第47話 不運
「まるで落とし穴の大軍ですね」
ハーモニーが迷宮造りを一通り終えて、部屋から追い出していたウィチア達を呼び戻した時、彼女達の感想はそんな言葉だった。
しかしそこに仕掛けられた制作者の意図を、彼女達には見抜けない。
制作者であるハーモニー自身も、それが本当に自身の意図した結果を招いてくれるのかはあまり自信はなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
前後から迫り来た大量の水に為す術もなく巻き込まれた村人達の大半は、その荒れ狂う水の暴力に襲われた瞬間に意識を刈り取られ、そのまま帰らぬ人となった。
真正面から真っ先に水を被った者は、恐怖のあまり動く事が出来ず、水と共に押し流されてきた石をまともに左目と右脇腹に受けて気絶する。
その者のすぐ隣にいた男も、悲鳴をあげるために大きく開けた口の中に水と石が同時に襲い掛かり、その後に襲ってきた腹部の衝撃に吹き飛ばされて水にもみくちゃにされた。
他の者達もほぼ似た様なもの。
前にいた者が真正面から水を受けてくれたために直撃は免れたものの、荒れ狂う水に地面からすくい取られた直後に背後から来た水に押しつぶされて前後左右あらゆる方向へと流れようとする水によって四肢を絡め取られ自由を奪われる。
運が悪い者は四肢を無理矢理ねじ曲げられ、まるで人形遊びをされているかのように関節の可動範囲を超えた動きをさせられた。
結果、訳が分からないままに意識を飛ばされ、そのまま水死する。
水がようやく安定し始めた時、まだ意識を保っていられたのは頑丈なクルズとその彼に守られたユミカ、それと咄嗟に身を縮めて丸くなって必死に耐えた男一人と、もみくちゃにされながらも意識を失う事が結局出来なかった男三人だけだった。
その三人も、もはや風前の灯火。
大量の水の水面は地面よりも十分に遠く、その水深は人の身長の2倍近くもある。
四肢を自由に動かす事が出来ず、苦痛で思考が埋まり、それでも何とかして浮こうとしてもがき苦しむ三人の体力が尽きるのは時間の問題。
すぐ近くに迷宮の壁があり、そこに捕まれば大丈夫だという状況判断も既に彼等には出来る筈もなく、ただ溺れ続けた。
そして一人、また一人と水の中へと没していく。
最後の一人が没するのを、身を縮めて丸くなって何とかやり過ごした男の瞳が絶望的な色で見続けていた。
だが、彼はまだ知らない。
溺れていた三人が、何故こうまでも早く水の中へと身を沈めていったのかを。
その三人は、目の前から迫り来た水を大量に飲んでいた。
水だと思っていたそれを口から摂取し、体内へと収めてしまった。
それがもし背後から襲ってきた水であったならば、まだ彼等はその命を長らえる事が出来ただろう。
しかし前からきたそれを彼等は飲み込んでしまったのが運の尽きだった。
その水は、水ではない。
水溶の粘体生物と呼ばれるゾル型粘体眷属のD級魔者だった。
それも、数百体を遙かに超える魔者の大群。
軽く千体を超えていたかもしれない、水によく似た弱い酸性の毒を持った人を食らう存在の集団。
そんな存在に彼等は襲われ、その一部を飲み込んでしまった。
アクアンスライムが持つ酸の毒はそれ程強くない。
皮膚に触れてもじっくりと時間を掛けなければ溶かすことは出来ず、すぐに取り除けばダメージを受ける事はなかった。
しかし水によく似た姿をしているので、アクアンスライムの一部に取り付かれている事に気付かず、いつの間にか肌や着ている服が酸によって灼かれてしまっていたという事は少なくない。
粘度も水にかなり似通っているのでアクアンスライムの判別はし難く、意外と世間一般的に嫌われている。
故に、クルズの様にそれを実際に経験した者達は、水を見たら過剰に反応して火を近づけて様子を見る。
実際、迷宮を進んでいる間、クルズは非情に神経質だと村人達に思われるぐらいに水溜まりを見たら火を近づけていた。
そのアクアンスライムを、もし飲み込んで身体の中にいれてしまった場合。
――それは、死の危険性を生む。
胃から徐々に溶かされ、その次は内臓を溶かされていくという恐怖の体験。
というのは大量にアクアンスライムを飲み込んでしまった場合に限り起こりうる事態ではあるが、むしろ怖いのは毒を持っているという事だろう。
胃から吸収されたアクアンスライムの毒はすぐに全身へとまわり、身体を徐々に弛緩させていく。
その毒には心臓の筋肉まで弛緩させられて命を奪われる程の脅威はないが、一定時間の間――毒が自然治癒で抜けるまでは、全身の筋肉が軽い麻痺状態に陥り、身体の自由がききにくくなる。
雑魚とはいえD級を冠する魔者と相対している時にその様な状態へと陥ってしまえば、十分に命を失う危険性を秘めている事だろう。
溺れていた三人は、そのアクアンスライムを大量に飲み込み、身体の内側をゆっくりと溶かされながらも、毒の影響で自由を徐々に奪われて力尽きた。
それが水死だったのか、内臓溶解死だったのかは、その姿を見続ける事しか出来なかった壁に捕まっている男には分からない。
そして、今も自身が大量の水とアクアンスライムの混ざった中にいるなどという事に、男は気付いていなかった。
水よりも若干軽いアクアンスライムの中にいて、壁に捕まっている男はいつもより身体が重いと感じている。
それは服を着ているのだから当たり前だという考えも今の彼には思い至らないが、それは確実に男の身体を蝕んでいた。
服が徐々に溶けている事にも気付かない。
それはユミカが作り出していた光源がなくなり辺り一帯がほぼ真っ暗闇になっていた事と、水が濁っていた事の両方が原因だった訳だが、むしろそんな暗闇の中でその男は溺れる三人の姿をハッキリと視認出来ていた事に疑問を持つべきだっただろう。
夜光苔はユミカの作り出した光によって死滅している。
ユミカの作り出した光は、水に襲われた際に消滅している。
ならば、今ある光源は一体何なのか。
それは、魂の輝きだった。
霊魂は、淡い光を発生させる。
何故その様な輝きを持っているのかは未だに解明されていなかったが、霊魂はまるで弱い炎の様に辺り一帯を仄かに照らし、自らの存在を誇示する。
それは、C級不死眷属魔者の死霊と呼ばれる存在だった。
大量の死が訪れる場所をゴーストは好む。
そしてここは今、大量の死が蔓延する絶望地帯。
故に、ゴーストがやってくるのは不思議ではない。
だが、そのゴーストがここにいる理由はまた別のものだった。
水の中。
ユミカは己の身体を抱く男によって身を守られていたのを自覚した後、自身の周りに薄い膜を作り出していた。
既にクルズは水に流されてどこかへといってしまっている。
しかしその彼の御陰によって自らは他の村人達の様に水に蹂躙され命を奪われる様な事がなかったのを遅からず理解した。
理解してすぐに防御の幕を張って、荒れ狂う水の猛威が過ぎ去った後も溺れる事なく水の中で周囲の様子を探り続ける。
周囲一体は、絶望の光景だった。
息絶えた村人達の骸が水の底を埋めている。
その水の至る所に、水ではない存在が大量に存在し、その村人達の死体へと群がっていた。
それは自身の周りにも大量に集まっている。
いや、集まっているという様な生易しい表現ではなく、ほぼ水だと思われる周囲一体のほとんどが彼等によって埋め尽くされていた。
ユミカ自身には法術で作り出した防御壁によってダメージを受ける事はないが、この様な状況では流されてしまったクルズの身はもはや絶望的だろう。
これが何であるかはすぐに思い至ったが、それが何故引き起こされたのかは今も理解に苦しむ状況だった。
ハッキリ言って、異常。
これほど大量のアクアンスライムが集まっているというのは、ユミカの理解の範疇を軽く超えている。
馬鹿げている状態だともいっていい。
だからこそ、ユミカは気付かなかった。
自身が既に冷静ではなかった事を。
水の中に現れた、一つの人影。
その人影は、水の底に沈んでいる村人達の成れの果てとは異なり、水の底に立っていた。
濁った水の中、アクアンスライムの体液越しに見える人影は、それが誰なのかはまだ判別する事は出来ない。
だが、ユミカはそこにいる者は村人の誰かの生き残りだろうと思った。
ならば、助けなければならない。
法術を使えるユミカ自身であれば水の中でも平然と立っていられる事が出来るか、そうでない者達には息が出来ずにすぐ溺れてしまう。
それでなくとも、目の前にある水の半分は飲み込んでしまうと大変な事態に陥ってしまう魔者の身体である。
すぐに知らせて水面に浮上させ、水の中から早く抜け出すように指示しなければ。
そんな事を思いながらユミカはその人影へと近付いていった。
そして、その歩みが唐突に止まる。
そこにいた人影は、自分が腹を痛めて産んだ愛娘のユーだった。
どうしてユーがこんな所にいるのかはユミカには当然分からなかった。
しかしユーも母親であるユミカと同じ様に法術をそれなりに使えるのだから、ユミカはそれを不思議な事だとは思わない。
大方、自分達が発生させてしまった罠の影響下に娘もいたのだと思い込む。
娘を見つけたユミカの顔に笑顔が零れる。
ユミカを見つけたそれの顔が喜びに彩る。
二人はそのままゆっくりと近づき……。
ユミカは絶叫した。
進化し擬態化して近付いた元アクアンスライムによってユミカが水底で捕食されている頃。
水面上では、男がユーの姿をした死霊の手によって今まさに魂を食われていた。
迷宮の中で命を落としたか弱き少女。
その魂は死に瀕する前に生じた強い恨みを更に強めた結果、魔者へと変貌し迷宮の中へと捕らえられた。
普通ならゴーストという存在になる前に彷徨う魂などの下級存在になる筈なのに、一足飛びにC級眷属の位にまでなったのは、不死賢者レビスの作り出した特殊空間の影響を受けたからだろう。
ただ迷宮内で死んだだけでは決してゴーストにはなれない。
もともと法術の心得があった事も起因しているのだろうが、どちらにしても彼女は人の種の輪廻の輪から外れてしまい、もはや生まれ変わる事は叶わなくなった。
ただ消滅するか、永遠にこの現世を彷徨い続けるか。
もはや意思がほとんどないゴーストとなったユーの魂には、苦しむ事は出来てもそれを憂う事は出来ない訳だが。
その人から堕ちた魂となったユーは、当初は己の身体の近くを中心に彷徨っていた。
死んだばかりなのだから、それは別に不思議な事ではない。
故に……。
ユーは、自らの身体が迷宮内に捨てられ、たまたま通り掛かった一匹のアクアンスライムに消火吸収されてからも、そのすぐ側に在り続けた。
自らがもといた身体が溶かされていくのを、その魂は何を思って見つめ続けていたのか。
それはユー自身にしか分からない。
例えゴーストとなっても完全に我を失った訳ではなく、茫洋とする意識の中で目の前で行われている行為がいったい何を意味しているのかをユーの魂は朧気ながら理解していた。
理解していた所でそこには苦しみ以外の感情が沸く事もなく、ただそれを受け入れる事しか出来ない。
肌が溶かされ、血が溢れだし、肉が崩れ去り、骨までもが露出していく光景。
あれほど可愛かった自身の身体が、ゆっくりと時間を掛けて腐乱死体よりも酷い状態へとなり、そして消えていくのをユーの魂は苦しみ悶えながらただ呆然と見続けていた。
そして捕食が終わった後。
自らの身体を喰らったアクアンスライムは、粘体生物でありながら自らの身体を形作る事の出来る存在へと進化を果たした。
まだ自らの身体への未練が残っていたユーの魂は、その進化した元アクアンスライムを追って行動する。
何かを察知し進化前は比べものにならない速度で移動し始めたそれに、ユーの魂は遅れる事なく空を浮遊しながら移動した。
そして見つけた大きな水溜まり。
死の蔓延する世界。
そこは今のユーにとって、多少は居心地が良い世界だった。
そこで見つけた生者の姿に、ユーは助けを求めて近付いていく。
この苦しみをどうにかしてほしくて、ユーはその者へとすがりついた。
その瞬間。
男はゴーストと化したユーの霊体攻撃を受けて、為す術なく魂を喰われた。
状況が理解出来ない。
だが、もはやここで生きているのは自分しかいない事を、クルズはすぐに理解する。
ユミカに抱き着いて彼女の身を守っていたにも関わらず、水の勢いに負けて手を離してしまったクルズは一人だけ迷宮の入口方向へと流されていた。
同時に、己の身に感じるチリチリとした感覚に、それらが水ではなく自身がずっと懸念していた魔者である事を察する。
流れが収まった後デコボコする壁へと這い上がり、自身でも使用の出来る火の法術で小さな火の玉を作って近づけてみた結果、シュゥゥゥゥっといって僅かな煙を吐き出しながら蒸発していったのを見て確信する。
「だが、水も大分混じってるか……この量を処理するのは諦めた方がいいな」
それらをどうこうする事が今のクルズには出来ないのを確信し、そしてすぐにユミカ達のいる方へと壁伝いにクルズは戻っていった。
そして絶望する。
自らの法術で作り出した火の光で映し出された最後の光景。
それはたった一人、水面の上へと顔を出し壁へと捕まっていた男が、ゴーストによって魂を喰われ、その顔から表情を消して水の中へとまさに没するという状況だった。
「間に合わなかったか……」
既に人が息をとめていられるだけの時間は当に過ぎている。
にも関わらず、その男以外の村人達は水面の上に顔を出していなかったので、クルズは彼等に対する望みの一切を捨てさった。
残る希望の一人、ユミカの生存は……それまで水底の方に感じていた法術の気配が消えた事で諦める。
その悲しき末路は、世界中を歩き回っていた頃に何度も経験していたので、クルズは今更あまり何も思う事はなかった。
親しき間柄だったユミカが亡くなった事にも、あまり悲しまない。
そういう思いは、妻が亡くなった時にすべて妻に捧げた。
残しているものは娘に対して捧げるものだけ。
ただ目の前の光景を見る限り、それももはやすぐに捧げるしかないかもしれなかった。
二人のユー。
ゴーストと化したユーの虚ろな瞳が、唯一この場に残っている生ある存在であるクルズを見る。
元アクアンスライムである進化した存在が水面からユーの姿を模って、美味しそうな存在であるクルズを見る。
村人達にもユミカの夫にも隠していた事だが、間違いなく自らの娘であると確信していた少女が目の前に現れた事で、クルズはもう一人の娘の命も諦めた。
そして、戦闘態勢を取る。
勝つ自信も生き残れる確信もまるでなかったが、最後に残った自分の命だけはクルズは諦めるつもりがなかった。
状況は圧倒的に不利。
足場はデコボコした壁以外になく、地面は水と無数の魔者の底。
対して相手は、地形に左右されない浮遊する魂存在と、水の中ならば地上よりも自由に動く事の出来る進化した粘体生物。
個人としての能力はクルズの方が間違いなく上だったが、この地形的不利は間違いなくクルズに圧倒的不利な状況だった。
だけでなく。
法術の才を持ち合わせていた者がゴースト化した事により、ゴーストのユーは間違いなく法術を使用する事が出来る。
恐らくはユーを捕食して進化した元アクアンスライムの方もユーが持っていた能力の一部を吸収したのと、元々そういう資質のある魔者だったため、法術が使用出来るのは疑い様もなかった。
勝てる戦いではない。
逃げる事が可能な状況でもない。
そして、このまま放っておいて良い存在でもない。
娘の姿をした魔者をそのまま放置しておくのは、心情的にクルズは許せなかった。
故に、クルズは決意する。
例え差し違えてでも、その二つの存在を倒す事を。
しかし結局、その三者が争う事は遂になかった。
大量の水と水とがぶつかり合うという強烈な衝撃を受けて、脆くなっていたもの。
その一つが今になって崩れ、音もなく天井から落下していった。
その場所は奇しくも、クルズの首筋。
目の前にいる二つの強敵にばかり意識を集中していたクルズの身を、必殺の一撃として襲いかかった。
己の娘と同様に、非情に運の悪かったクルズの意識はこうして終わりを迎える。
約一日前に己の娘が意識を失わされた同じ場所に不意打ちの攻撃を受けて。
鋭く尖ったツララが、クルズの首筋を貫いた。
2014.02.14校正




