第16話 襲われる者の気持ち
夕刻前の時間。
シルミーが約束通りにエーベルを雇い俺を連れ出す前に出来た束の間の自由時間に、俺が多くの情報を仕入れる事に成功した理由。
それが、この食事所というか酒場でもある宿付きの店の中で既に出来上がっていたドワーフのガルゴルだった。
彼は仲間と共に村を訪れたらしいが、ここ数日間は休暇という事で、彼の大好きなお酒を夜になる前から飲み始めたという。
迷宮に入れば暫く酒が飲めなくなるので、ここ数日の鬱憤を晴らす様に、また飲めなくなる前に飲み貯めするために、がばがばと酒を飲み続けていた。
ただ一人で黙々と。
泊まり客達の寝室がある上の階から下りてきた俺がその姿を見つけ、一人である事と、酔ってはいても意識はしっかりしている事と、ドワーフという種に興味を持った事と――色々な理由が重なり、俺は情報収集するための最初の相手としてガルゴルに話し掛けた。
結果、嬉々として捕獲された。
酒を飲むととてもお喋り好きになるらしいガルゴルは、酒の肴に俺という獲物を手に入れて一気に上機嫌となり、この世界の事をまるで知らない故に色々と配慮した質問を投げかける俺に、まるで気にせず多くの事を語ってくれた。
まるで関係ない事やガルゴル自身の自慢話も多く含まれていたが、俺にとってはまさに重宝する情報源。
だけでなく、気前よく俺にもお酒や食事を振る舞うという大盤振る舞い。
流石に酒は辞退したが、それでも俺は彼に対して多く感謝したのは確かだろう。
――最初の内だけは。
今も軽快に動き続ける彼の口は止まる事がなく。
その口の中に時折消えていく酒の量は留まる事を知らず。
俺が逃げ様としてもすぐに掴んで席に引き戻す力は抗う事を許さず。
適当に聞き流すとすぐに不機嫌となって殺気すら放ってくる歴戦の雄姿たる純血ドワーフの老人の話は、延々といつまでも続く。
第三者の介入があるまでは。
今、彼の側に旅の仲間達がいないのも、その癖が原因だろう。
仲間それ故に第三者とはなり得ない彼等では、理由がない限りガルゴルの話を終わらせる事は難しい。
故に、彼等はガルゴルが飲み始めるとすぐに逃げた――とガルゴルの口から零れ落ちてきた。
理解していても直す事の出来ない癖はある。
この癖さえ注意しておけば、仲良くやっていけるのは難しくないという事を双方が理解しているが故の信頼関係。
たまにだけ交代で酒に付き合ってくれる、という話もガルゴルの口から零れ落ちてきた。
概ね仲が良いのは確かな様だ。
――が。
今、囚われの身となっている俺には、あまり関係のない事だろう。
宣告通り、朝まで付き合わされるのは、もはや確定事項。
疲れた身体を癒す事も出来ず、俺がガルゴルに捕らわれたのをまるで無視して上の階へと消えていったリーブラの助けもなく、シルミーは現れず、給仕をしているウィチアの微笑ましい笑みを受けながら、ゆっくりと夜が更けていく。
「こんな所にいたか、ハーモニー」
「……という訳じゃ。小僧も注意せよ。うん?」
その窮地を救ってくれたのは、またエーベルだった。
「なんじゃ、またお主か」
「酒を飲んでいる貴方とは縁がないと思っていたが、どうやらその限りではないらしいな」
「よし! ならばお主も席に着……」
「約束を果たして貰う。この男を貰っていくよ」
ガルゴルに言葉を言い終わらせずに、エーベルの腕が素早く襟を掴み俺をテーブルから引きはがす。
ガルゴル同様、非常識な力によって引き摺られるが、感謝の気持ちを浮かべながらエーベルに身の行く末を任せた。
ただ、首が苦しい。
窒息しそうだ。
「ぬぅ……約束か。それは仕方ない」
「済まぬな。この埋め合わせは、また後日に」
「そうか! それは楽しみだ。ではその時を楽しみにして酒を飲む事にしよう。待っておるぞ、ハーモニー!」
また俺の意志とは関係なく約束された。
救い出してくれたエーベルには感謝するが、一回限りで終わる可能性があったガルゴルとの付き合いが、どんどん泥沼化している様な気がする。
「酒さえ飲まなければとても付き合いやすい御仁なのだがな。仲の悪い筈のエルフとも普通に接する事が出来る程に。あらゆる種族に偏見を持っていないドワーフというのは、私の知る限り彼以外にはいない。顔も広いし、懇意にしていて損はないだろう」
「出来れば懇意にするのは酒が入っていない時に限定したい」
「そこが彼の困った所なのだ。酒の付き合い前提でなければ懇意にはなれない。まぁ、頑張る事だ」
別に俺はそれを望んでいる訳ではないので、頑張りたくはない――のだが、この村に滞在している間だけならば、ガルゴルを情報源にするのは悪くない案だ。
後一回ぐらい酒に付き合って好感度を上げた後、酒を飲んでない時を見計らって話し掛ける事としよう。
迷宮に潜っている間は飲まないとも言っていたので、彼の仲間とも近況の動向を聞き出せる程度には多少顔見知りになっておくべきか。
同じ苦悩を知っている仲だと言えば、口も軽くなるだろう。
「エーベルも、たまにガルゴルの酒に付き合っているのか?」
「いや、私はいつも遠慮させて貰っているよ。お互い色々と事情通でね。うっかり口を滑らしてしまうと困ってしまう事態にも陥りかねない。それに、彼と仲良くするには互いの酒癖の相性が悪すぎる」
「下戸か?」
「酒乱狂だ。重度の」
「それは怖いな」
などと話している間に、目的地に着いたのかエーベルの足が止まった。
階段を二つほど登った先、宿屋3階の一室。
上の階に行けば行くほど良くなっていくとガルゴルは言っていた。
その分、宿泊費も急激に跳ね上がっていくのは聞くまでもない。
ノックをする事もなく、エーベルはその部屋に入っていく。
つまり彼女は一人でその部屋を使っているという事だろうか。
「さぁ、入りたまえ」
「――お邪魔する」
部屋の中は思っていたほど広くはなかった。
2階の一室で目を覚ました身なので、流石にそこよりは幾分か広い様だが、置かれている家具の量は逆に少ない。
寝台と、羽織掛けと、小さなテーブルが一つずつ。
むしろ下の階よりも質素な部屋となっていた。
2階が一人部屋で、3階は二人部屋だと言われても、納得は出来そうになかった。
「ああ、こらこら。施錠を忘れるな。声が外に漏れてしまうだろうが」
言われて、俺は後ろ手に閉めたドアの方へと向きを変え、それらしき物を探す。
ドアを閉めれば勝手に鍵が掛かるタイプでも、クルッと回転させてブロック状の物を壁に突き入れるタイプでもない、しかしよく見かけるタイプの施錠具がそこにはあった。
棒状のそれを横へとずらし、壁側に付いていた穴の中へとその棒を差し込む。
極単純な機構であるそれの使い方を間違える訳もなく、それだけでこの部屋は外部からの侵入を拒む密室となった。
「――これで良いのか?」
ちょっとした戸惑いを覚えながら、しかし自然な動作を心掛けて俺は振り返る。
「良い訳がないだろう?」
まるで悪戯をして怒られてしまった様な緊張が走った。
いや、大丈夫な筈だ、俺は何もいけない事はしていない。
施錠をしろと言ったのはエーベルの方なのだから。
「まさかとは思っていたが、これの使い方も知らないのか。田舎から出てきたばかりの無知な輩だろうと当たりは付けていたが、まさか本当に無知だとはな。理由を詮索する気はないが、限度というものがあるぞ?」
そう言いながら近づいてきたエーベルに、俺は一歩横にずれてドアの前から退く。
そしてエーベルが何をしようとするのか、その一挙手一投足へ意識を集中させた。
「防音結界ぐらいは殿方の手で施して欲しいものだな。いや、それは言い過ぎか。これを必要としない環境で育ったのであれば、知らなくとも当然か。だがな、それはそれとしても最低限ともいえる世界の常識ぐらいは身に着けておかないと、すぐに酷い目をみることになるぞ、ハーモニー。今はまだ仲間が注意してくれている御陰で問題は起きていない様だが、いつまでもそういう訳にはいくまい。君の無知が、失敗が、その甘えが仲間に危機をもたらす事にもなるとその頭に叩き込んでおけ」
僅かに一秒、閂錠に手をかざしただけで、エーベルはドアから離れていった。
それ以外は何もしていない。
にも関わらず、俺の耳に届けられていた部屋の外からの響いてくるあらゆる騒音の音色が突然に止んだ。
エーベルがいったい何をしたのか、それはだいたい予想が付いていた。
ガルゴルから仕入れていた情報と、森で見た戦闘風景と、そして俺の持っていた知識とが合わされば、それが間違いなくこの世界の真実である事は容易に想像出来た。
故に、エーベルがマジックアイテムである閂錠に法術を掛けて、言葉通りの結果を発生させたのは俺にとって驚きの光景では既にない。
問題は、それを俺には使えないという事、知覚すらも出来ないという事。
いや、リーブラの言葉からして、それはまだというべきだろうか。
「――理解している」
そう答えた刹那、エーベルの腕が俺の胸ぐらを掴み上げていた。
「折角だ。情事の前に、ずっと感じていた事を言っておく。君の言葉は、随分と軽い。それすらも君は理解しているぐらいには頭は回る様だが、そこから先へ進む努力というものを君は持ち合わせてはいないのではないかね? 望めばそれなりの事は出来る力を持っていながら、それを成さないのは何故か。傍観者である事を君は望んでいるのか?」
あまりにも静かすぎるため、服の擦れすらハッキリと耳に響いてくる。
だが、事情を知らない、たった一日すら一緒にいなかった者からの言葉など俺の心にはまったく響いてこない。
彼女が他人に優しく厳しい性格をしている事は分かったが、それすらも僅かな間だけ一緒にいた俺の単なる思い込みに過ぎないので、分かった等と言うにはおこがましい限り。
ただ、折角の忠言だ。
彼女のその言葉を心の中に留めておくのは悪い気はしなかった。
「そんな事よりも、俺に用事があったんじゃないのか?」
返す言葉に迷った挙げ句、俺の口から出てきた言葉はなんと情けない事だろう。
だがエーベルも自分が行っている事を理解していたのか、俺の言葉に怒りを覚える様な事はなく、そっと手を俺から離す。
爪先立ちとなっていた俺の身体が、ようやく全体重を思い出して床を踏む。
「――失礼した。私も少し緊張している様だな。座ってくれ、ハーモニー」
「どこにだ?」
「見て分かるだろう、寝台の上だ。それ以外にどこがある?」
「床」
「堅い所でなぞ、私は嫌だぞ。さぁ座れ、ハーモニー」
別に堅かろうが、座るぐらいならば何も問題はないんだがな。
勧められるままに、俺は寝台に腰を下ろす。
そのすぐ隣にエーベルが座る。
「――で、用件は?」
平静を装うのは結構辛い。
これほど静かな状況では、乱れ掛けている呼吸の音すら注意しなければエーベルに聞こえてしまう。
シルミーでもいれば……猫の方だが、あのシルミーがいればいくらでも気を紛らわせる事が出来るのだが、ドアに施錠が施されている以上、奇跡的にもこの部屋に潜り込んでくるという事態は起こりえない。
ふとテーブルの上に視線を移すと、そこには水差しに入った液体が鎮座していた。
「喉が渇いたな。少し待ってくれ」
その俺の視線に気がついたのか、エーベルが水差しを手に取り、すぐ近くに置いてあったコップに注いでいく。
そして片方を俺に渡し、再び俺のすぐ隣へと腰を下ろす。
腕同士が触れ合うが、エーベルが気にしている様子がないので、俺も気にしない事にした。
「ありがとう」
口を付け、その中身が予想していたものではない事を確認する。
強くはないが、弱くもない酒の味。
生温い無色の液体が口の中に広がり、何ともいえない不愉快さがこみ上げてくる。
しかし吐き出す訳にもいかないため、そのまま喉を通して胃に下ろした。
「フフフっ……水だと思ったかね?」
何だか少し妖艶さの増したエーベルの瞳が俺の横顔を見つめていた。
「普通はそう思うだろうに。あまり酒は好きではないんだがな」
「私は好きだよ。気持ちが随分と軽くなってくれる」
「理解は出来るが、賛同は出来ないな」
「フフフっ……それはどうしてかね?」
何やら笑みがおかしい。
まぁ、酒が入ったのだ、少しぐらいは無遠慮にはなるだろう。
「俺の身体が酒を欲していない。むしろ拒絶している様にも思える。胃に落ちた酒が少なからず俺にダメージを与えている様な気がする」
「ハーモニーは酒の精霊に愛されていないのだな。可哀想に」
「なに、人生の楽しみ方は他にも色々ある。酒で半分も占められるよりは自由がきいて俺には丁度良いくらいだ」
「そうだな。楽しみなどいくらでもある。ハーモニーはそちらの方が良く似合う。フフフフ……」
エーベルが腕を絡めてきた。
ふくよかな胸の感触が俺の思考を半分程を奪い去る。
ただのスキンシップだ、問題ない。
「飲まないのであれば私が貰うよ。私は酒が大好きだからな」
「ん? ああ、構わない。飲んでくれ」
「では貰うとしよう」
何故か俺が口を付けた場所をエーベルは選んで、一息に飲み干した。
いや、気のせいだろう。
たかが間接キスなど気にする程の事でもない。
「ああ、うまいな」
「――その喜びを共に分かち合えないのは、俺も少し残念に思っている」
「ならば異なる情事で共に喜びを分かち合えば良いだけの事だろう。クックックックッ……」
「?」
何だかどんどんエーベルの様子が怪しくなっている気がするのは、まったく気のせいではないだろう。
そう思っている内に、水差しに入っていた液体がどんどん減っていく。
そういえば、何かを忘れている様な気がする。
さて、何だったか。
腕に押しつけられている柔らかな感触のせいでうまく思考がまとまらない。
「そういえば、村に着いた時の用事はもう済んだのか?」
とりあえず手近な話題で気を紛らわせながら、記憶に眠る重要ワードを引っ張りあげるとしよう。
「ああ、済んだよ。なに、大した用事ではない。たまに必要になる事だ。いつもの様に、滞りなく了承を貰えたよ」
「いつもの事なのか。特に問題なければ、それが何か聞いても良いか?」
「ああ、良いよ。君を買った」
しまった。
振る話題を間違えた様だ。
この誘惑に満ちている状況に対して、出来る限りそんな訳がないと自身に言い聞かせていたのが災いした。
これは、そういう事か……。
「――そ、そうか。俺を買ったのか……」
「仕事の報酬を貰わない代わりに、ね。最初は悩んだものだが、ここ最近は手頃な者が村に来なくてね。仕方なく君で我慢する事にしたよ」
やばい、逃げなければ。
いや、だがこの状況は十分に美味しい。
しかし俺が思い描いた事がされるとは限らない。
何をされるか分かったものではない。
売り払われたのだ。
最悪、命を奪われる可能性もある。
だが俺の直感はそうはならないだろうともいっている。
いや、だとしてもこれは俺の望む形ではない。
俺は――硬派だ。
「私は体質上、定期的に――を吸わねばならぬのだ。別に絶対という訳ではないのだが、私も嫌いではないのでな。御馳走にありつけそうな時はあまり迷わない事にしている」
「拒否する」
「そういう事を口走る唇は塞いでしまうとしよう」
言う程に拒否の姿勢を取っていない俺の身体が易々とエーベルの腕によって組み伏され、上体を後ろに倒されると共にエーベルの唇が俺のそれに押しつけられた。
歴然とした力の差によりはね除ける事も出来ず、柔らかな感触が唇と胸と足と腕とあらゆる場所で発生する。
「抵抗は無意味だ」
一瞬、唇を離したかと思ったら、その台詞だけ吐いて再び俺の口が封じに掛かる。
暫くそのまま押しつけられた。
エーベルの強引な接吻に、俺は為す術もなく彼女の舌から酒の味を味あわされる。
舌と舌が絡み合った。
エーベルの方から衣擦れの音がする。
俺の舌を味わいながら、肌を隠している服を脱ぎ去ろうとしているのだ。
抵抗のなくなった腕を彼女との間に潜り込ませる。
それに気が付いたエーベルが、よりにもよって胸の方へと俺の腕を導いていった。
そしてそのまま胸の間に挟み込み、俺の腕の動きを封じてしまう。
「少しは落ち着きたまえ。やりにくいではないか」
俺の応えを聞きたくないのか、またすぐに塞がれる。
そろそろ呼吸困難に陥ってもおかしくない――いや、恐らくそれを狙っているのだろう。
まずは体力を奪う作戦か。
逃れるための策を思案する。
服を脱ぐ時に生じた隙をついて、身体を回転させる。
唇同士の圧迫と、胸による腕の圧迫から解放されたのも束の間、エーベルの両腕が俺の身体にしがみついてくる。
却って情事を高めている気がしないでもなかったが、俺はその腕から逃れるべく寝台の上を匍匐前進よろしく腕の力だけを使って僅かにずつ進む。
その俺の頭がワシッと掴まれ、寝台の上に強く押し付けられた。
「そういえば、まだ身体も拭いていなかったな」
もう片方のエーベルの手が俺の服を掴み、引き千切る。
引き千切るな!
寝台とキスしている俺には、そんな抗議の声も上げる事が出来ない。
「貧相な身体だな。鍛え方が足りなさすぎるだろう。弱い筈だ」
俯せになっているため、背中に馬乗りしているエーベルに俺の腕にはうまく力が入らない。
せいぜいが腰や太股を掴む程度。
綺麗な肌に爪を立てる訳にもいかないので、俺の攻撃はエーベルにとってはほとんど愛撫にしか感じていない様だった。
「水は……酒で良いか」
引き千切ったばかりの俺の服に酒を染み込ませて代用しているのだと分かったとしても、それはこの状況下に於いて何の解決にも繋がらない。
ゴシゴシと痛いぐらいの強さで背中から拭かれていくのを、俺は精一杯の抵抗を試みながらも、ただ受け入れる事しか出来なかった。
その次の瞬間。
エーベルの舌が俺の背中をペロッと嘗めていた。
「流石に酒の味はせぬか。楽しめるのは酒の香りだけだな」
そのゾクッとした狂乱じみた行動に、俺はようやく忘れていた言葉を思い出す。
酒乱狂。
それも重度の。
「夜は長い。お互い、じっくりと楽しむとしよう」
それから、本当に長い夜が始まった。
2013.05.26校正
2014.02.13校正




