第3話 異常の闇
フェイトが、静かにも絶句していた。
この戦場でフェイトがそうなる相手など、いる筈がない。
そしてありえない。
決してそんな筈はない。
フィレスの超感覚による広域探査にも、何ら引っかかるものはなかった。
「何が……起きているのですか?」
しかしフィレスが感じている全ての現実を風の如く流して、フェイトの横顔には驚愕の色が浮かび上がっていた。
弓の構えを解き、フェイトの小柄な身体がゆっくりと後退る。
まるで何かに巻き込まれてしまわない様に、その何かから距離を取り始めた。
その瞳は、ただ一点にのみ注がれ続けている。
フィレスには見えない何かをフェイトは視界におさめていた。
『落ち着いてください、ロー。私の感覚には何も映ってはいません』
刻々と速まっていくフェイトの鼓動に、フィレスの不安もが徐々に大きくなっていく。
だがそれこそあってはならない出来事。
件の不死賢者が現れるなどという最悪の状況は、冗談でも起こりえる事ではない筈だった。
「見えないのですか? あなたには、あれが見えていないのですか?」
腕輪を身に付けている方の腕を前に出す。
そうした所で腕輪に宿っているフィレスには視界が良くなるなどの効果はないのだが、動揺するフェイトには、もはやそれすら忘れている様だった。
風による広域探査では、密度が薄くなっていくほど、つまり広域であればあるほど朧気になってしまう。
それでも人であるフェイトよりは、フィレスはより鮮明に周囲一帯の、遙か遠くの先まで空間状況をとらえる事が出来た。
しかし何もフィレスには感じ取れない。
あらゆる異常が何処にも存在しない。
だが、実際にフェイトはフィレスの感じる事の出来ない異常を感じている。
危険ではあるが、フィレスは広域探査を一端中止し、目の前の見えぬ事象へと感覚を研ぎ澄ませ始めた。
人と同じ様な機能を持った目の様なものを、作り出す――。
月光に照らし出された闇夜の中に、それが徐々に浮かび上がる。
――それは、漆黒に歪む球状の霧。
夜闇よりなお深く――
混沌よりも純粋に彩り――
漆黒の煌めきが如き、仄かなる静謐の園。
その闇は、月の光を受けても大地へと通す事なく、まるで光を吸収しているかの様に黒く浮かび上がっていた。
(これは……まさか――そんな――)
遙か彼方より風が悲鳴をあげる音が聞こえてくる。
より鮮明化された視覚領域に浮かび上がった闇が、フィレスの思考をとらえて離さない。
不気味な迄の、霧。
それが、自然に発生する類のものでは絶対にありえない事はすぐに分かった。
何故なら、それはそこに存在していなかったからである。
風による接触はその空間だけを省いて、ただ反対側に突き抜けるだけ。
触れた瞬間には既に向こう側へと到達していた。
全方位からの圧縮も効果はない。
精神世界からの試みも全て徒労に終わった。
次元断層すらそこだけを避けてしまう。
空間そのものが、現実との繋がりをまるで持っていなかった。
つまり、それは【無】に他ならない。
存在なき存在。
零の領域
虚無の世界。
あらゆるものが決して交わる事の出来ない、矛盾する空域。
その闇の空間は、そう考える事で最も辻褄のあう特徴を持っていた。
(しかし、どうしてそんなものが此処に……)
風が世界を切る音が徐々に大きくなってくる。
唇を堅く結び、フェイトは手に魔力を集め始めていた。
その質は、剛く厚い。
攻撃手のそれではない。
何が起こるのか分からないために……防御壁を構築するために編まれたものだった。
フィレスの天恵の守護と合わせて、それを多重に前方へと展開する。
額にうっすらと汗をかいていた。
緊張によるものと、七翼をも上回る不得手の魔法を扱っている事によるものと、両方の理由で。
詠唱なき高位呪印式による名もなき『八翼の盾』が多重発動し続ける。
その気になればもっと高位の魔法障壁を作り出せる筈なのだが、短時間と限定した場合、フェイトの今の実力では多重構築の方が防御壁の強度は高い。
狭い空域に超圧縮され続ける大気が、ギシギシといって軋む。
遠い空気の亀裂音は、高音域で鳴り続けていた。
その合間にも、闇は沈黙を保ち続け、世界の狭間に座し続ける。
それが驚異となるのか。
それとも【無】の気まぐれであるのか。
まるで見えてこない予感に、フィレスはただ黙って事の成り行きを見守り続ける。
その思考の中では、あらゆる記憶が呼び起こされ、どう対処すべきかを検討してはずっとその答えを出せないままでいる。
フェイトに与える助言すらそこにはなんら浮かんではこない。
逃げるという選択肢すら、直感で最悪の悪手にも感じてしまう。
その黙するフィレスに、全ての判断が自らに託されたものとフェイトは勘違いしていた。
まるで見えているそれが本当は目の錯覚か幻覚なのでは、という思いが頭の中を巡る。
何故かは分からないが、最大限の備えは取っておくべきだという予感がしたため、防御壁の構築作業だけは全身全霊で行い続けた。
これほど一生懸命に自らを守ろうとした事は今まで一度もない。
フィレスに半殺しにされた時ですら、ここまで一生懸命ではなかった。
意識が、戦場へと赴く前の時よりも遙かに拡大している。
それこそ、かつてない程の感情の高まり。
想定していたものよりも遙かに凌駕する、自身が持つ感情の形。
爽天の聖姫が守護せしこの身を襲うもの。
それがいったい何なのかは分からなかった。
ただ、それが今一時の感情ではない事だけはよくわかる。
焦る気持ちを抑えきれず、自然と高速呪印式は更に加速していった。
消費されていく魔力量は既に限界へと近づいている。
この身を奮わせる程の驚異の予感の赴くままに大気を練り、より強くそれを拒むために風の力を集め続けた。
疲れがいつにもまして襲ってくる。
自分の力を過小評価する訳ではないが、それでも足りない気がしてならなかった。
防御の法術はいつもフィレスが行ってくれていたため、彼女が敵になった時以外にはそれほど熱心に使った事はない。
攻撃に長けていたのは、そういう理由があったからだ。
その事について深く考えた事はない。
一心不乱に呪印を紡ぎ、思考は時が経つに連れて警告の色ばかりを強くする。
闇は、まだそこに鎮座していた。
しかし――。
その予感は、目の前の不可思議な闇から来るものではない事だけはハッキリとしていた。
瞳は目の前にある闇の領域に向けられてはいるが、意識がそこに集中する事はない。
それは、もっと別の何かを大きく警戒していた。
「――あれは、人……?」
故に、そこから人が出てきたとしても、フェイトはそれほど驚く事はなかった。
『上です、ロー!』
2013.04.13校正
2014.02.13校正