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▼1-初めての出会い

▼1-初めての出会い




 まだ八歳だった。


 背丈は父の腰のベルトまでぐらいで、体重はりんご五十個入りの木箱とどっこいどっこいだった。マロングラッセみたいな色の髪は、長く伸ばしたせいで綿のようにふわふわしていたし、狼と同じ琥珀色の瞳は母親譲りだった。

 確かにヴォルクリング家は旧体制における名門貴族で、現在でも高名な政治家を輩出し続けている名家で、カーチャことエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングはその跡取り娘だった。

 が、しかし。

 いきなり【特務少佐】というのはいくら何でもやり過ぎで、出来過ぎで、ハッタリの利かせ過ぎではなかろうか。

「流石に引きますね……」

 本来なら、少なくとも今の五倍以上は歳月を呑み込まなければ就けない階級である。未だカーチャの胃袋に収まっている星霜は、たったの八つだった。

 誰がどう見ても、何をどう考えても、割も計算も合わない。

 唯一の救いは、少佐の上に【特務】とつくことだろうか。

 否、違う。それは救いではない。救われている部分もあるにはあるが、それ以上に、少女に決して良くない未来が待ち構えていることを示唆しているのだ。

「階級名に特務がつくということは、やっぱり【あの】特務機関に所属する――ってことですよね」

 特務機関における少佐と正規軍のそれとはイコールではない。むしろ全くの別物と言っても過言ではないだろう。故に、正規の少佐ほど栄光や権力を所有するわけではないので、その点がカーチャにとっての救いである。実際には、救いと言うよりは『多少はマシ』といったレベルなのではあるが。

「しかし、よりにもよって【あそこ】ですか……まぁ当然といえば当然なんでしょうけれど」

 そもそも特務機関とは何か? という話から始めるべきなのだろうが、今回に限ってはその説明に意味はない。

 【あの】特務機関は、特務機関であって特務機関ではないのだから。

「グラッテン国ワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズ……」

 脳裏に浮かんだ文字列をそのまま舌に載せて転がしてみる。

 字面だけを見ればとても厳めしい名前。だがここでは敢えて、その真相をぶっちゃけてしまおう。

 ゴミ箱である。

 特務機関などと言えば聞こえは良いが、実際の所、ラーズグリーズは所属人数が四人しかいない、ただの窓際部隊なのである。

 ゴミ箱には無論、ゴミが入っている。と言うより、ゴミしか入っていない。

 よって特務機関ラーズグリーズにも、その風格に相応しい危険人物共が押し込められていた。

 お前もその一員になれ。カーチャの手に握られた辞令にはそんなことが書いてあった。

 カーチャは幼いが馬鹿ではない。これだけの知識と情報があれば、自分の未来がそう明るくないことぐらい簡単に想像できた。

「うーん……我が父ながら、本当に難儀なことをしてくれますよね……」

 とはいえ少佐は少佐で、特務は特務だ。何にせよ八歳の小娘におっかぶせる肩書きではない。

 どうしてこうなった?

 カーチャはそう自問せずにはいられない。

 何が悪いのかと言えば、まず世の中が悪いとしか言いようがない。

 現在、カーチャの生まれ育った国グラッテンは隣国のスペルズと戦争状態にある。

 その期間、今年で百十年になるという超長期だ。これ一つでグラッテンという国にどれほどの負担を強いているのか、政治家の一人娘としてはあまり考えたくない事柄である。

 次に、誰が悪いのかと言えば、それはカーチャの父になろう。元は門閥貴族、今も格式ある名家を自任するヴォルクリング家の現当主、レオニード・ファン・ヴォルクリング。今日でも正統貴族を示す『ファン』を使い続けているのは、歴代首相の八割を輩出した実績を持つヴォルクリング家だけだ。そんな名跡を受け継いだ父も、やはり典型的な貴族主義の持ち主で、自身およびその親族が天に選ばれた特別な存在だと心の底から信じている。

 究極的には、カーチャの運が悪い、という結論になるだろうか。

 国が戦争中で、父親が権力志向の元首相で、しかも現在でも決して小さくない影響力を持っている――それだけでも十分な要素だというのに、カーチャ自身にも現状を呼び込んだ要因の一つがあった。

 頭が良すぎたのだ。

 実を言うと、カーチャはこう見えて既に大学の卒業課程までを修了している。物心ついた時から知識を吸収することに貪欲で、気がついたら若干八歳にしてこんな所にまで来てしまっていた――カーチャ自身の実感としてはそんな感じであるのだが。齢八つにして一流大学を卒業したこの頭脳は当然、一般的には異常なもので、少女は『天才』と『奇跡』と『伝説』の三つのタグを、まるで呪いの人形に貼り付ける札のごとくベタベタとくっつけられて、今や世界的な注目を浴びていた。

 もちろんこの事実は選民思想の父を大いに喜ばせた。流石は我が娘、選ばれし者よ。お前はこの国の頂点に立つために生まれてきた!

 父としては、愛娘の才能をより大きく開花させ、来るべき日のために下準備をさせようと取り計らったつもりなのだろう。少なくとも悪意の発露でないことだけは、カーチャにだってわかっている。

 ――詰まる所、時代、親、カーチャの資質など全ての要素が絡み合い、そこに政治的な思惑も介入し、さらに建前のペンキを塗りたくった結果が、今の状況だった。

 グラッテン国ワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズ所属、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐。

 馬鹿馬鹿しい。

 八歳で、軍属で、特務機関とはいえ少佐の階級章を着用している人間など、世界中どころか歴史上のどこを捜しても見つかりはすまい。

 我がことながらどうしても他人事のように感じてしまうが、これ見よがしも良い所だった。いかにもなシナリオが想像できる。

 稀代の天才少女が幼くして軍に入り、いきなり少佐の地位に就き、もちろん特務機関故に戦死することなく平穏無事に退役し、その経歴でもって堂々と胸を張って政界へ進出する。

 美しすぎて反吐が出る。

 しかし父は【こういうの】が大好きなのだ。それは娘である自分が一番よく知っている。

「いくら箔をつけるためだからと言って、この年齢の娘を軍に入れますかね、普通」

 トチ狂っている。そう言う他ない。しかしながら、これは現実であり、世の中は実際そういうものだということをこの八歳は理解していた。

 だから深く溜息を吐く。

 見上げるのは、門。

 頂上に十二柱の戦女神を構えた鈍色の格子門が、カーチャの眼前に傲然と立ちはだかっていた。


 グラッテン国ワルキュリア軍中央基地グラズヘイム。

 別名〝戦女神の寝所〟。

 その別称が示すとおり、ワルキュリア軍は女だけの軍隊である。

 男のみで編成されているアインヘルヤル軍の中央基地ヴァルハラは、国会議事堂を挟んで首都の北側にある。南方を拠点とするワルキュリア軍と北のアインヘルヤル軍は、共にグラッテン国の軍事を司っているが、指揮系統はそれぞれで独立していた。

 別に男と女で喧嘩し合っているわけではない。大体、そんな内乱をしていては隣のスペルズに付け込まれてしまう。男女混合軍でないのには、合理的で立派な理由があるのだ。

 さて、カーチャが所属する特務機関ラーズグリーズはこのグラズヘイム内にある。

 本日のカーチャの出で立ちは当然ながらワルキュリア軍の特務機関所属を示す深紅のグラッテン軍服で、両肩と両襟に少佐であることを表す大きな金の薔薇マークがついた階級章を佩用している。

 勿論、特注の子供サイズだ。軍服も階級章も財力に物を言わせて用意させた、不格好にならぬよう比率が調整されている特別製である。

 門扉の近くに立っていた女兵士達に声を掛けたら、案の定ぎょっとされた。が、カーチャの持つ辞令と階級章が玩具でないことがすぐにわかったのだろう。自分の半分も生きていないだろう子供に対して彼女達は礼儀正しく敬礼をし、ちゃんと門を開いてくれた。

 そして予想通り、門をくぐり抜けたカーチャの背に門番達の押し殺した失笑が浴びせ掛けられたわけだ。

 彼女らは知っているのだ。自分達が身につけているコバルトブルーの軍服ではなく、深紅のそれを纏っているのが何者であるかを。

 問題はない。このようなことは予測していた。背中に投げつけられた不躾な気配を、カーチャは意識的に遮断する。子供だからと言って、子供っぽい言動をしなければならないという法はないのだ。

 軍の本拠地だけあって流石にグラズヘイムは広い。徒歩で移動するには大人の足でもきついだろう。なにせこの敷地内には司令部、兵舎、工場、娯楽施設、貨物ターミナルに倉庫、滑走路など他諸々、列挙すればきりがないほど多くのものが収容されているのだ。下手をすれば、この中で遭難することだってあり得るかもしれない。

 移動手段は一兵卒であればバス一択なのだが、佐官ともなれば専用車が用意されている。カーチャは門からほど近い駐車場へ向かい、係の者にまたも微妙な気配を滲ませた対応を受けつつ、運転手付きの車に乗り込んだ。

 ――来ていきなりですけど、気疲れしますね……

 しばらくの間、基地全体の人間がカーチャに慣れるまで、この何とも言えない居心地の悪さが続くのだろう。いや、最悪の事態を考えれば、ずっとこのままかもしれない。先が思いやられてしまって、つい後部座席で深い溜息を吐いてしまう。

 ――それにしても今時、内燃型精霊機関ですか。佐官用の車と言っても割とケチ臭いんですね。

 運転席を見て、元々精霊機関に興味のあったカーチャはそんな感想を抱く。内燃型は運転手の精霊を燃料にして走る。肩章を見るに運転手は二等兵のようだが、訓練とはいえ一日中この車を運転しなければならないのなら、それは随分と過酷な負担になろう。金はかかるが外燃型の方が楽だろうに、と金持ちの娘としてはそう考えてしまう。

 第一、歴とした佐官を乗せているならともかく、今後部座席に尻を載せているのは自分のような子供だ。いくらカーチャより年上とは言え、まだまだ若く見えるこの運転手は一体どんな気持ちで車を走らせているのだろうか?

 子供らしい無邪気さを装って聞いてみようか、と思ったその時、

「到着しました」

 いかなる感情の匂いもさせない声で運転手が告げて、車が停止した。好奇心そのものをぶった切られたようなタイミングと声音に吃驚しつつ、反射的にお礼を言って車を降りる。

 扉が閉まると、車はカーチャが乗っていた時の倍ぐらいの速度と荒々しさで、来た道を戻っていった。

 僻地。

 そう呼んでも決して言い過ぎではないだろう。

 時代に取り残され、誰からも忘れられたような空き地。そこにぽつんと屹立する、妙に新鮮な三階建て。本体や周囲にこれといった看板や表記がないということから、逆説的にここが特務機関ラーズグリーズの本部であることがわかった。

 いかにも、手に負えなくなった危険物を押し込むために急遽用意した、という感じの建築物だった。必要最低限。そんな言葉がよく似合う。

 噂は大体聞いている。幸か不幸か、ラーズグリーズには有名人が一人いた。あるいは、その有名人のせいでラーズグリーズの噂が一人歩きしているのかもしれない。

 イオナ・デル・ジェラルディーン。

 旧体制で軍閥貴族を表した『デル』を今なお名乗る、グラッテン帝国時代の英雄ジェラルディーンの子孫。

 〝世界で最も精霊に愛された男〟としていまや絵本にもなっている英雄ジェラルディーンの血を引く怪物、とも、おつむが残念で可哀想なことになっている狂人、とも言われている。

 曰く、ラーズグリーズが発足したのは上層部がこの恐るべき女を正統な指揮系統から排除するためだ、とか。曰く、国家転覆を狙う不届き者であるが英雄の直系のため上層部もおいそれと手が出せず仕方なく適当な特務機関を与えて封じ込めているのだ、とか。曰く、真性のレズビアンで近くの女を片っ端から食べた上にゴールドフィンガーでメロメロに誑し込んでしまうので緊急隔離したのだ、とか。正直ゴールドフィンガーとやらはよくわからないが、噂からはともかく彼女が周囲からとんでもない女傑だと思われていることだけはよく理解できた。ちなみにゴールドフィンガー云々の話をカーチャに教えてくれた屋敷のメイドは、何故か翌日から姿が見えなくなってしまった。そういえば彼女と言葉を交わした直後に、ひどく怖い顔をした父と廊下で出くわしたのだが、それが関係しているのだろうか?

 ともあれ噂は噂で、その内容がどうあれカーチャがこの建物に入らなければならないことに変わりはない。

 履き慣れない軍靴で地面を踏みしめて、カーチャは建物に近付いていく。

 塗装されていない鉄色の扉に歩み寄り、爪先立ちになってドアノブに手を触れようとした瞬間、

「ようこそ! 我が城へ!」

 いきなり扉が奥に向かって開かれて、ロケット弾のような声が飛び出した。

「――ッ!?」

 カーチャはたまらず目を丸くし、体を硬直させ、現れた人物の顔をまじまじと見つめた。

 ――男の人……?

 有り得ない、と真っ先に思った。ここは〝戦女神の寝所〟、女だけの空間のはずだ。男性がいるわけがない。

「…………」

 件の人物はあらぬ方向――主にカーチャの遙か頭上――に笑顔を向けたまま固まっていた。カーチャは呆けたように、その面貌を下からまじまじと観察する。

 単純に、美形だ、と思った。俳優か何かみたいに整った顔立ちをしているし、陽の光を七色に反射する銀色の髪は細くて柔らかそうだった。猫にも似た金色の瞳があまりに綺麗で、思わず胸がドキリとする。まるで外国の王子様、なんて言葉が脳裏をよぎった。

 でも、やっぱり、どう見ても、それは男だった。

 ――どうして?

 カーチャは混乱した。もしかしたら変質者かもしれない。いや違う、軍の偉い人かもしれない。何か理由があってここにいるのかも。待て、じゃあさっきの「ようこそ! 我が城へ!」というのはどういう意味だ? いやいや、そんなことより、この人が着ているのは自分と同じ特務機関の制服ではなかろうか? もちろん女性用のスカートではなく、男性用のパンツを着用しているようだが。

「……んん?」

 不意に美形の笑顔が崩れ、眉根を寄せた訝しげなものへと変化する。前触れもなくその視線が下に向いて、いきなりカーチャを捉えた。不意打ちみたいな視線移動だった。

「――!?」

 頭蓋骨の内側で思考を七転八倒させているカーチャは、対外的には完全に石像状態だった。唐突な視線に悲鳴をあげそうになったが、しかし驚きすぎて喉がピクリとも動かなかった。

 両手を胸の高さに挙げて、目を皿のように丸くして、口を半開きにして自分を見つめているカーチャを、美形はどう思ったのか。口をあんぐりと開けて、

「おお……!」

 と感嘆の声を漏らし、

「天使よっ!」

 叫び、出し抜けにカーチャを抱き上げたのである。

 ――へ?

 カーチャにしてみれば、突然なま暖かいものに体中が包まれたかと思ったら、やけに視点が高くなっていた――という感じである。

 遅れて気付いた。

 見知らぬ男に抱きつかれている――と。

 瞬間、ぷちん、とカーチャの中で何かが切れて、

「――んにゃぁああああああああっっっ!?」

 本能だけが爆発した。自分でも意味不明かつ変な声が口から勝手に飛び出していた。

 相手はその叫び声が聞こえているのかいないのか、カーチャの胸のあたりに顔をうずめて、

「ああもうっ何と愛らしいっ! 翼を無くした天使とはまさにコレのことだ! ああもう香りまで芳しいなっ! くんかくんかっ!」

 まさに変態の所行であった。

 ――なにが……!? 一体なにが……!?

 訳が分からないまま、されど事態は無情に進行し、変態の両腕がカーチャのあちこちをまさぐり始める。その感触に抗議と悲鳴が同時に口を衝いて飛び出す。

「にゃっ!? にゃにをっ!? ちょあのそこはだめっへ、変態っ! 変態がいますよっ!? いやあの匂いを嗅がないでっ誰かっちょっと誰かぁぁぁぁっ!?」

 じたばたと暴れながら助けを求めて叫ぶと、いきなり変態の動きが止まった。

 ぴたり。

「変態?」

 その単語を繰り返すと、変態はカーチャを地面にすとんと降ろし、頭を巡らせた。そして周囲を鋭い視線で切り払い、

「――おのれ、どこにいる変態! 出てきて神妙にお縄につくがいい!」

「あなたのことですよぉぉぉぉ!?」

 予想の斜め上を行く超反応に、カーチャはたまらず変態を指差してそう叫んでいた。

「ん?」

 蒼い顔をして自分を指差すカーチャに気付いた変態は、やおら背後を振り返り、

「……誰もいないようだが?」

「ちょっ!? だ、だから! あなた! 私の目の前にいるあなたっ!」

「んんん?」

 変態はカーチャに向き直り、自らを指すカーチャの右人差し指を確認する。その先端をじっと見つめた後、変態は自分自身を指差して、

「――俺か?」

「そう! そう! そうっ!」

 ぶんぶんぶんと頭を縦に振るカーチャに対して、変態は腕を組み、片手で顎をつまみ、ふむ、と一言。

「なら、しょうがない」

「しょうがないぃっ!?」

 驚愕だった。短いながらも八年間生きてきて、こんなにも頭のおかしい人間は初めて見た。

 驚きのあまりカーチャが硬直していると、変態は目を細め、口角を釣り上げると、実に爽やかな笑みを浮かべた。

「さて、服装から察するにエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だな。話は聞いている。改めて歓迎しよう。ようこそ、我が城こと特務機関ラーズグリーズへ」

 カーチャの遙か頭上から日輪のごとき笑顔と声を燦々と降り注ぐと、変態は颯爽と踵を返した。

「さあ、中へ。皆に紹介しよう」

「ちょっ、あの、あなた、おとこ、へんたい、ここ、ワルキュリアのグラズヘイム……」

 カーチャはその背中に慌てて抗議をぶつけようとしたが、上手く言葉にならず、ぶつ切れの単語だけが出てきて、挙げ句には尻窄みになってしまった。

 何故なら、変態の歩みがあまりにも堂々としていたから。

 律動的な歩調で廊下に音高く靴音を響かせ、建物の奥へ進んでいくその後ろ姿は、確かにここの主である風格を漂わせていた。

 何故男がここにいるのか。その男がどうして自分の名前を知っているのか。疑問は尽きないが、ここは大人しく従うしかない。そう判断して、カーチャは渋々と変態の後ろについてラーズグリーズに足を踏み入れた。


 通されたのは三階の一室で、どうやら談話室のようであった。

 見た目の簡素さとは裏腹に、贅沢な調度品がふんだんに用意された、品の良い部屋だった。

 しかし、そこにいたのは上品な調度とは相容れない人物だった。

 まず信じがたいことに、それは、男にしか見えなかった。

 ――って、また男の人ですか……!? 特務機関って実は男の集まりなんですか……!?

 次に、それは筋肉がムキムキだった。服の上からでもわかるぐらい、実に逞しい肉体の持ち主だった。

 さらに肌が真っ黒で、髪の毛が縮れていて、揉み上げが鼻の穴の中まで繋がっていた。その上、向こう側が見通せないほど真っ黒でごついサングラスを掛けていた。

 なのに、カーチャと同じ深紅の軍服に身を包んでいた。しかも男性用のパンツではなく、女性用のスカートを穿いて。

「…………」

 開いた口が塞がらなかった。

 ――お、オカマさん、でしょうか……!?

 その一方で、あの肌の黒さと縮れ毛は地方豪族の末裔だろうか、とカーチャは記憶の抽斗から歴史の知識を取り出す。旧体制時代、獅子身中の虫として警戒されていた一族があのような肌と髪を特徴として持っていたはずだ。今では他の人種と混じり合って純血の者は少なくなったらしいが、どうやらあそこにいる人物はその希少種のようだった。

「喜べ、サイラ! 彼女が我々の新しい仲間、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だ」

 先に談話室に入った変態が、アフロヘアーの筋肉に向かってそう言った。

 ――サイラ? 名前だけは女の人みたいですね……オカマさんだけに、愛称でしょうか?

 そう思うカーチャの視線の先で、サイラと呼ばれた人物が椅子から立ち上がり、こちらに挙手の敬礼をした。ぴしりと一本筋の通った、見事な敬礼だった。

 続いて変態はカーチャに向かって、

「ヴォルクリング特務少佐、彼女はサイラ・グロリア特務少尉だ」

「あ、は、はいっ」

 言われてから自分が答礼していなかったことに気付き、慌てて手を上げかけて、

「――彼女?」

 止まった。

 思わず変態の顔を仰ぎ見る。聞き間違いだっただろうか? いや、そうでなくてはおかしい。目の前にいるのは【彼女】ではなく【彼】のはずだ。

 途端、ぷっ、と変態が吹き出した。

 してやったり、という顔である。変態は、くっくっくっ、と意地悪げに笑いながら、

「ひっかかったな、少佐。残念だがサイラはこう見えても、歴とした女だ。見た目に易々と騙されたろう?」

「はい?」

 言っている意味がよくわからなかった。

 変態の上に馬鹿なのだろうか、この人は。断言してもいい。アレは男だ。見ればわかるはずだ。だって、あの人にはおっぱいがないのだから。自分は子供だが、これぐらいは知っているのだ。女の人はおっぱいがある人、男の人はおっぱいが無い人、と。

 乳房とはしょせん一割が乳腺で九割が脂肪の塊であり、肉体を鍛えすぎるとその膨らみのほとんどが筋肉に換わって無くなってしまうということを、この時はまだ知らないカーチャであった。

 変態はニヤニヤと唇を曲げながら、サイラに含みのある視線を向ける。

「なぁ、サイラ?」

「イエス・マム」

 問いかけに答えた涼やかな声は、見た目にそぐわぬ、しかし確かに女性のそれだった。

「ええっ!?」

 天地がひっくり返ったかのような衝撃だった。男が女の声で喋った。その猛烈な違和感にカーチャは体を震わせた。

「サイラ・グロリア特務少尉であります。以後よろしくであります」

 しかもよく聞けば、どこか可愛らしいというか、若々しい声だった。見た感じは三十代と言われても納得できるぐらいだが、声から察するに、意外と若いのかもしれなかった。

 驚きのあまり、ぽかーん、としていると変態が手振りでサイラを椅子に座らせ、

「で、まだもう一人いるのだが……サイラ、アイリスはどうした?」

 質問に対し、サイラはラウンドテーブル上のティーカップを無言で指差した。変態は、ああ、と納得の息を吐き、

「茶を淹れに行っているか。やはり機を見るに敏だな。俺が少佐を迎えに行ったのを見て、準備に行ったのだろう。なら、そろそろ戻ってくるはずだが……」

「あらあらまぁまぁ。可愛らしいお嬢さんですね」

 変態の台詞に被せるように、背後からおっとりとした女の声。振り返ると、談話室の出入り口にブルネットの美人が笑顔で立っていた。やはり深紅の軍服を着用しており、両手にいかにも高価そうなティーセットを載せたトレイを抱えている。

 ――今度は、女の人です……よね?

 まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで現れた人物に、反射的に猜疑心まみれの視線を向けてしまうカーチャ。

 無理もない話だった。最初に出てきたのが男で、その次に会ったのが男にしか見えない女だったのだ。今度の人物が、女に見える男でないという確証がどこにあろうか。

「おお、アイリス。ちょうどよかった。これからお前を紹介しようと思っていた所だ。こちらの愛らしい天使が、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だ」

「はい」

 にっこりと微笑んで、アイリスと呼ばれた人物はカーチャに向かって軽く頭を下げた。

「両手が塞がっていて失礼いたします、少佐。私はアイリス・ララリス特務曹長ですわ。以後、よしなに」

「あ、はいっ、よろしく……です」

 予想外に柔和な雰囲気を醸し出すアイリスに、どこか気圧されるようにカーチャは答礼の姿勢をとった。

 ちらり、と上目遣いに変態を見上げると、

「ん?」

 視線に気付いた変態が小首を傾げるので、カーチャは質問を口にした。

「あの……ララリス特務曹長は……その、女の方、ですよね……?」

 内容が内容だけについ小声になってしまった。

 これを聞いた変態はまたも、ぷっ、と吹き出し、

「はっはっはっ、正解だ、少佐。貴官の見立て通り、アイリスは女だよ」

「ほっ……」

 その答えにカーチャは胸をなで下ろし、安堵の息を吐いた。だが次の瞬間、

「今はな」

 と、聞き捨てならない台詞が耳に滑り込んできた。

「へ?」

 弾かれたように顔を上げると同時、こちらに歩み寄ってきたアイリスがラウンドテーブルにトレイを載せた。

「お茶をご用意いたしましたわ、少佐。どうぞこちらへ」

「あ、は、はいっ、あ、ありがとうございますっ」

 相手の言葉に律儀に反応してしまう自分の性格が恨めしい。

 ――今は? 今はって、今はってどういう意味ですか!? 昔は違ったってことですかぁぁぁ!?

 混乱する思考をぐるぐると空転させながら、カーチャはアイリスが勧めてくれた椅子に腰掛ける。座ると床に足がつかなくなるが、いつものことなので気にしない。

 目の前ではアイリスがテキパキとお茶の用意をしている。軍人だというのに、カーチャの屋敷のメイドもかくやという手際だった。

 ――もしかして、元は男の人だったんでしょうか……!? で、でも、何ですか、どう見ても女の人にしか見えないというか……お、おっぱい大きいですよ……!?

 一言で言えば、アイリスはグラマラスボディの持ち主だった。豊満なバストに、きゅっと絞ったウエストと、魅惑的なヒップ。しかもそれを助長するかのような、ミニスカートの改造軍服。裾から伸びる生足が実に艶めかしい。

 それでいて、優しげな物腰と顔立ち。豊かなブルネットはゆるく波立ち、緑の瞳は慈愛に満ちた聖母のようだ。女であるカーチャですら『こんな姉が欲しい』と思うほどの、まさに女性の鑑だった。

 ――そ、それなのにっ……!?

 昔は女でなかった、とあの変態は言った。

 ――し、信じられないっ……!

 と、ここでカーチャははっと気付いた。

 ――っていうかあの変態さんの名前聞いてませんよ!? いやいや、それ以前にサイラさんもアイリスさんも結局は女の人ですけど、あの人はやっぱり男なんじゃ!?

「あ、あのっ!」

 小さな身体を更に縮こまらせながら、意を決して大きな声を出したカーチャに、

「ん? どうした、少佐」

 その向かいに座ろうとしていた変態が顔を向けた。

 この時、麒麟児と呼ばれていたカーチャの脳細胞は忙しさにかまけて、その本領を全く発揮できない状態だった。故に、その口から飛び出したのは実にシンプルな質問だった。

「あなたはっ、変態さんはっ、男ですよねっ!?」

 かちゃり、という音を最後に、お茶の用意をしていたアイリスの動きが止まった。

 サイラはさっきからずっと微動だにしていなかった。

 変態は両目をぱちくりとさせた。

 無音のまま、数秒が経過した。

 世界そのものが唖然としているような、ひどく気まずい沈黙。

 それを破ったのは、ぷっ、という変態の吹き出しであった。

「はっはっはっはっ!」

 腹の底からの大笑いである。

 次いで、アイリスがくすくすと笑い出す。

 サイラはびくともしない。

「? ? ? ?」

 何故笑う。カーチャにはまずそのことが理解できない。あれ、おかしいな、いま私は何を言いましたっけ?

「なるほど! さっきから貴官の俺を見る目がおかしいと思ってはいたが、そういうことか!」

 はっはっはっはっ、と笑う変態は実に楽しげだ。

 椅子の背もたれに手を掛けていた変態は、何故かそのまま腰を下ろさず、ラウンドテーブルをよけてカーチャに近付いてきた。

 すぐ傍まで来ると腰を屈め、カーチャと目線の高さを合わせ、にんまりと殊更に相好を崩す。

 本能的に警戒態勢をとったカーチャの腕をむんずと掴むと、変態はそれをそのまま自らの股間に導いた。無論、子供の腕力で抗えるはずもなく。

 ぴと。

 カーチャの小さな手が強制的に変態の股間に触れさせられた。

「――ぴぎゃぁああああああああっっっ!?」

 ものすごい悲鳴が迸った。屠殺される豚とてまだマシな声を上げるだろうに。全身に電流を流されたようにカーチャは体を震わせて、あらん限りの絶叫を上げた。

 が、はた、とその動きが止まる。

 ――あれ……?

 カーチャは内心で首をひねった。

 【ない】のだ。あるべきはずの【感触】が。

「自己紹介が遅れたな、少佐」

 頭上から降ってきたその声に、カーチャは面を上げる。

 そこにあったのは、どこか勝ち誇ったかのような顔。改めてよく見てみれば、それは中性的と称しても良い相貌だった。

 刹那、氷のように冷たい嫌な予感が、光の速度で背筋を駆け抜けていった。


「俺はイオナ・デル・ジェラルディーン特務大佐だ。特務機関ラーズグリーズの機関長で、当然、貴官の上司にあたる」


 混乱とか焦燥とかそんなものを一気に通り越して、頭の中が真っ白になった。

 単細胞生物並になった思考能力で、それでもカーチャは何かを考えようとした。この変態は実はあの有名なジェラルディーン特務大佐で、大佐と言えば少佐よりも偉くて、その大佐は紛うことなく女性で、その女性はカーチャよりも偉くて、

 偉い。

 ぬう、と額と額がくっつきそうなぐらい顔を近づけてきたイオナが、いじめっ子の声で嬉しそうにこう言った。

「上司を変態呼ばわりした件については、ようく覚えておこう」

「ぴっ……」

 やってしまった。そういう思いの一部が変な声に形を変えて外に飛び出した。

「ド貧乳ですまなかったな。あと、男装は趣味だ。俺はガチレズでな。こうしていると女が寄ってくるから都合が良いんだ」

 ふーっ、と甘い息が耳に吹きかけられる。ぞくぞくするようなくすぐったさに、ぶるっと体を震わせて、カーチャは目の前が暗くなっていくのを知覚した。

 ――ああ、もうだめです……

 端から眺めると、若い男が幼女の手を股間に押し当てているようにしか見えない構図のまま、精神的限界を迎えたカーチャは【ぽっくり】と気を失った。

 後に伝説となる幼女と、生まれながらにして既に伝説だった女傑との、これが【初めての出会い】であった。

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