言うと、父もまた相好を崩して、そうかそうかと頷いた。
「……今日は行くのかい?」
カーチャの纏っている軍服を見ての言葉だ。カーチャは、はい、と頷き、
「いつまでも落ち込んではいられませんから」
「そうか……うむ。流石は私と母さんの娘だな。……でもたまには、この間みたいに添い寝をねだってくれてもいいんだぞ?」
にやりと笑いながらの一言に、カーチャの顔がわずか赤く染まった。
「も、もうっ……お父様のばかっ」
恥ずかしさのあまり、ぽかぽかと軽く父の肩を叩くカーチャ。それでも嬉しそうに笑う父はもう無視することにして、カーチャは壁際に控えていた傍付きメイドのハンナに顔を向ける。黒髪のメイドは礼儀正しく一礼し、
「おはようございます、お嬢様。朝食になさいますか?」
「おはようございます、ハンナ。すぐに出ますから、軽く簡単なものをお願いします」
カーチャは相手が使用人であろうと居丈高な態度はとらない。かつて母がそうしていた、とミリーナから聞いたからだ。ハンナに挨拶を返すと、カーチャはいつもの席に着いた。
すぐに運ばれてきたパンと卵とサラダ、そして香茶を行儀良く、かつ素早く胃に流し込む。
カーチャが朝食を片付ける頃、ちょうど父もコーヒーを飲み干したのか、背後にいたメイドに声をかけた。
「エルザ、今日は何か予定はあったかな?」
この屋敷でメイド長を勤めるエルザは、二十年前なら道行く若者達が口笛を吹いたであろう面貌にかけた眼鏡を、くいっ、と持ち上げてこう答えた。
「本日はオイゲン様との約束が御座います、旦那様」
かつてこの国の首相をも務めていた父は、政界を引退してから、どうやら暇を持て余しているようだった。いわゆる隠居生活というやつで、たまに来る客人が数少ない楽しみの一つとなっているらしい。そうかと応える父の声が、少し嬉しそうだな、とカーチャは感じた。
――……はて? オイゲンってどこかで聞いたような……?
そう思った時、ふと壁際の時計が目に入った。まだ余裕はあったが、カーチャはいつも一時間は早く目的地に到着することを旨としている。その意味ではギリギリだ。
「――それではお父様、カーチャは行ってまいります」
「ああ、行っておいで。気をつけるんだよ。ジェラルディーン大佐にはよろしく伝えてくれ」
「はい」
新聞を畳みながら眼を細める父に恭しくお辞儀すると、カーチャは食堂を出た足で洗面所に向かい、歯を磨いてから屋敷を後にした。
玄関を出てすぐの場所に外燃型の車が用意してあった。ハンナの手配である。エルザには及ばないが彼女もヴォルクリング家のメイドとして長い。実に良い手際だった。後部座席の扉を開けてくれた運転手に礼を言って、カーチャは車に乗り込む。
ヴォルクリングの屋敷からグラズヘイムまでは車で三十分ほどの距離である。その間、カーチャは車内で頭を悩ませることになった。
ラーズグリーズに行くと決めたはいいが、いざ行くとなると、どうすればいいのかわからなくなったのである。
――そ、そういえば、色々と精神的にアップアップだったのですっかり忘れてましたけど、自分すごいことやったりやられたりしてました……!
今更のように頭を抱えるカーチャ。四日前のことが脳裏にまざまざと蘇る。今ではあの時の戦闘で、自分がどれほど愚鈍で、どれほど皆の足を引っ張っていたのかもよくわかっていた。その件に関しては勿論、首が引っこ抜けるほど頭を下げなければ、と思っている。だが、それ以上の問題がある。人として、否、乙女として避けては通れぬ問題だ。
イオナにディープキスされた。
「ひぁああああ……!」
思い出しただけで悲鳴が出た。真っ赤になった顔を両手で覆って、両足が意味もなくジタバタと暴れる。何だかよくわからない感情の奔流で体が爆発してしまいそうだった。
「――お嬢様、具合がお悪いので?」
バックミラー越しにカーチャの不審な行動に気付いたのだろう。初老の運転手が心配そうな声をかけてくる。三日間も引き籠もっていた子供が、今また背後で妙な動きをしているのだ。心配するのも無理はなかった。カーチャは慌てて首を横に振り、
「い、いえっ大丈夫ですっ何でもありませんっ平気ですっ」
「そうですか……しかし、ご気分が優れないようでしたら、すぐに言ってくださいまし。急いで戻りますので」
「は、はい……」
返事しつつ、カーチャは胸の動悸が静まらないことに動揺していた。顔の火照りもおさまらない。熱病の発作のようであった。そしてその発作は、どうもイオナの中性的な顔を思い出す都度にひどくなっていくようなのだ。
――そ、そんなにイオナ大佐に会うのが怖いんでしょうか、私は……
両手を胸に当て、体を精一杯縮めて、言うことを聞かない心臓を必死に押さえ込みながら、カーチャは思う。これは異常だ、と自分でもわかる。顔を思い浮かべただけでこんなに胸が苦しいだなんて。
それは幼いカーチャにはまだ理解できない感情だったのだろう。具体的に言えば、視床下部が発した巨大すぎる信号を扁桃体がどうにかこうにか色付けに成功したが、肝心の前頭葉が経験不足すぎて肝心な処理に失敗してしまったのである。
気付くはずもなかった。四日前、アイリスがイオナを見ていた時と同じような表情が、自分の顔にも張り付いていることになど。
とくん、とくん、とようやっとおさまってきた胸の高鳴りに安堵しつつ、カーチャは考える。
――どんな顔をして会えばいいんでしょうか……
会わせる顔がない、とはまさにこの事だ。イオナの前に出た時、怒ればいいのか、泣けばいいのか、さっぱりわからない。いっそポーカーフェイスで全てなかったことにすればいいのか。いや、それが出来れば一番だが、イオナと目を合わした時のことを考えると、とても平静でいられる自信がなかった。
時間は無情である。結局カーチャは答えが出せないまま、車を降りることになった。
グラズヘイムはもちろんのこと、軍用施設に一般車両は入れない。大地に足を下ろしたカーチャは運転手に礼を言って帰らせると、十二柱の戦女神が自分を見下ろす門へと歩いて行った。余談だが、この戦女神達はかつて神々の戦争において、天使の身でありながら誰よりも主神を助けた功績を称えられ、戦いを司る女神の位に昇華したという。自分にもその勇気と力を分けて欲しい、とカーチャは切実に願った。
門番は笑顔で遇してくれた。どうやらすっかりカーチャの存在は好意を伴って受け入れられたようである。また佐官の専用車の運転手も態度が柔和になっていた。本物の少佐のような扱いで、カーチャをラーズグリーズ本部前まで届けてくれた。
急な対応の変化にカーチャは戸惑いが隠せない。一般兵士の彼女たちに一体何があったのだろうか、と頭を捻る。実は、四日前にカーチャが戦闘中に失禁した件がイオナとベルの吹聴によってワルキュリア軍全体の知る所になっていたことを知るのは、後日のことである。
ともあれ、カーチャはラーズグリーズのすぐ前まで来てしまった。当然ここに至るまでの間も脳みそをこねくり回し続けたが、良い結論は出せず仕舞いだった。
立ち尽くす。
いかにも世界の果てに放置されて忘れ去られたかのような三階建ての建物を前にして、カーチャは足を進めることが出来ずに凝然としていた。
こんなところでこうしていても仕方がないし、行かなければいけないこともわかっている。だが、勇気ある第一歩がどうしても踏み出せなかった。そこに、
「少佐」
背後から声がかかった。
「――っひゃっ!?」
弾かれたように振り返ったカーチャは、そこに山男を見た。
違う。よく見たらそれはサイラだった。
相変わらず真っ黒な髪と肌に、よく似合うごつめのサングラスをかけ、逆に全く似合わないラーズグリーズの深紅の軍服を纏っている。スカートの裾からのぞく筋肉質な足は熊ですら一撃で蹴り殺せそうだった。
「さ、サイラさん……? あ、あっ、お、おはようございますっ!」
大きい、男の人だ、いや違う、スカートをはいている、女の人だ、あっ、これはサイラさんだ――という順番でようやく相手を認識したカーチャは慌てて姿勢を正し、敬礼をとって朝の挨拶をした。
「おはようございます」
びしっと音が聞こえてきそうなほど見事な答礼をするサイラは男前だった。というより、サイラの性別に関してはカーチャは今でも半信半疑である。なにせ縮れた揉み上げがそのまま鼻の穴の中にまで繋がっているのだ。言っては何だが、どう見ても〝女の顔〟ではなかった。
声だけは若い女性の物だと認識できるサイラが、
「どうしたのですか? こんな所で」
その声音にはカーチャを気遣う色があった。だがカーチャはそれには気付かず、質問の内容にただ慌てた。
「あ、えっと、その、あの、ですね、何というか……その……あの……えっと……ですね……何というか……」
自分でも何を表現したいのかよくわからない身振り手振り付きでカーチャは何か良い言い訳をしようとしたが、結局何も思い付かなかった。しどろもどろに動いていた手足はやがて失速し、カーチャの視線はサイラから外れて足元に向かった。
俯き、終いには沈黙してしまったカーチャに、
「……少佐、こちらへどうぞ」
とサイラが言った。
「……え?」
カーチャが顔を上げると、既にサイラは大きな背を向けて歩き出していた。足の向かう先はラーズグリーズ本部――ではなく、その右側のようだった。サイラの背中が有無を言わせない空気を発していたので、カーチャは少し迷った後、追いかけることにした。
サイラは本部の右側面を通り、そのまま建物の裏へと回った。歩幅が違いすぎるためカーチャは小走りになって、壁の向こうに姿を消したサイラを追いかけた。
「……わぁ……!」
そしてラーズグリーズ本部の裏庭に出たカーチャは、視界一杯に飛び込んできた光景に思わず声を漏らした。
そこは、一面の花畑だった。色取り取りの花々が所狭しと咲き誇り、陽の光を浴びて輝いていた。殺風景な中に突然現れたこの世の楽園に、カーチャの瞳も光を帯びて煌めいた。
「綺麗……!」
まさか軍の敷地内に、しかもラーズグリーズの裏庭にこんな美しいものがあるとは夢にも思わなかった。流石に屋敷の庭園と比べれば見劣りするが、それでも周囲の環境を思えば、充分に立派な花畑だった。
水の音が聞こえたのでそちらに目を向けると、サイラが建物の傍に備え付けてある水道の近くでしゃがんでいた。どうやら如雨露に水を注いでいるようなのだが、体の大きいサイラと普通の如雨露とではいかにも比率がおかしい。本来なら掌全体で掴むはずの取っ手を、まるでそれがカップか何かのように二本の指で引っかけていた。はっきり言って、似合わなかった。思わずカーチャは小さく吹き出してしまう。
「……喜んで貰えて、嬉しいです」
「え?」
サングラス越しなのでよくわからなかったが、どうやらサイラはカーチャの事をずっと観察していたらしい。笑った途端にそう言われて、カーチャはキョトンとする。一拍遅れて、言葉の意味に気付いた。
――サイラさん、もしかして、私を元気づけようと……?
見ると彼女の口元には確かに笑みがあった。本当にカーチャの笑顔を見て喜んでくれているようだった。
そう理解した瞬間、カーチャの体は微かに震えだした。掌で口元を押さえる。それは、魂の奥底からわき起こる感情だった。
――か、感激ですっ……! なんだか生まれて初めて人の優しさに触れたような気分ですよ……!?
冗談抜きでちょっと涙が出たカーチャだった。
如雨露で花に水をやり始めたサイラに、カーチャはゆっくりと歩み寄る。
見た目だけでは、この花畑にサイラは不釣り合いな存在だった。正直に言うと、今の今までカーチャの心には、この大きな女性に対して怯えている部分さえあった。
それが、今は完全に氷解していた。今なら、この女性ほど花畑が似合う人はいないと断言できる。カーチャは、サイラの心に、直接触れたような気がしていた。
きっと不器用な人なのだ。カーチャはそう思った。大きくて、筋肉質で、男の人にしか見えなくて、口数は少ない。けど、それは全て表面だけのこと。その内側には、こんなにも綺麗なお花畑をつくる繊細さと、花の美しさを愛でる優しさとが、ふんだんに詰まっているのだ。
カーチャはサイラの横に立ち、シャワーを浴びる花たちを眺めた。陽光が煌めいて、小さな虹が見えた。
「……ここはサイラさんがお世話をしているんですか?」
その質問はカーチャの中から、驚くほどするりと出て来た。自分でも意外なほど、簡単に声が出たのだ。
「はい」
サイラの返事は短い。だがそれを不安に思うことはなかった。今日まではサイラの寡黙さには、どことなく何を考えているかわからない不気味な雰囲気を感じていたのだが、そのカラクリはもう解けた。カーチャは自然と笑顔を浮かべて、言葉を継ぐことが出来た。
「お花、お好きなんですか?」
「はい。好きです」
「そうですか。私もお花は好きです」
「はい。良かったです」
「お花を見ていると、心が落ち着きますもんね」
「はい。死者への手向けにもなります」
カーチャの笑顔が凍り付いた。
「…………」
サイラがテロリストを斬り殺すシーンを思い出して一気に萎えた。カーチャの中で色々な物が台無しになった瞬間だった。
カーチャの急激な表情の変化に気付いたのだろう。サイラが声を改めて、
「……すみません。自分は、苦手で」
「……苦手?」
妙な言い方だな、と思ってカーチャは聞き返した。サイラは花に水をやりつつ、ゆっくり横に歩きながら、何かに迷うような沈黙を数秒。
「……言葉が、苦手です。正確には、公用語、なのですが」
片言な喋り方でそう言った。言われてみれば、とカーチャは思い出す。これまでサイラの口から聞いていたのは、考えてみればそのほとんどが片言な口調だったように思える。そういえば初めてサイラと会った時、その外見の特徴から、カーチャは彼女が地方豪族の末裔なのではと推測したのだ。
公用語が苦手、とサイラは言った。つまり、
「……公用語でなければ、苦手ではないんですか?」
サイラは、こくり、と頷く。カーチャの見間違いでなければ、サイラの耳あたりが若干赤いような気がするので、照れているのかもしれない。ちょっと可愛い、と年下ながらに思う。
――つまり、訛っている言葉を聞かれるのが恥ずかしいんでしょうか……?
そう推察したカーチャだったが、そんなことより地方の方言を生で聞けるかもしれない、という興味のほうが先に立ってしまった。
「あの……ちょっと喋って貰ってもいいですか? サイラさんのふるさとのお言葉」
如雨露の水が尽きた。だが、サイラはそのまま動かず、沈黙したままだった。顔を見上げると、先程より赤味が増しているようだった。
「……あの……そんなに、恥ずかしいんですか?」
サイラは、こくり、と頷く。
地方出身者が都会に上がってきた時、その方言をバカにされて無口になってしまうことがままある――という話はカーチャも聞いたことがある。
けれど、それはおかしい、とカーチャは思う。言葉の違いはつまり、文化の違いでもある。国内の異文化をバカにするのは、他国の文化をコケにするのと何も違わない。一区切りされた国家の中ですら地域によって文化の違いが生じる。それはとても素晴らしいことだと、学者肌のカーチャは思うのだ。だからバカにするなどとんでもないし、それを恥ずかしがる必要なんて全くないと考える。むしろ個人的には興味深い事柄なのだ。
だがサイラの様子を見る限りでは、余程の劣等感を抱いてしまっているようだった。それでもカーチャは、自分の思う所を拙くても良いから伝えようとした。
「あの、サイラさん、私じつは地方の言葉にも興味がありまして! ほ、ほら、これでも一応学者ですから! なのでサイラさんのふるさとの言葉にも興味がありまして、なによりですね、私サイラさんのことをもっと知りたいなぁって思いまして! だ、大丈夫ですよ! 気にしなくて全然大丈夫です! ほら、自分が気にしていることが他の人は意外と気にしてなかった、なんてことは結構多いですから! だから恥ずかしがらないでください! 私は絶対に笑ったりしませんから! ね? ね? だから勇気を出して――」
不意にぴたりとカーチャの口が止まった。
自分の言葉が、そのまま自分の胸に突き刺さったのだ。
――勇気を出して、ですって? はっ、どの口が言っているんですか、この馬鹿は。
いきなりカーチャの中にいる冷酷なカーチャが、今まで適当に思うがままを口にしていた愚かなカーチャを、冷たく見下ろして嘲笑った。
「……?」
一時停止ボタンでも押されたかのように突然硬直してしまったカーチャに、サイラが首を傾げる。
冷酷なカーチャが、考え足らずのカーチャに遠慮のない侮蔑の視線と言葉とを浴びせる。
――勇気を出して言ってください? はん。よりにもよって、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング? 貴方がそれを言うんですか? この――勇気の一欠片もない、臆病者の負け犬がッ! 本当に勇気を出して言わなければならないことがあるのは、貴方の方じゃないんですかッ!?
自己の内なる声に打ちのめされ、カーチャは両の拳を強く握りしめた。歯を食いしばり、サイラの顔を見るために上げていた視線を地面に向け、俯く。
絞り出した言葉は、謝罪だった。
「……すみません。私、馬鹿です。サイラさんに偉そうなこと言える資格なんてありませんでした……本当にごめんなさい」
下を向くと、サイラが精魂込めて世話しているであろう花々が視界に入る。花は雨に打たれても俯かないのに、それに比べて自分はなんと情けないのだろうか。カーチャは唇を噛みしめる。
せめて、見習おう。自分は小さくて、臆病者で、負け犬だけど、少しでもこの花たちのように空に向かってまっすぐ大きくなれるように。
カーチャは大きく息を吸い込むと、
「――すみません! いきなりこんな事を言っても驚かれるでしょうし迷惑に思われるかもしれませんけど……! 私、皆さんに隠し事があったんですっ……!」
勢いよくサイラに向かって腰を折り、深く頭を下げる。
サイラは無言。出し抜けの謝罪と告白に困惑しているのかもしれない。だがそこに構っていられるほど今のカーチャに余裕はなかった。
「ずっと、ずっと、言おうと思っていました。でもなかなか機会がなくて……なんて言ったら、言い訳にしかなりませんよね。先日、どうしようもないほど絶好の機会があったんですから……」
四日前のことが脳裏に蘇る。あの日カーチャは、イオナから手渡された精霊式拳銃の引き金を引き、しかし撃つことが出来なかった。
多分、あれを見た全員が気付いていたはずだ。
だから、言おう。意を決して。
「私には〝精霊核〟がありません」
言った。
それはカーチャが、ヴォルクリング家がこれまで世間にすら隠し続けていた事実だった。
発生する確率は、百万人に一人とも、一千万人に一人とも言われている。とても、とても希有な症例だった。
人間の生物としての機能の一つである〝精霊核〟を持たない者は、一般的に『障害者』に分類される。その中でも特に、世の母親達のように『精霊核を有していたが壊れてしまった』のではなく、『生まれつき体内に精霊核が備わっていなかった』人間には、蔑称でもある別称として『見捨てられた者』という烙印が与えられる。
当たり前の話だが、〝精霊核〟を持たぬ者は精霊の加護を受けることが出来ない。それは実生活においては兵器や家庭機器も含めた〝道具〟が使用できないことを示し、周囲から不便な人だと思われる。
それと同時に、精神的な側面からでも、世界中に満ち、人類と共存している精霊との接点を持たず、生まれながらにして彼らに見捨てられた存在であるとして、周囲から不憫な人だと思われる。
この国には、〝精霊核〟を持たずに生まれた来た子供は腕や足が無い者よりも一層哀れな存在である――という風潮があった。大切な〝精霊核〟を、母親の胎内で取りこぼしてしまったのだ――と。
ヴォルクリング家がこの事実をひた隠しにしたのは、元門閥貴族としての体面もあったからだろう。だがカーチャはそんなことなど関係なく、ただ他者からそのように思われることが、たまらなく嫌だったのだ。
自分は哀れな人間などではない。父と母に愛されて誕生したし、周囲の人々もよくしてくれている。〝精霊核〟を母親の胎内に忘れてきた? そんな不快なことを言うのは止めて欲しい。精霊と交信できないからなんだ。精霊の力を利用する技術がダメなら、そうでない技術を使えばいいだけではないか。
かつてカーチャを喪失技術の研究へ向かわせたのは、きっとなによりも、この劣等感であったろう。精霊に依らず用いられる力。誰もが平等に使える力。おとぎ話においては『悪しき力』として精霊王に消滅させられてしまった力。それこそが唯一、カーチャを『見捨てられた者』としないものだったのだ。
とはいえ、である。
その気概は確かに素晴らしいものであったろう。だが、その肝心すぎる事を隠蔽して軍に入るとなると、話は別だった。
ラーズグリーズの面々を見ているだけではとてもそうは思えないかもしれないが、本来、軍隊とは子供の遊ぶ場所でもなければ、烏合の衆でもない。厳格なる規律で成る暴力集団であり、公的な行使機関である。カーチャの肩と胸にある階級章も、玩具では決してないのだ。
武器を扱う能力のない人間が、どうして軍人となりえるのだ。
これは、金もないのにレストランで食事を注文する輩よりも質が悪い。無銭飲食は弁償なり何か別のもので補填すればよいが、軍においてはそのような甘っちょろい理屈はまかり通らない。一人の力足らずが、他の一人の死に繋がるからだ。
カーチャの抱えていた秘密は、いくら特殊な事情で、どれだけ特別な部隊に入隊したとはいえ、本来ならば真っ先に申告しておくべきことであったのだ。
故に、カーチャは頭を下げている。隠してはならぬことを隠してしまったことを、謝るために。
「……申し訳ありません。私は、私自身のエゴのためにこのことを黙っていました。本当なら、一番最初に言うべき事だったのに……」
だが、カーチャは〝精霊核〟を持たぬ身で軍隊へ入ったことを謝罪しているのではなかった。
「――嘘をついていて、本当にごめんなさい……!」
人として、ただ、嘘をついたことを詫びていたのだ。
色々とひどいこともされたが、それ以上にイオナもアイリスもベルもサイラも、まっすぐ自分と接してくれた。戦闘時には、それこそ体を張って自分を護ってくれた。なのに、そんな人達に嘘をついたこと、つき続けることは、途轍もない罪悪であるようにカーチャには感じられたのだ。それに、彼女たちは知らないだろうが、拳銃を撃てなかった時ですら自分はこのまま誤魔化し続ける選択肢を思い描いていた。それは明らかに、心からの裏切り行為であったと言える。
だから自分は、心から謝らなければいけない。カーチャはそう思っていた。
くす、と誰かが微かに笑った。一体誰が笑ったのか、というより、それが何者かの笑い声であることにすら、カーチャはすぐには気付かなかった。何故かと問われれば、少女はこう返しただろう。だって、私とサイラさんしかいなかったのに、この状況で誰かが笑うなんて夢にも思わなかったんですもん――と。
サイラが笑ったのだ、と気付いた瞬間、カーチャは顔を跳ね上げた。サングラスの真下にある、漆黒の肌に包まれた唇は、だが確かに笑んでいたのである。左右の広角をやや持ち上げて、とても優しそうに。
「知っとったよ、みんな」
その口から、流暢だが聞き慣れない言葉が溢れ出た。これが、おそらくはサイラが生まれた地方の言葉なのだろう。それも驚きだったが、カーチャがそれ以上に吃驚したのは、その言葉の内容だった。
「……え?」
それはどういう意味か、という聞き返しである。これにサイラは軽く頷き、
「うん。イオナ大佐も、ララリス曹長も、ロレンス軍曹も、ウチも、みんな前からそれ知っとったんよ。ごめんな、黙ってて。ウチら、大佐から黙ってるよぉ言われとったんよ」
淀みのない喋り方。これまでのサイラからは考えられないほどの饒舌っぷり。間違いなく、この話法こそが彼女の素なのだろう。
しかし、カーチャはそれどころではなかった。
「……え? え? ……えっ?」
目がふらふらと泳ぎ、体は小動物のように小刻みに震えている。声は発する毎に音階が上がっていった。だらだらと、全身から嫌な感じのする汗が滲み出てきた。
信じられない真実を無理矢理ねじ込まれた脳が、拒否反応を起こしているのだ。カーチャは精神病棟の患者のごとく意味もなく辺りを見回して、無駄に体を揺すぶると、いきなり前振り無しでサイラに顔を向け、
「――知ってた? 全部? それも、皆さん全員が?」
世界の終わりでも見てきたかのような表情で聞いてくるカーチャに、サイラも流石に若干引き気味になった。
「う、うん……イオナ大佐は少佐が入隊する時に少佐のお父はんから聞いとったらしいから……ほ、ほんまにごめんな? か、堪忍してな?」
サイラの言葉をカーチャは最後まで聞かなかった。
愕然とした表情のまま、突然、両手を振り上げ、掌を叩き付けるように耳に当てた。その顔が段々と赤くなっていく。ばっ、と音が立つほど勢いよくサイラに背を向けると、口を限界まで大きく開き、
「――ぃいいやああぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁぁっっ!!」
北のヴァルハラ基地にまで届かんばかりの悲鳴をあげたのだった。
考えてみれば当然の話で、流石にカーチャの抱える『欠陥』については父・レオニードからイオナへきちんと伝えられていたのだ。
むしろ、それ故の特務機関所属であったとも言えよう。
だが、そこで一計を案じたのがイオナ・デル・ジェラルディーンという女である。
彼女はカーチャが配属されてくる前、配下の三人にこう申しつけたのだ。
「ヴォルクリング特務少佐が自ら申告するまで、彼女の【特徴】については気付かない振りをしろ」
その真意は説かれなかったが、サイラは次のように推察しているのだと言う。
「多分、そうすることで少佐がウチらの中にほんまに溶け込むことになるって考えてはったんちゃうかな。ウチらもみんな、色々と【理由持ち】やから。大佐も、少佐が自分から言うんをきっと待ってはったんやと思う」
体内を駆け巡る感情の激流を雄叫びに変えて迸らせたカーチャは、ようやく落ち着き、裏庭の片隅にあったベンチにサイラと共に腰掛けていた。
――西側の地方の言葉、ですよね。バナン地方かな……
サイラの口調をそう分析する余裕も出来た。かつて西方を征したバナン族は、漆黒の肌と髪と瞳、そして屈強な肉体をもつ戦闘的な種族だったという。見た目と言い、常人離れした膂力と言い、サイラがその血を色濃く引いているのは間違いなさそうだった。
ところで、今、サイラはサングラスを外している。彼女も彼女で、これまでカーチャの秘密を知りながら黙っていたことを謝罪してきたのだ。その際、礼を失さないためサングラスを外してくれたのだが、何気にカーチャはサイラの素顔を見るのがこれが初めてだったのである。
初対面したサイラの瞳は、なんだか草食動物のようにつぶらで、カーチャは思わず吹き出しそうになってしまった。
――か、可愛い! 可愛いじゃないですか! 確かに乙女です! 乙女チックな瞳ですよ!? こんなにゴッツイのに! ギャップが! ギャップがすごいですよ!?
過日、ベルがサイラのことを『乙女』と称していた理由がよく解ってしまった。確かに肉体は圧倒的に逞しいが、年下のカーチャでも『可愛い』と思ってしまう何かが、サイラにはあった。
「【理由持ち】、ですか……」
それはともかく、カーチャはサイラの台詞の中にあった単語を繰り返した。
その言葉の指し示す意味は、何となく察している。
例えばアイリスだが、彼女はおそらく以前はアインヘルヤル軍の男性兵士だったのだろう。それが『イオナに惚れた』という理由一つで完全な性転換に踏み切ったという。部分改造ならともかく、性別が完璧に女になってしまったのなら、勿論アインヘルヤル軍にはいられない。だからワルキュリア軍に転任してきたのだろうが、きっとこちらでもひどい困惑があったはずだ。元男がこの〝戦女神の寝所〟に入ってくる。どう扱えば良いのか?――と。
ベルも似たようなものだろうとカーチャは推測している。具体的なことはよくわからないが、多分、性的なことが理由だと思う。大人の男達があんなにも醜く殴り合っていたのだ。何か問題があったのは想像に難くない。それ故、ベルはアインヘルヤルにいない方が良い、という決断を何者かが下したのだ。だから、男の身でありながら彼女はこのグラズヘイムにいるのだろう。
結論から言ってしまうと、カーチャのこの想像は正鵠を射ていた。ベルことベネディクト・ロレンスは少年でありながら、その類い希なる容姿から『アインヘルヤル軍の戦乙女』とまで称され、アイドルよろしく絶大な人気を得ていた。が、幸か不幸か、ベネディクトは快楽を好むバイセクシャルだった。彼は次々と言い寄ってくる男共と分け隔て無く【関係】を持ち、最終的に殺人未遂事件が起きるほどの修羅場を生じさせてしまったのだ。
しかし、その殺人未遂事件というのが、これまた微妙なものであった。事件は、ベネディクトを愛する男二人が自分勝手に引き起こしたもので、当人はこれっぽっちも関与していなかったのである。ベネディクト自身は、自分と他の男性兵士との【関係】を口外したことは一度もなかった。殺し合った二人はたまたま、酒の席で互いの想い人がベネディクトであることが判明し、口論の末、殴り合いに発展し、ついにはナイフを取りだしたところで周囲の人間に取り押さえられたのだ。
これが逆に問題であった。本人は悪くない。しかし、原因ではある。つまり、似たようなことはこれからも起こる可能性が高い。しかも、連続して。
もはや男達にとって、ベネディクト・ロレンスという少年は【魔性の女】であった。よもや男だけの集団の中で、惚れた腫れたの痴情のもつれが起こるなど、誰が予想しただろうか。
この事態を重く見た軍上層部は、苦渋の決断を下した。確かに問題児ではあるが、彼は優秀な兵士でもある。退役させるのは国益の損失に繋がる。ならばいっそ――と試行錯誤した結果、ベネディクトは当時新設されたばかりの特務機関ラーズグリーズへと編入することになったのである。
この詳細な事情をカーチャが知ったのはかなり後のことで、ちょうど彼女が思春期にさしかかるか否かの頃だった。今とは大分雰囲気の変わった彼女が、とある男性兵士からこの話を聞いて言い放ったのが、次の一言である。「ま、そんなことだろうとは思っていたさ」――失笑寸前の表情であったという。
「あの、サイラさんの理由って……聞いてもいいですか?」
遠慮がちに、だけどはっきりとした声でカーチャは質問した。秘密を知られた自分には、サイラの事情を聞く権利がある――そう思って。なにより、先程も言ったようにカーチャはサイラのことをもっと知りたかったのだ。もっと知って、もっと仲良くなりたい、と。
サイラもそれは予想していたらしく、すんなりと頷いてくれた。
「……ウチは、この見た目やろ? どこの部隊に行っても気味悪がられたり、怖がられたりしてな……」
つぶらな目が、すっと細まる。つらい記憶なのだろう、とカーチャは察する。悪いことを聞いてしまったかもしれない、と今更ながらに後悔した。
「それに、ウチ、こうやって訛り言葉でしか上手く喋れんでな。公用語にすると、どうしても片言になるし、それがどうも威圧的っていうか怖いっていうか、とにかく拒絶的に見えよるみたいで……まぁ実際、公用語で喋っとると動きも堅苦しくなっとるんは、自覚してるんやけどね」
サイラは自らの右手を見つめながら、そう語った。確かにカーチャにも、公用語を話すサイラと、今の彼女とが同一人物だとはとても思えなかった。まるで別人である。言葉の使い方一つで人間はここまで変わるのか、と感心してしまった。
「それに、ウチは父ちゃんから受け継いだ血のおかげで、体が大きくて力も強いから……上官もなかなか文句言われへんみたいやねん。そうやってるうちに、男みたいで怖いとか、団体行動が上手く行かんで邪魔やとか、陰険なイジメみたいなんもあって……」
サイラの両目が潤んできたように見えた。つられるようにカーチャの涙腺もじわっときた。
「ひどい……」
――サイラさんはこんなにも優しくて良い人なのに。見た目だけで怖がった挙げ句に、中身も知ろうとしないで、邪険に扱うなんて……
カーチャが思わず漏らした感想に、サイラが振り向き、寂しげに微笑んだ。
「しゃーないわ。公用語の練習せんかったウチも悪いし。訛り言葉で喋るんが恥ずかしくて出来んかったのも、思い返したら情けない話やし……」
しかし、ここでふと、サイラの瞳に強い光が宿った。
「――でも、イオナ大佐は違ってん。あっちこっちでタライ回しにされてたウチを、あの人は拾ってくれてん。『気に入った! お前は俺の所に来い!』って言うて……あの時はほんまに嬉しかったわぁ……」
「う、うーん……」
過去を思い出して嬉しそうにするサイラとは逆に、カーチャは解せない顔で唸った。
――確かに美談ではあるんですが、イオナ大佐の真意がよくわからないのが不気味です……
いくらガチレズとは言え、サイラの見た目がイオナの好みのタイプであったとは考えにくい。とすると、
「……あ。サイラさん? イオナ大佐と会ったのはどんな時でしたか?」
「えっとな……確か、こことは別の所にある花壇の手入れをしとった時やったと思うけど……」
「……なるほど」
やっぱりだ。カーチャは確信する。
イオナが『気に入った!』と言ったのはサイラの容姿ではなかったのだ。気に入ったのは、その中身。花を愛でる品格の高さであったに違いない。
イオナは、サイラの中にある『乙女』の部分を見事に見抜いたのだ。
――意外ですし、認めたくないですけど……あの人、ちゃんと人を見る目はあるのかもしれません……
イオナのことを考えるとまた胸が痛くなった。そんな風に複雑な心持ちでいると、
「――大佐はええ人やで」
とサイラが言った。思わず心臓がドキリと飛び跳ねる。
「ふえっ!? な、なんですかいきなりっ!?」
慌てふためくカーチャに、サイラは、ふふ、と笑みを見せて、
「たまに変なことしはるけど、あの人はほんまにええ人やで。少佐もそれがわかってるから、今日は来たんやろ?」
うぐ、とカーチャは言葉に詰まる。サイラも意外に鋭い。まったくの図星であった。が、この数日で多少なりとも鍛えられたカーチャは、すぐさま話題を逸らすことを思い付く。
「あ、あっと、えっと、サイラさん? その、少佐はもうやめてください。私たち、もう友達じゃないですか。カーチャって呼んでください。いえ、呼んで欲しいです」
「え……」
先程とは逆に、今度はサイラが言葉に詰まった。子犬のような瞳が、はっと見張られる。やがて、その目尻から透明な液体が零れた。頬を伝い、流れ落ちる。
「サ、サイラさんっ!?」
何故泣くのか。カーチャは驚き、慌てた。ポケットを探ってハンカチを取り出す。
「……嬉しい……」
滂沱と流れる涙を拭いもせず、サイラは呟くようにそう言った。
「え?」
カーチャが動きを止めて見返すと、サイラは泣き笑いの表情で視線を下に向け、
「ウチ……初めてや。都会に来て、初めて人様から『友達』って言われた……」
「サイラさん……」
鼻を何度も鳴らしながら、震える声でそう言ったサイラを、カーチャは言葉もなく見つめた。カーチャもまた目頭が熱くなっていた。自分のような子供に『友達』と言われただけで、こんなにも泣いてしまうなんて。巨人みたいに大きくて逞しくて、でもガラスみたいに繊細な心を持ったこの人は、今日までどんな仕打ちを受けてきたのだろう。どれだけ傷ついてきたんだろう。それを思うと、彼女がとても可哀想で、胸が痛くて、涙が溢れそうになった。
「あ、あれ……ご、ごめんな、ウチ、泣いてもうて……」
そこでようやく自分の涙に気付いたらしい。サイラはカーチャの頭を包んでなお余りあるだろう手で、その体格からは想像もしなかった繊細な動きで涙を拭った。
カーチャは我知らず、その手を伸ばし、サイラの服の袖を掴んでいた。そして、精一杯、微笑んでみせる。
「サイラさん、これ、友達の証に」
ハンカチを差し出した。すると、サイラの両目から溢れる涙がどっと増えた。ず、ず、とサイラは何度も鼻を鳴らしながら、
「あ、ありがとう、ありがとうなっ……! あ、あんな……あんな……ウチ……カ、カーチャちゃん、って呼んでもええ、かな……?」
カーチャは笑顔で何度も首を縦に振った。
「はい。カーチャちゃんって呼んでください」
「じゃあ……じゃあ、ウチのことも……その、あんな……」
「……サイラちゃん、ですか?」
涙とはまた別の理由で赤くなったサイラが、小さく頷いた。年は離れているが、それでも対等の友達のように『サイラちゃん』と呼んで欲しいのかな、とカーチャは彼女の意思を正確に汲み取ったのである。
握手――しようとしたがサイラの手が大きすぎて、人差し指を握ることしか出来なかった。カーチャは自分の腕ほどもある太い指を握りしめ、
「はい、よろしくです。サイラちゃん」
サイラさん改め、サイラちゃんにそう言うと、大きな女の子はとうとう崩れ落ちた。おいおい泣きながら、巨体がもたれ掛かってくる。やっていることは小さな女の子同然なのだが、いかんせん彼女の体は大きすぎた。カーチャも一生懸命受け止めようと頑張ったが、残念ながら激しすぎる体格差だけはどうにもならなかった。
「サ、サイラちゃん、ちょ、ちょ、ちょ――!?」
結局、耐えきれなかった。ああー、という間延びする声をあげてカーチャが背後に倒れると、サイラの体もよりそちらへ傾き、最終的には端に体重をかけられすぎたベンチのバランスが崩れた。
そのまま二人はベンチごとひっくり返ったのだった。
その後、泥だらけになったまま二人で談話室に行き、早速イオナ達に笑われた。
それでもカーチャは椅子に腰を下ろす前に、イオナとアイリスとベルに、四日前の戦闘とそれに関することへの謝罪と礼を述べ、続けざまに自身の〝精霊核〟について包み隠さず打ち明けた。
反応は三者三様であったが、この時イオナが浮かべた嬉しそうな顔を、カーチャは永く忘れることはなかった。
初めてこの人の笑顔を見たのかもしれない――そう思うほどの表情だったのだ。
だが無論のこと、サイラはちゃんと謝ってくれたが、他の三人にはカーチャの秘密を知りながらそれを敢えて黙っていたという罪状がある。その点に関しては、これ見よがしに皆の前で『サイラちゃん』と仲良くしてみせることで、ささやかな復讐を果たした。
初めてサイラと手を繋いで、
「サイラちゃん♪」
「カ……カ、カーチャ、ちゃん……」
と呼び合った時など、流石に剛胆なイオナも、大らかなアイリスも、意地悪なベルも、総じて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたものである。してやったり、であった。カーチャは堪らず大笑いしてしまった。
サイラの推測は当たっていたのかもしれない、とカーチャは思う。イオナは本当に、カーチャが自らその秘密を告白することで、ラーズグリーズの皆へ心を開き、距離感が狭まることを見越していたのかもしれない。
少なくとも、自分から打ち明けたことでカーチャの中にあった、モヤモヤした気持ちの悪い罪悪感は綺麗さっぱり消えてしまっていた。良い意味で、自分は四人に対して遠慮しなくなったように思える。
だからカーチャはもはや躊躇も慈悲もなくイオナにこう言い放った。
「次、変なことをしたら本気で保安中隊呼んだりお父様に言いつけますからね」
満面の笑顔で言ってやった。虚を突いてやった、と思ったが、それは甘かった。
イオナはにやりと挑戦的に笑うと、出し抜けに腰を屈めて顔を近づけ、妖しい声でカーチャの耳元にこう囁いた。
「今度はそんなことなど忘れてしまう程の熱いキスをご馳走してやろう。楽しみにしておけ、マイ・エンジェル」
最後に、ふーっ、と耳孔に息を吹き込むものだから、カーチャは悲鳴をあげてその場から飛び退いてしまった。
所詮カーチャなどまだまだ子供である。格の違いというものを見せつけられる遣り取りであった。
だが不思議と不快感はなかった。体が爆発するかもしれないと思っていた動悸も、いざイオナの顔を見てみると予想外に小さく、とりあえず誤魔化すことが出来る程度のものだった。
むしろ、僅かに高鳴る鼓動と共に、安心感すら感じていた。
その感情が何であるのか。どういう種類でどういう名前がつくものなのか。
幼い彼女には、それはまだわからないことだった。