第三話
3
点滴中の薬をタイヤ付きの棒に引っ掛けて病院の中庭を散歩することにした。
いつまでも病室のベッドで寝ているだけじゃ気が滅入って仕方がない。
窓から見た空が、あんまり綺麗で。
寒いのは判っていたけど、その空の下を歩いてみたくなった。
病院で貸与されたカーディガンを羽織った上に、外出することもあるだろうからと母親が用意してくれていたコートを着る。
顔見知りになった医者や看護士さんと挨拶しながら外に出ると、途端に冷たい北風が吹きつけてきた。
あと一週間で十二月になるだけあって、まだ雪は積もっていなくても外はすっかり冬の様相だ。
葉っぱは全部落ちて周りは枯れ木だらけ。
だけどその分、空が広く見えて、冬独特の空気と匂いが、入院生活でダラけた気持ちをピンと張ってくれるように思えた。
「…気持ち良いな…」
今年は雪の積もった景色を見ることが出来るだろうか。
ヘタするとクリスマスぎりぎりまで積もらないこともあるからな。
「んっ……」
手足を思いっきり伸ばして深呼吸。
久々の外は、本当に気持ちが良くて。
病院の中庭をぐるりと歩いて回っても、まだ病室には戻りたくなくてベンチに座ったら、…そのままぼぅっとしてしまっていたらしい。
「いつまでそうしている気なの?」
「えっ…」
急に声を掛けられて驚いた。
知らない内に、隣に女が座っていた。
…かなりの美人だ。
美人というより可愛いタイプか。
まだ十代、…いや、二十代前半かな。
ふわふわの髪とかが、空に浮かんでいる雲みたいだ。
「…いつからそこに?」
「五分くらいかな。ぼぅっと空見てる貴方の顔が可笑しくて、いつ私に気付いてくれるかと待っていたんだけど」
「それは…それは」
謝るのも妙だ。
適当な言葉が見つからなくて誤魔化す俺に、彼女は小さく笑うと、
「入院しているの?」って聞いてくる。
俺の格好見て解らないのかなと思ったけど、そう言うのは八つ当たりみたいでみっともないから笑ってやる。
「そ。二週間くらい前から」
「そうなんだ。…でもすぐに退院出来るんでしょ? 元気そうだもんね」
何か気に障る言い方だ。
けど、八つ当たりは絶対にしたくない。
「ははは〜、俺も自分は元気だと思ってんだけど、残り一ヶ月の命らしいよ」
「一ヶ月? 嘘でしょ? そんな元気なのに」
「医者が言うんだから間違いないだろ」
「ふぅん…」
彼女は怪訝な顔つきで俺をじぃっと見ていたかと思うと、ふっと目元が緩んだ。
「そう。残り一ヶ月…」
小さく呟き、何かを考え込む様子。
「…俺の寿命がどうかした?」
さすがにイラッとして言ってやると、彼女も少しは悪いと思ったのか。
「あぁ、ごめんなさい。ちょっとビックリしたのもあって…」と、動揺を隠すようにふわふわの髪を弄った。
それから、言葉を選ぶように話し出す。
「突然…こんな話、怪しいと思われるの判っているんだけど、…人間の寿命って、いつ決まると思う?」
「――はい?」
「質問変える? じゃあ死んだ人間の魂って誰が迎えに来ると思う?」
「………宗教の勧誘?」
「残念。ハ・ズ・レ」
彼女は面白そうに笑った。
「別に勧誘とかじゃないし、私も宗教には興味ない」
「…けど、あんた、かなり怪しい話しているぞ」
「やっぱり?」
言いながらクスクスと笑う彼女は、やっぱりどこか怪しかった。
そろそろ適当な理由をつけて病室に戻ろうかと思い始めた俺だったけど…。
「でも聞いて損ないと思うよ? 人には命の終わり方が二種類あるって話、他じゃ聞けないでしょ?」
「――終り方が二つ?」
「そ。死神様が迎えに来る正しい終わりと、天使が迎えに来る間違った終わり」
「……それって逆じゃないの?」
「逆?」
「予定外の方が死神じゃないのかって」
「どうして? 死神様は神様。正しい時に死んだ人を迎えに来るのが、死神様の仕事よ」
「…」
やばい。
実はこういう話って嫌いじゃないんだ。
最後まで彼女の話を聞いてしまいそうだ。
「だから、死神様が迎えに来る死は正しい終わり。恐れなくていい、来るがままに受け入れればいいわ。でも、天使が迎えに来る死は、間違った終わり。外部からの力によって理不尽に命の時間を絶たれることなの。――さぁ、貴方の一ヵ月後の死は、どちらの終わりなのかしら?」
「――」
いきなりそんなことを聞かれても、咄嗟に答えなんか出てこない。
…答えなんか判らないけど、病気で医者に余命二ヶ月を宣告されたんじゃ、外部からの力も何もないと思う。
「死神、じゃないか?」
こんな質問の答えに自信なんかなかったけど、そう答えたら彼女が笑った。
その笑い方が、…どう言えばいいのか。
すごい意地が悪そうだ。
「なんだよ」
「ううん、そっか、そうかぁと思ってね」
意味深な言い方をして立ち上がった彼女は、
「じゃ、私はこれで」って行ってしまおうとする。
「え、ぁ、ちょっと待った…っ」
「なに?」
「――」
呼び止めたのは俺なのに、振り返られたら言葉が出てこない。
「あ…あのさ、あの…、もし…」
「ん?」
「もし…俺の一ヶ月後が、天使の迎えだったとしたら……」
「諦めるのはバカよ」
「――」
はっきり言い切られて、可笑しくなった。
「あんた面白いな」
「ヘンな貴方に言われたくないけどね」
彼女が俺の顔を見て笑う。
今の笑い方は、可愛かった。
「やっぱ俺ヘン?」
「一ヵ月後に死ぬって人間の顔じゃないわ」
「俺、死ななさそう?」
「貴方次第じゃない?」
「医者に死期を宣告されてんだぜ?」
「なのに、笑っていられるの?」
「――」
返す言葉が見つからない。
彼女は笑って、去っていった。
そうなんだ。
言われて見れば、その通りで。
死ぬって言われたのに笑えている。
後悔ないとか、我儘は言えないとか、言っているけど。
だって。
だってさ、笑うしかないんだ。
実感ないんだ。
あと一ヶ月で自分が死ぬなんて。
俺はこんなに元気だし。
死ぬと言われても妙に頭の中が冷えてきて、親を泣かせちゃいけないとか、忍と別れなくちゃいけないとか、そんなことばっかり浮かんで、自分が死ぬってとこだけ幕掛かったみたいに見えなくなるんだ。
この身体がどうなっているのか、俺には見えない。
医者に死ぬって言われても、俺には明日の自分が分からない。
――……貴方が、その日を選ぶからです……
主治医が言った。
十二月二十日を俺が選ぶ。
――選ぶ、ってどうやって?
「ぁ…」
気付けば戻って来ていた病室に、いつの間にか見知らぬ少年が立っていた。
少年と言うよりも、まだ全然子供だ。
外人っぽい顔立ち。
無言で、こっちをじっと見ている。
夕陽が差し込む窓を背後に、凛とした立ち姿。
真っ直ぐに向けられる眼差しが、怖くて。
「っ…」
無意識に足が退がる。
病院で遭遇する、こういうシチュエーションって、…幽霊か?
死期宣告なんかされて、こんなのまで見えるようになったのか?
「…っ……」
だけど。
幽霊って、もっと白くて儚いものだろ。
夕陽に照らされて、こんな凛としていられるか……?
「ぁ…、…ぉ、おまえ…誰…」
動揺と困惑で口もまともに動かない。
「っ…おまえ…誰…っ」
繰り返した俺に、少年はやっぱり何も言おうとしない。
ただ、腕を広げた。
「…っ!?」
その腕から、何かが落ちた。
一つや二つじゃない。
もっと大量に。
ぼたぼたと、似たような白い封筒だ。
「おまえ、それ…っ!?」
説明しろって言いたくても言葉が出なくて、怒鳴るみたいになった。
だけど、少年はやっぱり一言も喋らずに、何も落ちてこなくなった腕を下ろした。
そして部屋から出て行く。
ちゃんと戸を開けて、自分の足で出て行った。
「………ンだ、今の……」
俺は呆然としながら、少年が落としていった物を見下ろした。
全部、封筒だ。
わりと幅のある、白い封筒。
中には何が入っているのか。
宛名は、書いていない。
「何だってンだよ…」
ぶつぶつ言いながら、落ちている大量の封筒の中から適当な一つを拾い上げた。
けっこう重い。
「…」
少し悩んだ後で、中を確かめる事にした。
さっきの少年が何者でも、俺に見せる為にこれを散らかして行ったんだと思うから。
だが、そうして見た中身は。
「――……っ!」
写真だ。
何枚もの写真、――忍の。
俺の。
「なっ…これ……!」
撮ると言われて撮られたものじゃない。
どの写真も目線はまったく別の方を向いているし、正体不明のぼやけた黒い物体が端に写っているものが大半で、どこかから隠れて撮ったんだと解る。
何枚も、何枚も。
……これ、全部か?
「っ…」
俺は足元に散らばった封筒を片っ端から開いて中を確かめた。
全部写真だ。
これも、それも、全部、隠し撮り。
「あのガキ……!」
さっきの外人っぽい顔をした奴がこれを撮ったのか!?
頭にきて病室を飛び出した。
あっちこっち見渡して、さっきのガキを探したけどどこにもいない。
いや、けど落ち着いて考えろ。
さっきのガキは、本当にまだ小学生くらいの子供だった。
いくらなんでも、あんな子供がこんな写真を撮るだろうか。
「クソッ!」
吐き捨てて病室に戻って、床に散らばった封筒をとにかく全部拾い集めた。
ベッドの上で山にする。
途中で、まだ未開封があるのに気付いて拾い上げた。
これも隠し撮りかと乱暴に封を切る。
「!」
途端に指が切れた。
「痛っ…」
ボタボタとベッドに血が落ちる。
剃刀が入っていたんだ。
ついでに入っていた写真と、写真に書かれた赤い文字。
…マジックだよな?
血文字とかじゃないよな…? いや、もう充分過ぎるくらい気味悪いけどさ。
マジックだろうが血文字だろうが…、これがストーカーの仕業だって、もう解りまくりだけどさ!
『殺してやる』
『僕の忍に近付く奴は 殺してやる!』
赤い文字で、俺の写真の上に。
カッターか何かで削られた俺の顔の上に。
「…っ」
ストーカーって犯罪行為は知っている。
だけど、こんな身近に、こんなのがいたなんて知らなかった。
…まさか忍がストーカーに狙われているなんて考えもしなかった。
「あのバカ…っ」
この封筒、二週間近く帰っていない俺のマンションに来ていたのか?
最後に開けた剃刀入りの封筒はそれっぽい。
でも違うよな、それとか、これとか。
まるで忍に宛てた手紙みたいなメッセージは、ずっと前から忍の部屋の郵便受けに届けられていたんだろ?
宛名がなけりゃ、切手や住所だって書いてない。
毎日、毎晩、ストーカー野郎があいつのマンションに通って、自分の手であいつの郵便受けに入れているんだろ?
「なのに忍、俺に一言も言わないで…!」
苛立って、そんなことを口にしてしまってから、忍がこんな相談をしてくるわけがなかったって気付く。
だって、忍は強い。
美人なのに口は悪いし。
あの細い身体で、大の男、線路に投げ飛ばすくらいだし。
人のこと誘惑するために全裸晒すような奴だ。
弱音なんか他人に見せるはずない。
本当に強い男だから。
「…っ…」
だから、俺が気づいてやらなきゃならなかった。
「バカは俺だ……っ」
俺は着替えた。
外出することもあるだろうからって親が揃えておいてくれた私服。
久しぶりにパジャマ以外の服を着たら、妙に気が引き締まる。
病院のスリッパも運動靴に履き替えて、目指すは忍の部屋。
「!」
病室を飛び出したら、医者とぶつかりそうになった。
白衣姿に無駄な色気が漂う俺の主治医。
「木下さん、…お出かけですか?」
「お出かけです!」
こっちも急いでいるから日本語ヘンだけど、医者は一瞬だけ黙った後で笑ってくれた。
「五時までには戻ってください」
「ありがとうございます!」
主治医の許可ももらって、俺は走る。
しっかし、やっぱあの医者、嘘くさい。
余命一ヶ月の患者、笑顔で送り出すなよ。
…まぁ、今の俺には最っ高にイイ医者だけどさ。