第5話 始まりは、いつも理不尽に
力が、欲しいと思った。
全てを思うがままに、何をも自由にする事が出来る、絶対の力が欲しいと思った。
それは誰しもが一度は望んだ事のある、とても純粋な真実の想い。
欲望の一欠片――。
時に終わりがないのとは違い、俺の見る世界にはいつか終わりがやってくる。
平穏な日常、適度に楽しくてもやはりどこか退屈と感じてしまう、不幸な贅沢。
そこには心の喜びも、身体の喜びもない。
だが、同時に悲しみもない。
絶望という心の悲愴も、死という身体の終焉もない。
ただ、そこに有り続けるだけの毎日。
生きる意味がなく、ただ生かされているだけの世界。
――だった筈だ。
だが、この瞳に映る世界は、いったい何だ?
俺は今まで、何をしていた?
襲ってきたのは、そんな感想。
僅か一瞬。
ただの瞬きをした瞬間に、目に見える景色が一変していた。
あり得ない。
何故、俺は此処にいる?
認識が追いつかない。
思考が追いつかない。
何もかもが――訳が分からなかった。
混乱状態に陥ったのも束の間、衝撃がこの身に襲いかかってきた。
遅れて、爆音とも呼べる強烈な音が耳を撃つ。
言葉を発する事すらも忘れ、気が付いた時には背中に酷い痛みが走っていた。
視界が暗転する。
何かにぶつかったのだという事は、辛うじて認識する事が出来た。
手が、ざらざらとした土を掴む。
俺は倒れていた。
そう認識する事が出来たのと同時に、背中の痛みが俺の思考を散らす。
「う、ぁあっ!」
そう悲鳴を発したのは、紛れもなく俺の口なのだろう。
背中が痛い。
何故、痛い?
額から汗が噴き出る程、激しく痛い。
何が起こった?
どうして俺はこんな痛みを感じなければならない!
両手の五指を地面に突き刺して、その痛みに耐え続ける。
土は軟らかかった。
開いた五指を閉じ、土ごと握りしめる。
痛みに耐えるため、右手の拳を地面に叩き付けた。
痛い。
痛い。
痛い!
歯を食いしばり、上体を起こす。
顔から何かがズレ落ちていくのが分かった。
だが今はそんな些細な事を気にしている状況ではない。
背中を反らし、上へと顔を向け、両腕に力を込めて背中の痛みに耐える。
「うぁ……あ……!」
死を連想した。
それほどまでに背中の痛みは強烈だった。
声にもならない悲鳴をあげ続けた結果、肺が空気を熱烈に欲し始めた。
息を吸うと同時に、今度は背中を丸めてうずくまる。
両の拳を大地に立て、額を地面に付けて、ただひたすらに耐え続ける。
意識的に大きく呼吸をする。
暫くして――。
背中の痛みはようやく泣き言を言わなくてもすむ程度には収まってきた。
だんだんと明瞭になっていく思考。
全身にべったりとかいた汗の気持ち悪さが鬱陶しい。
額と腕と、それに身体中に付いた土の感触が煩わしい。
だがそんな事よりも、まずは呼吸を整えた。
同時に、混乱していた頭も徐々に冷えていく。
まるで状況は分からないというのに。
その場に座して、身体から疲れと痛みが消えていくのを待つ。
ぼやける視界が見つけた最も身近な太い大木に背を預け、休息を取る。
その間に、遙か遠くから木霊する衝撃音と、時折やってくる瞬間的な風の暴力に思考を巡らせる。
考える。
痛みの理由はすぐに分かった。
何の事はない。
この風の暴力に吹き飛ばされて、背中を強打しただけだ。
「此処、から……逃げ、ないと……な……」
独り言を呟く癖を持っていたという記憶はないが、その言葉は俺の口から自然と零れ落ちていた。
身体に鞭を打ち、立ち上がる。
落ちていた眼鏡を拾い、身に着ける。
瞬間、視界が大きく改善される。
ぼやけた闇の世界が、くっきりとした暗い樹海の姿へと変化した。
何故、俺はこんな場所にいるのか。
そんな事を考えている余裕は、今、俺が置かれている状況から察するに、全くない。
早く此処から逃げなければ――俺は、最悪死ぬ。
音と風がやってくる方角に背を向けて、なるべく走る。
斜めに傾いている地面と、縦横無尽につきだした木々の根と、暗いために酷く悪い視界の中では、とてもではないが全力で走る事など出来よう筈がない。
幸運にも、履いていた靴はかなり頑丈そうだったため、何か危険な物を踏ん付けたとしてもガードしてくれそうだった。
かわりに重たいのが難点か。
靴の重みで走る速度が予想よりも幾分か遅い。
走る事による体力の削り具合も、現状では無視出来そうにないぐらい酷い。
だが、そんな事にかまっている場合ではないのは分かっていた。
故に、出来る限り速く。
しかし立ち止まってしまわない程度に体力を気遣いながら、ただひたすらに前へ前へと向かう。
いったい何処まで走り続ければいいのか?
分からないが、とにかく俺は走り続ける。
あの何かから距離を取る。
命からがら逃げる、という経験をした事が過去にあったか?と、記憶を探る。
何も浮かんでこない。
どの程度の距離なら走り続けた事があるのか、思い出そうとする。
具体的な例はおろか、目算すらまるで出てこない。
俺は、体力がある方なのかない方なのか、自己の評価を確認する。
分からなかった。
(ちょっと待て、おい……)
歩みは止めないまま、俺は自身の思考へと突っ込みを入れる。
そして愕然とした。
あらゆる記憶が存在しない、という事に。
走りながら、記憶を分析する。
何もない。
そこには、空っぽの闇が広がっている様な、空虚さだけがあった。
最初にあったのは、僅か一瞬のみ映した少年の姿。
その記憶は、つい今し方の出来事。
認識した覚えはまるでないが、瞳が映していた映像を脳が勝手に記録していた、というべきだろうか。
同時に、あれは人?という言葉を俺の耳が拾い、それも俺の脳が勝手に記録していた事に気付く。
そして、衝撃。
俺の脳が認識を開始したのは、その後から。
(――まぁ、いいか。それはそれだ。俺が何処の誰であろうと、まずは生き延びなければ何も始まらない)
記憶がないなどという巫山戯た実状を鑑みれば絶対に落ち込みそうな思考を適当に振り払い、無理矢理に楽観視する事を決め込む。
と同時に、過去の記憶に直結しない程度には知識を持っている事にも気付く。
右腕右足、左腕に左足。
歩く時走る時にそれらが同時に出てしまわない様にすると楽に動ける。
眼鏡は必需品だ。
俺の視力はかなり低いため、これがなければまともに見る事が出来ない。
なお、俺の視力が低い事は、眼鏡を身に付ける前と後とで周りの見え方がまるで異なっていたという経験則によって導き出せた。
眼鏡を掛ける事で視界が良くなる事は、知識として知っていたという事なのだろう。
他にも色々と知識と記憶の違いを観察している自分に気付き、また新しく発見する。
俺は少し考えすぎる性格をしている、という事を。
足を取られてしまわない程度には出来る限り地面を観察し、直進を遮る木々を避けるあまり逃げる方向を見失わない様に注意しながら、走る速度を調整しながら、あの危険地帯から距離をかせいでいく。
その間にも思考を巡らし、事実を探し続ける。
認識出来る限りの現在を確認しながらも、その先に待ち受けているかもしれない種々様々な未来を思い浮かべ、冷静に記憶の片隅へとその結果を置いていく。
都合の悪い未来の例をあげるなら、またあの兇悪な風がこの身を襲い、今度はジ・エンド。
都合の良すぎる未来の例をあげれば、まるでゲームの様な酒池肉林ハーレムの桃色世界が待ち受けている、というあまりにも現実味のない言葉だけが浮かぶ。
残念ながらそこに映像はない。
そういう記憶や経験がない故に。
思考がいつのまにか現実から空想世界へとずれていた事に気が付き、頭を振る。
冷静な思考を取り戻すべく、この現実世界へと注意を向けて瞳が映している視界の景色を意識的に確認。
何も変わりのない樹海の風景が、どこまでも続いていた。
空が見えない世界。
ほんの少しの木漏れ日によって映し出される、少しだけ深い闇の景色。
今の時刻が昼なのか夜なのかすらも分からない、とまでは言わないが、不気味だという感想を持つのには十分な場所だろう。
夜。
そして月が出ている。
直感なのか、それとも知識からくる現在時刻なのかは分からない。
だが、そういう類のものが例え出てきたとしても不自然ではないだろう場所に俺がいるという事は、見るからに分かっていた。
――分かっていた、筈だった。
「!?」
己の胸より突き出た、枯れた腕。
五指の先には、尖った爪。
その五指によって掴まれている、淡く光っている球体の何か。
いったい何が起きたのか。
それよりもまず先に、死と絶望を思い浮かべるには十分な光景。
俺の命は、そこで尽きた。
2013.04.13校正
2014.02.13校正