第7話 『緑園』の森の聖女
無知による、悲劇。
少女が初めて自分以外の存在を瞳に入れたのは、この時だった。
決して誰も入る事の出来ないとされる聖域。
『緑園』の森という広大な樹海の中に作られた、ただその少女を守るためだけに作られた世界の領域。
幾千年もの時を経て己の意志を宿すに至った大樹達が、自らの意思によって生み出した大自然の檻。
決して外界と触れ合う事のなかったその聖域は、不死なる賢者の邪悪なる魔の手をも拒み、今日この日まで何事もなく少女の身を守っていた。
だが、それもつい今し方までの事。
聖域は、何者か等の想像を絶する戦いの余波によって綻びを生じさせていた。
その聖域に、距離という概念は存在しない。
聖域は、この世界の何処でもない場所、つまり異空間そのものである。
故に、聖域は森の中であればどこにでも自由に通じる事が出来た。
不可思議な音。
空間の綻びから侵入してきた聞き慣れない音に、少女が興味をひかれて聖域から抜け出したのを誰が咎める事が出来ようか。
聖域の意味すら知らない、その檻に閉じ込められていた事すら知らない少女が、僅か数歩、意思を持って歩いただけで、聖域の境界線に生まれた綻びを越えていく。
それを、森は止める事が出来なかった。
少女は初め、それが何であるか分からなかった。
動物すらも存在する事を許されていない隔絶された世界において、少女は自身以外には命を持った存在がいる等と露にも思っていない。
だからこそ、過ちは起きてしまった。
寒さから逃れるためだけに纏っていた布を少女は脱ぎ去り、ほとんど裸同然の姿となる。
いや、一般的な世間の見解からすれば、その姿は裸の方がまだましだっただろう。
少女は隠すべき所を隠す事なく、それ以外の部分に残りの布を纏っていた。
だがそれは関係のない事だった。
少女は、その存在に意識はないと思っていた。
また、少女は恥じらいというものが何であるかを知らない無垢でもあった。
どちらとも欠けている少女には、自身の姿を見た異性が何を思うのか理解出来ない。
異性という言葉の認識すらない。
少女は脱いだ布を武器にして、盾にして、自身には理解の出来ない存在へとゆっくりと近づいていく。
その存在は、とても黒かった。
まるで形を持った闇。
しかしそうでない部分もある。
それは顔の部分に、手の部分。
だがやはり少女にはそれが何であるか分からなかった。
自分自身を見た事のない少女には、それが自身と同じ四肢を持った人という存在である事を認識する事は出来ない。
見た事のない何か――黒くて、大きくて――。
その者の瞳が、ゆっくりと動く。
少しの間だけ呆けていただけで、それには運悪く意識があった。
そして、裸身の少女の煽情的な姿をその双眼に焼き付ける。
「え?」
それが動いたことに驚いて、少女が声をあげる。
いや、それは声ですらなかった。
言葉を知らない少女は、ただ空気を喉で振るわせて鳴いただけだった。
だが、少女の歩みは全く止まらなかった。
踏み出した足が木の根に当たり、重心がずれる。
大地を踏むはずだった足だけが止まり、しかし上半身が前へと進んでいるため重心が前へとずれていく。
そして当然の用に重力に引かれて倒れていった。
裸身をさらしたまま、その者の胸の上へと。
歓喜と戸惑いと、驚きと。
そのどの感情に心が満たされていたのかは分からないが、その者の腕は反射的に少女の身体へと向けて動いていた。
本能のままに襲うために、誘惑にかられ抱きつくために、理性に促され倒れてくる少女の身体支えるために、そのどれでもなく己の身を守るために。
いったいそのどれであったのか。
だが、そのどれにした所で関係はなかった。
少女がその者の身体に触れる。
その者が少女の身体に触れる。
それこそが、禁忌。
『緑園』の森が少女を世界から隔離した理由。
触れる者からあらゆる力を奪うが故に、その森によって封印された恐ろしき巫女。
深き森の奥に作られた、隔絶された聖域へと封じられた少女は、この時初めて世界というものを知った。
ただ生きているだけであった少女は、初めて外の世界があるという事を知った。
それは、知らなかった事への悲しみ。
そして知る事が出来た、悲劇の運命。
その者はあらゆる力を奪われた。
そして同時に、その聖域より異物として認識されたため、外へと吐き出された。
禁忌を犯した少女と共に。
――自身の身に何が起こったのかなど、関係ない。
《欲望解放》
一見しただけで、その言葉の意味を俺は理解出来た。
そしてすぐに、その強烈な欲求の塊に自身の心の制御がきかないという事実を嫌という程に実感する事となった。
女だ。
女がいる。
感情が一瞬にして理性を握りつぶす。
ただ異性がそこにいるというだけで、そんな野獣の如き感想を零してしまう程、俺は自身の心が破綻をきたしている事に愕然とした。
少女という事実に、心が歓喜しているのを自覚する。
遠目でも顔立ちが怖ろしく良い事に、狂乱の嵐が心を満たしていくのが分かる。
自ら裸身をさらしてきたのには――激しく残念がる。
秘所は隠したままの方が良かった、服の上から蹂躙したかった、何より下着を身に着けていなかった事に俺はその少女に対して説教してしまいたい気持ちにかられた。
……パンドラの箱の奥深くに残っていた例のあれの様な状態の理性が、その恥ずかしい事実を突きつけられて強烈なダメージを受けた気がする……。
心の葛藤など、どこにもない。
情欲という欲望の感情に支配された俺の思考には、ただその少女をひたすら蹂躙するという意思と、その肉体を貪り続けている未来像だけが思い浮かんでいた。
だが……身体がまだ動かない。
《痛覚麻痺》の呪いの効果だろうか、痛みはまるで感じなかったが、俺の全身は呪いを受けた影響か、ほとんど動かす事が出来なかった。
唯一、自由に動かせた瞳で、少女の全身を嘗める様に見る。
「え?」
ああ、心が満たされる。
予想していた通りの少女の可愛らしい声に、あの音色で艶めかしく鳴かせてやりたいという気持ちが新たに付け加わる。
さぞ、美しい旋律を奏でる事だろう。
既に視界には、意識を集中しなくても、少女のあらゆる肢体全てがハッキリと映っていた。
細く、綺麗な足。
土の地面を踏む小さな素足が少しばかり土によって汚れていようとも、この気持ちには何ら陰りはなく。
儚さと可憐さを思わせる、簡単に折れてしまいそうな腕。
滑らかに保たれた細腕の先にある五指も、とても綺麗だ。
胸はない。
幼さを確実に残した果実を愛でるのも、また喜びの一つだろう。
何より、同姓ではない事がハッキリと確認出来た事で、最後に残っていた懸念事項が払拭され歓喜が倍増した。
少女が無垢だというのは、その行動から既に察している。
これから散らす花は、その全てを知らない者。
さぞ、その鳴き声は甘美なものだろう。
いや、違う――俺は何を考えている。
これは俺ではない。
くくくっ。
いや、俺だな。
感情が支配出来ない。
支配する必要などない。
ただ心の赴くままに、共に快楽を貪るとしよう。
少女の足下に木の根が出ているのを俺の瞳はとらえている。
少女がそれに気が付いている様子はない。
動かす事の出来ない身体を恨めしく思いながら、俺は少女がその木の根に足を引っかけて転けるのを願う。
例え立ち上がる事が出来なくとも、無理をすれば腕を動かす事は出来る筈だ。
少なからず警戒している状況下で捕縛するよりも、少女が運良くこちらに倒れてきた所で不意を突いた方が遙かに捕縛の成功率は高い。
天運は、我に味方せり。
少女の足が木の根を引っ掛ける。
機せずして、俺に意識がある事に驚いていた事で注意力が散漫になっていたようだ。
左手に掴んでいた服すらも少女は手放してしまう。
バランスを失い、膝が崩れ落ちて地面へと接吻する。
尚も重力に引かれて前のめりに倒れていく身体を庇うために、右手が僅かに前へと差し出される。
その好機を逃さず、俺は両腕にあらん限りの力を込める。
動きたくないと駄々を乞ねる肉体に鞭を打ち、己の欲望を満たすためだけに全身の悲鳴を無視した。
少女の右腕を掴むため、自らへと引き寄せるために全身全霊を以て、動く。
ただ、欲望の赴くままに、少女の身を貪るために。
俺の意思の力に負けた右腕が持ち上がっていく。
感覚よりも視認で現在位置と速度を確認しながら、目標の場所へと右腕を誘導する。
同時に、左腕が少女の身体の下に埋まってしまわない様に、避ける位置へと移動。
いつでも少女の背中へと回せる場所を確保する。
俺の口元が笑んでいたのを、残り少ない理性が逃さず見ていたが、もう無駄だ。
条件はクリアされた。
後は、蹂躙するのみ
少女のか細い右腕が、俺の右腕と接触する。
俺の悪しき右腕が、得物である少女の右腕へと……触れる。
――刹那。
2013.04.13校正
2014.02.13校正