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▼5-エア・レンズで見る戦場

▼5-エア・レンズで見る戦場




 時折、小さな昆虫のようなものが視界をよぎる。

 銃弾ではない。ビー玉ほどの大きさの軍用カメラだ。風と光の精霊の力を封入してあり、撮影した映像を無線で記録器本体に送る機能を持つ。正式名称は〝エアリアル・アイ・レンズ〟というが、長ったらしいので関係者は単純に〝エア・アイ〟あるいは〝エア・レンズ〟などと呼んでいる。中にはそれすら煩わしいようで〝虫〟、または〝目ン玉〟などという身も蓋もない呼び方をする者もいる。敵国のスペルズからは〝パパラッチ〟という実にありがたい蔑称までいただいていた。

 形状はまさに〝羽虫〟と呼ぶのが正しく、レンズを内蔵した小柄な本体の両横に、空中を浮遊・滑空するためのウィングが備え付けられている。

 グラッテン軍において、戦闘の記録は重要なものであると考えられている。故に全ての戦闘行動はこの〝エア・レンズ〟を用いて詳細に記録されるのが決まりだ。無論これは記録用だけではなく、戦場においては斥候・偵察にも活用される。また自動で動くものではなく、内燃型精霊機でもあるので、専任の兵士がいて、一切の管理を行っている。今この時も例外ではなく、後方に控えている支援部隊の誰かが操作するいくつもの〝エア・レンズ〟が、市街戦を展開するカーチャ達を観察するように撮影していた。

 直前にイオナから説明された作戦の内容は、至極簡潔なものだった。まず、カーチャはまだ対面していないが、ラケルタ率いるアインヘルヤル兵とは別にいる支援部隊――以降、イーヴァ隊と呼称する――が、テロリストのアジトがある地域を封鎖し、近隣住民を遠ざける。イーヴァ隊はそのまま封鎖区域の周辺を警戒し、外からは内に入れず、内からは外に出られない包囲網を展開する。続いてラーズグリーズ隊とラケルタ隊との混成部隊が正面からアジトに殴り込みをかける。

 きょうび子供同士の遊びでも、もう少しマシな作戦を立てるのではないだろうか。そう思いつつも、周囲の大人達がやけに自信満々かつ余裕綽々の振る舞いを見せていたので、カーチャもつい深く考えることなく戦闘に臨んでしまった。

 確かにイオナを長とする混成部隊には、テロリストの軍勢を正面から粉砕するだけの準備も実力もあった。そのことには何の問題もない。しかし。

 敵を一網打尽にする。言葉にすればこんなにも短い事象が、実際にはどれほど凄惨なものなのか。幼いカーチャには想像すらできていなかった。

 知識の上では知っていた。戦闘とはつまり殺し合いであり、それが発生したならば必ず誰かが死ぬ。それはちゃんと理解していた。けれど。人が死ぬ――それはどうやって? それはどんな形で? それはどのような光景なのか? 全く知らなかったし、考えたこともなかった。

 だから衝撃だった。〝死ぬ〟と言うことは〝命を失う〟ということであり、絶命とは痛みや苦しみの延長線上、その終端にあるものだったのだ。血が飛び、肉が千切れ、骨が砕け、断末魔の叫びがあがる。人間は糸の切れた操り人形のように、簡単にも綺麗にも死ねない。時には醜くのたうち回り、時には汚いものをぶちまけて死んでいくのだ。

 それが〝殺す〟と言うこと。〝命を奪う〟と言うこと。

 そんな当たり前な世界の真実を理解した時、カーチャは声なく戦慄した。

 少女は今、恐怖の蛇に絡め取られ石と化してしまった体で、戦場に立っていた。戦闘が始まった途端、あまりの衝撃に本能がここに至るまでの記憶を放り投げてしまったのを、理性がようやく引き戻した所である。

 ――そういえば結局、肝心なことを告白することも出来てなければ、ファーストキスを奪われた文句さえ言えてませんでした……

 現実から一歩引いた思考でそんなことを思う。感覚が鈍っているせいか、言葉ほど悔やむ気持ちもなかった。

 もはやカーチャには〝戦闘に参加している〟という認識すら失せていた。幼すぎる少女はまるで人間大の〝エア・レンズ〟になってしまったかのように、目の前で起こることをただただ観察していた。

 精神的ではなく物理的にそのような余裕があるのには、もちろん理由がある。

 銀色を基調とした装甲服『エリーカ』は、一言で言えば海底探査服に似ている。ずんぐりむっくりとした見た目だが、その姿から得られるイメージ通り防御力は非常に高い。このため余程の攻撃でもなければカーチャには傷一つ与えることはできない。その安心感が、今はカーチャの崩壊寸前の心を支えてもいた。

 余談だが、装甲が厚い分『エリーカ』は動きが鈍重になってしまうのが弱点である。しかしそれは豊富な火力で補うという設計になっていた。今は全く意味を成していないが、両手には連射式の散弾銃を握っているし、全身には至る所に武器が仕込まれている。また装甲服の駆動系および武装は全て外燃型精霊機関だ。実を言うと『エリーカ』のでかい図体の原因は主にそこにある。外燃型は内燃型と比べて、どうしてもサイズが大きくなってしまうものなのだ。また『エリーカ』には通常の兵器とは一風変わった点があった。カーチャの十八番、喪失技術である〝電気〟が起動部分に用いられているのだ。このおかげで『エリーカ』は、正常な〝精霊核〟を持たない母親などの精霊感応不全者でも使用できる、世界で唯一の精霊駆動式兵器になっていた。

 とはいえ、そのせっかくの発明も、今はカーチャの漏らした小水によって汚れてしまっているのだが。

「――ったくよぉ! こんな子供を連れてきて何考えてんだ大佐殿はよぉ!」

 カーチャの左側面に敵が現れたのだろう。サイラほどではないがよく鍛えられた肉体を持つ男がカーチャの傍に回り込み、テロリストがいるであろう方向に銃弾をばらまく。

 誰よりも勇猛果敢にカーチャを守護してくれているのは、ラケルタ隊の隊長だった。ラケルタ・オイゲンという名を持つこの准尉は、イオナから直々に『初陣のカーチャを死守せよ』との命令を受けている。カーチャが髪の毛一本ほどの傷でも負ったものならば、彼の肉体はこの大地から消滅してしまうこと想像に難くない。そんなストレスも相まってか、イオナが傍にいないことを良いことに遠慮無く不満をぶちまけながら戦うラケルタだった。

 そんなラケルタが身に纏っているのは他のアインヘルヤル兵と同じく、歩兵の標準装備である強化全身鎧兵装である。軍服と同じくロリエグリーンを基本色としたそれは、頭のてっぺんから足の爪先までを完全に防護し、なおかつ精霊の加護で装着者の筋力や体力を強化し、感覚器を増感させ、神経伝達速度を上昇させる。現在、アインヘルヤル軍で制式採用されているのは〝ALFA〟というメーカーのものだったはず――とカーチャは記憶の抽斗からそのあたりの情報を手に取った。

 ワルキュリア、アインヘルヤルの両軍に所属する兵士の武装は原則として、本人が手ずから用意する物であると決まっている。制限もほとんど存在しない。一定の予算を与えられ、その枠内で自ら装備を試着し、検分し、工夫し、思考して装備を整えることを軍は推奨している。さらに、予算が足りなければ自腹を切って良いことにもなっている。戦場に出れば装備の優劣が即、生死に繋がるのだ。妥協できない者が出てくるのも当然の話だった。よって、本来ならば〝標準装備〟という単語は存在し得ないはずなのだが、悲しいかな、人は群れる生き物である。様々なメーカーが多くの武器防具を販売している中、兵士達は各々がこれと見込んだものに手を出し、使い込んでいく。すると性能や使い心地、なにより予算との兼ね合いで、やがて兵士達の間で【最適解】とでもいうべき認識が生まれてくるのだ。歩兵ならあそこのメーカーの何々が良い、狙撃銃ならあのメーカーが一番安心感がある――といった風に。結果、軍から下りる予算内におさまる値段で性能の良いものが、自然と兵士達の〝標準装備〟として【制式採用】されるのだ。

 逆に、そういった凡百と交わらず、己が道を邁進する者達も少なからずいる。ラーズグリーズの面々がそうだった。

 例えば、カーチャ達のいる位置から右斜め前方三十メートルほどで戦っているサイラなんかは、その中でも特に希有な部類だろう。

 精霊式駆動強化外骨格『ブリアレオース』――それがあの怪物の正式名称である。ラケルタ達の装着している全身鎧は、例えるなら〝衣服〟になる。しかし『ブリアレオース』は、例えるなら〝乗物〟だった。あの外骨格はそれほどまでに規格外の存在なのだ。

 言うなれば【歩く戦車】である。

 ただでさえ二メートル近いサイラの身長が、さらに四割ほど増している。小さなカーチャにとってはまさに山のような存在感だった。マットブラックの装甲に、関節に動力を届けるための赤いラインが体の線に沿って這っている。

 完全武装した漆黒の巨人。そう聞けば理解も早いだろう。あれはもはや鎧ですらなかった。装着者ですら部品の一つに過ぎない。装着者の生命を核として動く、別種の生物のようでもあった。

 あの『ブリアレオース』が業界では有名な機体であることをカーチャは知っていた。あれを開発した〝ジノース・フェイズ〟の社訓は『角を矯めて牛を殺す』に違いないと人々は口を揃えて言うが、カーチャもその意見に同感だった。

 確かにその性能は凄まじい。特に膂力において『ブリアレオース』に勝る兵器は皆無だろう。装甲は厚く積層型で、装着者のステータス増幅倍率も最高級で、大きな体に見合った高出力の精霊機関が搭載されているため、ブースターとスラスターを駆使すれば巨体に似合わぬ高速機動戦闘をも可能とする。すぐにでも全軍で標準装備するべき、実に素晴らしい強化外骨格だった。

 勿論、その機動の負荷に中の人間が耐えられるのなら、という言葉が頭につくが。

 発揮する能力が高いだけに、『ブリアレオース』が装着者に求める条件は多く、そして過酷だ。強大な破壊力を生み出すかわりに、その反動もまた強烈だった。常識的な人生を送ってきた人間がどれほど体を鍛えようとも、火事場の馬鹿力でも発揮しなければ、まず『ブリアレオース』を動かすことすらままならない。カタログスペックによれば素の装着状態で『ブリアレオース』が装着者に求める筋力値は二百キロに近く、戦闘になればそれ以上の負荷がかかるという。

 本末転倒もいいところだった。強力すぎて装備できない兵器などお笑い種にもならない。畢竟、この破天荒な逸品は試作機が作られたのみで実際に市場には流通しなかったという。だがサイラは一体どのような経緯でか、その怪物を所有し、さらには使いこなしていた。どうやら、およそ女性には見えないあの肉体には、カーチャには想像もできない程の怪力が秘められていたらしい。

 彼女が手にしている、これまた漆黒の大刀は〝ジノース・フェイズ〟の提携企業〝ライジングサン〟が専用装備として開発した『玄天上帝』である。『ブリアレオース』の巨体に見劣りしない鴻大な太刀だった。水の精霊の加護を用い、斬れ味の上昇と劣化の防止処理を施してあると聞く。

 今まさにその『玄天上帝』がテロリストの一人を真っ二つに切り裂いた。振り下ろされた大上段の一撃はそのまま大地を切断し、刀身の根元までを埋没させた。遅れて、二つに分かたれた男の体が勢いよく中身を撒き散らしながらそれぞれ左右に吹き飛ぶ。一見ド派手で無駄な力の使いすぎのようにも見えたが、実際にはその光景は、味方であるカーチャからしても心胆寒からしむるものだった。敵であるテロリスト達が受けた心理的脅威はそれ以上だったろう。目に見えて敵の動きが怯んだ。

 その隙を見逃すことなく、上空から銃弾の雨が降ってきた。サイラの威容にたじろいだ者達が次々と再起不能の海に突き落とされていく。魔弾の射手は間違えようもない。ベルだ。

 戦端が開かれる直前に見た彼女の姿は、普段の陶器人形のような可憐さとは一時的に縁を切っているようだった。間違いなく味方の中で一番の軽装だったが、それは目的と性能を極端に絞り込み、先鋭化させていたからだろう。彼女は狙撃手ではあるが、その勇姿は研ぎ澄ませたナイフのようにシャープなものだった。

 ブルー・マンイーター製の鳥翼型飛行機『ディオネ』と、槍と見紛うばかりの長大な狙撃銃『アラドヴァル』。その他の装備も全てブルマン系列のブランドで統一されていた。スカイブルーを基調とした衝撃吸収ボディスーツに、動きを妨げない軽くて薄い蒼の装甲板。頭には風防と照準機付きのヘッドセット。両腕と両肩には射撃補助機能と空中機動の助けとなる補助翼がついたものを身につけ、両足には最高速度を爆発的に向上させる馬鹿でかい推進ユニット。

 飛ぶ、撃つ。それだけをとことん突き詰めた兵装。その出で立ちはまさに蒼い凶鳥と言って良い。深いラピスブルーの瞳と黄金のカーリーヘアを持つ彼女が武装した姿に、カーチャは空を司る戦女神を幻視した。

 そして、これで男でなければ、と心底思った。

 このようにこちら側が隙のない武装をしているのに対して、テロリスト側はいっそ哀れに思えるほど貧弱な装備だった。余程軍資金が足りないのだろう。中には装甲服を纏っている者もいたが、大半が防具もなく武器は自動小銃一挺という体だった。

 戦況は一方的。戦術に明るくないカーチャから見ても、こちらは特に損害なく勝利を得られるだろうと予想できた。

「イオナ大佐が敵の本丸に乗り込んだわ。サイラちゃんとベルちゃんは引き続き露払いをお願いね。ラケルタ隊の皆さんはこのまま橋頭堡の確保をお願いします」

 カーチャの背後を護るアイリスが、それでも状況を楽観視していない硬い声で、状況報告と指示とを通信機で飛ばす。階級から言えば特務曹長のアイリスより特務少尉であるサイラの方が上位で、本来ならばそちらが指揮をとるのが常識である。だが、見ての通りサイラは完全に突撃兵だ。適性から言えば指揮はアイリスの方が優れている、とイオナが判断したのである。ベルも言っていた。ラーズグリーズにおいて階級の上下関係なんてものに意味はない、と。むしろこの自由奔放さこそが、特務機関ラーズグリーズの真骨頂なのかもしれなかった。

 長であるイオナから現場の指揮権限を委任されているアイリスの武装は、サイラやベルに負けず劣らず異種なものだった。

 老舗メーカー〝タイロン〟が誇る全身鎧『バーロン』シリーズは軽装歩兵に良く好まれている。だが、アイリスの身に纏うそれは大掛かりなカスタマイズが施され、ほとんど別物と化していた。それもそのはず。本来『バーロン』は男性専用のブランドなのだ。それを無理矢理、女性用に改造してあるのだから、面影程度にしか原型が残っていないのも致し方ない。

 おそらくは男性時代から愛用していたものを改造したのだろう、とカーチャは推測する。

 上品な紫紺をメインカラーとする『バーロン』シリーズはその名の通り八つのパーツから成る。幾度ものバージョンアップを重ねてきたその形状は、例え改造品であっても流麗にして優雅。装着者の扱う精霊の力の強弱によって展開する基礎システムが、既に美しいほどの完成度に達しているのだ。

 グラマラスなボディラインを強調するかのような薄い装甲。このシリーズの特徴は軽量化と性能の両立を極限にまで突き詰めた所にある。各パーツに埋め込まれた特殊な精霊機関は、普段は邪魔にならぬよう圧縮されている。が、ひとたび装着者を守護している精霊の力が加われば、内部に押し込められていたフレームが展開し、その本領を発揮する。例えば、つい先程アイリスがカーチャを護るために使用した両足の『ツォウロン』なら、精霊の力を流し込むことによってブーツのような基本形状から前後二つの車輪が飛び出し、両側面のフレームが展開してホバークラフト機能を発露させる。このように必要に応じて機能を展開する多層構造によって、徹底的な軽量化をはかっているのだ。

 無論、特性上この装備を使いこなすためには人並み以上に優れた〝精霊核〟が必要になってくる。アイリスの場合、元々から優秀な軍人であったのだろうが、さらに肉体の性が変化するほどの精霊の力に触れたことで、その適性はこれ以上ないものになっているに違いなかった。

 さて、残る一人、ラーズグリーズの機関長であるイオナは一体どのような格好をしていただろうか? その疑問に対する記憶に触れた時、つい先刻確かにその目で見たはずなのに、カーチャは自らの頭脳が正常に働いているのかどうかを疑ってしまった。

 裸一貫、と言っても過言ではない身なりだった。特務機関ラーズグリーズに所属していることを表す深紅の軍服。それと、前時代的な一振りの軍刀だけを手に持っていた。

 自殺志願者か。殺してくれと言っているようなものではないか。そう言わざるを得ないほど、イオナは無防備だった。

 だというのに、たった一人で敵の中に飛び込んで行ってしまった。

 実を言うと、カーチャ自身にはこれっぽっちも自覚はないのだが、アイリス達は好きでこの場所にいるわけではなかった。戦場は大通りから外れた裏道で、テロリストの潜伏先は老朽化して放置されていた、以前は公民館として使用されていた建物だった。

 現在、カーチャを含めた部隊のほとんどは元公民館から二百メートルほど離れた公道の真ん中にいる。先程アイリスは「橋頭堡」と言ったが、そこは特にこれといった障害物もなく、身を隠すに適していると言い難かった。敵を迎え撃つにしてももう少し場所がありそうなものだが、それでも彼女たちはそこに留まっている。

 何故なら、【そこでカーチャが立ち止まってしまったからだ】。

 生まれて初めて人が殺される場面を目の当たりにして、その恐怖で萎縮してしまった頭では気付けないのも無理はない。イオナを始め大人達もそうなるだろうとは予測していた。故に普段とは違う戦法を用いることは最初から織り込まれていたのだ。

 本来ならここに留まることなく、隊列を前進させ、戦力において遙かに劣るテロリストを蹂躙しつつ、敵将を追い込み、討つのが常道である。だが今回はそうはいかない。そのため、長であるイオナが決定した非常識な戦術が次のこれである。

 イオナ単身による電撃戦。

 勿論カーチャは作戦内容を知らなかった。知っていれば反対したであろうし、それが叶わぬなら出撃を拒否していただろう。しかし同様に、カーチャはもう一つのことを知らなかったのだ。

 何故〝ジェラルディーン〟という名が伝説として語られているのか――その理由を。

 果たして、その伝説は今、カーチャの前に現れる。

 突然の爆発音。地響きと共にくぐもった轟音が耳を劈く。

 誰も彼もが爆心地に振り向く。味方は安堵の息を漏らし、敵は絶望の気配を滲ませた。元公民館の出入り口から、もうもうと煙が空へ昇っていた。

「……制圧完了ね。シャワーが楽しみだわぁ」

 そう呟くアイリスの声。カーチャの思考。察するに爆発は敵の中枢で起きた。誰が起こした? イオナは爆弾など持っていなかった。となると、テロリスト側の誰かが自爆でもしたのだろうか。しかしそれなら、イオナも巻き込まれてただでは済まないのでは――

 そこまで考えた時、『エリーカ』によって増感されたカーチャの目が、爆煙の中、こちらへ向かって歩いてくる人影を捉えた。

 まず目にしたのは、銀色の煌めき。オーロラのように揺らめき、たゆたう光。外縁部はまるで虹のごとく七色に変化しては流れる。あれは精霊の輝きだ、とカーチャは気付いた。極端に強い精霊の力が一点に集中したとき、あのような可視光を放つことがある。自然現象の一つだ。その光が、有り得ないことに、人影の周囲を踊るように飾っていた。

 やがて極光の発生源が煙の圏外に脱し、カーチャの視界に飛び込んできた。

 ――イオナ、大佐……?

 無傷だった。衣服にも煤汚れ一つ無い。爆発による影響など微塵もない姿だった。鞘に収めた軍刀を肩に背負い、いつもの不敵な表情でこちらに歩いてくる。

 アノイ・デル・ジェラルディーンとは〝世界で最も精霊に愛された男〟として世界中に驚歎をもたらした英雄の名前である。彼は誰よりも精霊に愛され、守護されていた。生まれてから死ぬまでの間、一度も傷つくことなく、病気にかかることも無かったという。成長して軍人になった彼は、スペルズとの戦争が勃発した初期において、比類ない武勲を立てた。戦いに臨む時はいつも、精霊の加護の証たる煌びやかな輝きがその身を包んでいたという――

 ただのおとぎ話だ。そう思っていた。英雄ジェラルディーンの逸話なんて絵本でしか見たことがなかったし、過剰に誇張されているだけで、現実に精霊が可視できるほど人間に集中することなど有り得ないと信じていた。自分だけが特別なわけではないだろう。きっと誰もが、そう思っていたはずだ。

 あれを見るまでは。

 おとぎ話は、伝説は――真実だったのだ。

 生き残ったテロリストの大多数がもはや戦意を喪失し、茫然自失の体でいたが、中には諦めの悪い者もいた。そいつはこの期に及んでもなお戦いを続行せんと、銃口をイオナに向けた。引き金が引かれ、銃声がこだまする。

 大気を貫いて飛んだ無数の銃弾はしかし、揺らめく銀の光帯に触れた瞬間そのままの勢いであらぬ方向へ逸れていった。まるで空間の表層をすべっていくかのように。

 ん? という風にイオナが銃撃があった方向を見やる。彼女はそこに不屈の戦士を見つけ、やや不快そうに眉をしかめた。言うまでもないが、発砲したテロリストは男であった。

 イオナは右肩に乗せていた軍刀を下げ、左手を鞘に添える。無造作にすらりと抜き放つ。

 英雄ジェラディーンにはこのような逸話もある。曰く――ジェラルディーンは武器を持てなかった。どんな武器を使用しても彼の元には精霊が集まりすぎてしまい、過剰すぎる力がそれを壊してしまう。だから、精霊達は彼のために一振りの剣を鍛え、与えたという。それがかの有名な聖剣『ディオスカール』である ――

 異様な刀身だった。黒と白が入り交じった木目状の模様が、全体をびっしりと埋め尽くしている。まるで混沌をそのまま刃の形に固めたかのような、ひどく面妖な剣だった。

 イオナを包む極光が軍刀にまで伝播した。刹那、閃光が爆ぜる。

 次の瞬間、眩しさに顔を顰めたカーチャの視界から、イオナの姿が消えていた。

 低い呻き声。気がつくと、イオナは彼女自身を銃撃した男の喉を軍刀で貫いていた。信じられなかった。距離は少なくとも十メートル以上は離れていたはずだった。それを一瞬で、しかも生身で詰めたというのか。

 一瞬遅れて、男の体がびくんと跳ねた。途端、体内に何を注ぎ込まれたのか、全身の毛穴という毛穴から血が勢いよく噴き出した。どう見ても即死だった。力を失った体がそのまま崩れ落ちる。返り血ですらイオナを防護する光輝に阻まれ、その身に届くことはなかった。

 命の灯火を無理矢理かき消したことに何の感慨もないのか、イオナは面倒そうに男の喉から軍刀を引き抜くと、刀身を濡らす血を払い、声を張り上げた。

「サイラ! アイリス! ベル! ついでにラケルタ隊! 何をしている! 殲滅しろ! 一人も生きて帰すな!」

 中性的な声音はこの時、清冽なほど凜と響いた。普段は陽光のごとく金色に輝く瞳は、今ばかりはドライアイスのように冷たく、乾ききっていた。

 その命令に皆が声を揃えて応答する。

『アイ・マム!』

 掃討戦が開始された。アイリスとラケルタは変わらずカーチャの傍にいてくれたが、それ以外の全員がとうとう逃げ惑い始めたテロリスト達を追撃するべく駆け出していった。〝エア・レンズ〟も映像を残すために方々へ散っていく。


 残酷で凄惨な戦いは、大した時間もかからずに終了した。既に包囲網は完成していたのだ。テロリストは誰一人として逃げること叶わず、生き延びることは出来なかった。

 作戦をつつがなく完了させた後、イオナは通信機で新たに指示を出していた。

「――ああそうだ。後片付けはジンハルト部隊に任せておけ。俺達がこれ以上働くのは超過勤務だからな。お前もよくやってくれたな、イーヴァ。今度ご褒美をやろう。ふふふ期待しておけ。勿論アイリスには見つからないようにしなければいかんが……ああ、そうだな。ではまた」

 通信を切ると、イオナはその場に立ち尽くすカーチャに視線を向けた。道に転がる死体を避けながら歩み寄り、すぐ傍まで来ると優しげな微笑みを浮かべ、

「ご苦労だったな、カーチャ。大変だったろう。だが初陣とはそういうものだ。これも訓練の一つだからな。次からはお前も最善を尽くせるよう頑張ってみるといい。……カーチャ?」

 返答はなかった。数拍の間を置いてその事に気付いたイオナは、カーチャの背後にいたアイリスと顔を見合わせた。次いで、腰を屈めて『エリーカ』の風防越しにカーチャの顔を覗き込み、

「――器用な奴だな」

 と言った。それから、カーチャの頭越しから『?』と疑問符付きの表情を向けてくるアイリスに、イオナは状況説明として的確な一言を放った。

「こいつ、立ったまま気絶しているぞ」

 カーチャは今度こそ白目を剥いていたという。




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