第55話 現実と幻実
眼が覚めると、また退屈な日々が始まる。
同じベッドに横たわっていた二人の身体を押しのけて、身体を起こす。
その裸体は見飽きてはいたが、思わず欲望に流されそうになるぐらいに綺麗だ。
大事に扱っているので傷一つない身体を一通り眺めた後、その美しい顔を覗き込む。
長い髪を手ですくい、顔から後ろへ払う。
そして朝の挨拶を行うべく、その顔へと唇を近づけていく。
瞬間、パチリとその瞳が開いた。
「あ、おはようございます、ハーモニーさん」
髪をすくった事で眼が覚めたのだろう、ウィチアの可愛い唇から朝の挨拶がこぼれ落ちてくる。
構わず、朝の挨拶を行う。
乾いた口の中を潤すために、ウィチアの口から水分を奪う。
甘い蜜の味がした。
たっぷりとその唇を堪能し喉の渇きを潤した後、ゆっくりと唇を離していく。
少し潤しすぎたせいか、長い糸を引いていた。
今暫くウィチアの髪をすいて朝の余韻を楽しんでから身体を起こす。
いつの間にかまた横になっていた様だ。
伸びをして身体全体に刺激を与え叩き起こす。
最近はペットな幼女と戦闘訓練をしている御陰か、身体の調子がすこぶる良好だった。
やはり部屋の中でじっと迷宮画面を見ているよりも、たまに激しい運動をして身体を動かした方が身体の調子も良くなる様だ。
両手に花がある状態での快活な目覚め。
なんと贅沢で幸福な事か。
身体の調子が良いと、気分まで良くなってくる。
ウィチアから濡れた布を受け取り昨晩の頑張りで汚れたままの身体を拭いている間も、今日というこの日が何か特別な日の様に感じられるぐらいに気持ちが上向いていた。
思わずウィチアの身体まで拭いて綺麗にしてしまうぐらいに。
裸では肌寒いので服を着る。
迷宮の侵入者が着ていた服の中で一番動きやすくて清潔な服。
恐らく鎧の下に着るアンダーシャツというものか。
下は普通にズボン。
アンダースパッツという身体にフィットする下着もあったが、身体のラインがハッキリ出てしまうのと女性用だと思われるので、流石にそれは遠慮した。
服を着た後も、ベッドの上ではまだイリアが眠ったままで動かない。
低血圧なのかイリアは朝に弱いらしく、高確率で眼を覚ましてくれない。
よって朝のほとんどはウィチアにお世話になるのがいつものパターン。
程なくしてちょっと熱めのお茶を煎れてきたウィチアが壁の中から出てくる。
いつ見ても油断しているとちょっと驚いてしまうその壁の謎。
その原理は既にだいたい予想出来てはいるものの、分かったからといってどうにか出来る類のものでもないので放置。
熱いお茶が冷めるまで待つ間に、迷宮の様子が昨日と比べて何か変わっている点がないか簡単にチェックする。
「……なんだこれは」
迷宮の様子を見ると、劇的に変化していた。
いや、迷宮自体には何ら手を加えていないので変化はないのだが、それ以外の場所で目に見えて変化があった。
「これは、町か?」
変化があったのは、迷宮の外側の場所。
大量の奴隷達を迷宮に送り込んできた奴隷商らしき部隊。
その命令系統らしき十数人ぐらいの部隊が昨日は迷宮の外で待機していたのだが、一夜が明けた今現在はそれとは比べものにならない規模の光点で周囲一帯が埋め尽くされていた。
だけでなく、建物らしき塗りつぶされた四角いエリアが複数連なって区画を形成し、道らしき隙間をまたいでまた別の区画が形成されている。
それが広い範囲に分布し、その区画全てを塀らしき線が囲い込んでいた。
「ついに町まで出来てしまったんですね」
「それにしては早すぎるだろう。時間の流れがおかしすぎる」
「最初にお伝えしたと思いますけど、この空間は外の時間の流れからは完全に分離しています。なので、別に不思議な事ではないと思いますよ? 前にも一度、そういう事がありましたから」
「前にも?」
「はい、レベルアップした際に。ただ、あの時はほんの数日だけでしたが」
視線を画面の左端にある町らしき場所から右端へと向ける。
見たことのないパーツが幾つも追加されていた。
「つまり、レベルアップしたのか」
「その様ですね。おめでとうございます」
そろそろレベルアップするだろう事は予想していたが、まさかレベルアップすると外の時間が幾らか流れてしまうとは流石に思っていなかった。
しかも前回のレベルアップに比べて、今回は町が出来てしまうほど時間が経過してしまっているという。
いったい何ヶ月ぐらいだろうか?
あの奴隷商とその裏にいただろう富豪貴族が恐らく関わっているとはいえ、何もない所を町にするまでは随分と時間が掛かった筈である。
半年か、一年か、それとも5年ぐらいは経ってしまったのか。
「あまり外の事は気にしなくてもいいと思いますよ」
「そういう訳にはいかないだろう。いったいどれだけの時間が過ぎたのかは分からないが、その間ずっと迷宮は機能し続けていたんだ。何がどうなっているか分からない」
仮に1年が経っていたとして、その間ずっと誰も迷宮の最奥まで到達出来なかったとは到底思えない。
そこに設置していた宝も気になるが、迷宮ボス的な強さを持ったユー・イチ・リーがどうなったかも気になる。
またそのユー・イ・チリーが水溶の粘体生物の進化で生まれた様に、他にも進化した魔者がいる可能性もあった。
俺の時間感覚では昨日発覚したばかりの、上位派生よりも低確率で出現する変異種の魔者ももしかしたらまだ生き残っているかもしれない。
迷宮に設置したはいいが未だに魔者を発生してくれない、強いが発生まで時間が掛かるという魔者発生ポイントがどうなったかも知りたい。
現在、迷宮に進入してくる者達の強さは?
一日辺りどれぐらいの人数が進入してくるのか?
町はどのように機能している?
確認したいと思う事は山のようにある。
そして特に確認しておきたいのは……。
「レベルアップ時に流れてしまった時間の間に、迷宮の中で気絶した者は回収されたのか?」
「私達もその時間の流れには逆らえませんので、残念ながら」
「そうか……」
まぁ、別に期待していた訳ではない。
牢屋に捕らえておける人数にも限りがあるので、いきなり何十人何百人も牢屋の住人が増えていても困るだけだろう。
流石にそれだけの人数を相手にするのは俺の方が疲れるだけだ。
面白味もほとんど感じられない。
お茶があった事を思い出し、口を付ける。
甘い、そして温い。
一口だけ口にしただけで、ウィチアに残りを処分してもらう事にしよう。
その前に、ウィチアの唇で口直ししておく。
こっちもちょっと甘かった。
「迷宮は後回しにして、念のため牢屋の様子を確認してくる」
「はい。私はその間に朝御飯を用意しておきますね。冷める前に帰ってきて下さいね」
「――なるべく善処する」
そういえば、そのウィチアの可愛らしいお願いを叶えた事はあまりなかったなと思う。
今日は目覚めた時から気分が良かった事で、いつもなら感じない罪悪感がちょっとだけ芽生えていた。
だとしても。やはりそのお願いを叶える事はない訳なのだが。
最近の牢屋には魔物がすんでいる。
細剣使いの赤髪ポニーという、今一番のお気に入りの魔物が。
しかし――。
「ここも、そうなのか……」
牢屋には、誰もいなかった。
いや、いるにはいた。
だが、その姿は人の姿をしていない。
服を着たままの白骨死体が三つ、そこにはあった。
磔に拘束された状態だった細剣使いの赤髪ポニーは、そのままの体勢で息絶え、今もその磔に白い骨となった四肢を拘束されたままになっている。
前に倒れた頭部の骸骨、左腕の手首先は腕から離れその下の床面に指骨が散乱、恐ろしく細身となった下半身からずれ落ちたボロボロの下着が膝上に僅かに残り、飢えて死ぬ前に少し暴れて無茶をしたのだろう、乾いた血の跡が少し磔と床面に付着していた。
皮を残したミイラ、という姿ではない。
室内に入ると、その死した骸骨の頭部がゆっくりと持ち上がる。
間違いなく細剣使いの赤髪ポニーは不死者化していた。
隣の部屋でも、四肢を鎖で繋ぎ大の字に硬い寝台の上に寝かせていた荷物持ちの金髪ショートが、前に見たそのままの体勢で同じく白骨化しているのを確認する。
但し骨と骨の結合部分は全て離れ、人の形はまだ保っているものの俺が部屋に入っても動くような事はない。
きっと荷物持ちの金髪ショートには恨みという感情が足りなかったのだろう。
不死者と化する事もなく逝った様だった。
最後にペットな幼女の部屋の中へと入る。
その部屋だけは外からでは中の様子を見る事は出来なかった。
なぜなら、壁一面がほぼ血の痕によって彩られていたために。
拘束していなかったのでお腹を空かせると大いに暴れたのだろう。
必死に暴れたのだろう。
その代償が、この壁一面の様子だとすぐに理解する。
最後の一撃を壁に叩き込んだ後で力尽きたのだろう、ペットな幼女は壁際で静かに事切れていた。
まるで積み上げられたかの様に壁際で小さく集まっていた成れの果て。
着せていた服に包まれるように白い骨が隠され、その上に髑髏の顔。
その髑髏が突然に浮き上がったと思うと、その下に隠されていた骨達も次々と浮き上がり人の形へと繋がっていく。
程なくして人体模型もかくやと言わんばかりの骸骨戦士が出来上がった。
そんな姿になってもまだ俺の訓練に付き合ってくれるというのか。
当然の事ながら謹んで辞退し、すぐに部屋の外へと逃げた。
扉を閉めると同時にガシャンという音が響く。
今閉めたばかりの扉に突撃し玉砕した音だった。
一年。
少なく見積もってもそれだけの時が過ぎていた事を俺は実感する。
あの捕らえていた三人は、飢えて死ぬその時までいったいどの様な苦痛を味わい続けたのだろうか。
細剣使いの赤髪ポニーはその酷い飢えに耐えながら、憎き俺がいつかは姿を現して最後には必ず自らを救ってくれると思っていてくれたのだろうか?
最初からずっと人生を諦めていた荷物持ちの金髪ショートは、きっと最後まで己の人生を諦め、納得した様に息を引き取ったのだろう。
ペットな幼女は、ただ食欲の赴くままに暴れたに過ぎないので、それ以外の何かを思っていたとは思えない。
その3人をこの牢屋に捕らえ生かし続けていた俺が、その3人が飢えという非常に辛い苦しみを感じて亡くなっていった原因である事は確かだ。
レベルアップすると時間が経過してしまうという仕組みを知っていれば回避出来た事態ではないが、もしそれを知っていればせめて自らその苦しみから逃れられる様に自決するための道具ぐらいは牢屋の中に隠していただろう。
細剣使いの赤髪ポニーと荷物持ちの金髪ショートも、あそこまで身動きを制限する様な拘束もしなかった。
いつかは必ず死んでしまう命だと知っていて非情な気持ちで対処していたのに、今日というこの日がいつになく無駄に気持ちが上向いていたために、その罪に対してまた小さな罪悪感を感じてしまう。
捨てた筈の感情が、またこの身を苦しめる。
この心を苦しめる。
その感情は邪魔だ。
非情に邪魔だ。
消し去りたい。
消し去ってしまいたい。
この迷宮を造らせるというシステムは、もしかしたら人の心を消すために作り出された世界なのかもしれない。
ここで生活していると、徐々に心が摩耗していくのが分かる。
人の心が失われていくのが分かる。
俺の心がどんどんと壊れていくのが分かる。
それを理解した所で、俺はもうそれを止める事が出来ない。
知ってしまった快楽、分かってしまった絶望、求める必要がない希望、遊び半分の迷宮創世。
暗鬱となった気分で再び細剣使いの赤髪ポニーのいる牢屋の中へと入る。
手には拷問器具の中にあったトゲトゲした大きな棍棒。
部屋に入るとまた細剣使いの赤髪ポニーだった骸骨の頭部がゆっくりと持ち上がり、俺の方を存在しない瞳で睨んでくる。
顎が下がって口が開き、何かを言おうとしてカタカタと震える。
何かを俺に言おうとしているのは分かったが、人が理解出来る様な声にはなっていないのでその音を理解する事は出来ない。
ただ、それまでと同様にいつもの罵詈雑言を述べているだろう事だけは分かった。
その頭へと向けて、棍棒を振り上げる。
そして振り下ろす。
細剣使いの赤髪ポニーは、今度こそ間違いなく死んだ。
砕け散った骨の破片を無表情で眺めながら、俺は彼女が死んだ理由と罪を自らが手を下した事によるものへと変える。
――という夢を見た事を、目の前で今も睨んでいる細剣使いの赤髪ポニーへと話してみた。
内容の一部は当然部外秘となるため伏せているが、彼女のその時の状態とその後の状況、そして最後に俺がトドメをさした事だけはしっかりと伝える。
その夢話を聞いて、当然の事ながら彼女は再び口を開いて俺に怒りを巻き散らかす。
彼女はまだ生きているという事を改めて実感しながら、その罵詈雑言を俺は甘んじて受け続けた。
連日あれだけの目にあってもまだ元気を失わない細剣使いの赤髪ポニーは、もしかしたらもうとっくに快楽の坩堝へと落ちてしまっているのかもしれない。
この態度も罵詈雑言も、実は俺への愛情表現の一つでは?などという巫山戯た考えが脳裏に浮かぶが、まかり間違ってもそんな事はないだろう事は、今でも近づけば俺の身を傷付けようとしてくるのでよく分かった。
今もちょっと歯形が俺の肩に付いている。
彼女の爪には俺の肌を傷付けた時の皮が残っている。
彼女がまだこうして生きているという事をこの身で確認するためとはいえ、ちょっと今日は油断しすぎた様だった。
未だに体力が有り余っている彼女をもう一度楽しんでから、その部屋を後にする。
あまり長くここにいては、またウィチアが用意してくれた朝食が昼食になってしまう。
暖かい食事など出てきた試しがないのでその食事が冷める様な事はないのだが、ちょっと固くなってしまうので固くなりすぎる前に部屋へと帰る。
固くなりすぎるとちょっと顎が痛くなるぐらい頑張らないといけなくなるのは経験済だ。
それに、迷宮の方にはまだあの一団がいるので、その様子も気になる。
部屋に戻るとイリアが俺を出迎えてくれた。
いつもの様に事務的な挨拶の言葉を口にし、色の灯っていない瞳で俺の事を見つめてくる。
可愛いが、ウィチアの様にその唇を塞いでしまいたいとは思わない。
イリアは情緒的な服装を好んで身につけ何かと俺を目で楽しませてくれるのだが、その全ては迷宮で捕獲した者達から手に入れたものなのでバリエーションはほとんどない。
今日は半身を部分的に鎧で隠した奇妙な姿をしていた。
最近だんだんとおかしな方向へと進んでいる気がしないでもないが、とりあえず気にしない事にする。
そして、もう一人の人物が俺を出迎える。
「キュイ」
と鳴いて俺を歓迎する羽根突きの愛らしい妖精。
その姿は生まれたままの裸だったが、サイズが俺の掌にちょんっと立てるぐらいに小さくて小ぶりなので、間違ってもそういう対象にはならない。
その妖精は、俺が部屋に入るとすぐにパタパタと小さな羽根を羽ばたかせて俺の髪の上へと向かい、そこにちょんっと座る。
妖精は何故かそこが気に入った様だった。
何故、そんな妖精が俺の部屋の中にいるのか。
それが今日もっとも俺が驚いた事の一つだった。
2014.02.15校正




