第17話 第3日目の朝
今日で、数えて三日目。
過ちを犯した回数も、数えると三度。
しかし、朝の日差しを浴びながら朝食を取るのは、これが初めてとなる。
昨日は別の理由で座っていた席に着いているのは、此処しかテーブルが空いてなかったためである。
現在、この宿に宿泊している客の数はあまり多くはないと聞いていたが、朝のこの時間帯は一番混むらしく、相席を好まぬ者達が各々テーブルを占拠した結果、最も酒の香りが強い席へと座る羽目になっていた。
朝日が昇る頃まで使われていたテーブルの側には、まだ片付けられていない空っぽの酒樽。
何度も同じ事をされれば流石にこの店の主もあの酒豪の相手をするのが面倒になったのだろう、樽ごと与えて後は勝手にして貰う事にした様だ。
幸い、疲れ切った俺が逃げる様に店へと訪れた時にはその御仁は既に部屋へと引き上げてくれたらしく、朝から鉢合わせになる事だけは避けられた。
とはいえ、思う様に食が進まないのは、彼がいてもいなくても同じだっただろう。
普通は宿に一晩泊まれば回復している筈のHPは半分をきっており、MPも全快にはなっていない。
最大値が1ずつ増えていたのだけが唯一の救いだった。
「おはようございます、ハーモニーさん」
席に着いて暫く疲れを癒していると、ようやく手が空いたのだろうウィチアが声を掛けてくる。
客からの呼び出しと、厨房で出来上がった食事の運搬と、大忙しのハーフエルフの給仕は俺の姿を見つけても、別にすぐには飛んでこなかった。
此処には常連客も含めて顔見知りばかりなのだから、昨日会ったばかりの俺を特別扱いする様な嬉しい展開などある筈がない。
「リーブラさんは御一緒ではないんですね。まだお休みになっているんですか?」
故に、彼女がいったい何を詮索しようとしていたのか、などと勘繰る思考も生まれない。
この少女は、ただ俺をリーブラのセット客として扱っているだけだろう。
何しろ、俺の宿泊費はリーブラが出しているのだから。
「さぁな。ウィチアがまだ会っていないなら、まだ寝ているのだろう」
「え?」
「……ん?」
少女の顔が何故か、ちょっと驚き!、といった色に彩っていた。
若干の沈黙が流れる。
さて、今の会話の中に何か驚くべき内容が含まれていただろうか?
「――夕刻過ぎから森に出かけたのは知っていますが、ずっと、お仕事をしていらしたんですか?」
何故かお仕事という言葉を強調してウィチアが聞いてくる。
「夜更けには帰ってきたよ。勿論、リーブラも一緒だ。運悪くガルゴル殿に捕まってしまったが、幸い助けが入ったので、その後はずっと部屋にいた」
ウィチアの表情が少し強ばった。
いや、問題ない筈だ。
何も怪しい事は喋っていない。
嘘も吐いていない。
「……そうですか。昨日は大変お疲れだった様ですね。病み上がりなのですからもっと控えられた方がいいですよ」
営業用のスマイルでそう言って、ウィチアは踵を返していった。
さて……注文を取りに来てくれたのではないのだろうか?
仕方なく、もう一人の顔見知りである給仕の女性に声を掛けて呼び出し、お任せで軽食を注文する。
彼女は丁寧に微笑んでから、俺の注文を伝えに厨房へと消えていく。
しかし、食事を手に乗せて帰ってきた彼女の顔には機械的な笑みが浮かんでおり、機敏な動作で食事をテーブルに置いたかと思ったら素早い会釈をしただけで何も言葉は掛けてくれなかった。
ただ、その機敏な動きが災いしたのだろう、彼女は立ち去る際に足をもつれさせてしまい、前のめりにビタンっといって転倒した。
その様を眺めていた俺の視界に、突然めくれあがったスカートの中身が姿を表す。
白黒の縞々模様の下着によって隠された乙女の秘所。
僅かに開かれた美しい両脚の三角形、その頂点に位置する部分へと自然と目線が向かい、そこで固定される。
進行方向とは逆に位置する俺の視界にのみ許された絶景。
辛うじて俺以外の者には見る事が出来なかっただろう絶妙なスカートの位置に、何事かと視線を向けた他の客達は、さらけ出された彼女の太股に嬉しもどかしの微妙な感情を浮かべている様だった。
それも束の間、すぐさま最も近くにいた目の前のテーブル客が彼女に手を貸し、彼女の身を助け起こす。
感謝の言葉と共に彼女が立ち上がる。
そしてすぐに行った行動は、照れ隠しの笑いと謝辞の言葉。
と同時に、当然行われる周囲の観察。
それは一瞬で終わり、自らの醜態がどういう状態であったのか察した彼女は、少し安心した様にそそくさと厨房へと消えていった。
彼女はただ転倒してしまっただけだと思ったらしい。
すぐにまた厨房から出てきた彼女の顔には、俺の注文を受けていた時と同様の、普通の笑顔が乗っていた。
自身の役得――もとい、幸運?に少しほっとした所で、改めて俺は彼女を観察する。
意識を集中させてステータスを読み取り、彼女の名がシイナである事を確認した所で興味を失った。
「ハモハモー、おはよー」
食事を終え、さて今日は何をするべきかと考えていた所、記憶にある音色が耳に響いてきた。
思案のために閉じていた瞳を開け、その声の主を捜す。
猫を胸に抱いた猫娘が俺の前に現れた。
「おはよう、シルミー」
椅子に座っている俺より僅かに高い位置にある顔には起き抜けの脱力感は微塵も浮かんでおらず、朝から随分とテンションが高そうな元気な笑顔が描かれていた。
低血圧という訳ではないが、朝はまったり気分を好む俺としては、あまり朝から一緒にいたいと思う様な相手ではない。
同席に座られるのは御遠慮願いたい所だが、断る訳にもいかず、着席を許す。
「ねぇねぇ、昨日は結局、一体も倒せなかったって本当? 彷徨う腐死者だよ? D級だよ? 雑魚雑魚だよー?」
案の定、この猫耳少女は静かに朝食を取ってくれないらしかった。
胸の中の猫が欠伸をしている。
気持ち良く眠っていた所を無理矢理に拉致されてきたのだろう、二つの耳はピタッと伏せられており、外界からの音の侵入を明らかに拒否していた。
対する大きな牝猫の両耳は、頭の上でピコピコと良く動いている。
見るからに楽しそうだった。
「――エーベルの件は助かった。礼を言っておく。だが昨日も言ったが、俺に戦闘能力はない。恐らく皆無だ。例え相手が生粋の雑魚であっても、力も経験もない俺には倒せる自信はほとんどない」
「生粋の雑魚ならハモハモにも簡単に倒せると思うよー。でも、そっかー……不死者が相手だと、ハモハモの戦闘スタイルとじゃ相性も凄く悪いし、倒すのはちょっと難しいかもしれないよねー。うーん、流石にこれはちょっと再考の余地がありそうだよねー」
と言ってはいるものの、猫の喉をゴロゴロして遊んでいる姿を見る限り、シルミーからは言葉ほどの神妙さは微塵も感じられなかった。
まぁ、そんな事はどうでもいいだろう。
俺も手を伸ばして猫の頭を撫で撫でして癒しに心を躍らせる。
鬱陶しかったのか、猫は俺とシルミーの手を交わして床へと逃げていった。
そのまま椅子の横で丸くなって睡眠を貪り始める。
むぅ、残念。
「ハモハモ、せめて剣とか使えないのー?」
「ん? 別に俺は闘士という訳じゃないんだがな。手持ちの武器がないため、昨日は仕方なく素手で闘っただけに過ぎない。使えそうな武器があるなら貸してくれると非常に助かる」
「え? 闘士じゃなかったの? 本当に?」
「嘘を言ってどうする。本当だ。俺は闘士ではない」
闘士の職業は持っているがな。
但し、レベルは1のままだけど。
「じゃ、何が得意なのー? 鞭とかとかー?」
いや……そんなちょっと扱いが難しい武器を使える技術などある訳がない。
というか俺を何だと思っているんだ、この少女は。
調教でもして欲しいのだろうか?
「……得手不得手は特にない。基本、どの武器もまともに扱った事はないからな」
「なら蝋燭を貸してあげる♪」
「特殊すぎるだろ!?」
というか武器として成立するのだろうか……。
敵に近づいてロウを垂らす労力が、与えられるダメージと割に合わない。
大ダメージを与えられるかもしれない極所……目とか口の中とかを狙うのも至難すぎる。
「むー。でも余ってる武器なんて、それぐらいしかないしー」
「蝋燭を武器にするな。明かりとして使ってくれ」
「え? でも不死者には結構有効な武器だよー?」
「――そうなのか?」
「うん。まぁ武器として使ってる人を見た事はないけどね。そんな人いたら、たぶん凄く引くし……私は絶対に関わりあいたくない」
そんな物を俺に勧めるな。
「シルミーは普段、何を使って闘っているんだ?」
俺の第一予測は短剣だ。
目の前の小柄な少女は見た目にも種族的にも凄く素早そうなので、軽めで比較的自由のきく武器が似合いそうである。
メインアタッカーでもなく、ましてやディフェンダーでもない、縦横無尽自由自在に闘う事の出来る万能型に近い準前衛系の職といった所か。
当然、第二予測は最も無難で扱いやすい一般的な解答、剣類。
第三は闘士系武器のナックルや爪。
第四は後衛系だった場合を考えて杖を選んでおく。
さて、正解はどれだろう。
「私のは、これ」
そう言って、シルミーは俺に向けて左腕を差し出した。
「シルミーは闘士なのか?」
「違うよー。よく見てねー。これこれ。これねー」
言われた通り、俺はもう一度シルミーの左腕をじっくりと観察する。
何の変哲のない、綺麗な肌。
触れればスベスベした感触が存分に楽しめるだろう細腕には傷や染みなどが一切なく、少し輝いている様にすら見えた。
もう秋も終わりだというのに随分と露出が多いなと思う反面、それはそれで少し嬉しくも思ってしまう。
――などという感想は隣に置いておいて、もう少し良く観察してみる。
目を凝らすと、薄く輝いているのはシルミーの肌ではなく、その少し外側である事を俺は発見した。
その輝きは左腕から頭の後ろの方に伸び、死角を越えて反対側から現れ、右腕の肌へと続いている。
「布、か……? それも凄く薄い布」
「せいかーい」
少女が喜び、少し左腕を振るう。
すると、キラキラしたものが左腕から伸びて垂れ下がった。
その先端が床で寝ていた猫の下に潜り込む。
それに猫は気が付いている様子はない。
少女が何をしようとしているのか、俺はすぐに察した。
そしてそれは予想通りの結果を引き起こす。
シルミーが左腕を上に動かした瞬間、無色透明の布が猫の身を上へと跳ね上げ、僅かな放物線を描き最頂点へと至った所でシルミーの膝と右腕が見事にその猫の身をキャッチした。
猫の耳が何事かとビクッとするが、冷たい床が暖かい膝に変わった事に睡魔の誘惑が勝ったのだろう、すぐにそのまま何事もなかったかの様に眠りへと落ちていく。
ほとんど衝撃がなかったのだろう事が、その猫の反応で俺はすぐに理解した。
「さて、ここで問題です。私の職業は何でしょう?」
ムフフと自慢げな笑顔をのせた猫の可愛い瞳が、俺へと向けて挑発的に光輝く。
恐らく、芸人とか奇術士とかいう答えを期待しているのだろう。
だが残念だ。
俺の記憶の中にある知識では、既に答えが出ている。
俺は、それを自由自在に操って闘う戦闘士の姿を思い浮かべる事が出来る。
俺は、それを使い三次元立体魔法陣を生み出す魔法士の姿を思い浮かべる事が出来る。
俺が目の前の少女に対して思い浮かべた姿は、前者と後者のいったいどちらか。
考える必要はない。
語るまでもない。
俺の希望は――。
「踊り子だろう?」
露出の多い魅惑的な姿で元気に踊り跳び跳ねる少女の姿を、俺は至極当然の様に思い浮かべていた。
――朝っぱらから少し刺激の強い映像を見たせいだろう、少し俺は興奮している様だ。
「何で即答できるの!?」
ほんの僅かばかりの間だけ驚きで固まっていた少女が、思い出した様に叫ぶ。
叫んだ後で、しまったと言わんばかりにシルミーはちょっと慌てた。
その驚きは、俺が即答した事よりも正解を当ててしまった事に対してのものなのだといってしまっている様なもの。
「正解は?」
ちょっと意地悪気味に聞く。
「うう、正解だよう……」
やはり俺が間違う事を前提にシルミーはその質問してきた様だった。
追い打ちとして、勝利の意味を込めて、鼻で笑っておく。
むぐぐ、とシルミーがちょっと悔しそうに唇を噛む。
より一層に勝利の味が美味となった。
「なんで、分かったの?」
俺はちょっと考え……。
「教えて欲しければ、それ相応の対価を払え。そうすれば教えてやろう」
「む」
ちょっと偉そうに言う俺に、シルミーの顔が一段と悔しそうに歪む。
しかしすぐにそれは霧散し、代わりに小悪魔の微笑みが浮かび上がる。
と思った瞬間。
「ちゅ♪」
そんな擬音を口ずさむと同時に、シルミーの唇が俺の頬を急襲した。
俺の心が一瞬でビシッといって石化する。
「これで良ーい?」
小悪魔がちょっと照れくさそうにはにかむ。
それも演技なのだという事は分かったが、俺の心はまだ石化中のため、シルミーの言葉にすぐには応えを返す事は出来なかった。
「朝から本当にお盛んですね、ハーモニーさん」
結果的にその間が災いした。
「おはようございます、シルミーさん」
「おはよーウィチア。今日も可愛いねー」
「フフっ、ありがとうございます。シルミーさんもお変わりなく、今日も元気な姿が見られて私も嬉しいです。今朝は何に致しましょうか? 本日のお勧めは産みたての卵を使用した卵料理と採れたての山菜サラダとなっています」
「それでお願い。飲み物はいつものでねー」
「はい、いつものですね。量はどうしましょうか? 多めにします? それとも控えめに致します?」
「今日は普通で良いよー。それより、逆に今日はお勧めしないのってあるの?」
「パンとスープ系がそうですね。一昨日の作り置きがまだ残っているので、明日以降にならないと焼きたて作りたてはお出し出来ないかと。勿論、特別料金を頂ければお作り致しますが」
「そうなんだー。ありがと、ウィチア。御飯お願いねー」
「はい。最優先で御用意致しますね」
俺は何も会話する事が出来ないまま、ただじっと彼女達の話を聞いているだけしか出来なかった。
ちなみに、俺の朝の食事はかなり堅いパンが三つと冷めたスープ量多めの、ウィチアお勧めのコースである。
何がお勧めだったのかはちょっと聞きたくないし考えたくもない。
「とりあえず、後で万屋さんの所に行ってみよっかー。そこで何か良い武器があったら、まずはそれで試してみよー」
「――もう一度言っておくが、お金はない」
「貸しにしておいてあ・げ・る♪」
可愛く言ってウィンクされても、何故かあまり良い気がしなかった。
借りるという事は、当然そこには利子も発生する。
恐らくシルミーがのせてくる利子は金銭的な物ではなく、恩だとか情だとかそういう類のものだろう。
この貸しは、軽そうで実は重たい様な気がしてならなかった。
「――ここにいましたか、シルミー」
シルミーが俺のよりも遙かに豪勢な朝食を食べ終えた頃。
俺の背後から、澄んだ風の様な軽やかな響きを持った声が発生した。
「あ、フェイ。おはよー」
「おはようございます、シルミー。それと……」
俺の横を通り過ぎ、シルミーの側まで進んだ後で振り返る少年の姿。
躊躇いがちに俺へと視線を向けるも続く言葉が見つからないのか、瞳で俺へと何かを訴えてくる。
俺にとって、その少年は初対面ではない。
だがその少年にとって、俺は初めて会う相手。
「――ハーモニーだ。縁あって、暫くは共に行動する事になるかもしれないが、宜しく頼む」
これから共に迷宮へと挑む事になるだろう少年に向けて、俺は彼がまだ知らないだろうその事実と一緒に、自分の名を名乗った。
当然、その少年が困惑するだろう事も踏まえた上で。
「どういう事ですか? シルミー」
予想通り少年は困惑した表情で、その双眸をシルミーへと向け答えを求めた。
まぁ、俺としてはそんな些細な事よりも、この少年がたった二日であれだけの傷をほぼ全治全快している事の方が、ハッキリ言って困惑に値した。
予めウィチアから今日には目を覚ますだろうとは聞いていたが、まさかそれが完治という意味を持っていたのは驚きの一言である。
少年の立ち振る舞いは、ダメージなど皆無、自然そのものに見えた。
「フェイ、一昨日の夜の事、覚えてる?」
一昨日の夜というと、俺がレビスに出会い、アウラに出会い、リーブラに出会い、そしてこの少年に出会った日の事である。
あの時助けた少年は、骨は砕け、肉は潰れ、血が至る所より流れ落ち、呼吸すら今にも消え入りそうな程にか細く苦しそうで、控えめに言っても生きているのが不思議としか言い様のないまさに重傷状態だった。
それが、どうだろう。
今、俺の目の前に立っている少年は、たった二日で、見違える程に正常な姿を取り戻していた。
それが回復の力であるという事は理解していた。
老ドワーフより得た知識と、目にした幾つかの事実から、それがこの世界の現実であると納得もした。
だがやはり、その奇跡の結果たる現物を直で見るとなると、理解も納得も沸き上がってきた驚きの感情を抑える事は出来ず、これは幻想めいた夢の中なのではないのかと、ついつい疑ってしまう。
「一昨日の夜、ですか? このルーラストンの村に来る前ですから、確か……」
今更ながら、この村の名前を知らなかった事実に、俺は心の中でそっと自分に驚く。
「あ、えっと、その夜の事はいいや。忘れて。フェイ、この村に来た日の夜の事、覚えてる?」
「ええ。勿論、覚えていますよ。昨日の夜は、ちょうどあそこのカウンター席で食事を取りました。その後は森へと夜の散歩に出掛け、軽く運動した後……」
そこで少年は少し照れ笑いを浮かべながら言う。
「化け物に出会い、殺されました」
「殺されてないから!?」
間髪入れず突っ込んでくれたシルミーに、こそっと心の中で賞賛を送る。
というか、何故照れる。
「いえ、殺されましたよ。僕は力及ばず、まるで歯が立たずに殺されました。やはり世界は広いですね。僕の師も化け物でしたが、昨日のあれはそれ以上でした。世界にはあんな化け物がゴロゴロ転がっているんですね」
さて、少年が言っているのは、俺が出会った不死賢者の事を指しているのだろうか?
まぁそれよりも今は、明らかにおかしい言葉の使い方を、早めに指摘しておいた方が良いだろう。
――人の名前を覚える気がまるで感じられない俺の脳の中から少年の名を引っ張り出してくる。
いや、そんな事をしなくても意識を集中させれば一度知り合った相手の名はステータスから確認する事が出来るのだが、まだ使い慣れていないのですっかり忘れていた。
「いや、ロー……言葉の使い方が間違っていないか? 殺されるという事は、死ぬという事だ。その言い回しだと、やられた、倒された、負けた、という言葉を使った方が正しい」
「そうなのですか? あまり僕は師以外の人と話した事がないので、もしかしたら少し言葉の意味と認識が世間一般のそれとズレてしまっているのかもしれませんね」
「あー、なるほどなるほどー。そういえば私もたまに変だなーって思う時があったから、そういう事だったんだねーって、あれ? ローって、フェイの事?」
「――そういえば、そうですね。何故、ハーモニーさんは僕の下の名をご存じなのですか?」
おっと、つい失言してしまったか。
シルミーと同じ様に呼べば良かったと、ちょっと後悔する。
だが後の祭りだ。
ここは強引にでも押し通っておくとしよう。
「それに何故、ハーモニーさんは僕が所持しているべき腕輪を身に着けているのでしょうか? その腕輪は僕にとってとても大切な、大切にしろと命令されている師の形見なのですが」
それは本当に大切な物なのだろうか?
それはそれとして、ローの瞳に映っていた警戒の眼差しが、敵意のそれへと変化した。
押し切る前に後手へと回ってしまったか。
ならば事実をつきつけ、認めさせるしかない。
「フェイ。ハモハモが森で瀕死になったフェイを村まで運んでくれたんだよー」
「ハモハモさんにはまた後で礼を言いに行きましょう。それよりも今は、ハーモニーさんを殺して問い詰めて事情を吐いて貰わないと。事によっては死ぬよりも辛い目にあってもらいます」
シルミーの言葉は確かに事実だ。
だが正確に伝わっていなければ意味がない。
ローはローで、さっき指摘したばかりの言葉をまた間違った使い方をしている。
――いや、俺は不死賢者の呪いで一度死んでも不死者化して蘇るのだから、実はそれは実行可能で、ローの言葉は絶対に間違っているという訳ではないのか。
「……ハモハモだ」
俺は自分を指さして、まずは自分がシルミーの言う恩人である事を伝える。
「そして、この腕輪はその代償として押しつけられたものだ」
そう――今、思い出しても、あれは絶対に貰ったとは言わない。
あの半透明で半裸の女性は、俺にこの決して取り外せない腕輪を身に着けさせてから、一方的に差し上げると言った後、同時に絶対に外すなとも言った。
断じて貰い物な訳がない。
「それは……誰にですか?」
「それは御前の方が良く知っているんじゃないのか?」
「まさか――」
ローが驚きと共に言葉を失い、瞳を閉じる。
そのローは端から見ている限りは何もしていないのだが、俺の知識では、ローは念話といった感じの交信を今まさにしているのだという事を告げていた。
だが、俺は知っている。
その相手がもう彼の中には存在しないという事を。
「――どうやら、少し特殊な事情がある様ですね」
少しとは、随分と軽い評価だとは思うが……。
「……みたいだな。それより、もしこの腕輪を返して欲しければ、別に俺は返しても良いと思っている。代償も別にいらない」
「本当ですか?」
「私がただで貰っても良いの!?」
「いや、御前にはあげない。シルミー」
「ケチー」
「まぁ、とりあえず座れ、ロー。立ったままいつまでも話しているのは疲れるだろう? ゆっくり朝食でも取りながら話をするとしよう」
「……ありがとうございます」
含む所は幾つもあるが、とりあえずといった風にローが礼の言葉を口にして、俺の対面へと腰を下ろした。
すぐ横には、酒の香りを辺りに撒き散らし続けている空樽があったが、ローは全く気にしない様だ。
そのローのすぐ側をたまたま通り過ぎていった者が、ローの方へと振り返り、しかめた顔を俺に晒す。
あの席にだけは俺もシルミーも座らなかったのは、やはり正解だった様だ。
「あ! リーブラちゃん、おはよー」
そしてようやく、もう一人の役者が姿を表した。
導士の少年と、踊り子の猫娘と、占星術士の我が主と――まだ何者でもない俺、と。
これからパーティーを組んで迷宮へと潜る4人の運命が、ようやくここで交差した。
「さて、話を始めるとしようか。今後について、な」
柄ではないが、ここは主導権を握っておいた方が今後何かと便利そうなので、それとなく俺は口火を切る。
やはり何事をするにしてもリーダーは重要だ。
それに戦闘能力のない俺が今出来る事はかなり限られている。
貢献という意味でも、俺がこの4人のパーティーをまとめる役を担った方が何かと都合が良いだろう。
「何故、ハーモニーさんが仕切るのでしょうか?」
――が、その後の話で、結局この少年、自分は風の導士であると遅れて自己紹介したフェイト・ジーン=ローが、パーティーの主格という事で話がついた。
まぁ……俺は別にリーダーを本当にやりたかった訳ではないからな。
あんな面倒な役職は、やりたい奴がすれば良いだろう。
2013.05.26校正
2014.02.13校正




