第四話
4
忍のマンションまで走りながら、最近、俺を部屋に呼ばなくなったのもストーカーのせいだったのかって気付いた。
俺の部屋に泊まらなくなったのも。
送らせなくなったのも。
…そう言えば同じビルで働いているのに、何時のデートも現地集合だったよな。
あれもストーカーのせいか。
ストーカーの目を誤魔化す為にいろんな策を練って、実行して。
全部、全部、…ストーカーの嫉妬から俺を守る為か……?
「…っ…どこまで男らしいんだよおまえは…!」
情けない。
俺、本当に情けない。
こんな男、いつ見捨てられたって当然なのに、それでもおまえは俺を守ることを考えてくれていたんだ。
そんなおまえに、俺は何を言った?
『俺、もう止めるわ』
『おまえ…その、女みたいな顔してるからいっかなと思ってたけど…』
なんで、あんなふざけたことが言えたんだろう。
「忍…っ」
あんな勝手なこと言われて。
殴ることもせずに別れを受け入れたおまえは、どんな気持ちだったんだろう。
「忍…しのぶ……っ!」
走った。
とにかく走って、久々にやって来たあいつのマンションは、しばらく振りでも変わっていない。
ストーカーに狙われていたって、アスファルトの通路を走る子供の賑やかな声はするし、奥さん達の井戸端会議だって相変わらずで、正面ホールの管理人室で新聞を読んでいるオヤジの姿も同じだ。
誰が来ても、こちらから話しかけない限り新聞から顔を上げないオヤジは、はっきりいって防犯の役には立たないし、監視カメラやその他の類も一切設置されていないんだからストーカー野郎には随分と都合のいいマンションだ。
「だから家賃安くていいんだよ」なんて忍は笑っていたけど、こんなことになっても、同じことを言うのか?
「…っ…」
階段上がって四階“406号室”まで駆け寄り、呼び鈴を鳴らす。
でも返事はなくて、時間を確かめようにも、腕時計も携帯電話もどっかに置きっ放しだ。
「…っはぁ…」
空を見上げれば、まだ明るい。
今日は平日。
この時期、この明るさの時間帯を予想すれば、忍はまだ会社だろう。
「…そっか、会社…」
そっちに行こうかな…とも考えたけど、行き辛い。
俺はもうあのビルとは無関係だ。
まだ退職金はもらってないけど、余命二月と宣告された時に退職願いを提出した。
一応、身体を壊してしばらく入院が必要になったからとは話したけど、膵臓癌だとは言わなかった。
癌で余命わずかなんて説明するのは、なんか嫌だったから。
「…」
俺は忍の部屋のドアに寄り掛かって、その場に座った。
…腹が痛い。
無我夢中で走ってきたけど、そうだよ、俺の体、壊れていたんだ。
「っ…」
病院からここまで一時間近くも走ったら、健康体だって辛いだろ。
この体でそんなことしたら、具合も悪くなって当然か。
「…忍…」
こんな体で、あと一月くらいしか生きられない。
自分が死ぬって聞いて、その前にやらなきゃいけないことを頭の中でまとめていったら、忍との関係をちゃんと整理しなきゃならないってことが一番大きかった。
「…っ……」
一月後、俺が死んだら、忍はどうなるんだろうと思った。
俺と恋人同士だったなんて、きっと言えない。
友人のフリして焼香を上げに来て、後ろの席で、会社の同僚なんかと一緒に俺を見送ってくれるんだろうか。
だけど、それは嫌だと思ったんだ。
本当は誰より傍に居て欲しくて、家族より近い場所で見ていて欲しいのに。
その場にいる全員に、忍は俺が世界で一番愛した相手だ、って。
そうやって皆に認められた中で、見送って欲しいと思うのに、それは絶対に叶わない。
だって男同士で恋愛しているなんて親には告白出来ないだろ。
俺は死ぬからいいけど、これからも生きていく忍のこと考えたら絶対に出来ないって思ったんだ。
だから、それならさっさと終らせよう。
ここで別れて、恋人でなくなれば、諦めもつくかな。
そうしたら、忍は葬式自体に不参加で、後ろの席で友人のフリしながら見送るなんてこともせずに済んで、その方がよっぽどマシだ。
ずっといい、って。
…なんて勝手な言い分だろう。
「…っ…」
バカだ。
俺は、本物のバカだ。
忍の想いに、こんなことで、今頃になって気付くなんて。
言えば良かった。
親にだって、弟妹にだって、会社の同僚にだって。
俺達は本気で付き合ってるんだってこと。
自慢しまくれば良かった。
「忍……っ」
だってあいつ、俺のこと好きなんだ。
俺があいつのこと好きなのと同じくらい。
それこそ、自分のストーカーからも俺のこと守るくらい。
こんなに想って、想われて。
こんなに幸せな恋人同士が他にいるか?
俺は、俺しか知らない。
忍もそう思ってるって、自信が欲しい。
「…会いたい、忍…」
今すごく、おまえに会いたい。
……会いたいのに、なんか、苦しくなってきた。
寒いし。
ぁ…、目の前がぐらついてる。
「…っ…」
吐きそ…。
だけど、ここで吐いたら忍に殴られるよな。
それこそ寿命縮むぞ、絶対。
「ぅっ…」
やばい。
やばい。
マジで、何か。
……気持ち悪ぃ……―――
………
「…」
俺、生きてる……?
けど視界は白い。
白くて眩しい。
身体は、軽くなった感じがするし。
暖かいし。
…この匂い。
「………しのぶ…?」
いつも抱き締めていた恋人の匂いに気付いて呼んだら。
「!」
いきなり襟首引っ張られた。
「ぁ…っ」
「このアホンダラ!」
「っ」
「てめぇ何考えてやがる! イヤガラセにしちゃフザケ過ぎじゃねぇのか、あぁ!?」
「し、忍…?」
「あぁ俺様だ! おまえがゲロ吐き散らした部屋の住人様だくるぁっ!」
忍だ。
夢じゃない。
幻じゃない。
「…っ…」
「っ、なっ…!」
「しのぶ……!」
会いたかった忍が目の前にいる、それが判ったら抱き締めずにいられなかった。
胸倉掴まれたままでも構っていられない。
この温もりが感じたかった。
「おまえ…っ」
「会いたかった……っ」
「……! なにフザけたこと…っ…俺を要らないって言ったのはおまえだろうが!」
「俺がバカだった」
「はぁっ!?」
「俺がバカだったんだ。おまえのこと、こんなに好きなのに」
「っ……」
「好きなのに…っ」
「おまえ女と結婚すんだろうが…っ」
「忍と一緒にいたい」
「俺にはガキなんか生めねぇぞ!」
「忍がいい」
「…っ…ざけんな……っ!」
「忍が好きだ」
「……っ」
「しのぶが好きだ」
一文字一文字をはっきり強調して繰り返す。
信じてもらえなくても仕方ない。
最初にバカやったのは俺だ。
だから、俺の言うことをもう一度信じてくれるまで何度だって繰り返す。
「好きだ…、忍が、おまえが、すげぇ好き」
「テメェ…ッ…」
俺の腕の中で、忍の身体が震えている。
「いい加減にしろよ! 俺とおまえはもう終わったんだ! もう何の関係もありゃしねぇだろ!」
「そんなのダメだ」
「ダメは俺の台詞だボケ!」
「違う…っ、おまえがそう言うの当然だって解ってるんだ、だけど…っ」
だけど、――どう言えばいい?
ストーカーから俺を守ろうとしてくれた忍にそれを言うわけにいかない。
こいつの性格を考えたらそんなのは逆効果だ。
「…っ…」
それなら言えることなんて、たった一つ。
傍にいたい。
居て欲しい。
だったら、……俺自身がそれを受け入れろ。
「…俺…もう長くないんだ」
「はぁ?」
「末期の膵臓癌で、おまえに別れようって言った時に余命二ヶ月だって言われていた」
「――」
「俺達の関係って公に出来るもんじゃないし、死ぬまで傍にいたって、おまえに何も残してやれない。俺の葬式、会社の同僚に混じって後ろの方に座ってるおまえの姿とか想像したら、何かもう堪らなくて…、だから別れようと思ったんだ」
忍と別れようと思った気持ちを正直に話す。
嘘なんかない。
これは本当に本当のこと。
「だけど、死ぬまであと何日だって考えたら、おまえのことばっかり思い出すんだ。今頃どうしてんのかとか、俺のことどう思ってんのか、とか…おまえのこと考えれば考えるほど、会いたくてたまんなくなった。あんな言い方でおまえのこと突き放して…傷つけて、それすごい後悔しっぶほげっ!」
痛ぇっ!
マジで痛ぇっ!
忍のやつ後頭部で顎に激突してきたぞ!?
「ぃっ…し、忍、いま…!」
「黙れクソッタレ! 嘘つくならもう少しマシなウソ考えて出直して来い!」
「…っ…嘘なんて…」
「もうすぐ死ぬ奴が病院から俺の部屋まで走って来れるか! 大体テメェみたいな暢気な顔した奴が死ぬわけないだろ!」
「しの…」
「うるせぇっ! あぁうるせぇうるせぇ! おまえのくだらない嘘になんか付き合ってられねぇっ! ふざけんな!」
「――っ、俺だって死にたくなんかない!」
思わず声を張り上げた。
顎に響く。
大声出すなんて久々で、心臓の音が聞こえてくるくらい自分自身が動揺している。
「…っ」
俺自身がそうなんだ。
俺が怒鳴るなんて初めて見た忍は、きっと、もっと驚いたと思う。
だけど、もう、…たまんないよ。
「……俺だって……死にたくなんかない…けど医者に言われたんだ、残り二ヶ月だって……もう残り一月もない……それしか…生きら…ない…」
「裕二…」
あ…って、気付いたら何か落ちてきた。
何だろって触ったら、涙だった。
「…っ……裕二…?」
俺、泣いてる?
何で?
何で俺が泣いてるの?
何で、しのぶ、おまえがそんな顔してるんだよ…。
「嘘言えよ…っ…おまえが死ぬわけないだろ…っ」
「忍…」
「嘘だって言えよぉ…っ!」
「忍……っ」
なんかもう、どうしよう。
忍を泣かせてどうするんだ。
…俺が泣いて、どうするって。
「しのぶ……!」
そうだよ、嘘だって言いたいさ。
死ぬなんて、嘘だ、って。
それでおまえに殴られるんだったら、その痛みだって愛せるのに。
俺にはもう時間がなくて。
泣いているおまえを慰めるのだって、この腕しかなくて。
何が欲しいかって、そんなことも聞けなくなった。
「バカ野郎…っ…最低だおまえ…大っ嫌いだよおまえなんか……!」
「……っ」
忍が泣いてる。
俺より全然男らしくて。
俺よりずっと強くて、カッコイイ奴が、声上げて泣いてる。
「バカヤロウ……!」
「ごめん…」
俺には、そんな忍を抱き締めることしか出来なくて。
「ごめん忍……ごめん……っ…」
ずっと、抱き締めていることしか、出来なくて。
「…」
ふと誰かの視線を感じて顔を動かしたら、戸のところに俺の主治医が立っていた。
あぁ、ここって病院だったのかとようやく気付いて、改めて見渡すと、ここは俺が入院している部屋だった。
「……」
部屋の前で倒れていた俺を、どうやってここまで運んだんだろう。
救急車か?
それに、忍も一緒に乗ってくれたのか?
「…っ……」
バカはどっちだよ。
嘘つきはどっちだって?
おまえが俺のこと好きなの、俺はこんなに解っているのに。
「……忍。俺が死ぬまで、傍にいて」
この告白を、俺は戸の傍に立っている主治医の目を見て言った。
この際だ、あんたが証人になってくれって、目で訴えた。
「俺のこと嫌いでもいい……憎まれても仕方ないって、解ってる。…だけど俺は好きだから」
「…っ」
「俺は、忍のことが好きだから」
こいつだけなんだ。
忍しかいないんだ、俺が――。
「だから、俺が死ぬまででいいから…その後は忘れてくれていいから……、俺が死ぬまでは傍にいてくれ」
「……ほんと、最っ低だよ、おまえ……!」
そうやって言うのに、忍の腕は俺を抱き返した。
俺が忍を抱き締める腕より、もっと強く。
強く、抱き返してきた。
「…っ…」
絶対に目を逸らさなかった主治医が、そのとき微笑った。
スッ…と頭下げて、微笑って、音を立てないように静かに部屋を出て行った。
たぶん、あの医者には判ったんだ。
…いや、あの人には判っていたのかな。
「……」
俺は、十二月二十日が医者の予告した俺の命日だとは忍に言わない。
絶対に言わない。
だって、あの医者は言ってたろ。
俺がその日を選ぶんだって。
選んでやる。
その終り方が正しいのか間違っているのかなんて判らない。
あの医者がどうしてその日だと予告したのかも、本当にその日なのかも。
だけど自分の死に方だけは俺にも見えたんだ。
だから、俺が自分の意志で、自分の望む形で、俺の命の刻限を決めてやる。
だって忍しかいない。
俺が、命を懸けてでも守りたいと思う相手なんて。