▼4-戦闘訓練と熱いベーゼ
▼4-戦闘訓練と熱いベーゼ
気がついたら戦場にいた。
比喩でも誇張でも修辞でもない。
正真正銘、命の奪い合いの中に、カーチャは立ち尽くしていた。
「…………」
思考は空。意識は真っ白。何も考えられない虚ろな頭。
増感された広角視野、その右手側では、精霊式駆動強化外骨格『ブリアレオース』を纏ったサイラが、その巨躯に相応しい漆黒の大刀を猛然と振るい、一人のテロリストの腹をぶった切っていた。
隙間無く装備を固めているこちら側と違い、テロリスト側は余裕がないのか、ほとんどの者が所持しているのは武器だけで、防具はつけていなかった。
故に、一刀両断。
分断された箇所から爆発的に血が飛び散って、男の上半身が臓物を撒き散らしながら玩具のように宙を飛ぶ。
驚きはもうない。そんな気力は最初の五分で使い切ってしまった。
視界の端を、まるで素早い羽虫のように銃弾が飛び交っている。こちらへ飛んでくる弾丸はみな、各々が装備している装甲に弾かれて、ただの礫と化す。あちらへ飛んだ弾はテロリスト達の体のあちこちに突き刺さり、紅い花を咲かせて散らす。
その中でも特に、テロリスト達の目玉や耳、乳首や臍、股間や尻の中心など、やたらとマニアックな箇所を穿つ銃弾は、上空にいるベルの狙撃だ。彼女は背中の鳥翼型飛行機『ディオネ』で空高く舞い、同じくブルマン製の狙撃銃『アラドヴァル』を以て超遠距離射撃を行っているのだ。その射撃のあまりの精密さが、余計にカーチャから今の状況に対する現実感を奪っていく。
苦痛に喘ぐ悲鳴、あるいは断末魔の叫びを上げて、人間が次々と倒れていく。
死んでいく。
あまりにも無慈悲な光景を目の当たりにして、八歳の精神はもはや完全に麻痺していた。
恐怖の感情ですら凍結してしまっている。
自分の専用装備、電気起動型兼精霊駆動式装甲服『エリーカ』――体中を覆う、ずんぐりむっくりした見た目の装甲服の中で、我知らず、カーチャは失禁していた。
動きやすさより装甲の頑丈さを優先した設計なのが幸いした。何もせず棒立ちになっていても、敵の放つ銃弾は装甲に弾かれ、近付いてくる者は頭上のベルや同行しているアインヘルヤル軍の男性兵士達が撃ってくれ、それをも突破して接近してきたテロリストはカーチャの背後を護るアイリスが撃退してくれた。
アイリスの出で立ちは、カーチャとは真逆だった。肉感的な姿態を露わにする、総身タイツのごとき薄い装甲のシルエット――タイロン社の『バーロン』シリーズ一式に身を包んだアイリスの姿は、どこかスピードスケーターに似ている。両足に装着された機動ブーツ『ツォウロン』は、ローラーとホバーの両方を駆使して使用者に地上での高速機動を約束する。アイリスは周囲の者達に指示を飛ばしつつ、いざという時はその高い機動力を以てカーチャのフォローに入ってくれていた。
肝心のイオナはというと、その姿はカーチャの視界にはない。彼女は戦端が開かれるとほぼ同時に、ここより更に奥――敵の真っ直中へと飛び込んでいったのだ。
軍刀一本だけを携えて。
装甲服もなしに。
今頃、蜂の巣になって死んでいるかもしれない。
――変ですよ。これは、変ですよ……
という心の声が、一体何に対してのものなのか。もはやカーチャ自身にもわからない。
そう、確かに変だった。
まず、今日の予定は『戦闘訓練』だと聞いていた。確かにそのはずだった。
なのに今、ラーズグリーズの面々どころかアインヘルヤル軍の部隊まで合流して、こんなところでテロリストと冗談抜きの殺し合いをしている。
――どうしてこんな事に?
血風渦巻く最中、原因を探るためにカーチャは記憶を遡った。ゆっくりと確かな手付きで、小一時間前の出来事を手繰り寄せる。
イオナは男にはめちゃくちゃ厳しい。
朝。カーチャ達はラーズグリーズ本部を出てすぐ、サイラが必要な物資を積み込んだトラックへと乗り込んだ。
山と積まれた装備の中に自分の『エリーカ』があるのを確認したカーチャは、これから行われるであろう『戦闘訓練』に小さな胸を膨らませた。小柄な胸骨の内を占めるのは『ちゃんとやれるだろうか』という不安だったが、その中には期待の微粒子もわずかながら混じっていた。未知のものに対して恐怖より興味が先行するのは、カーチャの幼さ故か、それとも天才故か。
トラックが行き着いた先は、しかしカーチャにとって全く予想外の場所だった。
首都の北部、アインヘルヤル軍中央基地ヴァルハラ。〝闘神の城〟とも呼び馴らわせられる、その敷地内である。
――何故、こんな所に?
という疑問にはベルが答えてくれた。
「ボク達って特務機関でしょ? それって実はアインヘルヤルにもあるんだよね。まぁ【こっち】にはイオナ大佐みたいな指揮官クラスがいないから、実質うちの支部みたいなもんなんだけど」
駐車場に降り立つと、そこには男性兵士二十人ほどの集団がカーチャ達を待ち受けていた。
誰も彼も屈強な肉体をしていて、見るからに厳めしく、暑苦しい感じだった。ワルキュリア軍における正規の軍服の色はコバルトブルーだが、アインヘルヤル軍ではそれがロリエグリーンになる。彼らを指して『ラーズグリーズの支部みたいなもの』とベルは言ったが、カーチャ達と違って着用する制服は特別製ではなく、通常のものであるらしい。
鮮やかな緑の一団が揃って敬礼をとり、リーダー格の男が野太い声を張り上げた。
「お待ちしておりましたッ! デル・ジェラルディーン大佐殿ッ!」
それに対するイオナの返答が、これである。
「黙れッ! 俺の許可もなく醜い声で喚くな! 耳が腐る!」
「――へっ?」
我が耳を疑った。
一瞬、聞き間違いかと思った。しかし見間違いであるはずもなかった。目の前でアインヘルヤル兵を怒鳴りつけたのは、間違いなくイオナだった。
猛獣の雄叫びに怯える草食動物のごとく、ものすごい勢いで男性兵士達の身が竦んだ。
――あ、あれ? ちょ……イオナ大佐の顔が……!?
激変していた。
そこに、鬼がいる。
そう幻視してしまうほど、凄まじいまでの気迫を全身に纏ったイオナが、そこにはいた。先程までとはまるで別人だった。
彼女はツカツカと、まるで距離を力ずくで削り取るような歩調で男性陣に近付いていく。冷凍させた剃刀のごとき空気がさらに緊張していくのを、カーチャは肌で感じた。
野獣にも似た瞳が、つい、と横にそれた。途端、その右拳が走った。
「あっ――!?」
瞬間、カーチャは思わず声を上げてしまった。
男性陣の先頭――おそらくは部隊長――のすぐ横にいた兵士がイオナに殴られたのだ。
パンチ一発で宙を飛ぶ大人――というのは、ひどく衝撃的な光景だった。
「服装に乱れがあるッ! 気がたるんでいる証拠だ! 総員、腕立て五十!」
殴り飛ばされた男が地面と接吻するのも待たず、イオナは一方的に言い放った。どうやら殴った男の身だしなみに何かしら問題があったらしい。
日に焼けた浅黒い肌に無骨な顔付き、おそらく二十代後半であろう部隊長が恐怖に嗄れた声で叫ぶ。
「アイ・マム!」
その一声に他の者達が続く。
『アイ・マム!』
そして、その場に立っていた男性兵士全員が一斉に腕立て伏せを始めた。逆に、【立っていなかった】一人は倒れ伏したまま、完全に気を失っているようだった。
「…………」
突然の出来事に、カーチャは開いた口がふさがらない。唖然とするしかなかった。
――なんなんですか、アレは……!?
「ビックリしたでしょう? カーチャちゃん」
「え? へっ、あっ!?」
心配して声をかけてくれたであろうアイリスに、思わずビビって反応してしまうカーチャ。妙なポーズをとってしまっている事に本人は気付いていない。
アイリスは、にっこり、と笑って、
「実は大佐はね、ああ見えて男の人には厳しいのよ。意外だったでしょう?」
くすくすと可笑しそうに言う。
「い、いえ、意外というか、何というか……」
ガチレズだ、とは本人の弁から聞いていたが、まさかここまで露骨なものだとは思わなかった。男性に対する態度が、女性に対するそれと比べて、あまりにも違いすぎる。
――というか、死んでませんよね、あの人……?
もんどりを打って倒れた男性兵士は、先程からピクリとも動かない。その姿だけで、イオナの拳の威力がどれほどのものだったかが、容易に想像できた。
「でもね、カーチャちゃん。あれは男の人が嫌いだから、というわけではないのよ?」
「えっ?」
それこそ意外だ。カーチャは顔を上げてアイリスを振り返る。
アイリスはニコニコと実に嬉しそうに、今もなお男性陣に怒鳴り散らすイオナを見つめていた。
――……あれ? 何か、おかしいような……そういえばアイリスさん、【さっきも笑ってましたよね?】
「あれはね、大佐の【愛】なのよ」
「あ、愛?」
「そうよ。軍人はいつだって常在戦場。ほんの少しの気の緩みが、すぐに死に直結するの。だからこそ大佐はああやって、あの人達に気合いを注入してあげているのよ」
確かに正論ではあった。カーチャとて軍隊に入る前に一通りのことは勉強している。その中には無論、軍人としての心構え、というものも含まれていた。それと照らし合わせれば、アイリスの主張は理にかなった、実にもっともなものだった。
しかし、である。
「愛、ですか……」
カーチャはげんなりしながら、本部でのイオナの姿を思い起こす。
カーチャの事を天使などと呼び、無茶苦茶なやり方で愛でようとするイオナ。あれも確かに、愛と呼ぶなら愛なのかもしれない。カーチャにとっては迷惑以外の何物でもないが。
だがカーチャには、あれと、今目の前で行われているこれとが、全く同じ感情から生まれた行動だとは到底思えなかった。
「そう、あれは優しさの裏返しなの。大佐は、愛に溢れている人なのよ」
優しさや愛情の裏返しが鉄拳制裁になるとは、前代未聞だ。そう思っても口には出さないカーチャである。
――あれはどう考えても、愛というより、単なる男女差別のような気がしますけど……
胸中で呟く言葉を直に発さないのは、指摘するのが面倒だというのもあるが、それ以上にアイリスの声音から【不穏な何か】を感じ取っていたからでもあった。
カーチャはそっとアイリスの横顔を伺う。
いつの間にやらアイリスの表情が、カーチャの知る常のものから、別のそれへと変化していた。
頬を上気させ、緑の瞳をとろんと蕩けさせ、唇を僅かに綻ばせた顔。
八歳のカーチャにはまだ理解する由もないが、それは〝恋する女の顔〟であった。
ただそれが尋常でないことだけは、カーチャにも解った。
ラーズグリーズに入隊してまだ二日目。それでも何度も衝撃的な経験をしたせいか、早くもカーチャはある種の予兆を感じられるようになっていた。つまり、嫌な予感、というものである。
その嫌な予感が、したのだ。
――まさか……
次の瞬間、とうとうアイリスが呆けたように、
「ああ、大佐……格好いいわぁ……」
と、陶酔境にひたった声を唇から漏らした。その呟きに、幼女の本能がゾクゾクと反応する。
――へ、変……っ! 変ですよっ!? アイリスさんが何か変ですよーっ!?
変人集団ラーズグリーズの中にあって唯一その感覚だけはまともだと信じていたアイリスが、完全に壊れていた。正確に言うと、壊れてしまったのはカーチャが抱いていたアイリスのイメージなのであるが。
この時、カーチャが受けたショックは計り知れない。信じていた人に裏切られるというのはこういうことなのか、と大人顔負けの思考が小さな頭蓋内を巡っている。
「あー、それ、気にしない方がいいよ。アイリスさん、大佐にベタ惚れなんだからさ。たまに発作が出るんだよねー」
顔を蒼白にしてアイリスの横顔を見上げていると、逆隣からベルの呆れ声がかかった。
振り向くと、彼な彼女はふてぶてしく腕を組んで、片足に重心をかけて立ち、視線は腕立て伏せをさらに三十回追加された男性陣に向けていて、口元に小悪魔的な微笑を浮かべていた。
「ほっ、発作? いえ、あの、ベタ惚れって……?」
腕立て伏せを強制されている大人達を見ることの何が楽しいのだろうか。サディズムとマゾヒズムを言葉でしか知らないカーチャが疑問を口にすると、ベルはチラリと一瞥をくれ、
「んー? ああ、まだ聞いてなかったんだ? アイリスさん、元々はイオナ大佐にベタ惚れしたアインヘルヤルの人でさ。イオナ大佐が男を愛さないガチレズだって知って、性転換に踏み切ったんだって。これ、アインヘルヤルでもワルキュリアでも結構有名な話だよ」
一瞬、ベルが何を言っているのかよく理解できなかった。数秒の間を置いてようやく理解した瞬間、頭をハンマーで殴られたのかと思うほどの衝撃がカーチャを襲った。
「――ええええぇぇぇぇえぇっ!?」
驚きすぎて堪らず目を剥いて大声で叫んでしまった。
吃驚仰天。その一言に尽きた。
「そっ、そんな理由でぇッ!?」
――だって、そんな、時間もお金もものすごくかかることなのに……!? い、いえ、そういう問題だけじゃなくてですね、生まれ持った性を変更するというのはそんなに軽いものじゃないと思うんですがっ!?
という、様々な感情や言葉がカーチャの中で渦を巻き、結果、一つの抗議の声となった。
「――はぁあぁあぁあぁあぁっ!?」
もし目の前に精霊の王、あるいは神と呼ばれる存在がいたとしたら、今のカーチャなら詰め寄って抗議したことだろう。これは一体どういう事だ、と。それほどまでに、カーチャにとって理解不能な原因と結果だった。
不意に、つい先刻聞いたアイリスの台詞がカーチャの脳裏に蘇る。
『あ、ご、ごめんなさいね? 私、お母さんじゃないから――というより、なれないのだけれど――実際の所はわからないの……間違っていたかしら?』
母親になれない――その言葉の意味を履き違えていたことに、カーチャは気付いた。てっきりワルキュリア軍の兵士であるが故、〝精霊核〟を失うわけにはいかないから、アイリスは母親になれないと言っているのだと思っていた。だが、それは勘違いだったのだ。
アイリスは女としてイオナに愛されるため、性転換をした。そして、女同士では子供を産むことは出来ない。少なくとも現在の技術ではその壁を越えることはまだ出来ない。だからアイリスは言ったのだ。自分は母親にはなれない――と。
「――そういう意味だったんですかぁぁぁぁっ!」
思わず脳内のアイリスに対して、実際に声を出して突っ込んでしまう。
流石にと言うべきか、ようやくと言うべきか。先程から連続して大声を発しているカーチャにアイリスが気付く。彼女は自分の腰辺りにあるカーチャの顔を微笑で見下ろし、片手を頬に当てて、
「……あら? どうしたのカーチャちゃん? あ、お腹空いたのかしら?」
カーチャは猿から生まれたエイリアンでも見るような顔でアイリスを見上げた。
気が付くと、周囲の視線が全てカーチャに集中していた。腕立て伏せをしていたはずの男性陣も、動きを止めてこちらを見つめている。それを監視し叱咤していたイオナも『何事だ?』という顔をして振り返っていた。
頭上から、ぷっ、と吹き出す声。
「――っあはははははっ! 騒ぎすぎだよカーチャー♪ みんなビックリしてんじゃーんぁはははははっ!」
腹を抱えて笑ったのは誰あろう、衝撃的事実をしれっとカーチャの耳に注ぎ込んだ張本人である。カーチャのど派手なリアクションと、くるくる変わる百面相が余程おもしろかったのだろう。ベルは身をよじりながら、可笑しくてたまらないという風に呵々大笑していた。
ほとんど直感でカーチャは気付いた。
――こ、この人わざとですね!? 親切に教える振りして実は私を驚かせる絶好のタイミングを狙ってましたね!? ひっ、非道いっ! い、意地悪ですっ! 鬼です悪魔ですっ!
目尻に涙を浮かべながら哄笑するベルの顔を、カーチャは歯ぎしりしながら彼女とは逆の意味での涙目で睨み付ける。ただ残念なことに、まるで迫力がない。
と、ベルの笑い声で我に返ったイオナが、静止している男性陣に思い出したように喝を入れる。
「誰が休んでいいと言った貴様らぁ――――――――ッッ!」
男共は先程に倍する速度で腕立て伏せを再開し、声を重ねる。
『アイ・マムッッ!』
「あと誰が勝手に俺の天使達を見て良いと言ったぁ――――――――ッッ!」
『申し訳ありません!』
ここでイオナは一旦声を落ち着かせ、いっそ優しげに、
「五十追加だ――と言いたい所だが、この後に任務もあれば、今日は新人の初陣でもあるからな。少しは容赦をしてやろう。半分ぐらいが適当か? ふん、計算が面倒だな。貴様らに聞くが、五十の半分とはいくらだ?」
最後までその口調は穏やかだった。それ故に、悲しき男共は暗黙の掟に従い、汗にまみれた顔でこう合唱する他なかった。
『一〇〇であります!』
そんなやりとりを背景に、笑いの波がおさまってきたベルが、それでも口元を楽しそうに綻ばせながら、
「あーあ、ラケルタさんも大変だなぁ」
と、目尻の涙を拭う。そういえば、とカーチャは思い出す。ベルは現在ラーズグリーズ所属だが、年齢から計算すれば、元々はこのアインヘルヤルにて軍属になったはずだ。
――あと、ラケルタさんという名前もどこかで聞いたことがあるような……
「あの、お知り合いがいるんですか?」
「んー? あ、ボク? そりゃそうだよ。ボクだって元はこっちの出身だし、大体あしな――じゃなかった、まぁ、ちょっとした野暮用とかで、あそこの隊長のラケルタさんとはしょっちゅう会うし」
どうやらラケルタとは、あの浅黒い肌で強面の部隊長のことらしい。そう把握しつつ、『あしな――』とは一体何を言い掛けたのだろう? とカーチャが疑問を抱いていると、ベルがやおら男性陣を右の人差し指でさし、
「それに、ラケルタさん以外の奴とは全員付き合ったことあるしね。あ、そうそう、実はあいつらって全員【穴兄弟】なんだよねー」
「付き合う……え? あな、きょうだい……?」
カーチャはそれらの単語を知らなかった。幼い少女の知識の泉に沈んでいるものは、その大半が書物から得たものだった。故に本に記載されていない言葉――例えば〝ゴールドフィンガー〟や〝穴兄弟〟など、わかる者にしかわからないもの――は知り得ないのだ。
よって劇的な反応を示したのは、当の本人達だった。
『な、なんだってぇーっ!?』
ラケルタを除く男性全員が一斉に驚愕の声をあげた。それはもう、ほとんど悲鳴に近い響きだった。
「馬鹿な! そんな馬鹿な! 嘘だろぉ!?」「お、お前らっ! マジでか!? 本当に!? こ、この変態野郎共がっ!」「いやお前が言うなよ! 同類だろ!?」「ちくしょう! ベルちゃんの愛を受け取ったのは俺だけだと信じていたのに……くっ!」「っていうかお前ら全員俺を騙していたんだな! くそっ! 裏切り者め!」「なにをお前こそ!」
醜い争いが生まれ、瞬く間に殴り合いへと発展した。
――うわぁ……
何だかよくわからないが、眼前で展開しているものが醜悪であることだけはカーチャにもわかった。わかりすぎるほどにわかった。
またも隣でベルの笑い声が弾ける。本当に性格の悪い人ですねぇ、と辟易しつつも、カーチャはもう一度質問する。
「あの、ベルさん。【あなきょうだい】ってどういう意味なんですか?」
「んー? あーそっかぁ。知らないんだ。穴兄弟っていうのは――」
と、楽しそうに説明しようとしたベルの口を、分厚いグローブのような黒い手がそっと塞いだ。
サイラの掌だった。
「……軍曹、その……それぐらいに……」
「ふぁいふぁふぁん?」
言葉を止められたベルが目だけでサイラを振り返り、見上げる。カーチャもそれに倣って視線を向けると、漆黒の仮面のごとき大女の顔が、なんとなくだが、ほのかに紅くなっているような気がした。ごついサングラスのせいで表情が読みづらく、確信が持てないのだが。
しかしカーチャが得てない確信を、ベルは手にしたらしい。彼女は目だけでもわかるほど、にやり、と笑い、口元を覆っていたサイラの掌から唇を離すと、
「またまたぁ、サイラさんってば乙女なんだからぁー」
にっしっしっしっ、といやらしく笑いながら、肘でサイラの腰辺りをうりうりと小突く。すると、サイラは何も言わずそっぽを向いた。だが、こちらに見えるようになった耳が、どう見ても赤黒い。
――もしかして、照れてるんでしょうか……?
穴兄弟の意味も知らず、そもそも大の男が揃いも揃って血涙を流しながら殴り合う理由もわからないカーチャには、当然サイラの言動が示す所を察することなど出来るわけも無く、キョトンとするしか術がなかった。
「て、テメェらっ! いい加減にしねぇか! 大佐殿の前だぞ! ぶっ殺されてぇのかッ! つうか俺を巻き込むんじゃねぇよこの変態ロリショタ野郎共がぁっ!」
乱闘を繰り広げている部下達へ、隊長のラケルタが立ち上がって怒鳴りつける。その顔は焦りに満ちていた。それもそうだろう。部下の失態は上司の責任だ。このままではラケルタはまたしても由のない処罰を受けかねない。それにしてもあんなに腕立て伏せをしていたのに元気なんですねぇ、と感心していたカーチャは、ふと気付いた。
イオナの姿が見えない。
「――?」
どこに行ったのだろうか。そう思って視線をあっちこっちに彷徨わせると、すぐ隣に立つアイリスの体の向きが変わっていることに気がついた。彼女が見つめる先をカーチャも追う。イオナを照準しているであろうアイリスの瞳は、何故かカーチャ達が乗ってきたトラックへと向けられていた。
やがてトラックの扉が開き、イオナが姿を現した。とても爽やかな表情で、しかしその左手にはひどく物騒な物が握られていた。
大口径の拳銃である。
ご機嫌な様子でトラックから降りてきたイオナは、そのままカーチャ達の方へ近寄ってきて、燦然と輝く笑顔のまま拳銃を差し出し、こう言った。
「カーチャ、あいつらを撃ち殺せ。俺が許す」
「ちょ――!?」
――いきなり何言ってるんですかこの人ぉ!?
愕然とするカーチャに、イオナは有無を言わさず黒光りする鉄の塊を握らせる。背後に回り、カーチャの両手を包み込むようにして自分の手を添え、小さな女の子に自然と完璧な射撃姿勢をとらせる。
「え? は、あれ? あの、ちょ、た、大佐っ!?」
「いいからいいから。気にするな」
右腕を真っ直ぐ伸ばし銃床代わりに。銃把を握り込んだ右手を包み込むようにして左手を被せ、肘を内側へ絞り込む。イオナの軍靴の爪先がカーチャの踵を押し出し、左足を前へと移動させる。膝を軽く曲げ、肩の力は抜いて、重心は前方に。
素晴らしいまでのスタンディングポジション・アイソレイトスタンスの出来上がりだった。
あれよあれよと言う内に自らの体が他人によって動かされ、全く抗えないことにカーチャは恐怖を感じた。そして、自分の手が行おうとしていることに対しても。
カーチャの耳元で、イオナが明るく爽やかに断言した。
「あれは人間ではない。ただのゴミだ」
迷いも躊躇いもない、本気の声だった。
「ひぃぃぃぃぃっ!? ちょっちょっちょっ、ちょっと待ってくださいちょっと待ってください――!」
「いいかカーチャ、息を吸ったらちょっとだけ吐いてすぐに止めろ。そして引き金を引くんだ」
思わず言うとおりにしてしまった。が、流石に引き金までは引けない。明らかに握力が足りないのだ。ほっと安堵したのも束の間。イオナの長い指がトリガーガードの中にするりと忍び込んできた。そのまま引き金にかかったカーチャの指に覆い被さり、力が込められる。
「あッ――!?」
容赦なく引き金が引き絞られた。
カキン、という拍子抜けする音だけが響いた。
「……あれ?」
遅れて銃口から激しい閃光と必殺の威力を秘めた弾丸が飛び出し一人の男性兵士の頭をトマトのようにぶちまけた――なんて事も起こらなかった。
「――あっ……!」
生じた現象を正しく理解した瞬間、カーチャの顔から血の気が引いた。薄いヴェールを被せたかのように、鮮やかな速度で顔色が蒼白に移り変わる。
弾切れ、というわけではなかった。軍人が使用することを前提にしている兵器は全て、精霊駆動式だ。この拳銃とて例外ではない。正常な〝精霊核〟を有し、精霊の加護を得る者が引き金を引けば弾が出る。そういうものだ。
なのに、不発に終わった。それが意味するところは、一つしかない。
カタカタと体が震え出すのを、カーチャは意思でねじ伏せようとして失敗した。自分の弱さに内心でほぞを噛む。
――バカです。こうなることがわかっていたのに、私は……!
「……ふむ。不良品だったか。サイラ、これはどうやら使い物にならんようだぞ。後で整備課に回しておけ」
「――!」
カーチャは驚き、弾かれたような勢いで顔をイオナに振り向かせた。そんな馬鹿な、嘘だ、気付かなかったわけがない――そんな感情が露骨に顔に出ていた。
目を見開いて自分を見つめるカーチャに気付いているのか、いないのか。イオナは意に介した様子もなくサイラに拳銃を渡すと「興が醒めたな」と呟き、そのまま男性陣の元へ戻っていった。
その背中を、呆然と見送る。
傍らのサイラが本当に拳銃をトラックにしまいに行く気配を感じつつ、カーチャはイオナの背を見つめ続けた。
気付かなかったはずがない。悟らなかったわけがない。絶対に察したはずだ。なのに何故、誰も何も言わないのか。
周囲を見回すと、相変わらずアイリスは猛獣のごとく暴れるイオナを陶然と見つめているし、ベルはイオナに殴られて人形のように飛んでいく男性陣を見ては大笑いしている。サイラはトラックに拳銃を置いて戻ってくると、カーチャの隣に立つだけで何も言わない。
下手なことを言えばやぶ蛇になる可能性もある。そう考えて、カーチャは何も出来なくなった。
――最低ですね、私は……今さっき自分から言い出さなかったことを後悔したばかりなのに……
独り、拳を握りしめ、唇を噛みしめる。どうしても自分から告白する勇気が持てなかった。言い出そうか、いや本当に気付いていないのかもしれない。最後まで知られることがなければ、それはないのと同じだ。黙っていればバレることはない。
イオナの腰に下げられていた通信端末が呼び出し音を発する。が、カーチャはそれを意識の表層だけで聞き流した。少女は自分の世界に埋没している。
もう二度と精霊起動式のものに触れなければいい。自分は特例だ。喪失技術の研究者なのだし、それ故の特務機関所属なのだから。大丈夫、問題はないはずだ。
イオナが暴れるのを止め、通信端末を手に取りながら総員に集合を命じる。カーチャ以外の全員がその命令に従った。
「――カーチャ? どうした、集合だぞ? 早くこちらへ来い」
俯いて微動だにしないカーチャに、イオナがそう声をかける。しかしその声もカーチャの耳には入っていなかった。
でもそれは卑怯なことではなかろうか。バレなければいい、知らんぷりをすればいい、そんな考えで本当に良いのだろうか。それは自分を含め周りをも不幸にしてしまう考え方ではないだろうか。
通信端末で何者かと会話したイオナは、それが終わると彫像と化したカーチャを見つめ、吐息を一つ。
言うべきだ。今言うのは一時の恥で、言わないのはきっと一生の恥だ。
他の者にその場での待機を命じ、イオナがカーチャに歩み寄る。そんなことにすら気付かず逡巡に没頭するカーチャの前で、イオナは膝をつき、少女の顔を下から覗き込んだ。
けれど、何と言えばいい。どう切り出せばいい。言うべき瞬間はもう過ぎ去ってしまった。次の機会を待つべきだろうか。いや、それはいけない。いけないからこそ自分から告げるべきなのだ。では、どうやって?
イオナはしばしカーチャの様子を観察し、それでも自分の存在が全く感知されないのを確認すると、やおら抱え込むように両手を少女の頭にかけた。その感触にさえ、カーチャはとうとう気付かなかった。
考え得る中で最も正攻法なのは、訓練が終わった後に皆を集めて話を聞いて貰うことだろう。皆さんに大事な話があります、聞いてください。よし、これだ。これさえ言えれば後は流れで唇に柔らかいものが押し当てられる。それは柔らかい上に温かかった。吐息の感触。人肌の手触り。目の前に、さらりと柔らかい綺麗な銀髪。嗅ぎ覚えのある香り。
イオナがカーチャにキスをしていた。
「――ッッッ!? !? !?」
ようやくカーチャは現実の状態に気付いた。
思考の海に潜行していた意識が急速に浮上し、かつてない混乱に陥った。何故、なにがどうなって、こんな事をされているのか。
ぬるり、とそんな状況把握を遮断するように生温い舌が、
「んんん――――――――ッッッ!?」
さらに白黒になったカーチャは、それでも不器用な悲鳴をあげた。元より体は硬直して動かなかったが、例え自由が利いたところでイオナの腕がカーチャの頭を完全にホールドしていたため逃げることは不可能だったろう。
すっくとイオナが立ち上がった。両腕は器用に動き、右腕はカーチャの頭をがっちり固定し、左腕は小さな体を抱きかかえる形となる。短く細いカーチャの足はあっさり大地から離れ、余計に身動き出来なくなったところをさらに責め立てられる。
「んーっ!? んんーっ!? んんんんーッッ!?」
イオナは執拗だった。もはや上下左右すら定かではないほど錯乱しているカーチャにもそれだけはわかった。
絵に描いたような、熱いベーゼ。周囲から『おおーっ!』と沸く声。
手でイオナの肩を叩いたり、足をバタバタさせたり、そんな抵抗ができたのも最初の五秒ほどだけだった。やがて行き場のない両手両足をピンと伸ばし、痙攣するかのように震わせ――段々と諦めの気持ちと思考の停止がカーチャを蚕食していき、四肢からは力が抜け、最後には短時間ではあるが意識を手放してしまった。
結論から言えばイオナの蹂躙は三十秒程度で終わった。
まるで精気を根こそぎ吸い取るかのごとき熱烈な接吻が終わり、きゅぽん、と音を立てて互いの唇が離れた。
酸欠で頭が朦朧とする中、カーチャはこんな言葉を聞いた。
「ふふ……ご馳走さまだな、マイ・エンジェル。覚えておけ、俺の前で隙を見せるとこうなるぞ」
艶々した顔でカーチャの耳元に囁く、低音混じりのイオナの美声だった。
「……へ……ほぇぇ……?」
残念なことに、脳内が混濁しすぎてほとんど意味を理解できなかった。表情筋をだらしなく緩め、青紫色の顔でカーチャは目をパチパチさせる。
ここで一度、意識が途切れた。
次に我に返った時には、トラックの中で再び振動に揺られていた。
「……はれ……?」
放心状態からキョトンとする。薄暗いトラックの荷台の中、壁際に背をつけて座っている自分を発見する。何気なく視線を泳がせると、隣にイオナが座っていた。
寝ぼけ眼だった魂に火が点いた。
「っぎゃ――!?」
「まて、作戦行動中だ」
悲鳴をあげようとしたカーチャの口をすかさずイオナの手が塞いだ。片手の人差し指を唇の前に立て、静かに、とジェスチャーする。
だがそんなもので治まるほどカーチャの不満は小さくなかった。眉を逆立て、そのまま思いの丈をまくし立てる。
「ふむもっ! ふもももふむうふふふっ! ほふっ!」
「わかったわかった。ところでマイ・エンジェル? さっきから唇が絶妙に俺の掌をくすぐって気持ちいいんだが……あぁいいぞ、もっとやれぇっ……」
体をくねらせ妙な声を出すイオナにカーチャは愕然とする。
「ふぶっ!?」
――この人はまだそんな事を……!
許せない。乙女の純潔は決して安くないのだ。それをどうにかして思い知らせてやらねば気が済まない。そう思ったカーチャだったが、やにわに眼差しを真剣なものへ変えたイオナにたちまち怯えてしまう。これまで向けられたことのない視線だった。胸の真ん中を強く打たれたように、思わず体を竦めてしまった。
「落ち着いたか? では、お前にはまだ説明してなかったことを手短に言うぞ。支援部隊のイーヴァから該当地域の囲い込みが完了したとの報告が入った。これから俺達はテロリストの制圧に入る。以上が連絡事項だ。何か質問はあるか?」
――ちょっと待ってくださいってば……!
あるに決まっていた。次から次へと一体何だというのだ。自分をこんな状況に放り込んだ不可視の存在に憤慨しながら、カーチャは首を縦に振った。すると、イオナが口元を塞いでいた手を離してくれる。カーチャは二度、深呼吸をして息を整えてから質問を口にした。
「……まず……テ、テロリストの制圧ってなんなんですか? 今日は戦闘訓練のはずじゃ……?」
「そうだが?」
イオナはカーチャの疑問を無造作に一刀両断した。
「……はい?」
「その戦闘訓練が、今言ったテロリストの制圧任務だ。なんだ、アイリスやベルから何も聞いてなかったのか?」
「き、聞いてませんけど!? 何ですかそれは!?」
意味がわからない。何故ただの戦闘訓練がテロリストの制圧任務になるのだ。アイリスだって言っていたはずだ。これは定期的に行われるものだ、と。
カーチャの噛み付くような詰問に、イオナは、ふむ、と顎を摘む。
「詳しく説明すると長くなるのだが……面倒だな。まぁ今はそういうものだと理解すればいい。どうだ?」
「ちょっ……!? む、無茶苦茶言ってますよ!? 納得できません!」
「では、そうだな……カーチャ、試みに問うが、俺達ラーズグリーズは軍の中でどういう位置づけになると思う?」
流石にここまでくるとカーチャにも手持ちの遠慮が足りなくなってくる。
「鼻つまみ者の集団、ですか?」
率直に言うと、何故かイオナが、ふっ、と嬉しそうに笑った。
「間違ってはないな。では軍や政府の上層部の立場になって考えてみろ。鼻つまみ者達には何をさせたい? 前線には出さず、のんびりと戦闘訓練だけさせて、のほほんと給料泥棒させる――そんなことを許したいと思うか?」
「思わないと思います」
きっぱりと言った。イオナの笑みがより深くなる。
「ならばよし。賢いお前のことだ。後は言わなくともわかるだろう?」
カーチャは考える。詰まる所、ラーズグリーズは雑用係で、使い捨てで、どうなったところで関係ない存在なのだろうか、と。例えば、正規軍は戦争のための戦力として残しておかねばならない。だから国内の問題には原則的に出動しない。警察機構によって対応するのが通常だ。なのに、ラーズグリーズを主としたこの部隊は、その国内の問題のために動くという。
つまりはそういうことか、とカーチャは理解した。前線には出せないが、さりとて何もさせないわけにもいかない、実に扱い難い集団。ならば警察の真似事でもさせればいい。上の人間はきっとそう考えたのだ。
「……なんとなく、ですが」
あくまで想像で得た答えのため自信満々で肯定することは出来なかったが、それでもイオナは満足げに頷き、
「それで充分だ。さあ、ぐずぐずしている内に現場に着くぞ。奥でサイラとアイリスも準備をしている。お前も装備をととのえておけ。特に厳重にな」
最後の一言をウィンク付きで告げたイオナに背中を押され、トラックの奥へ向かったカーチャは、しかし、この期に及んでまだ自らの置かれた状況を正しく認識出来ていなかった。
心のどこかで思っていたのだ。どうせ〝戦闘訓練〟と称されているのだ、テロリストの制圧と言っても大したものではないだろう――と。
何人もカーチャを責めることなど出来はすまい。少女がそう錯覚するほどイオナの口調は軽かったのだし、また周囲の人々の態度も大げさではなかった。何も知らない八歳に全てを正しく察しろと言う方が無茶だったのだ。
それからまもなくして、カーチャは現実の重みというものを思い知ることになった。