第28話 死狼の咆哮
「さて……」
とりあえず、強襲の第一撃目は回避する事は出来た。
だが、もっと音便な手をうってくるかと思っていたが、予想以上の大物を送り込んできたのは計算外だったか。
その一番の大物を相手にする事となった若き導士の姿を見る。
二撃目の奇襲に遅れを取ったローは、踊り子シルミーの防御結界に守られながら詠唱をしている所だった。
その顔に焦りはない。
あの巨体と異様を前にして全く臆していないのは、やはり実経験からくるものだろうか?
あわや死にかけ、自らよりも何倍も大きな竜を前にしてなお怯む様子がないその強靱な心が実に羨ましい。
そんな回りを気にしている余裕を持っている俺も、少しは強い心を持っているのかもしれない。
いや、こちらはただの現実逃避。
目の前を見る。
そこには毛に覆われた巨体があった。
大きな瞳がこちらに向けられ、口から鋭い牙をみせながら、奴は今にも襲い掛かりそうな体勢下にある。
その前足で一薙すれば俺の身体は大きな爪に引き裂かれバラバラになり、大きく口を開けて噛み付かれでもしたら俺の身体は間違いなく二つに寸断され噛み砕かれてしまうだろう。
「いったいこれを俺にどうしろと言うのか……」
構える事すら馬鹿だと思えるぐらいの、体格差。
巨犬というよりは、巨狼と称した方がしっくりくる。
ただ違うのは、その瞳が生きてはいない事。
損傷を負って曲がっている後ろ足に、空洞と化した内臓。
俺の目の前にいる敵は、巨大な死狼だった。
既にこちらは奴の間合いに入っている。その巨体故に間合いも大きい。
だが反対に、俺の方の間合いからはまだ幾分も遠かった。
縮地の瞬足歩行術でも使えれば問題ない距離だが、そんな体術が使える訳がある筈もない。
まともな戦闘術すらも持っていないこの身で、何をどうすれば太刀打ちできるというのか。
取る事の出来る手はたった一つ。
運を天に任せて逃げ続け、仲間が早く助けに入ってくれる事を祈るだけだった。
「――私が怖いか、小僧」
「っ!?」
死を前にして、遂に幻聴が聞こえ始めたか。
「くはははっ! 我が身が朽ち、死してより幾年月を経ても、恐怖する人のその哀れなる姿はなんと愉快な事かっ!」
その声は、咆哮となってこの身を吹き飛ばした。
突然に自らの身を軽々と吹き飛ばしたその衝撃波になす術なく山の斜面を背中で削る。
咄嗟に何かを掴もうとして伸ばした腕は空振っただけで何も掴む事はなかった。
落ち葉と枯れ葉の絨毯に一筋の道が出来上がる。
「幻聴……ではないみたいだな」
無様な醜態を晒す姿勢を一刻でも早く直すために、勢いをつけて立ち上がる。
その勢いを利用して木の陰へと隠れ込む。
「ハっハっ! それで我が前より隠れたつもりか!」
笑撃の咆哮が目の前の木を撃つ。
ミシミシという嫌な音。
流石に咆哮では大木が折れる事はなかった。
ならば次に来るのは物理的な攻撃。
間近まで迫っている死を前に恐怖している身体を奮い立たせ、震える足に鞭をうって後方に跳躍する。
大木から身体が離れるごとに、大木によって遮られていた向こう側の視界が広がっていく。
大地を蹴る音。
大気が無理矢理に押しのけられ、風が鳴る。
見えざる敵の見えない動き。
大木の死角からはみ出た敵の巨体が高速で迫ってくる。
その左前足だけが特に良く見えていた。
鋭い爪が大地に突き刺さり、力強く凪ぐ。
まるで目の前にある大木を取るに足らない障害物だといわんばかりに、それは激突した。
巨木の胴があっさりと砕け折れ、巨狼が姿をその先に現す。
「フフンっ! 死ね、小僧」
嘲笑と死の宣告。
重力の呪縛に従い倒れ落ちてくる木よりも早く巨狼の足が大地を再び蹴り、折れた大木の株を大きく飛び越える。
足裏が、その先に鋭く尖った爪が、弧を描いて襲い来る。
息吐く暇のない巨狼の攻撃に、予測と観測は追いつけても身体が追いつかない。
真っ直ぐ突き向かってくる爪撃を受け止める鋼鉄の盾もないので、取るべき道はただ一つ回避のみ。
だが鍛えられていない身体がいうことを聞く筈もなく、物理法則に抗うよう命じられた足が必死に藻掻くだけだった。
ほぼ真横への飛翔から降下へと軌道が変化した事実を、横へと逃れようと身を捻る自身の脳は他人事の如く瞳をそらさない。
いや、そらせない。
迫り来る爪先の一つ一つのどれを取っても、この身を貫くのには十分すぎる程の速力と鋭度を持っていた。
死の、それに至る前の瞬間。
考える時間など既になく、脳から伝えられる命令ももう間に合わない。
生と死と、生から死へと至る時間と、それを認識する時間が、この身に降りかかった。
そのどれを最初に脳が味わうのか。
「ほぅ……」
濁った声が耳に届く。
巨狼が発した言葉を、脳は最初に認識していた。
「遊ぶ価値もない。クククっ、ひと思いに楽にしてやろうとしたのだが、愉快なり。ああ、実に愉快なり。くはははっ! 存外としぶとい小僧だっ!」
気が付くと、辛うじて爪と爪の間に身を潜ませ、刺し貫かれる事だけは免れていた。
反射の動作と、僅かに拾う事の出来た幸運。
「が……ぐあぁあっ!」
しかし喜びを感じる暇もなく、巨狼の前足に下敷きとなった身体が悲鳴をあげはじめる。
避けたのは致命傷の爪撃だけであり、巨体の体重がのった前足の一撃を受け止めた肉体が無傷である訳がなかった。
「そうだっ! その喜びの悲鳴、もっと我に聞かせてくれっ!」
得物を下敷きにしている事に気が付いた死狼が、その体重を徐々に前足へと掛けて得物が苦しむ姿を増長させる。
させられる身となった自身には、その状況をどうする事も出来ないのは考えるまでもなかった。
少しばかり柔らかかった地面が、その苦しみを永くさせる。
潰され軋む肉体。
骨の内より悲鳴が鳴り、苦鳴の声は潰されていく肺にすぐに出なくなっていった。
呼吸もする事の出来ない無酸素状態が続く。
だが意識だけがハッキリとしていた。
形は変わってしまったが、生から死へと至る時間の惨劇。
それをじっくりと認識する事となった我が身の運命を思う。
これは呪うべき運命なのか、と。
無駄に天の邪鬼な性格が一般的な思考を否定する。
目前に迫った死という現実から逃避する生存本能。
霞む視界の中で、葉の隙間から差し込む陽光が乱射する。
瞳が濡れているのは悲しさからか、それとも苦しさからくる涙か。
この死の瞬間を前にして脳裏に浮かんだのは、一人の少女の姿だった。
一度も表情を浮かばせる事のなかった寡黙な占星術士リーブラの色のない眼差し。
映る物を見ていない、まるで彼方にある夜空の星々を眺めているかの様な印象を受ける小さな顔に二つ配置された蒼星の瞳。
その綺麗な瞳を周囲から隠す様に深く被った藍色のローブ。
その中に隠されてしまうものの中に、透き通るような銀色の髪もあった。
柔らかく、いつまでも撫でていたいと思ったあの時の感触が甦ってくる。
たった五日間の付き合いではあったが、彼女は我が愛しき娘。
自身の心を奪った麗しの星の聖者。
「…ィ…………ラ……」
最も焦がれた救いの女神は、しかし奴等と共に現れた第三者によって、その行動を遮られていた。
「――まずは一人、チェックメイトだ」
聞こえてくる言葉が冷たく響く。
瞳にはもう奴の姿を映す光もなくなっていた。
言葉が僅かに届いたのみ。
一思いに殺すと言っていた巨狼が得物をいたぶる趣味を持ち合わせていたのが幸運と呼べるのか。
死の一歩か二歩手前あたりで締め付けを止めた、半殺しの状態が続く。
ほんの僅かな呼吸を許されては、命と苦痛が伸ばされる。
「先に逝く者に、何か伝えておきたい言葉はあるか?」
慈悲の欠片もない、
優越と悪趣味から来る台詞。
そして言葉は何も伝えられてこない、予想通りの沈黙の解答。
「ならば、これから逝く御前は何か残しておきたい言葉はあるか?」
ある筈もない。
そもそも、リーブラはそんな事に思考を巡らせる事が出来るほど感情を持っているのだろうか。
「冷たい奴だ」
冷たいのではなく、温もりを持っていないだけの事。
今まさに死を迎えようとしている俺の事を、リーブラはただ現実として捉えているだけに過ぎない。
危機に陥っている俺を助ける気はあってもそれは感情からくる意識ではなく、生死の優先順位と敵味方識別、及び一般的な思考想定に基づく論理の結論であって、そこにはほんの僅かな欠片の感情しか籠もっていない。
必然性がなく、生きていて欲しいと思う渇望と死んで欲しくないと思う拒絶という強い感情をどこかに置き忘れてしまった少女は、目の前にある現実を空虚に認識する人形だった。
時々見せる思わぬ反応は、室内で声が木霊する様に、ただ周囲の状況に対して偶発的に起こる木霊の様な現象で、そこに彼女の意思はほとんど内包されていない。
「殺せ、ウルボロス」
第三者からの、殺人の指令。
ウルボロスと呼ばれた死狼が薄く笑う。
圧殺死する光景が浮かぶ。
ウルボロスの前足の下から一度だけ勢いよく血が飛沫き、そして血の海がゆっくりと広がっていく映像。
それを見ても何も感じいる事のなかったリーブラの姿。
何事もなかったかの様に、その視線が外される。
「我に命令するな」
だがその未来はまだやってこない様だった。
何を思ったのか、ウルボロスの前足がゆっくりと上げられていく。
そこからは一切の笑みが消え、代わりに不快の意思を表していた。
刹那、強烈な痛みが俺の全身を襲う。
圧力を掛けられ続ける事によって麻痺していた機能が息を吹き返し始めたからだ。
生きている証ともいえる痛みという刺激が一斉に脳へと届けられ、急激な脳への負荷は一瞬にして処理限界を超えて、今度は脳の機能を麻痺させる。
僅かコンマ数秒の間、視界が回復し瞳の映像が脳に映った次の瞬間、映像が真っ白に染まった後すぐにブラックアウトした。
闇に閉ざされた無明の時が流れる。
五感全てが機能を停止し、あるのは思考すらも停止した意識のみを認識するだけの時間。
意識を失った事を認識していながら、認識している意識そのものがないという矛盾した虚空の狭間。
そして目覚めた時、世界は予想以上の時が流れた後だった。
「……目が覚めましたか?」
まだ完全に機能を回復しきれていない耳に遠く届いたのは、若い少年の声。
「あまり永くは保ちません。動ける様でしたら早くそこから逃げてください。正面から受け続けるのはキツイの、でっ!」
言葉が言い終わる瞬間、大地が鳴動した。
遅れて、聞き覚えのある轟声が鼓膜を強く打つ。
衝撃の咆哮。
続けて回復した視野が確認したのは、死の色に彩る霧の息吹の壁。
何かによって遮られたそれは、不可視の壁に沿って四方へと流れ、その先にある物の尽くを腐敗と融解していた。
酷い惨状だった。
不愉快な光景を目覚めに目にして、身体中が恐怖に竦む。
全身から流れ落ちていく汗。
死を前にした緊張からくる体温の異常上昇からくるものではなく、それは体感からくる発干だった。
時折に炎をあげる死竜の息吹に熱され、周囲の温度が砂漠の猛暑を軽く超える高熱地獄と化している事に気付く。
座っている事すら困難な大地に、ようやく触覚を思い出した身体が熱の痛み告げる。
見ると既に手の平は火傷によって皮膚が紅く染まっていた。
「どこへ逃げればいい?」
爆動する心の鼓動を必死に落ち着かせながら、なんとか冷静さを呼び起こし思考を紡ぎ出す。
体感ではほんの僅かな時間の意識の喪失でも、現実時間ではそうとは限らない。
少なくとも、知っている戦況ではある筈もない。
戦況を理解していない者が勘を頼りに動いても好転する確率は低い。
「合図をしましたら【火】の方角へ走って下さい。暫く行けばシルミーがいる筈です」
眼前の少年の声から耳を疑う様な応えが届けられる。
窮地の状況に、脳が回転する。
火のある方角へ走るとは、何故か。
自殺の如く、死の蔓延する世界へと突撃する事をこの少年は指示してきた。
普通ならば、そんな指示には従えない。
そこで気が付く。
後ろを向いているのと目覚めたばかりで脳が巧く機能していなかったために気付くのが遅れたが、目の前で俺の身を守ってくれているのはローだった。
ならば目の前で灼熱する毒霧を防いでいるのは、風の障壁か。
更に脳が回転し、ローの策を読む。
例え、後ろに逃げたとしても、広範囲に渡って攻撃を行う事の出来る死狼ウルボロスの咆哮と、まだ名も知らぬ死竜の息吹から俺が逃げおおせる事はまず無理だろう。
片方が相手ならば、ローであればどうにか俺が逃げ延びる時間ぐらいは稼げるだろうが、二体ともなると流石に難しい。
頼みの綱のリーブラは、恐らくまだ知らぬ第三者の牽制を受けて足止め下にある。
シルミーがこの場にいない事は先程のローの言動からも分かる通りであり、参戦は期待できないのかもしれない。
猫である彼女は、犬の様なウルボロスを嫌って戦線を離脱したのだろうか。
もしくは奇襲を狙って身を潜めているか。
どちらにしても、今この場ではロー以外の力は期待出来そうもなかった。
ならば、どうして俺に前へ走れと言ったのか。
導き出せる策は、反撃。
合図と共に風の刃で前方の灼熱する息吹を斬り裂いて道を作り、死竜へと一撃を浴びせる。
同時に風で俺の通る道を確保し、闇紫色に澱む息吹を霧散させて目眩ましとする。
犬お得意の嗅覚による感知は、毒霧の濃度が強すぎてほぼ働かないといっていい。
また、まさか自ら毒霧の中へと突っ込むとは流石に敵も予想していないだろう事からくる逆手の策にもなっている。
後は牽制の一撃でもウルボロスに放ち、意識をローの方へと向けさせてしまえば、俺が逃げおおせる可能性は更に高くなる。
ここで一番の問題といえば、死竜の横を突っ切らなければならない事だろう。
真正面からの一撃を死竜がまともに受ければ吉。
ウルボロス程の機動性はないとは思うが、相手は不死者。
生の呪縛から解放された肉体には無意識下の力の制限はない。
痛みを感じる事もないので、身体が壊れる事も構わず目一杯に筋肉を使用する事が出来る。
巨体とは言え、その内に秘めた筋肉がまだ生前の力を保っているならば、警戒しておかなければならい。
その件を差し引いても、賭けの一手としては決して悪くはなかった。
いや、そう思う事にする。
失敗した時のリスクは、面倒だから無視する。
「――わかった。火の方向だな」
了承の意を伝える。
頷く事はしない。
敵がこちらを観察しているかもしれないので出来るだけ自然を装う。
同時に、危機に面して慌てている様な素振りをほんの少しだけ見せた。
落ち着かないように周囲を伺い、後ろへと少しずつ後ずさりする。
衝撃が風の防御結界を襲う。
その瞬間のみ死の息吹が霧散し、視界が僅かに開ける。
死竜の先、十時の方角に奴の姿があった。
怒りに歪んだ形相。
閉じられた左目の瞼には大きな傷があり、黒い血の涙が流れている。
負傷はローによるものだろう。
ウルボロスが口を開け、一瞬だけ牙を見せる。
吼えた。
と思った時にはウルボロスの姿は向かってきた衝撃波に掻き消され、それを脳で認識した時には大地が鳴動していた。
衝撃に空気が弾け、全身がビリビリと震える。
後ずさるまでもなく、衝撃波の余波がこの身をずずっと後退させる。
風の障壁をもう維持できそうにもないというのは、どうやら偽りではない様だった。
再び死竜の息吹によって視界が闇に閉ざされる。
「蒼き白き門、遠く深く澄み渡る空の境界。
白き蒼き門、深く遠く透き通る風の境界」
聖術……か?
ローが詠唱を開始する。
「蒼き白き空、清く彩りし静謐なる西の門。
白き蒼き風、浄く彩りし優雅なる西の風」
雑音の無い透き通った言葉は小声にも関わらず耳に届いてくる。
一音一音丁寧にハッキリと発せられる詠唱は思いのほか口早で、まるで世界から切り離された音楽の如く。
聞き慣れない音色に心が奪われ集中力が乱される。
「白き翼の舞い、白き羽の舞う天空の乙女。
清き翼の舞い、深き羽ばたきで天空を駆ける聖なる乙女」
俺の知識として知る詠唱の、そのどれよりも長く。
優しく丁寧に紡がれていく力の奔流。
「其は爽天の名なを継ぎし風の聖姫。
麗しき翼を持ちし西の精霊王」
淡く灯る右手。
光すら遮る竜の息吹によって少しだけ暗闇に近い状態だったからこそ見る事の出来た超常の現象。
これこそが、具現化した聖なる力。
仄かに輝く左手。
聖なる術の清き彩りは、まるで周囲の気温が下がっていく様に、見ているだけで心を静かに落ち着かせていく。
「我、蒼き空を想う」
震える大気に木霊する唱音。
ローの発する声が、四方の障壁に反射し重なりあう。
「我、蒼の夢に願う」
天へと翳される左腕。
伸ばされる指は内の二本。
斜めに降り降ろされ、光の残影が軌跡を生む。
優雅な下円の弧を描き右へ。
真下にきた所で上へと跳ね上がる。
右手と合流し、左右へとそれぞれが軌跡を生む。
左腕が止まる。
右腕が半ばまで進んだ後、斜め上へと軌道を変えて始点へと繋がる。
「風よ……」
右の指が、ゆっくりと前へと振り下ろされる。
左の指が、ゆっくりと前へと軌跡を描く。
「我が手に集いて形と成せ」
その時が来たのが俺にもすぐに分かった。
長き詠唱により紡がれた巨大な力が、今、ハッキリと形になろうとしている。
蒼い風景が小さき世界を覆う。
今にも消えてしまいそうな風の障壁によって形成された安全区域、小さな球状内に広がる強き想いが一点へ向けて収束を始める。
数度に分けて、徐々に世界を染める蒼い風景が色褪せていく。
それと同時に輝きを増していく指先。
人差し指と中指の合流地点の先。
点にも等しき光球へと吸い込まれていく世界。
それまで集中のために閉じられていたローの瞳が開く。
大地を踏みしめる足に力を込める。
熱せられ肌を焼く漆黒のブーツ。
灼熱に奪われた体力がその重みを苦とするが、今は考えない様にする。
意識をクールに。
向かうべき方向のみに視界を絞る。
熱も音も聞こえなくなる程に、感覚を研ぎ澄ます。
――そして視界を閉じた。
来る……。
「聖恵、蒼翼天翔!」
刹那、力ある言葉と共にローの周囲で空間が大きく弾けた。
四指の先端で聖色に輝いていた光が僅かに前へと進み、突然に膨張する。
膨らんだ光はすぐに風の障壁を飛び越え、その先にある竜の息吹を飲み込んでいった。
「今です!」
その合図を掛けられる前に、既に俺は加速を開始していた。
初動で大地を力強く蹴り自重を一時的に殺す。
零へと近付いた身体に続く踏み足で加速を掛け、ローの横を駆け抜ける。
意識は前にだけ向ける。
ローの方には振り向かない。
相殺しきれなかったブーツの重みが足に掛かる。
膝蹴りをする様に右足を無理矢理に前へ。
左上半身を降る。
触る事が出来ないと分かっていても、空気に左手を引っかけ身体を前へと押し出す。
錯覚だ。
一瞬ためた後、右足で再び大地を蹴り、反動で右腕を殴る様に前へと突き出す。
眼前の視界は見事に晴れ渡っていた。
構わず、最終防衛ラインであった風の障壁を越えて外の世界へとこの身を晒す。
視界に火が見えた。
竜の口元に、ローの放った聖術の浄化を免れた喉奥の炎がちらつく。
今にも解き放たれそうな猛毒の業火。
脆きこの身を一瞬で焦がし尽くす絶命への序曲。
竜が吐く息は、止まった訳ではなかった。
ただ一瞬のみ、吐き出された不浄なる炎が浄化されて消えたのみ。
怯んだ様子もない。
開け放たれた竜口からは今もなお息吹は勢いよく放たれて続け、その息吹が向かう先は当然の如く変わってはいなかった。
回避は、確認するまでもなく間に合う筈がない。
策を読み違えた事と、その結果の絶望的な状況を認識する。
そして――。
業火に焼かれ、滅び逝くこの身。
全身を真正面から炙られ、炭化した瞼の奥で瞳が融解していく。
肌はパリパリと割れて弾け飛び、息吹の風速に耐えきれず右腕が肩口からボリっともげた。
溶け落ちた皮膚が両足を大地に縫い固め、後ろ側にあった右足が脛の部分で折れる。
だが身体中が硬化していたために倒れる事はなく、そのまま闇紫色の炎に焼かれながら毒に浸食され、そして向かい風の息吹によって身体が端から削られていく。
そして最後に残ったのは、最も燃え難かった骨。
それすらもすぐに毒によって脆くなり、息吹によって削り砕かれた。
そこに命など残っている筈もない。
――その未来を、認める訳にはいかない。
なす術のない状況下で、強き思いが沸き上がる。
死を受け入れる気などない。
本心から望む、生への渇望。
絶望に足掻く理性と本能。
我は、死なぬ。
隠していた本性が垣間入出る。
無駄であると分かっていても、それを認める事が出来ない理性と、純粋に生のみを求める本能。
思いだけがどこまでも強く。
どこまでも強く求める。
叫びたかった。
全てを解き放ちたかった。
死に逝く己が出来る、最後の咆哮。
全身全霊を掛けた、無情なる現実への訴え。
だが、出来なかった。
この期に及んでも消す事の出来なかった心そのものが、諦めるにも等しいその行為を否定する。
目前まで死の炎が迫っていてもなお、生への可能性を考え続ける悪足掻きが本能と本性を押さえつけ、まるで他人事の様に冷ややかな理性を保ち続ける。
悪く言い換えれば、理性が現実から逃避していた。
そして――。
2014.02.12校正




