第46話 ハーモニーの迷宮、レベル1
夜光苔が自然に放つ僅かな光だけが照らす、ただひたすらに真っ直ぐにのみ続く洞窟。
天井には天然の鍾乳石、方解石の沈殿物が成長しツララになったものによって占められ、壁はデコボコとした岩が剥き出しの少し濡れた肌。
当然、床も天井から溶解し滴り落ちた方解石が晶出し、そこが次第に盛り上がり高く成長をした石筍が至る所に突出していた。
人が歩くにはまるで適していない地形。
しかし、粘体生物である人外の存在にとっては、何ら気にする様な障害ではなかった。
いや、彼等にはそれを気にする様な知能すらないため、気にならない。
うぞうぞと蠢き、目的もなく進み、ただ何かを溶かし喰らい栄養として摂取し続ける。
それが彼等の唯一の行動だった。
彼等は、高い粘性を持ち個体状となっているゲル種の粘体生物ではなく、流動性に富んだ液状ゾル型の粘体生物。
名を、水溶の粘体生物と言った。
先に迷宮内に配置された一刺蜂と同じくD級眷属の位を与えられた粘体魔者である。
所謂、総じてスライムと呼ばれる事の多い粘体生物。
その中で、アクアンスライムは【水】属性に偏った性質を持ち、見た目にはほぼ濁った水とあまり変わらない。
亜種には毒性を持ったバブルンスライムやポイズンスライムといった魔者が存在するが、アクアンスライムには毒性はほとんどなく、ただ触れたものをとても弱い酸で溶かして吸収するだけの能力しか持ち合わせていない。
また【水】属性の特性を持っているために火などを近づけただけで容易に蒸発し消滅してしまうという弱い存在だった。
その彼等は今、迷宮内に少しずつ生成され増え続けている。
ゆっくりとしたペースではあったがそれは無限に続けられているため、今ではちょっとだけ深い穴を埋め尽くしてしまうぐらいには数が揃っていた。
ただ、彼等はそこからは自力では決して出る事は出来ない。
更に数が増えて穴の容積よりもアクアンスライム達の総容量の方が大きくなった場合に、ようやく溢れる形で抜け出す事が出来る予定だった。
それはまだ予定。
その時はまだ暫く遠い。
しかしその濁った水の溜まり場にしか見えない彼等とは別に、運良くその穴に落ちる事がなかった一匹のアクアンスライムがいた。
アクアンスライム達は生成されると地面の傾斜の関係上、穴の方へと向かっていく様に計算されている。
しかしそのアクアンスライムだけは地面の傾斜に逆らう形で逆方向へと歩を進めていった。
そこに理由はない。
ただ、たまにはそういう事があった、というだけである。
彼は――いや、魔者学的にはアクアンスライムは牝として何故か分類されていたため、ここでは彼女と呼ぶべきか――兎に角、そのアクアンスライムはその迷宮の奥の方へと単身進み続けた。
その道中にはこれといって障害はない。
ほとんど物理的な力の掛からない液体存在である彼女が通っても罠は発動しないし、彼女は本当にゆっくりとしか進まないため濁った水にしか見られず、他の魔者達も気付いたり構うような事はなかった。
踏まれる事はあったが。
しかし非情に弱い酸しか持たないため、魔者達は彼女を踏んでもまるで気が付かない。
飲まれてしまった場合はその猛威を振るう事もありえたが、それも彼女の身には降りかからなかった。
暫くして。
ただ進み続けるだけの彼女の前に、大きな餌が現れた。
知能を持たないアクアンスライムである彼女はそれを餌だとは認識しなかったが、溶かしても何の反応もなく吸収すると栄養が非常にあったので、彼女は進む事をやめてそこに留まり続けた。
ゆっくりと……じっくりと溶かし、僅かにずつ吸収していく。
時間はたっぷりとあった。
誰も彼女のその捕食行為の邪魔をする事はしなかった。
その餌を吸収し、次第に大きくなっていく彼女。
大きくなっていくのに比例して酸の強さも若干ずつ強くなり、溶かしていくペースがあがる。
しかし溶かすペースがあがっても単体積辺りの吸収速度は変わらなかったので、その餌を完全に吸収するまでの時間はあまり変わらなかった。
むしろ今までは溶かす速度の方が遅すぎて、なかなか吸収出来なかっただけである。
溶かし吸収し続けるうちに、彼女はその餌に含まれていた栄養によって、流体型から固体型を作り出せるだけの力を身に着けていく。
アクアンスライムだった彼女は、それにより上位種へと変化し、僅かながらの知能も身に着けていく。
それは偶然によって生まれた産物ではあったが、間違いなく彼女は上位種への進化によってその迷宮の中で最強の力を持つボス的存在へと生まれ変わっていた。
しかしその事を――今はまだ、誰も知らない。
「輝き照らせ、リヒト」
迷宮に入ると同時にユミカが杖を前に翳し、法術を発動させる。
その瞬間、杖が光輝き周囲を明るく照らし出した。
それと同時に迷宮内を転々と点在して仄かに照らし出していた夜光苔が一斉に死滅する。
「ユミカさん、別にわざわざ法術を使ってくれなくても洞窟内は十分に明るかったと思うぜ? ユミカさんの法術はもしもの時のために温存しておいてくれよ」
本当は迷宮内には入りたくなかった村人の一人が、自らの心に巣くう恐怖を忘れるために口を開く。
その頭が次の瞬間、隣にいた親友の拳によってゴツンっと軽く小突かれる。
「馬鹿、ここは腐っても迷宮なんだ。あんな足下もハッキリと見えない光じゃ、罠を見落としてしまうかもしれねぇだろうが」
「あ、ああ……そういやそうだったな。すまねぇ」
「まぁ、あなたの気持ちは私達にも分かりますからね。私もまさか、普通に村で暮らしていて迷宮に潜る機会が訪れるなんて思ってもみませんでしたから。いやはや、長く生きてみるものですね」
「御前、まだ二十代前半だろうに……」
などと後ろの方で緊張感のない会話をしている村人達に、クルズは心の中ですまないと詫びる。
クルズは彼等を巻き込みたくなかったのだが、大勢の中にいて緊張を感じていないと冷静で強気な自分を保ちきる事が出来ない昔の恋人の性格をよく知っているので、これも仕方がないと割り切っていた。
クルズ自身もまさか迷宮に挑む事になろうとは思っていなかったので、ユミカが自分と一緒に行動していた事がそもそも失敗だったと気付く。
迷宮前での一悶着は、迷宮がある事を知っていれば回避出来た。
もし予め迷宮に挑む必要がある事を知っていれば、クルズはユミカをそもそも捜索隊の中に入れなかったし、どうしてもユミカが捜索隊に加わる様であればクルズは他の村人を遠ざけて二人だけで行動する事を選ぶ。
どちらにしても、もうそんな事を考えても仕方のない状況となっているので、頭からその後悔の思いを追い出して頭を切り換える。
「――止まれ。いきなりだが、罠が幾つも仕掛けられている」
「いきなりかよ!?」
「やべぇ……俺、この先まで入ってる」
「マジかっ!? 運が良かったんだな、御前」
五月蠅い外野は無視して、クルズは少し気合いを入れてその場で足をドンッと床に強く踏みつける。
その瞬間、目の前の天井からバラバラと大小様々な石が降り注いだ。
「おお……」
「これだけじゃないな。落とし穴まであるみたいだな。おい、あそこの縦向きに張ってあるロープに触れるんじゃないぞ! それと、なるべく道の端っこを歩け!」
驚き感心しつつ村人達は適当に二手に分かれて壁際に寄っていく。
そこにユミカが一言付け加える。
「壁には触れない様にしてください。床にある凹凸も、出来ればなるべく平らな部分を選んで足を付けてください。決して出っ張りを強く踏まないように」
「ここを、か……?」
「いや、無理だろ?」
「平らな部分なんて、あるのか?」
「いやいや、ユミカさんは俺達に空を歩けって言ってるんだよ」
「それこそ無理だろ!?」
まるで緊張感のない会話。
しかしクルズとユミカには分かっている。
彼等は必死に自分達の心を鼓舞しているのだと。
冗談でもいいから口にして緊張をほぐしておかないと、初めて挑む迷宮に対しての恐怖やら興味やらで集中が保てない。
いくらクルズとユミカが先に障害を取り除いてくれるからといって、絶対に安全な訳ではない。
しかしそんな村人への対応も、クルズとユミカとでは少し異なっていた。
クルズは必要な事と事実だけを伝え、必要以上に村人達の神経が摩耗しないように気遣っている。
対してユミカは己の知識だけで物事を考え、その全てを村人達に伝えて注意を促していく。
「ユミカ、あの水溜まりに火を近づけてくれ。一応、調べておきたい」
「魔者の中には色々なものに擬態するのがいますからね。あの水溜まりですと、ポイズンスライムやアシッドスライムあたりが有力ですね。アシッドスライムに触れられると簡単に皮膚を溶かされてしまいますので皆さん気をつけてください」
ソロ活動が得意なクルズは、あまり他の者を気遣うのは得意ではない。
集団のリーダーになった事もないので、己の出来る事しか出来なかった。
だから気付かない。
ユミカの過剰な説明を聞いた村人達が息を呑み、緊張のレベルを一気に引き上げた事を。
「また落とし穴か。こうも地面がデコボコしてると危ないな。罠は単純な物が多いからすぐに見つけられるが、御前等も注意して周りを見て慎重に進め」
「落とし穴は、落ちた先に針や槍などを無数に並べておくものが多いそうです。当然、まともに落ちてしまえば串刺しになってしまい簡単に命を落とす事になるでしょう。逆にただ高いだけの落とし穴であれば生存確率は跳ね上がります。咄嗟に受け身が取れればなお良いかも知れません。この人数ですので、重みだけで落とし穴が開いてしまう可能性も捨てきれませんので、皆さんもあまり固まらない様にして私達の後ろをついてきてくださいね」
瞬間、サッと村人全員が散らばった。
しかしすぐに仲の良い者達同士で集まって三つのグループを形成する。
「前だけに気を取られるな。後ろにいる奴等は後ろも警戒しておけよ」
「例えこの道が一本道で私達が今通ってきた道には魔者がいなかっとしても、それは絶対とはいえません。罠の中には隠し扉を開いて中にいた魔者を解き放つだけのものもあります。それはもしかしたら目の前にある扉を開けるための仕掛けと同調している事だってありますので、注意してくださいね。最初にクルズさんが解除した落石の罠と連動して、時間差で隠し扉が開くという可能性もあります」
最後尾にいた二人が即座に早歩きへと代わり、他のグループを追い抜いて全員の中央へと入る。
それからは互いのグループが牽制しつつ、最後尾にいる者が刻一刻と変わり続けた。
「っと、崖か。道はここしかないから降りるしかないな。このロープは……罠じゃないみたいだな。これを使って降りろという事か」
「崖はあまり高くはありませんが、降りている途中に石でも落ちてきたら大変ですね。一人ずつ順番に降りて、その間は上にいる人が天井などを警戒してください」
最初にクルズが降りて崖下の状況を確認する。
次に村人達が降りようとするのをユミカが目で制して、2番手を無理矢理勝ち取った。
いくら膝下まであるスカート姿とはいえ、見えないとは限らない。
クルズに見られる事も嫌だったが、それ以上に多くの男性が視線を逸らしたり意識的に中を除こうとしている中で降りるのは耐えられない。
一応は村人達もユミカが2番手に拘った理由に検討はついたが、それでも守る者のいなくなった崖上に残された者達は戦々恐々として自分の順番が早く来るのを心の底から願い続ける。
平等にジャンケンをした後、最後の降りた者の目には涙が浮かんでいたが、皆見て見ぬ振りをした。
次は我が身かもしれないため。
「また崖か……」
「天井の高さは変わっていませんので、この先も何度かあるかもしれませんね。当然、登りもあるかもしれません」
崖上のジャンケン大会は白熱した。
同時に、今度は早く崖登りしたいとも思い始める。
崖を登る場合ならば、クルズが1番手になり、ユミカが最後に登る事になる。
夫がいる身とはいえ、美人で定評のあるユミカと最後に二人きりになれるのは別の意味でジャンケン大会は白熱しそうだった。
「水は……溜まっていないな。どこかに流れる先があるんだろう」
「何度か水溜まりを見掛けていると思いますが、恐らくは地下水がどこからか流れ込んでいるのでしょう。天井に垂れ下がっているツララやその下にある出っ張りは、その地下水が土の中の物質と解け合い、その解けた水がこの洞窟内の空気と反応してほんの少しずつ徐々に固まって出来たものだと思います。落石の罠ではありませんが、あのツララは震動を与えると割れて落ちてくる可能性もありますので注意を怠らないようにお願いします。いわばこの洞窟内の天井は天然の罠でびっしりと埋め尽くされているといってもよいのでしょうね」
村人達は一斉に心の中で悲鳴をあげた。
下はデコボコしていて歩きにくいのに、もしかしたら上から尖ったツララが落ちてくるかも知れないというのはもはや地獄だ。
もう泣きたい。
上を見て歩くか、それとも下を見て歩くか。
村人達の歩調はバラバラになった。
「登りだな」
初めて喜べる事が起きて、村人達はちょっとだけ喜ぶ。
しかし、それは致命的だった。
「ここにロープがあるぜ。今度はこれを使ってのぼ……」
「それに触るな!」
しかしクルズの言葉は間に合わなかった。
ユミカが最初に言った言葉を忠実に守って壁際を歩いていた村人が、目の前にある崖に見つけたロープへと触れ、引っ張った瞬間。
落とし穴の罠が、一斉に発動した。
警告が間に合わなかったとはいえ、すぐにクルズは天井から石が落ちてくるか、それとも矢が飛んでくるか、地面が穴を広げるか警戒した。
ユミカもクルズが警告する前に危険を感じ、周囲を警戒する。
しかしクルズとユミカと村人達の目に飛び込んできたのは、そのどれでもない罠の姿だった。
「壁から離れろ! 倒れてくるぞ!」
「!!?」
目の前の崖が、ロープを引っ張って暫くすると、ゆっくりと彼等のいる方へと倒れ落ちてくる。
それはほとんど厚みのないゴツゴツした壁だった。
一番その壁の近くにいたクルズはすぐに自分のすぐ後ろにいるユミカの身体へと抱き着く様に壁から跳び離れる。
だが事の元凶を起こしたロープを引っ張った者とそのすぐ近くにいた二人の村人は咄嗟の事で動けず、悲鳴をあげるのも忘れて倒れてくる壁の餌食となった。
身の丈の2倍近くもある壁に潰されて、その3人は死を覚悟する。
だが厚みのなかった壁はその3人の命を奪う事は出来ず、重みで潰して行動不能にするだけだった。
壁が倒れると同時に悲鳴をあげる村人達。
「嘘、だろ……?」
しかしその3人の安否を確認する余裕を、他の者達は持つ事が出来なかった。
目の前に現れた、大量の水。
そこから聞こえてくる、怖ろしい音。
「くそ! 後ろもか!?」
クルズは叫ぶが、それを村人達は理解する事は既に出来なかった。
倒れてくる壁から逃げるためにそれまでの進行方向に背を向ける形になったクルズの視界には、先程降りてきたばかりの壁が姿を消し、その先から恐らく自らの背後と同様に大量の水が迫ってくる様子が映っている。
圧倒的な水の量。
これまで彼等が降りてきた壁の高さを考えれば、その量は絶望的なほどに救いがない。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
一瞬後、彼等は前と後ろから迫り来た大量の水のぶつかり合いに巻き込まれ、圧殺された。
2014.02.14校正




