第1話 風の導士
「近いですね」
生い茂る木々の間を疾走するフェイトの足並みは軽い。
珍しく心を高揚させている主フェイトの様子に、従者であるフィレスの不安はより一層に深くなっていく。
だがその思いを言葉には変えず、短く同意の言葉だけをフィレスは返す。
ただ暗いだけでなく不気味な森の中を、ただ一人、少年だけが走り続ける。
身軽な軽装。
胸元を空けられた、手首までと膝上までを包み込む上衣を少年は身に着けている。
その腰の付近では不自然な窪み。
本来ならば腰帯によって締められている筈の部分には、しかしそれらしき帯は見当たらない。
服の内側に隠された腰帯に固定するという、非一般的な固定方法が施された高級品。
下半身には、それと同じ色で彩られたズボン。
裾は脛半ば上まであるブーツの中へ。
空気を多く含んでいそうな、ゆったりした服装の中で見える装飾品は、右腕手首にある腕輪のみで、それ以外は何も無かった。
その上から同色のマントを羽織っている御陰で、ようやく導士には見えるかもしれないだろう少年の前方には、夜の帳が落ちた、ほぼ闇色に染まる森。
月の輝きにより照らし出される光は、僅かな木漏れ日程度。
とても全力で疾走するには心許ない光。
だが、前進を遮る木々の位置をほぼ正確に把握していた少年は、目的の場所へ辿り着くまでに疲れ切ってしまわない程度にはやや調整されてはいるが、ほぼ全速力で前へと突き進む。
大地を踏む足は軽く、しかし大地を蹴る力は鋭く。
まるで飛び跳ねる様に、時には木々すら蹴り進む。
走るというには速すぎるフェイトの疾走に、夜闇の森が蹴り足ごとに悲鳴をあげる。
その悲鳴すらすぐに遙か後方へと消え、暫くして舞い落ちてくる木の葉が地面に辿り着く頃には、彼方からの悲鳴すら既に聞こえてこない。
(目で見ず、風を読んで走る――走法は、それなりに会得出来ている様ですね)
ほとんど闇、と言ってもいい障害物だらけの森の中を高速で疾走するフェイトの動きに、フィレスが心の中で感想を述べる。
(ですが、隠業の術はまだまだ未熟。一歩ごとの重心バランス、力の方向と強さ。風の力に頼りすぎて、身体の扱いが疎かになっています。進む事は出来ても、急な方向転換や突発的な事象への対処は難しいでしょうね)
失格点の烙印が押されている事を、勿論フェイトは知らない。
常日頃であれば気付いていただろうが、今のフェイトにはそちらへと意識を向ける気が無かった。
夜が、戦場を前に更けていく。
徐々に冷え込む大気。
刺す風が高揚するフェイトの熱を奪う。
だが、それが近づくに連れてフェイトは自分の心が鋭くなっていくのを感じていた。
奪われていく体温が、まるで研磨されているかの様に体中の神経を緊張で張りつめられていくのが分かる。
かつてない感情の高まり。
自分でも知らなかった、自身が持つ感情の形。
風を操る導士である自分を襲うもの。
それがいったい何なのかは分からなかった。
ただ、それが今一時の感情では無い事だけはよくわかる。
はやる気持ちを抑えきれず、自然と前へと進む速度は上がっていった。
前方周囲を調査するために使う魔力の量も多くなっている。
障害物を避けるために大気を操り、より速く進むために風の力を利用した。
だが、疲れは微塵にも感じていない。
自分の力を過信する訳ではないが、今なら何でも出来そうな気がする。
そう思わせるそれが、いったい何なのかは、やはり分からなかった。
故に今は考える事を止め、素直にその流れへと乗って――。
その身を、その先にある運命を――ただ天にのみ任せる。
『……フェイト』
しかし、フィレスの言葉はフェイトには届かない。
(この先に待ち受けている者達の力は、貴方の力には遠く及びません)
フェイトよりも遙か広域を感じ、フェイトよりもより正確に把握する事が出来るフィレスには、既に、どこに、どれだけの数の、どれだけの強さを持った魔者が待ち受けているのかを察知していた。
そのどれもが最下級ともいえる雑魚ばかりであり、例え数が多くともフェイトが手こずるには至らない。
油断していたとしても、意表を突かれたとしても、手を抜きすぎたからといって、フェイトが持っている力を良く知っているフィレスには、到底負ける要素にはなりえなかった。
(――ですが、私の心に陰るこの不安は、いったいどこからやってくるのでしょうか?)
幾ら考えたとしても、その答えを見つける事は出来なかった。
(私がただ心配性なだけなのでしょうか? しかし……)
それがフェイトにとって初めての戦いである事が原因なのではないかと考えてみる。
我が子同然でもあるフェイトに、親の様な存在として過剰の心配をしているだけなのか?
(……しかし、貴方を止める理由が私にはありません)
フェイトが制御の出来ない感情に振り回されている事は分かっていた。
だが、何れは通らなければならない道である。
それは意図していた時期ではなかったが、早くて悪い訳ではない。
むしろ、目に見える不安要素が何も無い、それでいて初めての経験である今この時の初陣に訪れた事は、ある意味歓迎すべき事態でもあった。
(信じる――べきなのでしょうね)
しかし、その答えに確信がどうしても持てない。
それがいったい何なのか、分からなかった。
「もうすぐ……」
今度は独り言として少年が呟く。
そして唐突にその歩みを止めた。
マントがその急な制止に、フェイトの全身に強く絡みつく。
その肌を打つマントの絡みすら、フェイトは心地良く感じていた。
しかし冷静を装い、いつも以上に笑んでいた顔を強く引き締める。
大きく深呼吸をする。
既に禍々しく澱んでいた空気が肺の中に取り込まれる。
『……』
もうフィレスは何も言う事はなかった。
戦いに取り込まれてしまった愛しき我が子を無理矢理にでも止めてしまいたかったが、それは却って歩みを始めた少年のためにはならないだろう。
今はただフェイトに気付かれない様に影ながら支援し、全てが終わった後でみっちりと罰を与えようと思う。
それこそ、今フェイトが感じている感情がいったい何であるのかを、その身体に深く刻み込む程に。
体内に取り込まれ、幾らか浄化された空気がフェイトの口から吐き出された。
そして、風の魔導士が、戦場へと襲い掛かる。
2013.04.13校正
2014.02.13校正