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不死賢者の迷宮  作者: 漆之黒褐
第弐章
33/115

   EX#02 蒼き空の記憶

 心地良い穏やかな風が吹く。


 横殴りの一撃。

 慎重に警戒し身構えていても、察する事の出来なかった容赦のない攻撃に身体が真横へと弾き飛ばされる。

 防御壁を張っていても意味がなさない剛撃。

 それの発生地点から対象たる自身までの風が乱され局所的な乱気流が発生する。

 それはほんの僅かの距離。


 瞳に映す事のかなわぬ無形に加えて精巧かつ巧妙に編まれる風。

 それが無造作に、戯れの如く容易に精製されて襲ってくる。


 次は真下から。

 先の一撃で滑空する自身を正確に捉える。

 体勢をたて直す間も与えられない無慈悲な風爆撃。

 瞬間の超圧縮からの真空生成をえて、その反発による空気の爆発的な四散に大地が穿たれる。

 轟く筈の爆音は更にその周囲に発生させたと思われる真空の膜によって遮られ、同時にその攻撃を受けた自身が吹き飛ばされる方角に風の道が出来上がっていた事に戦慄を覚える。

 真空と強風の道で加速を余儀なくされた身体が、追い討ちの如く全身に纏わりつく風によって拘束。

 悲しくも予想だけが追いついた未来に、しかし対応する術は残されていないため、絶望だけをただ待つのみだった。


 そう思考した瞬間。

 右の頬に張り手が一閃していた。


 いったいいつの間に追いついたのだろうかと考える暇も与えられない。

 予想に反して接近戦が開始される。

 身体の束縛もなく、先ほど予想していた未来像もどこにいったのか、容赦なく腹部へと叩き込まれた膝蹴りに身体が折れる。

 苦悶の声を上げる事は捕まれた喉によって無理矢理阻止されていた。

 潰されないだけマシだったと考えるべきなのだが、それを許さない瞳が眼前で輝いている。


 意に反して吸い込まれる右腕。

 真っ直ぐ繰り出した筈の拳撃が見えない力によってそらされ眼前の頬を掠める。

 その腕が絡め取られ、離れつつあった距離を再び零へと近づける。

 次の攻撃は分かっていた。

 しかし理不尽にも思える圧倒的な力量の差に身体が追いついていかない。

 一思いに終わらせてくれもしない。

 手加減された一方的な戦闘がどこまでも続く。


 右腕に収束された力。

 絡められて固定された腕が回避行動を不可能とする。

 防御が無意味だと理解していても生存本能が必死に防御壁を編み出し、左腕が阻止行動を取る。

 掴もうとした手が絡められた腕によって姿勢を乱され上に空振る。

 必殺の宿る右腕が腹部に吸い込まれていった。


 運命が決する。

 否。

 終わるにはまだ早い。


 咄嗟に脳裏へと浮かんだ足掻き。

 絡められた右腕は、逆に考えれば絡めている事と同じ。

 空振った左腕の軌道を少し変えて右肩を掴む。

 そして思い切り相手の身体を引き寄せた。


 刹那、腹部に衝撃が走り意識が飛びかける。

 風の防壁の維持と相手の身体を引き寄せる両腕だけに意識を集中させ、必死に耐え続ける。

 ここで手を離してしまうと力の流れは全て自身の方へと傾き、先に待つ未来は再び終わりが見えなくなる。


 これは、自らの意識を絶つチャンスだった。


 いつの間にか敗北を望む思考に切り替わっていた事にもはや未練はない。

 ある意味で言えば自衛本能。

 精神崩壊の一歩手前で未だに踏み止まっているだけでも奇跡だと思いたくなる。


 霞んでいく意識に、死も追加で訪れても良い気がしていた。

 そのまま永遠に楽になれるのであればそれも良いか、という恐ろしき思考に反論を訴える崩壊寸前の理性も聞こえてこない。

 白が世界を埋めていく。

 瞳に映っていた見飽きた顔が消える。

 音が遥か彼方へと去っていく。

 痛みは既に感じなかった。

 だが両腕に力を込め続けているという事だけは分かる。

 あと数秒もしない内に訪れる未来。

 それは絶望の生か、安楽の死か。



「――馬鹿ね、あなた」



 しかし、そのどちらも待っていなかった。


 耳元で優しく語りかけられた言葉が飛んでいこうとした意識を捕まえる。

 全ての音が彼方へと消えた筈なのに、聴覚がハッキリと言葉を捉えて脳へと伝える。


 覚醒は一瞬の内に。

 ただの一言で引き戻された現実は、とても心地よいものだった。


 柔らかい肢体で抱擁された身体に熱が伝わってくる。

 背中へと回された右腕。

 二つあるふくよかな膨らみが押し付けられ、顔はすれ違いに頬を接していた。

 左腕は後頭部をまるで撫でている様な手つきで摩り、髪を乱している。

 あまりの接近に、肩を掴んでいた筈の両腕はいつの間にか彼女の背中へと回されていた。

 甘い香が鼻を誘う。


 世界に色が戻っていく。

 そこに彼女の見慣れた顔はない。

 ただ空からの広大な景色が広がっているだけだった。

 日の光は左の上で輝き、空には白い雲が棚引いている。


 いつも見ていたこの世界。

 今だけはとても特別な物に見えてしまっていた。


 鮮明となった意識が、思い出したかの様に彼女が発した言葉の色が何であったのかを告げる。

 思い出さなくても自身は識っている。

 彼女がどういう性格をしているのかを。


 言葉は、嘲りだった。


 優しく包み込まれていると感じていたのは、その後の行為に耐える為の体力を回復させるための処置に他ならない。

 肉体の熱で体温を上昇させ効果的に治癒能力をあげつつ同時に魔法でも回復させる。

 精神の方には安らぎを与えれば事が済む。

 抱擁はとても効果的だった。

 生きている実感と喜びの同時攻撃に見事に現実へと引き戻された。

 負にあった理性と本能が元の正位置へと転換されてしまっている。

 死は、恐るべき未来になった。



「また、間違えたわね」



 それは私刑(ヽヽ)開始の宣告。


 空に投げ出される。

 温もりが消え、冷たい空気が肌をさす。

 山が小さくなり、雲が眼下へ流れ、大地が急激に遠ざかっていく。

 四方の世界が無限にも似た空間へと広がった。

 蒼き色が徐々に闇色へと染まりゆく。

 彼方には小さき輝きが幾つも浮かび、それを瞳に入れる自身の身体は霜に覆われ徐々に氷結していく。


 景色に感動する心と、迫り来る自然の驚異に震え上がる心。

 冴える頭脳が程良く回転し、再び訪れた絶望的な未来を幾つも想像する。



「何をして欲しい?」



 言葉は背後から。

 彼女は先回りしていた。


 振り返る前に、上昇の頂点へと達した身体が下方へ急加速する。

 後頭部を捕まれ、落下の重力加速度よりも遙かに速い加速Gが身体を襲う。

 全身を攻め続ける摩擦の風によって僅かに開かされた瞳が映すのは紅き炎の色。

 あまりの速度に空気が摩擦した熱で落ち行く眼前が燃えていた。


 炎色に染められた陽光の大気のなか、二つの影が落下していく。

 最下点にあるのは顔。

 善意とはとても思えない眼下に展開された空気層の御陰で灼熱による火傷は皆無だったが、逃れられない運命をありありと見せつけられる恐怖の映像は心をじりじりと焼いていく。


 彼女の手が肌を滑る。

 首、肩、上腕、肘、前腕、手首、手甲をなぞり、最後に指の隙間から絡めて掴む。

 女性特有の柔らかく小さな掌の感触。

 鋭敏になった感覚を占める恐怖が若干緩む。

 より恐怖を(あお)るために。


 空へと投げ上げられた時よりも遅く、しかし急速に拡大していく大地の映像が続く。

 同じ速度で落下している背後の存在が嗤っている。

 声もなく嗤っているのが分かった。


 全身を拘束しているのは大気の摩擦。

 右手に映る視界の中で捕まれていない腕が動く。

 投げ出された両足も解放されたまま。自由が利かないのは捕まれた頭部と左腕のみ。


 右手に風が舞う。


 それを察した彼女が自身の背中を大地代わりに跳躍。

 急加速した胴体に引かれ身体が海老剃りに曲がり背骨が悲鳴をあげる。

 響いてくる音は体内からだった。


 二人の距離が急激に遠ざかる。

 刹那の安楽。

 空中で背後に振り返り、敵の姿を捜す。


 その瞬間、背中が何かに叩き付けられた。

 今度は腹部を空へと向けた状態で身体が海老剃りに曲がる事となった。


 理解するよりも早く、世界が真っ赤に包まれていく。

 まるで地獄の業火で炙られているかの様に、突如襲い掛かってきた高熱に全身が悲鳴をあげる。


 灼熱する視界の先では天空を舞う悪魔が予想通り嗤っていた。


 炎舞に荒れ狂う世界の中に悪魔がゆっくりと入ってくる。

 急減速し始めた自身に自由落下を行ってきた彼女が追いついてきただけだったが、まるで翼が生えているかの如く優雅な姿勢で降りてきた彼女の姿は天女の様に見えた。

 勿論、錯覚以外の何でもない。


 薄く笑っていた美貌に哀れみの色が混じる。



「本当に、馬鹿ね」



 優雅に振られた腕の一閃で炎が消える。



「現実を直視するのもいいけど、少しは夢を見なさい」



 落ち行く二つの影の周りには一切の紅が消失していた。

 遠くからは風を切る音が響く。

 彼女の瞳は眼下の自身とその先の大地を映し、そのどちらにも焦点をあわせてはいない。

 薄く笑んだ口元から覗いた言葉の残滓が酷く脳を揺さぶる。


 戦いは第三の局面へ。


 一度目は望んで死に、二度目は間違いを犯し死を迎えた。


 頬へと触れようとする腕をはねのけ、詠唱を開始する。

 しかし声が出ない。

 強制的に排除したのは炎だけではなく、大気そのものが消えていた。

 呼吸を求めた肺がそれに気付いて苦痛を告げる。


 それでも力を振り絞り、意識を腕へと集中させる。

 紡ぐのは風。

 『衝撃の一翼』

 ただ叩き付けるだけの攻撃。

 眼前の敵の胸へと狙いをすまし、そして放つ。


 右腕に感じたのは衝撃波の反動。

 狙いをつけるためと肩で固定されたままの体勢でその反動を受け止めると肩が壊れるために、風を打ち出すと同時に腕を上へと逃がして衝撃をそらす。

 ――までは良かったが、予想以上の反動に安定下にない身体までもが回転。

 彼女の姿が死角へと消える前に双眸が見たものは、ほぼ零距離射撃のそれをどうやってタイミングを計ったのか、放ったと同時に躱した光景だった。


 思考を切り替え、後転する力を左腕の速力に変えて手刀の風刃で死角の空間を斬る。

 手応えはなく、既にそこに敵の姿がない事を確認。

 上半身が地面に対して逆さとなった瞬間に足下へと風を叩き付けて空を蹴り、大地へ向けて跳躍。

 一端その場所から距離を取るための行動だったが、その一瞬後に流れ飛んだ風の弾撃に回避行動へと意味が変わる。


 風弾の軌道は予想に反して正面上空から。

 瞳の焦点を広範囲策敵に広げ、白き雲の中に一点の陰りを発見。

 陽光の向きを計算に入れて影でない事を確認し、当たらないと分かってはいたがもう一度、『衝撃の一翼』を紡ぐ。

 但し、両の腕で同時に二つ。


 まずは左腕。

 威力は落ちるが衝撃を一点に収束させず拡散させる事で広範囲に被害を及ぼす、文字通りの衝撃波を目標目掛けて弾き出す。

 避けようとその範囲から逃げるのであればその軌道を読んでもう一方を放つ。

 回避行動を取らずに防ぐつもりであれば、その瞬間を狙うだけの事。


 白雲の境界の向こう、影のみを映す戦女神が行動を起こす。

 数ある選択肢の中で選ばれたのは希望する一位と二位ではなく、破壊という名の圧倒的な攻撃だった。


 自らの身を包み込む広大かつ密度の濃い雲が彼女の意思の下、前に差し出した右腕の手の平の上に螺旋を描き収束される。

 超高圧縮された球はあまりの密度に空色から灰色に彩り、そして漆黒の輝きを放ち始める。


 それは『旋破(エウレダ)』と名付けられた、超広範囲破壊攻撃たる上位殲滅級風術式だった。

 小さな都市の一つぐらいは軽く壊滅させる事が出来るその空間破壊攻撃は、あまりの危険性により禁忌の術式に指定され使用を禁止されている。

 それを彼女は無視して、あろう事か自身に向けて放とうとしていた。


 生成される破壊を生み出す超高圧縮球に、前方広範囲に拡散させた『衝撃の一翼』が引きずられ吸収される。

 攻撃は完全に無効化されていた。

 それは防御ですらない。

 魔女と称しても全く差し支えのない女性の手の平の上に浮遊する球体へ流れ続ける風は止む気配はなく、ただ静かに凄まじい速度で渦を巻き鈍い黒光を見せていた。



「また諦めて、一瞬で散ってみる? それとも、微かな夢でも見て絶望から目を逸らすのかしら?」



 黒宝球を従えた魔女が、私刑(ヽヽ)執行の宣告を行う。


 悪寒が背筋を奔ったのはこれで何度目になるのか。

 考えるよりも先に身体が動いていた。


 空と雲と大気の織りなす何も邪魔する物のない世界から急激に失われつつある大気の流れに乗り一直線に突き進む。

 右腕には紡いだままの『衝撃の一翼』。

 風。

 空間すら吸い込まれていると思わせる程の激烈な奔流が、近付くにつれ急激にその流れが強くなる。

 吸引と圧縮と二つの力。

 無理矢理加速し、そして押し潰す。


 ただ前に進むだけでは、何れ周りの大気と同じ運命を辿る事になる。

 そうなる前に、右腕を弾く。


 真横への衝撃が進路を変える。

 最接点を頭上へ。

 軌道経路上に彼女を捉える。

 右腕にまとわりつく『衝撃の一翼』の残滓に細かな鎌鼬(かまいたち)を発生させ無作為に放つ。

 適当な速度しか持たないそれは、すぐに『旋破(エウレダ)』の引力に引きずられ加速。

 それで彼女に手傷を負わせる事は不可能だが、嫌がらせという意味においては無駄ではなかった様だった。


 戯れとはいえ上位殲滅級の術式を発動、制御しなければならなかった彼女が、襲い掛かってくる風刃の鎌鼬を嫌い、反応を見せる。

 強靱な精神力と高度な術式で生成される超高圧縮球の、その小さな固まりを、あろう事か迫り来る鎌鼬へ向けて投げつけた。

 まるで面倒だからと捨て去る様に。


 驚きに瞳が開く。


 ――刹那。

 制作者の手元から離れ安定感を失った球が破ぜた。


 それは圧倒的な破壊力を持った暴風と化し、あらゆる方向に猛威を振るい始める。

 鎌鼬の悪戯が飲み込まれ破刃。

 憎き女神の身へと叩き込むために永く紡いでいた『炸裂の四翼』を咄嗟に眼前へと放つが、向かい来る死の風を押し戻す事など出来ようもなく、一瞬後には壊燼と帰す。


 しかしそれは考えあっての事。

 炸裂させた風は自身の身にも襲い掛かり、予想通りの結果をもたらした。

 破壊の渦へと向かうその身が吹き飛ばされ、後方へと急加速する。

 それによって受けたダメージは決して無視出来るものではないが、確実な死が先に待っている死界に飲み込まれるよりは良い。

 更に自身で加速を促し、そこから必死で逃れる。


 破ぜる空間が圏域を広め続ける。

 時が経てば経つほどそれは大きくなり、同時に威力を削がれていく。

 『炸裂の四翼』を受けた部分の方角にのみ速度を削られ、威力を他の方向へと逸らされたため自身を飲み込もうとする方向の広がりだけが遅くなっていた。

 遠く離れた今、本来は完全に球状になる筈の死の世界はやや歪んだ形になっていたのを視界に捉える。


 それからようやく遅れてやってきたのは、死を喚ぶ暴音。

 破壊が広がる速度が時間と共に失われ、ようやく音の速度が勝ったのだろう。

 未だ世界を飲み込もうと拡散し続ける超高圧縮空間の慣れの果ては猛威を振るい続けるが、遙か高空の何もない世界ではその威力の凄まじさを見せつける事は出来ない。

 ただ見えない風が荒れ狂うだけで、誰もそこが死に満たされている場所とは気付かないだろう。


 雲のない、広大な空だけが広がっていた。


 その死世界の真っ直中を悠然と突き進んでくる女神の姿。

 不適な微笑みを携えた魔女神が何か言葉を発する。

 それは周りに掻き消されて届いては来ない。

 しかし、見慣れた口の動きで、彼女が何を呟いたのかすぐに分かった。


 それは力ある言葉の始まり。

 聖なる風の、真なる一振り。


 闘いの終わりを告げる、最初で最後となる詠唱。

 右手が前に翳され、そこに力が収束していく。

 先に放った『旋破』と比べると明らかに格下とも思える力の奔流。

 しかしそれを知っていた身体が全力で回避しようとする。


 極大のダメージを背負った自身の動きが、イメージしたものから程遠いゆっくりとした動きでその場から逃れようと足掻く。

 だが辺り一面見渡す限り障害物は存在しない。

 姿を隠す雲すらない広大な空。

 例え何かがあったとしても無駄だというのに、藁にでもすがる様に瞳が必死に辺りを走査する。

 逃れられない運命だと分かっていたが、刷り込まれた恐怖に身体が拒否反応を起こし制御を離れて暴走する。

 逃げるために。


 決定的な攻撃を躊躇う事無く、彼女の唇が最後となる言葉を発声。

 空が刹那の間、制止する。

 落胆した顔が浮かんでいたが、それを見ることは当然出来なかった。


 鋭い風の刃が通過する。

 遠く離れた空に浮かぶ女神の腕と、遙か彼方へと向かう自身との距離がまるで存在していないかの様に、それは零とも言える時の間に突き抜けていった。


 音もなく。


 世界がゆっくりと二つに割れていく。


 否、自身の身体が二つへと分かれていく。

 繋がっていた左右の意識が綺麗に寸断され、心が二つに分裂する。

 そう認識しているのは左の自身。

 応答のない右半身に、呆然と現実に起こっている事を傍観していた。


 その視界も、徐々に虚無の白へと染められていく。









 両断されたのだと思い至ったのは、夢から目覚めた後だった。


 眼前で眺めている猫の瞳を、二つある視界が交互に確認する様に閉じて現実を認識する。

 まさにその瞬間に。



「フェイ、目が覚めたー?」



 もう一匹の人型をした猫が頬をつねった。



「――痛いです」



 もう一度、痛みによってそこが現実である事を確認する。

 とても痛かったが、何故か心地良い痛みだった。


 二人と一匹の視線がそれぞれを見つめ、三角形を形取る。

 体感する身体の温もりは少し冷えていた。

 それが徐々につねられた頬の痛みで上昇していく。


 見飽きたのか、猫が欠伸をして視線を外す。



「おはよー、フェイ。良い夢見れたー?」



 寝台の脇に置かれた机の上に置いてあった水差しを手に取り、木杯に水を注ぎ入れる彼女の名前を記憶の中から探り出す。

 決して良い夢ではなかった向こう側から意識を切り替えると、それはすぐに見つかった。

 少し前に口に出して呼んだ記憶もある。



「とても悪い夢が見れました。起こしてくれてありがとうございます、シルミー」



 水を受け取って喉に流し込む。

 温くて喉越しの悪い液体が胃に落ちていく感触に、目覚めが一層に濁る。



「もうお昼ですか?」

「まだ朝だよー、と言うにはそろそろ無理な時間かな? でも、お昼御飯にはちこっと早すぎるかも」

「とすると、朝御飯の方は残念ながら逃してしまった様ですね。あまり朝を抜くと調子が出ないのですが……どうしました?」



 シルミーが少し困った顔を浮かべて目を逸らしたのを発見して問い掛けてみる。



「んと……」



躊躇いがちに。



「食べちゃった」



 少し恥ずかしそうにしてシルミーが言う。

 机の上を見ると、水差しの横に何も乗っていない皿が鎮座していた。


 視線を戻すと、そこには顔を隠している大きな猫の姿。

 迷惑そうに欠伸している仏頂面の顔と、その横から隠れ見える少し頬を紅潮させた可愛らしい少女の照れ顔。



「美味しかったですか?」

「ん~、ちょっと味付けが濃くて私の口には合わなかったかも。調味料が利かせすぎかなー。もっと素材の味を活かした、生に近い新鮮な方が私は好みなんだけどねー」

「私も薄味の方が口に合うのですが、確かにここの料理は大味が多いみたいですね。多少ではありますが気を使っている感じはします。が、やはり客層に偏りがありますのでどうしてもそういう味付けにせざるを得ないのでしょう」



 しかし皿が空になっているという事は、彼女の舌を満足させるだけの魅力があったという事になる。

 重なっている2枚の皿の上には、きっと軽く摘める料理が乗っていたのだろう。

 一つ、摘み食いをして時が経ち、また口元が寂しくなってもう一つ。

 小さな悪魔が何度も微笑み、そしてその尽くに勝利を収めた結果の成れの果て。

 横に佇む満たされていない水差しを見れば、その光景が目に浮かぶ。



「シルミー」



 静かな遅い朝に声が部屋に良く通る。



「今日の私の予定を覚えていますか?」



 見かけによらずよく頭の回る猫が間もなく答える。



「まだ身体の怪我も全部治ってないのに、やっぱり行くの?」

「はい」



 心配する視線を真っ直ぐに見つめ返してハッキリと意思を伝える。

 それが分かっていたのかシルミーは似合わない溜息をゆっくりと吐いた。



「昨日の今日で、また無茶をするんだね」

「性分ですから」

「理由にはなってないよ」



 誰も付いてきて欲しいとは言っていないのに、シルミーの仕度は既に済んでいた。

 摘み食いの対象から免れた携帯保存食の詰まった小さな鞄と、護身用の短剣。

 それが彼女の持ち物全てであり、その全てを手際よく装備していく。


 その動きが唐突に止まる。



「お昼はどうするー?」



 間延びした声。

 しかし重要事の如く、昼にはまだ早い室内に響き渡る。



「さて、どうしましょうか?」



 朝も取っていない胃袋が、懇願の音を鳴らした。

2014.02.12校正

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