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不死賢者の迷宮  作者: 漆之黒褐
第弐章
22/115

   EX#01 不死騎士の誓い

疾く走る刃。

 雷光に煌めく銀剣の一撃が、目標の首目掛けて襲い掛かる。


 耳に痛い、金属の噛み合う響き。


 法衣の端が僅かに斬り裂かれ、鋭い切り口を見せて切断される。

 急所を狙った一撃を防いだのは、対する男が手に持つ法杖。

 教団の枢機卿のみが持つ事を許されている聖具の一つ、聖十字珠杖(ロザリオハイセプター)の柄から僅かに上で受け止められた刃は、それ以上の前進を許されなかった。



「なにゆえに、俺の死を求める」



男の鋭い瞳が、冷徹な声色の詰問と共に目の前の騎士へと刺さる。


 その応えは、次なる刃で即答された。


 相手を殺す事にだけ研ぎ澄まされた剣の技が、正確に急所のみを狙って軌跡を描く。

 動きから無駄を完全に排除した、捨て身の攻撃。

 自らの身を省みない意志――暗殺者のそれに近い殺気を放つ騎士の技に、二太刀目の軌跡は無い。

 ただ、その一撃で相手を仕留める為に、圧倒的な力の差を理解した上での動きだった。


 軌跡が再び聖杖によって強制的に制止する。

 真正面からぶつかりあった二つの金属は、その質の違いにより片方が僅かに破砕。

 銀の欠片が弾け飛び、剣を持つ腕に傷を付ける。

 騎士の瞳が、痛みに僅かながら細められた。


 構わず、騎士は次なる必殺を放つ。


 両手で銀剣の柄を握り、上段からの袈裟斬り。

 精妙で正確に心の臓を狙い、間合い深く振り下ろした剣の刃は、しかし法衣の肩口にすら到達する事無く、ただ甲高い悲鳴をあげて刃を零すだけに終わる。

 銀よりも遙かに堅い聖銀で鍛えられた聖十字珠杖には傷一つ無い。

 銀剣に比べ三倍近くも長くて数倍重いその聖杖を男は片手で持ち、両手で渾身の力を込めた騎士の強撃を防いでいた。


再び間髪入れず、交差する聖杖と銀剣。

 繰り出される斬撃は、まるで相手の死だけでなく自らの死をも求めているかの様に全て捨て身。

 精巧だが軌道が読みやすく、見切る事は出来ても間合いが深すぎる為に躱すには危険が伴う。

 最も簡単なのはカウンターで迎撃する事だったが、教団の枢機卿という立場と相手の理由と意図が見えなかった為、それは躊躇われた。


 故に、最初からずっと男は騎士の攻撃を受けるだけで、一切の反撃を行っていなかった。


 だが撃ち付けあう銀刃と聖杖の火花は、既に十合を裕に超えている。

 そして幾度目になるのか、再び銀と聖銀が交差したその時。

 鋭い銀閃が煌めいた。


 時がそれを知るよりも遙かに早く、それは辺りを眩しく照らしだす。

 その一瞬の間に光は七度明滅し、世界を七度白く染め上げる。


 自然の驚異の一つ、天雷の瞬き。

 神鳴りとも呼ばれている、それほど珍しくもない自然現象。


 そして、まるで何事も無かったかのように静寂の一端が訪れる。



「――聞く。なにゆえに、俺の死を求める」



 騎士の顔を鷲掴みして持ち上げ、男は二度目の詰問をする。


 その応えを待たずして、男はそのまま騎士の身体を横の壁へと投げつける。

数瞬遅れて鳴り響いてきた雷轟が、狙い澄ました様に騎士が壁へと衝突する音と重なって辺りに鳴り響いた。

 再び閃光が瞬き、男の背後にあった大きな紋章が影となって床に映し出される。


 鳳凰の立つ十字の紋様。

 羽ばたく鳳凰は再生を、十字は聖印。

 それは長き戦乱の時代の中にあって国境を越えて人々の救済活動を行う、どの国家にも属さない独立した巨大組織を象徴する紋章だった。


 強打した背中から走る痛みを噛み締めながらも、騎士は威厳と共に立つ枢機卿を睨め付ける。

 その黄金の瞳にはハッキリとした怒りと憎悪の色。

 平常であれば美男と言っても申し分ない顔立ちは苦痛と復讐心に歪められ、唇には吐いた血に醜く塗れていた。


 その血を拭う事もせず、騎士がゆっくりと立ち上がる。



枢機卿(カーディナル)――」

「よい。御前達は守るべき者達を守れ。この者は、どうやら俺の命にしか興味が無い様だ」



 側に控えていた司教を一瞥で制して、枢機卿は右手に持った聖杖を構える。



「悪いが、長く付き合ってやるつもりはない。今語る口を持たぬというのであれば――」



 一瞬の躊躇いのあと、男は聖職者にあるまじきその言葉を紡ぎ出す。



「殺す」



 騎士が、喜びをにじませて唇に笑みを浮かべる。


 薄暗く、闇に閉ざされた世界の中、不気味に煌めく金色の双眸――それが爛、と鋭く瞬いた。


 瞬間、清められている筈の聖堂の周囲一帯に邪気が立ちこめる。

 異質な空気はまるで最初からそうであったかの様に悠然と聖域の中をたゆたい、そして憎悪の殺気に絡みつく。

 それからゆっくりと澱んだ大気が騎士の口の中へと吸い込まれる。

 吐き出されたものは、一層濃く彩った。


 騎士が、悲しむ様に笑う。


 警告だったものが、男に真の殺意を生み出させる。

 聖杖の輝きが変わっていた。

 銀剣に血塗られた彩りが浮かび上がる。


 ゆっくりと変化していく人であった存在を、枢機卿は深い後悔と悲哀をにじませてたたずむ。

 絶えず響く雨音と雷鳴が、それが最初から人と人との争いではなく、聖と魔の戦いだった事を予め知っていたかの様だった。

 これから始まる聖戦に、聖十字珠杖の柄を強く握りしめて、全身の筋肉に緊張を走らせる。

 目を細め、しかし表面上は何事も無いかのように聖杖を構えたまま。


 遠くから女の子の悲鳴と思われる声が聞こえてくる。

 そこに、命を絶たれていた屍の躯がゆっくりと動き始めた。


 自ら人をやめ魔者(ましゃ)へと成り代わった騎士と同じ鎧を着た者達。

 その瞳には既に光は無く、何者かに肉体を貪られたかの如く、皮膚が裂かれ筋肉肌を露出させた元帝國騎士だった存在が、周囲の邪気に呼応して立ち上がる。

 魂無き不死者。

 神威代理執行者たる枢機卿にとって、真に滅ぼすべき相手である魔者がまさに生み出された瞬間だった。



「自らが殺めた者をも利用するか。それ程迄に俺の死を求めるは、余程の理由があるのだろうな」



 ここに至っても、枢機卿は平静に騎士へと言葉を投げかける。

 眼前で次々と甦る死者達があげる苦鳴は一層に聖堂の邪気を強め異界へと染めていく。


 刹那――。

 聖杖から発せられた白い光が、一体の不死者目掛けて床上を走り襲い掛かった。


 何の予兆も無く、動作すら無く放たれた閃光が魔なる者の肩口を貫く。

 光刃の切っ先に胴体への接続部を消滅させられた腕がゴトリ、と音を立てて床に落ちた。

 遅れて腕は発火し、白色の炎をあげて燃え盛る。

 食いちぎられた肩口も同様に燃え上がっていた。


 苦痛を感じているのか、死者が声にならない悲鳴をあげる。

 その仰け反った喉のすぐ側まで削り取られた傷口に、残っているもう一方の腕で爪を立てて掻きむしるが、聖杖の業火は消える事無く燃え続ける。

 その悶え苦しみ踊るさまは不気味とさえいえた。


 そこに突如、水撃が撃ち込まれた。

 横合いからぶつかった大きな水弾は、傷口で燃え盛る炎だけでなく燃えていた当事者の身体をも弾き飛ばす。

 その衝撃にぶつりといって千切れた首が宙を舞い、空中で二回転したあと壁へと叩き付けられた。

 兜と中身が二つに分かれて床に転がり落ちる。


 そのうちの一つ、兜だけが意志を持っているかの様に浮遊し、もといた場所へと帰っていった。

 失われた筈の腕も、中身だけを無くした籠手の部分だけがいつのまにか不死者の腕の辺りを頼りなさげに浮遊している。

 その手には澱んだ空気が固まったかの様な鈍い輝きを放つ剣が握られ、反対の腕には帝國の紋章が刻まれた盾。

 カタカタと動く兜は、まるでその死の騎士が笑っている様だった。


 B級眷属魔者に部類される憑依型不死霊体、彷徨う鎧騎士リビングアーマーデッド

 危険度を示す階位自体はあまり高くないが、寄生した鎧の強度や取り憑いた死霊や悪霊の種類によってその強さが千変する為、侮っていると足下をすくわれる事になる。

 特に生身を残している者や、生前の魂を宿したままの者は非常に厄介で、肉体が宿していた能力を使用する事が出来たり、魔なる者にも関わらず喰らった魂の影響で聖浄の力が効きにくかったりと、場合によってはAA級眷属魔者に匹敵する程の力を有している場合も稀にある。

 本体が幽体である為に物理攻撃はあまり効果は無い様に思えるが、憑依している鎧を微塵に砕く事で倒す事も可能。

 但し、特殊な素材でない限り鎧は時間が経つと徐々に再生するので、倒したと思っても甦ってくる場合が多い。

 色々な意味で油断ならない危険な魔者である。


 その正体を知って、枢機卿の眉がピクリと動く。


 生身の身体を持ったままの死霊騎士。

 しかも、先程その騎士達は殺されたばかりなので、恐らく彼等の魂も鎧に囚われている可能性が高い。

 既に亡き騎士達の力量や特殊能力も分からない上に、数の不利が加わって状況はあまり芳しく無かった。

 他の者達を心配して下がらせた司教達の存在が今になって悔やまれる。



「無に帰せよ。魔に堕ちた汝等を救う術はただの一つも無い事を知れ」



一層の輝きが法杖から放たれる。



「真の死をくれてやる。喜んで滅び逝け」



 先制は、凄まじい衝撃によって部屋を震わせた。


 鼓膜を痛打する爆音が枢機卿と彷徨う鎧騎士リビングアーマーデッドとの間に発生する。

 澱み濁った巨大な水弾と聖なる業火球が真正面からぶつかり合い、爆発が巻き起こった。

 爆風と火炎が部屋の中を席巻し、無作法に蹂躙する。


 その爆撃を突き破って、枢機卿が炎の内より現れいでる。

 瞬く間に部屋を浸食した黒煙を吹き飛ばし、瞬矢の如き速度で死霊騎士の一体へ接近する。


 一閃。


 金属を砕き斬る鈍い響き――すれ違いざまの杖撃は、その中身をも含めて騎士の胴体を二つに両断した。

 まだ生暖かさを保っていた血潮が舞い飛び散る。


 人であるならば、それで終わり。

 だが、相手は人ならざる者。

 痛みも驚く感情すらもそこには存在しない。

 あるのは、生者に対する無差別の攻撃意志。


 宙を舞う上半身は、ゆっくりと前転するその体勢から反撃に移る。

 持っていた槍をがら空きの背中目掛けて投擲。

 次いで、詠唱を開始する。

 それには枢機卿は目もくれず、槍が突き刺さる前に軌道を変えて次なる標的へと肉薄する。


 疾風の様に差し迫った敵に、騎士が気合いの怨声と共に剣を横薙に振るう。

 枢機卿は軽く膝を曲げて薙の方向へと横に跳躍。

 間合いのずらされた剣撃が空を斬る。

 遅れて叩き付けられたのは、その三倍もの長さを誇る聖杖の切っ先。

 正確に喉元へと突き入った先端は上へと弾かれ、頭部が切っ先にある輪の一つに引っ掛かる。

 胴体から斬り離され、単一加速された肉体の一部は聖炎に包まれ、そのまま適当な方向へと向けて撃ち捨てられた。

 そして為す術無く壁に激突。

 兜ごと破砕した。


 あっさりとそれを無視した胴体がひるがえり、返す刃で枢機卿の身を襲う。

 加えて二体が左右から襲い掛かる。

 聖戦に燃ゆる瞳は、冷静に周囲の状況を読みとってその二体の姿を映し込んでいる。

 混沌とする色の液体に塗れた刺突剣を持つ魔者と、逆手に双剣を構え姿勢低く鋭く疾走してくる魔者。

 前者は剣に毒を塗り、後者は動きと構えから剣士としての腕は侮れない。

 双剣の連続攻撃から間隙を狙った毒剣による急所攻撃のコンビネーションか。


 首を飛ばした騎士の剣を素早く弾き、二体へ向き直る動作の中で返した聖杖の尾で腰骨を叩き折った枢機卿が踊るように前へと跳ぶ。


 間合いが一瞬の間に消失し、すれ違いざまに金属音が鳴り響く。

 振り返る両者が再びその傍らを駆け抜け斬撃が交錯。

 一手多い二刀流の二撃目を、長棍を扱うが如く得物を半ばに持ち替え回転させる事でその斬撃に対処する。

 遠心力がのっている分、打撃力が勝っていた迎撃を騎士は逆らわずにいなし、流れる動作でもう片方の刃を軌跡にのせる――かに見せて、深く踏み込んだ。


 枢機卿の左腕が、霞む。


 その先に続く五指が、金属の鎧に叩き付けられ陥没した。

 鈍いというにはあまりに大きな破砕音が、胸板を鎧ごと捕まれた騎士の胸部で破裂する。

 五指は心臓に食らいつき、太い血管を引き千切り、圧力でその中身を押し潰した。

 脈動を止めてはいたが、十分な量の血を内包していたそれは急激な圧縮を受け、限界に達したあと反発して破裂。

 盛大に血を撒き散らす。

 先程の破裂音は、心臓が破裂した音だった。


 枢機卿はそのまま貫いた左腕ごと旋回し身をひねる。

 更に一歩深く踏み込み、騎士の足を薙払う。

 そして前進と同時に左腕を振るい、死角から迫っていた毒の塗られた刺突剣の先端で騎士の頭部を串刺しにする。

 胸に続いて頭部も貫かれた双剣使いの死霊騎士は、しかしその状況においても反撃の手を忘れることは無かった。

 聖杖によって阻まれている剣を惜しむ事なく捨て去り、自由になった両手で胸を貫いている枢機卿の左腕を掴む。

 その意図を本能的に察したのか、相方の死霊騎士が迷う事無く刺突剣を横に鋭く振り払った。

 刃が脳髄を斬り裂き、脳膜を破り、頭蓋を折り、砕き脳漿を噴き飛ばす。


 その切っ先が、脳漿(のうしょう)を連れて真横に流れた。


 枢機卿の身が更にひねられ、腕を掴んでいる死霊騎士ごと反時計に回転する。

 肉薄していたその騎士を武器代わりに背後の騎士へと叩き付けた。

 衝撃で剣の軌跡がぶれる。

 それでも、剣は失速する事無く枢機卿の首へと一瞬遅れて到達する。

 だが、その刃が肉を斬る事はついに無かった。


 剣の鍔元に押し当たった堅い感触。

 聖杖から分離した数珠の一つが剣の動きを止めていた。


 流石にそれは予期していなかったのか、死霊騎士の動きが一瞬止まる。


 感情などというものが無い筈のその存在の妙な動きに、枢機卿の瞳が訝しげに細められる。

 だが思慮に耽る時間などある筈も無い。

 僅か一瞬の攻防の間だったが、空中を飛んでいた上半身だけの騎士が詠唱を完成させ、不時着と同時に魔法を放つ。

 三度目となる水弾が空裂音をあげ差し迫る。

 更に回転し、枢機卿が二体の騎士の身をそれに叩き付ける。

 衝撃が突き刺さった左腕を介して伝えられる。

 束縛していた二本の腕がその衝撃で引き契れ、破砕された頭部に続いて胴体もが水弾の一撃に耐えられずに崩壊。

 解放された腕をそのまま力一杯に振り、完全にバランスを崩して為す術のない元双剣の騎士だった肉界の一部、いまだ左腕を掴んでいた胴体から引き離された二つの腕を解く。

 同時に床を蹴り、水弾の始点へと加速した。

 咄嗟に下半身が間に分け入ろうと跳躍するが、間に合わない。

 聖光を宿した杖を叩き付けられ、頭部がバラバラに吹っ飛び、破片を散乱させる。

 その破片もすぐに燃えだし、頭部は完全に消滅。

 胴体の方も首から発火し、既にその時には上半身の全てが聖炎に包まれていた。


 だが、死者に痛みは存在しない。

 炎に包まれても尚、攻撃意志の消えない首無し騎士が枢機卿の背後から迫る下半身と共謀して敵を挟み撃ちに猛襲する。

 頭部を囮にする事で枢機卿の足へと抱き付く事に成功した両腕が枢機卿の動きを封じ込める。

 そこにタイミングよく下半身がタックルを仕掛けた。

 足だけの体当たりだった為に威力はさほど無いが、背後からの攻撃に枢機卿がバランスを前に崩す。


 咄嗟に杖を突いて転倒だけは免れるが、固定された足に枢機卿は舌打ちして苛立ちを初めて表情に浮かべていた。 


 生者を相手にする時とは全く勝手の違った戦闘に、流石の枢機卿も聖職者の肩書きが所詮は名ばかりであった事を改めて思い知らされる。


 見た目の細さとは裏腹の強力で足首に指を食い込ませ握り潰そうとする眼下の騎士。

 その頭部に浮かびあがった淡い炎が空耳の様に聞こえる笑い声をあげていた。


 直接鼓膜を打つ耳障りな嘲笑に、枢機卿の腕が素早く印を形取る。

 短い詠唱。

 僅か一瞬で完成したそれが、足下にいる目障りな魔者へと向けられる。


 枢機卿の腕が、胸前で素早く十字を切り結ぶ。


聖母の御許へ逝け(ロザリオインペール)!」



 刹那、眩しき閃光が辺りを包み込んだ。


 雷光とは異なる赤白き聖浄の光。

 夜闇と蝋燭の灯火の朱に染まる聖堂に、聖十字の紋様が枢機卿を中心に天井より床に舞い降りる。


 柔らかな重圧が、遠い鳴動を伴って室内に響き渡っていた。


 その一瞬だけ、それまで室内を満たしていた邪悪な気配が陰を潜め、空間が時を刻む事を忘れたかの様に静寂を装い――暖かき聖十字光に包まれた死者は、そのまま光の彼方へと音もなく消滅していった。


 その光が消失する寸前、赤白き世界に一筋の銀閃が描かれる。


 砕かれたのは、残った下半身だけの鎧騎士。

 動く事を忘れていたそれは、叩き付けられた聖杖の先端に股より上を破砕され、遂に膝下だけの存在に形果てる。


 だが、それでもなお枢機卿の双眸が安心の色を浮かべる事は無い。



「其の祈りは天をも燃がす」



 炎が、生まれた。



「永劫に燃ゆる聖炎、副音の刃が命の紋章を削り、深紅の祈りを鳳凰へと捧げる」



 魔なる者を焼き滅ぼす、炎の螺旋が枢機卿の額前方で高速でうねりをあげる。

 次第にそれは高熱を発し、輝色を赤光から青光へと変え、小さな業火球となり――そして六つに弾けた。

 その一つに、聖杖から外れた数珠の一つが飛び込み、その炎熱を我が身と成す。

 凄まじき猛火の高熱に包まれた数珠は弾けた炎の数だけ生み出され、ゆっくりと枢機卿の周囲を六芒星を象って宙を舞う。

 その高熱に熱せられた法衣がチリチリと悲鳴を上げる。

 空気が焼け焦げ、遠く離れている筈の蝋燭すら熔けだしていた。


 僅かに数瞬の出来事。


 聖印十字架撃(ロザリオインペール)の余波で動きを止められた事が、悪霊に取り憑かれた帝國騎士の運命を決する事となった。



「灰燼と帰せ――聖光爆砕ホーリーライトエクスプロード!」



 六芒へと散った真紅が世界に焼滅を与える。


 鮮やかな紅炎が大気を焼いて迸った。

 炎の筋は一瞬で壁へと辿り着き、弾かれ軌道を変え、炎風で大地を薙ぎ乱舞する。

 粉塵を熱波に乗せて踊る六つの細き火炎弾は時に互いと衝突し、時には騎士の身を貫き、聖堂を蹂躙していった。

 赤光の尾を引く業火球が空間を飛来するたびに熱風の真空刃が生まれ、無数の鎌鼬(かまいたち)によって世界が斬り刻まれる。

 斬り口は瞬時に炎風によって焼かれた。

 空を裂く音と、飛翔する数珠が何かに衝突するたびにあげる爆砕音と、全てを焼く音が聖堂を支配した。


 目に入る何もかもが焼滅していく。

 全てが焼き消える。

 そして――最後に残った炎の光が世界を朱く染め上げる。


 聖域光臨。


 その聖光は、魔に堕ちた魂すら焼き滅ぼす。

 聖印十字架撃(ロザリオインペール)では聖浄(たお)しきれなかった邪悪なる意志も、そこでは消え逝く運命となる。



「我が祈りはすべてを燃がす。喜んで逝くがいい」



 最後にただ一人その場に残った枢機卿が吐き捨てて言う。

 その言葉に、深い悲しみと嘆きを込めて。


 肉体と魂の両方を砕かれ焼き尽くされた騎士達に、真の死が訪れた。

 それは、彷徨う鎧騎士リビングアーマーデッドの完全なる消滅をも意味する。 


 聖域を呼び、その力と灼熱の地獄で魔なる全てを灼き尽くす滅殺の高位聖術式。

 元はなんであったのか判別も出来ないほど破壊され凄絶な焼壊を遂げた聖堂の光景に、それが如何に凄まじき威力だったかを物語っていた。

 ただ焼け焦げた痕跡が残るだけの散乱する開けた荒室。

 唯一、大地と天井に刻まれた聖印十字架撃の十字傷だけが僅かに残っていた。



「音もなく消滅したか……」



 周囲に一切の邪気も残っていなかった事に、枢機卿が確認する様に呟く。



「魔に堕ちた者が聖域の力に抗う事など不可能――如何な理由にしろ、人を捨ててまで俺如きの命を狙うなど、正気の沙汰ではないな。道連れとされた者達も浮かばれまい」



「なら、さっさとその軽い命を散らせ」



 刹那――。

 虚空の彼方から現れた腕が、枢機卿の腹部に突き刺さった。



「なっ――に!」



言葉以外の予兆もなく突如として眼前に現れた存在の一撃に、枢機卿の身体がくの字に折れ曲がる。

 そのまま鋭い殺気と共に撃ち抜かれた拳が枢機卿の身体を宙に浮かす。

 咄嗟に次の本撃を防御すべく両腕が動くが、それは間に合わなかった。



「聖職者気取りが、光の名を……語るな!」



 幾つもの光の奔流が、枢機卿の身を襲った。



「貴様、まさか――」



 光速で撃ち出されたそれが、音もなく無慈悲に枢機卿の身体へ突き刺さる。

 刺さるたびに枢機卿の身体は衝撃に弾き飛ばされ、弾かれたところで光速で飛来する光弾の速度との差が縮まる訳でも無く、次の光がすぐに衝突。

 豪雨のように、光の矢が殺到する。


 それは回避が絶望的な光景。

 放たれた無限の光が次々と枢機卿の身に襲来する。


 光矢の暴風雨は止まず、法衣が食い破られ、皮膚を斬り裂いていく。

 落ちる速度よりも衝撃で上へと昇る速度が勝り、ついには天井に張り付けられる。

 だが、それでも光の奔流が終わる事はなく、枢機卿の身は天井へとめり込んでいく。

 その場所はちょうど、さきほど枢機卿が放った聖印十字架撃の十字傷が交差する点だった。


 天井の光景は更に一変していく。

 枢機卿から外れた光の矢が石壁に食らい付き、小さな穴を無数に穿つ。

 平面だった天井壁は、穿たれ割られ、数百本もの光の矢が突き刺さった戦場跡の光景となっていた。


 そこに、瞬雷の瞬きが世界を白く染め上げる。

 雷の一閃は空を鋭く斬り裂いて、大地へと突き刺さった。


 一瞬の沈黙の後、空気の亀裂音が爆雷する。

 光刃の悪魔たちは、神鳴りを恐れたのかいつのまにか消え去っていた。


 枢機卿の身体が重力に引かれ、ゆっくりと天井と別れを告げる。

 ボロボロとなった法衣が散り、異なった速度で舞い降りる。

 それは、先に床へと叩き付けられた枢機卿の上に餞の如く散花した。


 その手に持つ聖杖が、シャランと鳴る。



「聖衣か――」



 何事も無かったかの様に立ち上がった枢機卿を見て、男の相貌が微笑みに彩られる。



「そうでなくては面白くない。全てを捨ててまで強くなった甲斐が無いというもの」



 砕け散った法衣の内から現れた煌めく鎧。

 聖十字珠杖と同じ輝きを放つそれは、数千本にも及んだ光の矢を受けてなお、傷の一つも付いていなかった。


 頑強な聖銀の薄板を何重衣にも重ね合わせ、聖水で清めつつ打ち鍛えられた硬質の聖防具。

 聖十字珠杖と同じく枢機卿のみが着用を許された聖銀鎧套衣(リヴァインキュイラス)

 それが、それまで枢機卿の姿をしていた者を、戦士の姿へと変えていた。



「人を捨ててまで俺の命を奪いに来た理由が、ようやく分かった」



 背に残っていた法衣を左手で(むし)り剥ぎ投げ捨てる。

 その瞳は眼前の男の髪へと向けられていた。



「咎の一つ、アスアの生き残りか」



 男の髪は、七色に発光していた。 



「――そうだ。貴様によって皆殺しにされた、光の民アスアの血が俺には流れている」



 確認する様に問い掛けられた応えには、鋭さと憤激を含んでいた。

 だが、その悲劇と憎悪に比して、男の口調は穏やかに言葉を紡ぎ出す。

 あまりに穏やかすぎて、聞く者がいればその事実が伝わるのに少し時間を要しただろう。



「あの日あの時、死の病が蔓延し絶望していた俺達を、貴様はその祈りで焼き尽くしていった。まだ助かる者もいた、希望が無かった訳じゃない、慈悲は求めても死を与えてくれとは誰も言っていない。それを、貴様は病が外へと広がるのを恐れ、そこにあった全ての生命を奪っていった。まるでそれが正しき行いだと言わんばかりの苦渋に満ちた顔で」



 どこまでも冷静さを装って、アスアの青年は語り続ける。



「焼き滅ぼされる前、何故俺達は絶望していたと思う? 力を持っていた者は数多くいた。だが誰も死の炎から逃げ惑う様な事はしなかった――何故だ?」

「………」



 枢機卿は何か言葉を返すでも無く、淡々と耳を傾ける。

 確固たる意志で己が犯した過ちを認め、それを受け入れる強固な意志がそこにはあった。

 目を逸らさないだけの矜持がある。

 自責でも慚愧でもない過去としても見ていない。

 男の言葉を是認していた。



「最初から――あいつらは受け入れていた。それで滅ぶのもまた運命、だが犠牲を増やす訳にはいかない。自分達で自分達を町ごと隔離し、外部との一切の交流を禁じ、近隣の町に警告の文を出していた」



 その彼等の驚くべき残酷な決意を口にして、男は枢機卿を見たまま、嗤った。

 哀しげに、くだらなく。

 その決意そのものを嘲るが如く。


 そして問い掛けた。



「何故だ?」



 自分に投げ掛けているのか、それとも枢機卿に対して問われたものなのか、男の言葉が静かに聖堂に響き渡る。



「――貴様の聖母は、きっと答えてくれたのだろうな。それが正しき選択だと」

「どうだろうな」



 枢機卿が即答する。

 男の笑みが止まった。



「聖卿猊下の言葉など、生まれてこのかた一度として俺は聞いた試しなど無い」



 黄金の双眸が怒気を含む。



「御託は終わりか? 懺悔ぐらいは聞いてやる、存分に語れ。だが、如何に俺の咎を責めようとも、何も変わる事はない。この命が欲しいのであれば――」



 相手を挑発する様に冷酷に言って、枢機卿は聖杖を横一文字に構えた。



「真の悪鬼となれ」



 凄まじい闘気が、言葉と共に枢機卿の身から発せられた。


 肌を振るわせる強烈な闘気の風を受け、男の顔が緊張に張りつめられる。

 落雷の直撃を受けたかのように、男は硬直した。

 枢機卿に対する恐怖が怒気を上回り、魔に堕ちた者の全身が汗ばみ湿る。



「たかが人の身を捨てた程度では、死線を生きてきた者を殺すなど出来はせん」



 聖職の仮面を捨てた枢機卿の獰猛な視線が、黄金色の瞳を鋭く射抜く。



「貴様は……」



 薄闇の中で七色に輝いていた髪が一層に強く輝いた。



「貴様は全てを知った上で、アスアの地を焼き払ったというのか!」



 男の黄金の双眸から、驚愕よりも驚き、怒気よりも怒り、恐怖よりも恐れ、憎悪よりも憎む炎が吹き零れ、唇から絶叫が吐き出される。

 絶叫は狂気を呼び男の全身を熱く駆け巡った。

 殺気がより強く鋭敏となり、枢機卿という存在に対する絶対的な否定を呼ぶ。


 銀の軌跡が宙を走り、聖杖と接触。

 金属の悲鳴が鳴いた。



「どんなに正当化した所で、所詮は人殺し。如何な理由があろうと肯定されることはない。俺は永遠に弾劾されるべき咎人だ」



 自らの身も省みない凄まじき速度で迫った必殺の斬撃を受け止め、破壊者の眼差しが間近に注がれる。


 畏怖を狂気で吹き飛ばした瞳が睨め返し、その憎悪の吐息が邪気を零す。



「だから悪魔となる事も侍さないというのか! 種族一つ滅ぼすのに、何の躊躇いもなく実行したのか!」

「守るべき者達の命を繋げる為ならば、人の心など幾らでも俺は捨てられる」

「巫山戯るなっ!」



 人肌の色から邪悪色に染まった姿が歪んで掻き消える。

 同時に聖杖へと押しつけられていた剣の重みも消失。


 見えない斬撃は、視線を彷徨わす間も無く死角からやってきた。



「遅すぎるな」



 そう呟いた枢機卿の右腕が素早く動き、眼下から斬り上げられてきた刃を聖杖で弾きとばす。

 見えざる刃を殺気と空気の流れと音を読んでの反応。

 その動作には余裕すら見て取れた。


 如何なる術技を用いていたとしても、気配を含めて姿を消す事が可能だという事を予め知っていれば、それ相応の心構えさえしておけば対処のしようもある。


 虹髪の騎士は虚をついたつもりなのだろうが、数段上をいく枢機卿には通じなかった。



「どうした、人の身を捨て魔に堕ちてまで手にした力はその程度か?」



 枢機卿の小声の囁きに、男の顔が苦虫を噛む。



「時々、俺は優しくなりすぎて困る事がある。俺以外の者の命が脅かされた時には修羅にでも羅刹にでもなれるが、俺自身の命だけが脅かされている時には、あまりにも俺は寛容寛大雅量鷹揚となる」



 幾らでも攻撃を叩き込む余裕があった。


 弾かれた銀の剣は衝撃に耐えられず手元から放れ、上体は捨て身の攻撃だった為に隙だらけ。

 反動で大地から足が宙に踊りかけ逃げる事も叶わない。

 対して、枢機卿はいつでも攻撃を仕掛ける事が出来た。

 自由の利く左腕は鎧すら貫く強靱な膂力を持ち、聖杖はいつでも返す軌跡で撃ち降ろせる体勢にある。

 回転させて尾で攻撃を加える事も出来た。

 無詠唱で発動できる速攻術式も幾つか持っている筈である。


 だが、枢機卿は無表情で声を滑らせただけだった。


 大技を放った後の大きな隙を狙って繰り出された必殺の一撃は聖衣の前に水泡に帰し、枢機卿最大の術式と思われた聖光爆砕ホーリーライトエクスプロードも恐らくは数ある技の一つに過ぎない。

 術式にしては詠唱時間が短く、ほとんど消耗していなかった精神力からしてもそれは明白。


 己の戦術があまりにも浅はかで枢機卿の力を大きく読み間違えていた事に、黄金の瞳が苦渋に満ちる。


 枢機卿は、初めからハッキリと行動で告げていた。

 自分が遙か格下の相手と闘っている事を。



「――光の民、アスアの若者よ。自らの過ちを認め懺悔しろ。罪無き帝國騎士達の命を奪った事は許されざる大罪ではあるが、己の罪を認め悔い改める心あれば、聖母はきっと汝の罪を許してくれるだろう――教団の慈悲深き言葉だ、魔に堕ちた貴様にもくれてやる。滅びる前に言い残しておきたい言葉はあるか?」



 救いと滅びの矛盾する言葉が意味することに、騎士の心が憤慨を通り越して凍りつく。



「ないのか? ないのであれば、早々に――」

「レビス!」



 魔に堕ちた光の民の叫びに、枢機卿の背後の空間が歪む。

 枢機卿の瞳に初めて小さくない驚嘆の色が混じる。


刹那――空間が爆ぜ、虚空より現れた腕が高速交差した。



「っ!」



 鋭き刃よりも尖った十の爪が、枢機卿の背を鎧ごと斬り裂く。

 喉で殺された悲鳴とは違い、意志では止める事の出来ない赤い血が枢機卿の背から飛沫く。

 傷跡は斬られたというよりは削られていた。


 次元斬。


 如何に頑強な防御力を誇る聖銀鎧套衣(リヴァインキュイラス)といえど所詮は物質。

 空間ごと斬り裂く刃には障害にすらならなかった。

 間一髪で回避行動が間に合わなければ、今頃枢機卿は心臓ごと次元斬に削り取られ絶命していただろう。


 致命傷には至らないが重傷ともいえる傷を受け、それでも枢機卿は己が戦士である事を忘れなかった。


 枢機卿の右腕が翻り、聖杖の先端が背後に現れたレビスへと加速する。

 直進ではなく放物線を描いた杖撃は、しかしレビスに触れる事は無かった。


 寸前でレビスの像が揺らぎ、霧散する。


 ならばと思い、枢機卿は瞬時に軌道を変え虹髪の魔者へと聖杖の尾で突きを放つ。

 だがその一撃もまた、レビスと同様に実像を虚像へと変えた騎士の身を撃つ事は無かった。

 胸元に穴を空けた虚像の残滓が揺らめき、虚しく四散する。



「カカカッ! ハリオン、我の力は借りないのでは無かったのか?」



 どこからともなく愉快気な声が聖堂に響き渡る。



「――だが、無理もない。相手が殺してくれないのであれば、どうにもならないのだからな。死の呪法も見切られてはお終いよ」



 異空間からの来訪者が枢機卿の瞳の中に姿を現す。


 その腕は肉が完全に削げ落ち骨と皮だけの細い枯枝と化し、破れてボロボロとなっている導衣の裾の下に足は無く、瞳の奥は闇だけが彩っている。

 その全身には様々な装飾具――決して煌びやかでは無く、その一つ一つが全て魔道具であり、禍々しき邪気を放っていた。



「不死賢者か……」



 その異様な姿を目にしたからでもなく、枢機卿の緊張が目に見える程に変化する。



「ほぅ、我の事を知っているのか。人の世に帰るのも久しく、既に俗世より忘れ去られたとばかり思っていたのだがな――古き歴史にも通じているとは、流石は《鷹の卿皇(ホークサーバイン)》と言ったところか」



 不死賢者が楽しげに笑い、闇の双眸で枢機卿を舐めるように見つめる。

 その眼差しは悪意や殺意よりも、もっと純粋な喜びの色に満ちていた。



「貴様が全ての元凶か」



 不死者とは対極に位置する聖職者の言葉が半信半疑に問い掛けられる。

 そこにあった一つの可能性をただ確かめておくだけの問い。

 答えがどちらであろうと構わなかった。



「異なり――と答えるには、些か深入りし過ぎたか。我はただ彼奴と契約を交わしたに過ぎぬ世捨て人の一人。ちょっとした実験と、ほんの僅かの遊び心からくる戯れ事よ」



 肯定とも否定とも取れる答え。



「何れにせよ、卿にとっては滅ぼすべき敵である事には違いないな」



 嘲笑したレビスの瞳が不気味に光る。

 構えを取るかの様に両腕がゆっくりと下がり、指よりも遙かに長く伸びた鋭い爪が床に触れただけでその部分を苦も無く削り取る。

 爪そのものが空間を斬り裂く刃と化していた。



「――だとしても、はじめから殺りあう気の無い者と戯れる気は無い。時間の無駄だ」



 レビスの瞳が大きく見開かれる。



「カカカッ! 愉快、実に愉快。言葉通りの心など露の欠片も無い癖に、よくぞそこまで吼え続けられる。自らを犠牲にしてまで、他人の命が心配か?」

「………」



 枢機卿の口元が無言で意味深な笑みを返す。

 沈黙が答え。


 対峙する二人の間に静寂の時が僅かに流れる。

 まるで機をうかがい隠れ潜んでいるハリオンという騎士の存在を忘れているように。


 最初に静寂を破ったのは、攻撃に転じようとしたそのハリオンの気配だった。



「無駄よ、ハリオン――今の貴殿の力では卿を倒す事は出来ぬ」



 その気配を枢機卿が察するよりも早く、レビスが制止の声を掛ける。

 だがハリオンが選んだのは、己が心の方だった。


 目に飛び込んできたのは、復讐に燃える瞳と、それを縁取る虹色の長髪――ハリオンは僅か一歩ほどの至近距離で、雷光の煌めきに紛れて現れる。


 既に、間合いに深く踏み込んでいる。

 枢機卿は反射的に、後退した。



「ハリオン――陽光か」



 特に意味もなく、その名が持つもう一つの仮面を口にして躱す。

 対象に対しての興味などとうに失っていた枢機卿のその後の行動は、実に分かりやすいものだった。


 左腕の拳がハリオンの胴に突き刺さる。

 貫いてしまわないように優しく、衝撃で内蔵が傷ついてしまわないように弱く。


 強烈な痛みのみがハリオンの脳へと伝えられる。

 その冷たい瞳にはハリオンの姿など映していなかった。


 目もくれずに、枢機卿の左腕が腹部にもう一撃。

 上向きに振り切った拳が更にハリオンの顎に食らい付く。

 ハリオンの意識はそのアッパーを認識していたが、攻撃の速度についていけない。

 綺麗な弧を描いて次に襲ってきた一撃もまた、躱す事など出来よう筈も無かった。

 杖が風を切る。

 筋肉を硬直させる暇も無く、まともにそれは肩口に食い込み、上昇仕掛けていたハリオンの身体を石床に強く叩き付けた。

 衝撃に負け、床が陥没し噴煙を巻き上げる。


 だが枢機卿の攻撃はまだ終わらない。

 聖杖が逆向きに円を描き、ハリオンの頭部を正確に狙って迫り来る。

 皮肉にも、ハリオンの意識はまだ途切れていなかった。

 その瞳にわざわざ見せつける様な杖撃が見事に決まる。

 ぶつかりあった頭蓋骨と聖銀金属が鈍い音をだす。

 続くのは、ハリオンの喉から漏れ出た苦鳴。

 遅れて血が口内より吐き散らされる。

 そのどちらもが衝撃に掻き消され、誰の五感にも伝えられる事は無かった。


 そして、もう一撃。

 身体ごと旋回し、一回転もの遠心力を得た聖銀杖がハリオンの顔面に叩き込まれた。

 ハリオンの身体が玩具のように吹っ飛ぶ。

 小さな悲鳴すら既に上げる力も無く、ハリオンが床を転がっていく。


 やがてハリオンの身体は壁にぶちあたり、そして動きを止めた。

 起き上がる気配も無い。

 辛うじて残っていた意識だけがそこにはあった。



「死を与えず、恐怖をその身に刻み込むか……」



 レビスの細い腕が顎へと当てられ、歓心と思考の織り混ざった瞳が向けられる。



「深き憎悪を押さえ込む程の恐怖を不死者に植え付ける事が、果たして可能なのか――肉体への苦痛は全て現実ではあるが、意識が飛ぶ事は無い。されど絶望すら出来ぬ存在、理性と本能のどちらをも忘れる事が出来ぬ停滞した魔者の心は永遠の黄昏。幾百年の時を費やそうと、心と魂の探求は命題が尽きぬ故、誠に楽しき事よの」



 永遠なる命、不死を手に入れた魔賢者の独り言に、枢機卿の瞳が氷点下に凍る。


 もう一人の不死者の身体が小刻みに揺れ始めた。

 その揺れに、怨嗟にも似た小さな囁きが加わり、徐々にその漏れ出る笑みが大きくなる。

 やがて不死者の喉の奥で血の泥池(らんちゅう)が煮えるような笑声に変わっていった。



「――だからこその、不死。それでこそ、俺が望む永遠」



 凍っているよりも密やかに動いていた枢機卿の視線の刃が、レビスを刺すのを止めハリオンへと向けられるが、それは目標を失い虚空へ彷徨う。

 ハリオンは再びその姿を消していた。



「引くぞ、レビス。時に限りは無いが、俺の力には限りがある」



 いつの間にか雨は止み、空の彼方には雲の大地の端が見え始めていた。

 その先には空の蒼き海。

 陽光に闇が陰りを見せはじめている。



「我もそう思うていた所だ、ハリオン。時に限りは無い。卿の首を取る機会はいくらでもある。まずは自らを鍛えるがよい」



 不死賢者レビスが錆びた声で笑い、不死騎士ハリオンが苦笑混じりに返す。


 姿無き二人が去っていくのを枢機卿は止められない。

 不死者二人組は、凍り付いたようにどうする事も出来なかった枢機卿へと向けて、最後に宣言した。



「名残惜しいが、此度は此迄よ。また何れ相見える事もあろう。次なるは是非に本気の卿と死合たいものだ」



 欲深き知の識を求め不死の魔者へと堕ちた大賢者が嗤い、光の復讐者が続ける。



「貴様の存在は悪だ。その悪を絶つのに、俺が善である必要は無い。いつの日にか、俺の光で貴様の命を必ず絶ってみせる」



 そして二人の不死者は、その場から完全に去っていった。


 地平線の彼方から顔を見せ始めた太陽の光が、廃墟と化した聖堂の室内を明るく照らし出す。

 照明の蝋燭は既に尽き、冷たくなった蝋の熔け跡だけが唯一の自然体。

 それ以外はみな形を崩していた。


 割れた窓ガラスから湿った風が吹き込む。

 枢機卿が一人、その場に取り残され立ちつくしていた。


 これから始まる長き戦いの予感を、まるでそれを望んでいたかのように、自らの身が奮える程の喜びをその顔に浮かべながら。

2014.02.12校正

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