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不死賢者の迷宮  作者: 漆之黒褐
第弐章
27/115

第26話 朝の憂鬱な一時

 寒い……。

 あれほど暖かかった人肌が、今はもう遠い場所へと行ってしまった。

 

 人肌が恋しい。

 朝の早い内に、俺がまだ求める声も聞かず、ウィチアは仕事だと言って部屋を出て行った。

 昨日の夜の事が嘘だったかの様に、その部屋には俺一人しか今はいない。

 それ以上その部屋にいる事が何だか寂しく思えたので、俺は本来自分が寝ているべき部屋の寝台に足を運ぶ。


 眠たい頭を働かせ、一つ下の階下へと降りて部屋の扉を開ける。

 まだ薄暗い時間。

 彷徨う腐死者(ドレッドゾンビ)よりは素早く、しかし放浪の骸骨戦士スケルトンウォーリアーよりは遅く、寝台へと近付いていく。

 毛布に手を掛け、潜り込む。


 何故か暖かかった。

 そして良い匂いがする。

 それはウィチアの香りとは異なる、また甘美な匂い。


 脳がその薄い香りに感化され、より一層に眠りへと誘われる。

 すぐ近くで何か動いた様な気がしたが、疲れて寝ていない脳が睡眠を強欲に欲したので、その事を考えるのは後回しにしよう。

 起きてからだ。


 《欲望解放》の呪いの効果は睡眠欲にまで及んでいるのか、凄い勢いで意識が沈んでいく。

 心地良い気怠さが、それを後押しする。


 しかし、寒い。

 温もりを求めて、手が毛布の中を進む。

 枕でもないだろうか。

 抱き枕が欲しい。


 するとその願いが通じたのか、とても暖かくて柔らかい何かが見つかった。

 すぐに抱き寄せて、めいいっぱいに抱き着く。

 ああ……暖かい。

 これは何だろう?

 まぁ、それを考えるのは起きてからでいいか……。








「起きる」



 抑揚の無い声。

 勿論、俺の声ではない。


 誰に対して言ったのか。

 そもそも、前後もなくただ動詞のみを言葉にする事でいったい何を伝えたいのだろう。


 不自然な言葉。

 そのままではやはり意味の通らない言葉なのだが、ただ発音しただけにも関わらずその言葉は何故か強い強制力を持って俺の耳に届いた。

 完結した動詞が命令語に聞こえる。


 抵抗は無意味だ。

 だが、目覚めたばかりの者だけが得る事の出来る至福の時をむざむざ手放す訳にはいかない。

 二度寝こそ真の眠り。

 起床すべき理由がある時にはその代償に見合うだけの幸福が約束されていると言っていい。

 まさに背徳の睡眠。


 堕落をも厭わない。

 睡魔の誘いに抗う意思は心のどこにも浮かんでこない。

 少し眠ったので、少し頭が元気になっているが、俺はまだ目を開けるつもりはない。


 眠い。

 寝よう。

 二度寝に入るとしよう。



「ダメ」



 しかし無理だった。

 阻止された。

 身体が何だか重い。

 ちょっと苦しい。


 声は先程よりも遥かに近い所から聞こえていた。

 抑揚の無い声。

 女性の音色。

 まだ成熟しきっていない清んだ旋律。

 聞き覚えのある独特の発音と、その内に潜む不思議な強制力。


 たった二文字の言葉と十中八九実力行使に出たが故の身体上の重みに、敢え無く俺は降参する事にした。

 重い。

 苦しい。

 辛い。



「眠い……」

「ダメ」



 最後の望みが即答で却下される。



「寝かせない」



 瞳を開けると、見知った少女の顔がアップで目の前に存在した。

 声が間近で聞こえたのはそれが原因だろう。

 これだけ近ければボソッと呟いただけでもハッキリ耳に届いてしまう。


 その感情の見えない顔から繋がっている少女の四肢は、予想通り俺の身体の上に乗っていた。

 ちょうどお腹の付近で正座立ちに足を乗せ、手は胸の上辺りに置かれている。

 四つん這い状態で、少女は全体重で俺に乗っかっていた。



「重い……」



 小柄な体格。

 当然、少女は軽い。

 だからといって全体重を腹部と胸部に預けられては流石に辛いものがある。

 耐えられない訳ではないが、耐える意味がない。



「起きる」

「……起き上がれない」



 俺の屁理屈に、少女の顔に怒りの色が僅かに浮かぶ。

 いや、気のせいだろう。

 相も変わらずに少女は感情の無い色を浮かべている。

 欠落した表情。

 出会ってからというもの、一度も笑顔を見せた事のない固定された世界。


 少女の名はリーブラといった。

 ほとんど役に立たない無駄な記憶の中で、それは有名な星座の名前の一つだという事を俺は知っている。

 天秤の名を冠する宮、星のリーブラ。

 少女が持つ名にしては少し格好良く、それでいて少し可愛さが足りない名。

 だが占星術士?という彼女の職業からすればこれほど似合う名はないだろう。

 それが生まれる前から親によって宿命付けられた名でなければの話だが。


 少しばかり思考に沈んだ俺の瞳をリーブラの瞳がじーっと眺めていた。

 気がついて、折角だからそのままら少し眺め返してみる。


 目を合わせる事に慣れていない俺はすぐに耐えられなくなって視線をそこから外した。



「起きる」



 これで何度目になるのか。

 にらめっこで負けた瞬間に再びリーブラの言葉が飛ぶ。


 仕方なく、俺はリーブラの身体ごと上体をゆっくりと起こしていった。

 左手でリーブラを支え右手で背後の寝台を押す。

 上体の傾斜が急斜面になっていくごとにリーブラの身体がずるずると足の方へとずれていく。

 リーブラの小柄な身体は予想以上に軽く、意外と簡単に上体を起こす事が出来た。

 胡坐をかいて、その上に腹部から降りてきたリーブラの身体を落とす。

 その身体が安定した所で、俺は大きく伸びをした。



「んっ……おはよう、リーブラ」



 欠伸を一つ。

 身体全体に刺激を与えて起床の時を告げる。

 だるい。

 まだ身体は睡眠を要求している様だ。


 俺がようやく起きた事に満足したのか、リーブラが俺から降りて立ち上がる。

 代わりに寝台の横でその時を待っていたのか、猫が一匹寝台に飛び上がって枕元を占拠した。

 俺が再び横になってしまわない様にリーブラが手をうっていたのだろうか?


 少し驚いていた俺の顔を見て猫がニヤッと笑い、そのままゆっくりと眠りに落ちていく。

 いや、笑ったのはきっときのせいだろう。


 戯れに、にゃーと言って話しかけてみたが無視された。

 少し寂しい。









「――シルミー。起きてください、朝ですよ」



 どうしていつも僕は彼女を起こさないといけないのだろう?


 二つある寝台のうち、窓際にある日当たりの良い方を占拠して気持ちよさそうに寝ている彼女の身体を、僕はゆさゆさと揺さぶって目覚めを促す。

 行儀正しく、と見るには無理がある悩ましい姿勢で隣の寝台から奪い取ったらしき枕を胸に抱いて、彼女は今日も深い眠りに入ったままこちら側に帰ってこない。

 きっと僕の声は彼女の夢の中には届いていない。


 猫の様な耳はパタッと閉じられて外界からの音を遮断していた。

 それでも声を掛けるのは、一応の礼儀として。

 以前、とある別の女性に――と言っても師匠の事だが――声よりも先に身体を揺さぶって起こそうとしたら、見事に殺されかけた事がある。

 朝になったら起こしてくれと言われたので、その通りに起こそうとして本当に死に掛けた。

 本人曰く、扉をノックする事と同じらしい。

 何が同じなのだろう?


 とはいえ、その女性――師匠が特別なだけで、シルミーに限っては間違っても殺されそうになるという事はない筈だ。

 でも、一応は女性に対する礼儀の一つとして、僕はそれを心に刻んでいる。



「早くしないと朝御飯が逃げてしまいますよ。もうお日様もすっかり昇ってしまってます。今日は良い天気ですから、きっと気持ちの良い風が吹いているんじゃないでしょうか。美味しい朝御飯を食べたら軽く散歩してみるのも良いかもしれませんね」



 朝御飯、という言葉を聞いて良い夢でも見はじめたのか、シルミーのお尻あたりから出ている猫に似た細長い尻尾が揺れ動く。

 パタパタとは動かないのは犬じゃないからだろう。

 そういえばさっきまで彼女の隣でスヤスヤと気持ちよさそうに寝息をかいていた猫の姿がいつのまにか見えなくなっていた。

 この宿に住み着いている猫みたいなのだが、誰ともしれない宿泊客がいる部屋に忍び込んでは、好き勝手に寝床を選んで寝るのは止めて欲しい。

 それも気に入った相手の側をうろついているのは明白で、そのほとんどが女性なのだからきっと雄なのだろう。

 なかなかの道楽ぶりだ。


 三度目となる目覚ましも徒労に終わる。

 四度目、五度目と続けてもきっと彼女が起きる事はない。

 シルミーの睡眠を妨げるにはアイテムが必要だという事は経験上既に分かっていた事だ。

 それでも、アイテムなしで起こそうとするのはやはり礼儀に他ならない。


 結局、今日も数度の呼び掛けと揺り起こしは徒労に終わる事となった。


 深い眠りに落ちたままのシルミーを残して僕は部屋を出る。

 シルミーを目覚めさせる事の出来るアイテムを求めて。



「よう」



 部屋を出た途端、叩き付けるような挨拶が飛んできた。


 振り向くと、そこには全身黒ずくめの青年。

 万屋で異彩を放っていたのを見た憶えがある異国の服を着た男性が、隣の部屋から出てくる所だった。

 僅かに遅れて、彼の後ろから小さな人影が出てくる。

 こちらは頭から下まで全身をすっぽりと覆う黒のローブを羽織っていて顔も見えない。


 記憶にある二人。


 束の間の隣人同士。

 出会い頭の挨拶ぐらい交わしても全然おかしくはない。

 とりあえず外向けの顔で挨拶を返しておけば大丈夫だろう。



「おはようございます」



 いつもの笑顔で挨拶を返すと、青年は満足したのかそのまま僕の前を通り過ぎて階段へと向かった。

 彼が歩く度に木造の床が大きくゴトゴトと鳴る。

 服装は布地でとても軽装なのにも関わらず、履いているブーツだけが重りでも入っているのか重量装備になっている。

 しかし見た目には革製なので、金属靴の様に重さを代償に防御面で優れている訳でもない。

 脚撃の威力を上げるためと考えるならば、彼の戦闘スタイルは武器を持たない足技重視の武闘術。

 ただ、見た感じでは身体の方が全く出来上がってなかったので、案外【地】の法術使い、もしくは僕と同じ導士の位を持っている人なのかもしれない――とも思えないので、単なる一般人が最有力候補。


 だけど、此処にいる時点でその選択肢はないと考えていいので、結論として僕の見立ては『なんだか分からない黒い人』だった。


 見た目の印象で力量を読めない人は珍しくない。

 努めてそういう風に装っている人も少なくはない。


 何故そんな事をするのかと聞かれれば、質問した方が恥ずかしく思ってしまう程に単純で明確な理由が答えとして返ってくる。

 真面目に答えるのも馬鹿らしくて笑われるのが目に見えている問い。

 そんな質問をする人は余程に世間から浮世離れしている者か、天然の才を持ち合わせた変わり種と見なされてもおかしくはない。


 理由は至極単純。

 それは誰もが望んでいる当たり前の解答。

 極端だが言葉で言い表すならこんな言葉が適当だと僕は考えている。


 生きていたいから。


 そんな願いとも言えない望み――今この大陸はそれすらも難しい時代の最中にあった。


 例えば、僕の目の前を通り過ぎていった青年は、もしかしたら明日僕の事を殺しにくるかもしれない。

 それは私怨でも仕事でもなく、ただ単に己の欲に対して忠実であっただけであり、他意はそこに存在しない。

 弱い者を見つけ出し、人里離れた場所で一人になった所を襲い掛かり金品を奪い取って己の生計を立てている野盗の類であれば、彼等は躊躇する事なく獲物を殺す。

 相手が麗しき女性であれば、その前にすべき事は言葉にする迄もない。


 そんな都合良く一人になってくれる、か弱き獲物を見つけ出すには、旅人が自然と集まってくる宿屋は恰好の餌場と言って申し分なかった。

 人の姿をした狼は羊に化けて群れに入るくらいの知恵と力を持ち合わせ、先賢の知識を参考に小賢く振る舞う輩も決して少なくはない。

 長き戦乱に荒れ続ける大陸は力を持たない者にとっては何処に行っても安息の地にはならないのが今という世の現実だった。

 そして、それら悪とも言える行為が、少しだけ今見ている世界から横へ視線をずらすと日常茶飯事の如く蔓延っているのが見えてくる程に世界は歪みきっている。


 長く続き過ぎた戦乱の時代は今もまだ続いている。

 そこに終わりは見えず、逆にその先は良く見えていた。

 まだまだ、それは続くのだと。


 視界より消えた黒いローブ姿。

 一目もされず、一言も交わさず。

 一見すらもなく。


 長閑であった清々しい朝の空気がどこかへ消えていた。


 何か、言葉が欲しい。

 誰かに声を掛けて欲しい。

 僕は考えすぎだと微笑みながら諫めて欲しかった。

 でも、言葉は何処からも届いてこない。


 寂しい。

 穴が空いている様だった。


 階下に行くのを止めて、部屋に戻る。

 シルミーはまだ気持ちよさそうに寝台の上で眠り続けていた。


 寝返りをうって乱れた短い髪。

 もともと癖が強いので寝癖と判別がつきにくく、にも関わらず淡く彩る綺麗な毛並みは触るとさわさわとして肌を滑らかに滑っていく。

 彼女が自慢とするものの一つ、天然にして至高の金色が、開け放たれた窓から入る涼しき風に揺られて(なび)くのを見ていると、少しだけ心が落ち着いてくる。

 だけど、どこか別世界を見ている様で寂しさだけは何も変わらなかった。



「んにぅ……」



 まるで猫の鳴き寝声。

 寝ている彼女はとても子供っぽくて可愛いと思う。

 はだけた肌と魅惑的な肢体もそういう目線で見ていれば邪な感情は浮かんで来ない。



「――シルミー。あなたは何故、私の側にいるのですか?」



 答えは、当然返ってこなかった。










「――リーブラ。なんで俺の側にいてくれるんだ?」



 答えは何処からも返ってこなかった。


 出会ってから五日目にして浮かんできた疑問。

 現在の状況にかなり満足していた俺なので、その言葉を口にするのは随分と躊躇ったが、聞いてみたいという想いに負けてつい口にしてしまっていた。

 そして言葉にした瞬間に後悔する。


 嫌な未来を想像してしまい、深い後悔が一つ。

 同時にちょっと恥ずかしい未来をも想像してしまい、期待に胸を高鳴らせて目の前に座る少女の言葉を待っている自分を発見して、やっぱり後悔が一つ。

 そして予想通りの解答が返ってきた事に、落胆という後悔を追加で一つ。


 無言で木製の杯に満たされた蒸留酒で喉を潤す黒衣の星占術士。

 小柄な体格に、どう見ても成人には見えない童顔の少女の実年齢がいったい幾つなのかは問題ではない。

 識っている常識はこちらでは常識ではないだけの事。

 無駄な先入観は思考を鈍らせるだけであり、常識にとらわれていては見えるものも見えなくなってしまう。


 今、問題にすべきは何であるのか。



「食べない」



 僅かに上向きに視線を上げて、不意打ち気味に少女の言葉が攻撃を仕掛けてくる。

 前後の会話とに繋がりがなく、言葉のアクセントも無い。

 また言葉も足りていないので何を言っているのか分かり辛いが、要約すると「食べないの?」と聞いているらしかった。


 食事の手を休めてリーブラの事を少し観察していたのが原因だろう。

 既に少女は朝食を終えており、食後の余暇を楽しんでいる所だった。


 ただ、昨日の夜に見た時よりもかなり機嫌が悪そうである。

 朝からアルコールを摂取していた。

 いつもの朝よりも、かなり饒舌なのもそのせいだろう。

 心なしか疲れている様にも見える。


 今が育ち盛りに見える少女が、何を思って質問を投げてきたのか考える。



「ただの箸休め。別に急いでいる訳ではないんだろ? 少しゆっくり食事をしたい気分なんだ」



 リーブラが胡乱気に首を傾げる。

 何やら理解不能と言いたげな沈黙を醸し出し始めた少女の瞳が俺を見つめ、まるで解答を模索する様に凝視する。

 俺が適当な言葉を紡いで答えただけなのは言うまでもないが、箸休め、という言葉の意味が本当に分からなかったからかもしれない。

 そもそも、箸という言葉を知らなければその先に潜む意味には会話の流れからしか辿り着くしか手段はない。

 俺が何を言いたいのかは感覚的に察する事は出来ても、知らない単語から派生した比喩を少女がどう考えるのか。


 暫くの間、リーブラは沈黙するだろうと画策した俺の一手が光る。

 ――無理だった。



「足りないなら、追加オーダーするか?」



 コクっと頷くリーブラ。

 俺の出した問題が即座に放棄され、半分近く残っていた俺のの朝食があっという間にその量を減らしていく。

 躊躇いも羞恥も見えない自然な動作で、当然の様に他人の食事をゆっくりとかすめ取っていくリーブラの姿に、負けじと平静を装って俺も食事を再開する。

 ちょっとした悔しさを飲み込んで。



「相も変わらず仲が良い様だね、君達は。実に微笑ましい限りだ」

「こういう瞬間を狙って話し掛けてくる貴方の方も、実に微笑ましい限りの性格だという自覚、持ってるか?」



 その言葉は麗しき音色を以て響き渡り、しかしその発音は壮年の男性が如く。


 事前の断り無く制止する間も無く、男性の口調で話し掛けてきた女性は、既に空いた席に腰を下ろしていた。

 即座の反撃にも彼女は何ら怯む事無く口元に不適な笑みを浮かべ、堂々とした態度で当然の様に振る舞う。

 まるで仲間であるかの様に。



「先に断っておくが、私のはあげないよ」

「いや、俺に言われても……」



 既に尽きた俺の朝食。

 彼女が手に持って運んできた食事へと視線を移していたリーブラを警戒する素振りは勿論冗談だったが、リーブラの方が冗談であるかどうかは、残念ながら俺には分からなかった。


 何かを懇願するようなリーブラの瞳が俺の方へと向く。

 何かを懇願するような俺の瞳が、闖入者の彼女へと向く。

 誰かを非難するような彼女の笑んだ瞳が、俺の瞳へと鋭く突き刺さる。


 弱者はただ強者に従うのみ。


 仕方なく俺は給仕をしているらしき少女を呼んで、当初の予定通り追加の注文をする。

 あまり待たせては飼い主の機嫌が曲がりかねないので、手早く調理出来るものなら何でも良いと言うと、ちょっと若すぎるが可愛らしい給仕の女の子は別の何かを察したのか、含み笑いを浮かべてから厨房へと消えていった。

 さて、今厨房で料理を作っているのは、ウィチアだろうか?



「オハヨー、リーブラちゃん。ついでにハモハモ」

「誰がハモハモだ。妙なニックネームを付けてくれるな」



 軽快に飛んだ挨拶に、返される言葉までの間はあまりにも短く。

 だが、まるでそれを予想していたかのような俺の即答に、朝の挨拶を掛けてきた少女は少しだけ驚いた顔を浮かべたが、それもすぐに消え去り陽気な笑顔がそこに再び満たされる。

 ちなみに、俺のこの指摘は今更ながらだろう。

 指摘するのが遅すぎる気がする。


 魅惑の肢体を惜しむ事なくさらけ出す舞踏の衣装の上に、薄生地の布を巻き付けた見るからに元気で活発を思わせる猫娘は、誰にも断る事なく空いていた最後の席へと当然の様に座る。

 そして間の悪い事に、俺が頼んだ料理を運んできた給仕の女の子からさりげなく料理を受け取って、あろう事か自分の口に運び始めた。


 それを認めた瞬間、リーブラの瞳が俺を睨む様にじっと見つめてくる。



「勝手に食べるな」



 行儀の悪い雌猫から料理を取り上げて、リーブラの前へと置く。

 今度はリーブラとその雌猫が一つの料理を巡って食べ争う様が、暫くの間繰り広げられた。



「罪作りな男だね、君は。いつか刺されても私は知らないよ」

「元凶の一つが何を言ってる。というか、戯れでもくっついて来るな」



 勿論、本心では喜んでいたが。


 楽しそうに眺めていた給仕の娘に再度追加の注文をしつつ絡んだ腕を引き剥がし、すぐに飲み物も必要だという事に気が付いて、別の給仕の娘に空となった杯と僅かな心付けを渡す。

 給仕の少女は、銅製の長方形をした硬貨に描かれている模様を確かめて、それが本物であるかどうかを調べる――様な事は当然しない。

 商人であればほとんど錆びて硬貨の質が悪い物を渡すのだろうが、俺が選んで渡したのは一番綺麗な硬貨だった。



「あれ、ハモハモお金持ってたっけ?」



 こそっと渡したつもりが、目敏く気付いた猫の目が鋭く光る。


 端から見れば実に羨ましい限りの光景。

 大中小三人の女性に囲まれ、更にその下となる少女にまで餌付けしている様に見える俺が置かれた状況に、朝の清々しい空気に少なからず殺気が混じる。

 のんびり出来る雰囲気ではないのを感じ取ったのか、食事所であるこの食堂に入ろうとした者の何人かが踵を返して部屋に戻っていく。

 我関せず入ってくる者も中にはいたが、ほとんどは興味本位かこの程度の殺気には慣れている真の強者のどちらかだろうと俺は値踏みする。

 どちらにしても、その誰とも闘って勝てる気はしないので、出来れば殺気だけですませてくれる事を心の中でそっと祈っておく。



「生活費ぐらいは自分で稼いでおかないと後々困るからな。昨日少しバイトし……いや、軽い仕事があったんで小銭を稼いできた。雀の涙程度だがな」



 息を吐いて最後に漏れた言葉が、実際に要した苦労と報酬が見合わなかった事を物語っていたのを彼女達も気付いた事だろう。

 横目で右に座る女性を一瞥する。

 彼女が一枚噛んでいる事は確かである。

 その彼女からの言葉は無い。

 素知らぬ顔をしてしばしの沈黙を保っている。


 ちなみに、小遣い稼ぎのアルバイトは、単なる荷物運搬である。

 教会から村に帰る時に、ちょっとしたものを運んでくれるように依頼されていた。

 ちょっとしたものなのだがドシッとしていたので、疲労困憊な上にかなり眠たかった体調だったので、怖ろしく疲れたものである。

 実入りも予想以上に少なかったので、次は受けない事にしよう。



「ふ~ん。ハモハモって意外と金銭感覚しっかりしてたんだ~。私、リーブラちゃんに飼われてる駄目な男かと思ってたー」

「……失礼な」



 改めて興味深げな瞳を向けてきた猫娘に、俺は言葉を返す。

 この顔に付いた双眸は決して一定以上の下方へ向かう事はせず、固定されたまま。

 魅力的な娘の艶めかしい露わな肢体を前にして、努めて平静を装いつつ意識しすぎない様に理性を働かせている事が、逆にこの猫娘の機嫌を少しずつ悪くしている訳なのだが、それが分かっていても俺にはどうする事も出来ない。


 三人の女性を前にして、理性と本能と直感のせめぎ合いに悩まされる。

 その俺の葛藤する姿を、この席の最年長たる女性の瞳が静かに笑って観察している事にも気が付いていた。



「いや、だからこれは御前のじゃない」



 新しくやってきた飲み物二人分の片方を、またかすめ取ろうとしていた猫娘の手を掴んで止める。

 細く柔らかくてすべすべした腕は思いのほか抵抗が激しく、その猫娘にすら遊ばれている事ももはや諦めの境地。

 力尽くで阻止しなければ危ない所を辛うじて救ったのは、この猫娘の単なる気まぐれだっただろう。


 否。


 猫娘の不意の撤退は囮であり、一瞬の安堵をついて気を許した所を、俺が飲む筈であった飲み物をかすめ取られてしまった。

 慌てて手を出すが、すぐにまた諦めの思考へと至り、溜息となって零れ落ちる。

 二度目の攻防は敗北へ。



「欲しければ自分のお金で注文してくれないか?」

「やだ」



 至極当然の様に即答で却下する猫娘に、俺は続く言葉が出てこない。



「ねー、ハモハモ。奢って~」



 金があると分かった途端にお強請りする猫が一匹。

 雀の涙という言葉が効力を発揮しなかったのは、やはり知らない例えだったからだろう。


 懐に余裕があるなら、これも人の縁。

 多少は奢っても良かったのだが、残念ながらそれは叶わぬ願い。

 奢れば再び無一文が訪れるという財政事情に、気持ちがそれを許さない。



「断る」



 甘えてくる猫娘からの再度の申し出に少しだけ迷ったが、結局のところ問題がそこにはない事に気が付いて、拒否の姿勢を俺は貫いた。

 至極当然、奢る金がなければ選択肢などある筈もない。



「もう少し言葉を選んだらどうかね」



 真相を知っている者の一人、俺の懐具合を正確に把握しているのだろう彼女が、窘めの言葉を発する。

 先程よりもリーブラの瞳の色が冷たく見えた。



「人の話はちゃんと聞くものだよ、ハーモニー」



 今日初めて呼ばれた俺の名。



「そうそう。折角、こーんなに可愛い私が好意を持ってお強請りしてあげてるのに、無碍にするなんて酷いんじゃないかなー。ハモハモ、女性に対してちょっと冷たすぎー」

「御前が甘える相手はちゃんといるだろ。それに懐いてくれるのは嬉しいが、親しくなるほど付き合いがある訳でもない。にも関わらず、急に猫を被って迫って来れば、警戒されても不思議はないと思うんだがな。一昨日の御前はそんな風だったか?」



 そんな言葉を言いたい訳ではないのに、滑る口は止まらない。



「エーベルも、多少の礼儀は心得ていると思ってたが、俺の勘違いだったみたいだな。何故、この席に着いたんだ?」



 五日?という短い時間の中で築いてきた関係が崩壊していく。

 求めた訳ではない。

 だが失いたい訳でもない。

 しかし一度口にしてしまった言葉はもう取り消す事は出来ない。


 継ぎ足す言葉、取り繕う言葉、言い直したとしてもその効果は薄くのみ反響する。

 俺の心情に関係なく、発せられた言葉はその効果を発揮する。


 二人との関係はこれで終わりを迎えてしまう。

 その覚悟すら俺はした。

 ただし半分だけ、そうならない事に期待する。

 その程度で崩れてしまう程、築き上げた関係でもない。


 黙する右隣の女性、エーベル。

 左隣には少し悩む素振りを見せているシルミーが、どう対処していいものか思案している。

 正面にいるリーブラは、我関せずとばかりに食事に没頭していた。



「あの……」



 そして投げ掛けられた言葉は、そのどちらでもなく。



「朝のこの時間はいつも込み合いますので相席をお願いしているのですが、何か不都合がありましたでしょうか? もし宜しければ、もう一方ほどこの席へ案内したいと思うのですが、いかがなものでしょう」



 小鳥の囀りは意外に慣れた口調で丁寧に、それは俺へと向けられていた。



「君はいつも私の予想を上回る言葉で楽しませてくれるね」 



 エーベルの口元が愉快そうな笑みを浮かべていた。



「いったいどこでそんな非常識を身に付けてきたのか、良ければ私に教えてくれないだろうか?」



 紡がれる言葉は男性の口調ではあるが、美人と評価すべき彼女の顔から漏れ出る笑みは柔らかく、言葉さえ喋らなければ容易に男性の心を射止めてしまう輝きを持っていた。

 一瞬だけ見惚れて固まった俺の反応を、からかい楽しんでいたエーベルが見逃す筈もなく。



「今この場で話しにくいのであれば、二人きりの時でも構わないよ。この前の様にね」



 意味深な言葉と共にエーベルはウィンクを飛ばした。

 大人の魅力を有効活用した攻撃に、俺の思考が一端停止する。



「ふ~ん。ハモハモって、そうなんだー。面倒見てくれてるリーブラの事を放っておいて、綺麗なお姉さんと二人きりでデートしてるんだねー。しかもお金まで貰って」



 一度崩れ掛けたと思った関係が、別の形で崩壊の一途を辿っていく。



「私も最初は乗り気ではなかったのだがね。彼の強い希望もあったので仕方なく付き合ってあげたのだが……一日のほとんどを費やしたにも関わらずあまり成果は上がらなかったのが本当に残念だったよ。もう少し自分を磨く事だ」



 質問を投げてきた給仕の少女が、困った顔を浮かべつつ耳を傾けて会話を楽しんでいるのが分かる。

 何事かと思って寄ってきたもう一人の給仕の女の子も、口元をトレイで隠して何か良からぬ方向へ想像力を働かせている様だった。

 周囲の反応は冷たくなる一方。



「――他に何か言っておきたい事は?」



 我に返った俺は、少し苛立たしげに二人を見つめる。

 冷静に考えなくても二人にからかわれている事は明白だったので、唇が感情通りにハッキリと言葉を告げていた。



「時間」



 それまでの会話をバッサリと切り裂くリーブラの言葉。

 攻撃的な意志が籠もっていたのではないかと思わせるほど、全く感情を感じさせない力強き発音。


 まるで両隣に座っている二人が空気であるかの様に無視して、リーブラが席を立つ。



「やれやれ。君の御主人様は少し御機嫌が斜めみたいだね。アフターケアはちゃんとしているのかね?」

「何をどうしてどうすれば良いのかが分かれば苦労はしない」



 それは誰に対してなのか。



「頭で考え様とするからダメなんじゃないかなー? ハモハモがもっと自分に素直になれば良いと思う、けど……」

「けど、君が素直になるとあまり良い事はないだろうね。それだけは確信が持てるよ」



 シルミーが躊躇った言葉を継いでエーベルが言う。

 口元にはまだ笑みが浮かんでいたが、口調に冗談は含まれていなかった。



「フッ……」



 それを俺は鼻で一笑する。



「俺如き存在に、二人ともどうしてそんなに興味を持つのか」



 俺を待つ事などせずさっさと行ってしまったリーブラを追いかけて、小走りに食堂を出ていく。

 その言葉は、捨て台詞に置いていかれる事となった。











 消える背中に、エーベルは考え込む。

 既に答えを出していたシルミーは、結局エーベルとは一言も言葉を交わす事なく、そのまま席を立った。



「あのー……」



 すっかり忘れ去られていた給仕の少女が、本当に困った顔を浮かべてエーベルルに話し掛ける。



「君が、あの『蒼き空』と関わりを持っているかも知れないからだよ」



 独り言の後、エーベルは沈黙し席を立つ。


 言葉は喧噪の中に散る。


 口元には、優雅な笑みを含んだ微笑みがあった。

2014.02.12校正

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