第二話
2
一人きりの病室は、本当に、溜息しかつかせてくれない。
普段は仕事をしているこの時間、病室にテレビがあったって見る気はしないし、本なんて三行読めば眠くなる。
間違って寝てしまったら、夜に眠れなくなる。
眠れない夜は、長すぎて、気持ち悪い。
「…はぁ…」
あ、また溜息だ。
こんなの一番下の妹に聞かれたら、
「溜息つくと幸せも逃げちゃうよ」と哀しい顔をされるだろう。
職場から病院に運ばれたあの日以降、母親は毎日病院に顔を出す。
父親も可能な限り顔を見せに来て、
「元気か」って聞いてくる。
うーん…まぁ元気かって言われると元気かな。
もう病院からは出られなさそうだけど。
海外の旅行会社に勤務している弟も帰国した。
大学生と、高校生の妹も頻繁に会いに来る。
なんか、不謹慎だけど嬉しい。
この年齢になって、こんなこと思うのも気恥ずかしいけど、自分の死期が近付いていると実感するたびに、そう思うんだ。
俺って愛されているんだな、ってさ。
「あんた昔から聞き分けのいい子だったけど…なんもこんな時までいい子にならなくたっていいじゃないの……」
そう言って泣いたのは母親。
「泣いたり、落ち込んだり…そんなおまえにどうしてやればいいのかも判らんが…、笑うおまえにも…何を言えばいいのか…」
そう言われて、初めて見たよ、父親の涙。
だってさ、そう言って泣いてくれる親、いま以上に泣かすわけにはいかないだろ。
親より先に死ぬなんて親不孝をしようとしているんだし。
自分の不幸しか見ずに済むほど、子供でもない。
だから、俺は泣かない。
八つ当たりもしない。
あの時、なんて自分勝手な言葉で家族を傷つけたんだろう、そんな後悔はしたくないから。
…後悔なんか、もっと早く健康診断を受けておくべきだったなってことだけで充分だ。
その、一つだけで。
窓の外ではたくさんの葉が散っている。
もみじ、かえで、いちょう、白樺。
病院の中庭にはたくさんの木があって、俺が入院した頃には見事だった紅葉も今はほとんど散ってしまった。
ニ、三日前には初雪も降ったし、部屋と外の気温差も大きくなってきていて、最近は空気の入れ替えだって窓を開けることもなくなった。
空の青はすごく遠く、風も感じられない一人きりの病室でそれを見ていると、余計なことばかり考える。
最後の葉っぱが落ちたら自分は死ぬんだっていう童話があったな、とか。
自分が死んだら家族はどんな思いをするのか、とか。
友人や、会社の同僚。
…忍も。
俺のことなんか忘れて、いつか完全に木下裕二って存在はここから消えて。
それが当たり前のことなんだって判っているのに、淋しいとか、切ないとか。
イヤだな、とか。
「…はぁ」
また溜息だ。
ほんと、この憂鬱な気持ち、どうにかして欲しい――。
「…悩み事ですか」
いきなり話しかけられて、俺は自分が検診中だと思い出した。
白衣を着た、妙に色気のある医者は、俺の脈を計りながら話しかけてくる。
「悩み事は内側に燻らせない方がいいですよ。体調のことを考えるなら誰かに…私でもよければ話して下さい」
「はい…」
俺のことを心配して言ってくれているんだとは思うけど、無表情にも艶があって、近寄り難い雰囲気がある人だ。
俺の寿命が残り二ヶ月だと言い切ったのもこの人で――いや、二ヶ月っていうか、十二月二十日だって、命日も指定してくれたんだっけ。
あと一月ちょっとだ。
二十日――クリスマスの五日前。
実は忍の誕生日だ。
「…」
「木下さん?」
「ぁ、はい」
またしても自分の世界に入りかけていた俺は医者に呼ばれて我にかえる。
「…病院にいても、自宅にいても、貴方の状態は変わりませんから、…退院したければそれでも結構ですよ」
「――」
「何か」
「いや…、先生、本当に医者ですか?」
「何故です?」
「普通はそんなこと言わないんじゃないかと思って…」
「………良くないですか」
「ぶっ」
考え込んだかと思ったら、いきなり不安そうな顔で聞いてくる。
この人、本当に大丈夫なんだろうか。
かなり疑問だけど、でも、嫌いじゃない。
「いや、俺的には助かります。変に遠慮されたりとかは苦手だし。覚悟決まるし」
「…」
「俺は、先生が担当医で良かったです」
「……」
へぇ…こんな顔もするんだ。
無表情かと思いきや、今の俺の台詞が嬉しかったのか照れたのか、少しだけ目尻が下がった。
冷たい印象が、優しくなった。
今なら聞けるかな。
「先生、…どうして俺の命日、十二月二十日指定なんですか?」
あと二ヶ月とか、半年とか、そんな曖昧な期間じゃなくて、その日を断言できたのはなぜ?
「それにすごい不思議なんですけど、あと二ヶ月ってことは俺の病状、相当悪いんですよね? なのに薬飲んで、点滴して寝ているだけでいいんですか?」
その薬も食後にカプセル二錠、粉一袋。
テレビドラマじゃ、もっと大変そうに見えたんだけど。
「最近体重減ったとかもないし…本当に死ぬんですか?」
「…」
俺の質問に、先生はしばらく無言だった。
けど、俺が絶対に視線を外さずに見ていたら、諦めたみたいに息を吐いた。
「…医者に死ぬと宣告されたのに、貴方は変わらず、陽気なんですね」
「陽気…まぁ、人間いつ死ぬかなんて解らないし、その時が来たってだけだし。……特に後悔することもないですしね」
「……後悔、ないんですか」
「ないですよ。……もう」
ないって答えながら、一瞬だけど頭の中に忍の顔が過ぎった。
後悔はないって言ったら嘘になるのかもしれないけど、でも死ぬのは仕方ないって思うし。
忍とは、あっさり別れられたし。
もう思い残すことなんかないはずだ。
「先生、話し逸らさないでさっきの質問に答えてください。なんで二十日限定なんですか?」
もう一度同じ質問を繰り返した俺に、先生はまた息を吐いた。
「……貴方が、その日を選ぶからです」
「――は? 選ぶ? 俺が?」
「ええ」
「あ、ちょっと…」
それきり、追求を逃れるように部屋を出て行った。
また病室に一人きりになって、俺は考える。
なんで俺が、自分の命日を選ぶんだ?
「…あの先生、占いが趣味だったりするのか…?」
呟いてみてから、本当にそうだったら怖いなと、背筋に冷たいものが走った。
***
そういえば忍との関係が、友達からそれ以上になったのも、十二月二十日だったと思い出す。
正確には二十日の夜中から、か。
クリスマスと誕生日が近すぎて、子供の頃からお祝いを一緒にされて来た忍は、年に二度も親からプレゼントをもらえる子供達が憎らしいと酔いに任せて叫んだことがある。
それを聞いて、ならば自分が今までの二倍も三倍もお祝いしてやりたい、――そう思った時点で、自分の気持ちがただの友情じゃないって気付けば良かったのに、忍が自分と同じ男だって観念が邪魔をした。
これは友情だって思いこんでいた。
友情で、相手に触れてみたいなんて思うわけがなかったのに。
毎年の恒例になりつつあった三年目の十二月二十日の、誕生日祝い兼クリスマスパーティ。
二人の会社の同僚が混在、総勢二十名以上の大宴会は深夜にまで及んだ。
みんな、いいだけ酔っ払って、箍が外れていたんだ。
自分の記憶に責任が持てたのはほんの少数。
その中で、忍は誰かに身体を預けてタクシーに乗せられようとしていた。
それが友達で、家まで送ろうとしていたなら問題ない。
けれど俺は「違う」と判った。
今でこそ同族の勘だったかもしれないと思うけど、あの時、そのまま忍を連れて行かせてはダメだと、慌ててそいつから忍を奪った。
酔いも一瞬で醒めるってああいうことを言うんだよ、きっと。
そいつを除けて、俺がタクシーに乗り込んだ。
とりあえず出発してくれと、運転手を急かしてその場を離れた。
最初にタクシーを呼び止めた男が何か叫んでいたけれど、俺には忍の貞操を守ることの方が大事だったんだ。
だが、タクシーが走り出してから、忍が帰るべき家の住所を知らない事に気付いた。
彼の財布に何か入っているんじゃないかとも思ったが、勝手に探るのも気が引ける。
こうなっては仕方がないと、俺は自分のマンションに向かってもらった。
これが、俺の運命を大きく変えるなんて考えもせずに。
――自分の部屋に戻って、泥酔のうえ熟睡している忍をベッドに寝かせて布団を掛けてやってから、俺はシャワーを浴びることにした。
酔いは醒めたつもりでいたけれど、とにかく頭を冷やさなければと思ったからだ。
だが、俺のそんな努力は、部屋に戻った瞬間に粉々に砕け散った。
目の前の光景が信じられなかった。
なんで?
「なんでおまえ…全裸になってんの?」
この数日後、寝る時は素っ裸で寝るのが忍の習慣なんだと聞かされた。
だがこの一年後、この日のことを苦い思い出として語った俺に返されたのは、
「ばーか。おまえ誘惑するために脱いだに決まってんだろ。こんな真冬に素っ裸で寝るなんてクソ寒ぃ」という、喜ぶべきか悲しむべきか反応に困る言葉。
忍を連れ去ろうとしていた同僚も奴の仕込みだったらしい。
結局、あれ以前から両想いだったってことだと思えと強気に言い切られたけど、…ほんの少し恨んだよ、おまえのこと。
あの時、俺がどんなに悩んだか、おまえは知らない。
友達だと思っていた相手の裸体を前にして欲情してしまった俺の気持ちなんか、おまえは考えてもくれなかった。
無防備に、人のベッドで丸くなる。
綺麗な顔は、酔いで上気しているし。
酒の入った体は敏感になるって聞いた。
その夜の忍もそうだったんだと思う。
最初は、布団を掛け直そうと近付いたのに、誤って触れた背中。
「んっ…」
掠れた声に、ドキッとした。
ヤバイ、って頭の中の警鐘はどんどん激しく鳴り出すし、動悸もひどいことになるし、生きた心地がしなかった。
そんな俺にトドメだ。
そうだよ、あれがトドメ。
「……裕二…」
弱弱しい声で呼ばれて、伸びてきた腕に囚われて。
近付いてきた唇から、逃げられなかった。
二、三度の軽いキス。
今度はねだるような甘い声で俺を呼ぶ。
応えずにいられなかった。
見たくなった。
男らしいくせに。
強いくせに。
この綺麗な顔が、俺の下でどう変わっていくのか。
男相手のセックスなんてしたことなくて、酒が入ってなかったら、きっと間違っても手を出そうなんて考えなかったと思う。
だけど俺達は二人とも酔っていたし、忍は俺を誘惑するつもりだったわけだし、不埒なことを考えた俺の頭も、この後の展開を受け入れてしまった。
さすがに二人一つになることは無理だったけど、忍の感じている声も、イクときの表情も、反応する身体も、曝け出させた。
それでもまだ足りないと思った。
陽が昇って、朝になって。
二人揃って素っ裸のまま顔を見合わせた。
顔面蒼白になる俺に、
「……責任取れよ」と凄んだ忍。
「取るっ、ちゃんと取る! 一生俺が責任取るから!」と土下座する俺に、満足そうに笑った忍。
あれから、たくさんの時間を共有した。
たくさんの記念日を一緒に過ごして。
たくさんの感情を分かち合った。
男同士の普通じゃない恋愛関係だと判っていても、二人一緒に過ごす時間が何よりも大切だったんだ。
それに、忍って意外に“特別な日”にこだわる奴で、…二人、初めて繋がったのは俺の誕生日。
それらしいことは何も言わなかったけど、痛いのも辛いのも全部我慢して俺を受け入れてくれたっけ…。
忍、おまえ今頃、何している?
一人の部屋で酒でも飲んでるのか?
俺のこと…怒っては、いないよな。
別れ話、あんなにあっさり、終っちゃってさ。
正直、最近のおまえの様子を見ていたら、不安だった。
おまえの部屋に行かせてくれなくなったし、俺の部屋に泊まっていくこともなくなったし。
携帯だってつながらない。
メールも、アドレス変えられたのか届かなくなって。
もしかして他に、…女の恋人出来たんじゃないかって心配になっていて、別れ話したら、あれだろ。
俺が想うほど、おまえは俺のこと想ってなかったんだな。…っていう言い方は卑怯か。
事情も話さずに、いきなり「止めよう」言ったのは俺だ。
少しは怒って欲しかったなんて、…そんなの俺の我儘だよな。
だけど、やっぱり気になる。
忍、いま何している?
忍、元気か?
――忍、もう、俺のことなんか忘れたか…?
情けないな。
でも、好きだよ。
本当は。
本当は。
まだ、こんなに好きなんだ――。