歩く今日も果実を乞う
_____シャッ、シャッ…………。
朝靄の薄い光がまだ窓辺のカーテンを透かしているだけの室内で、ペン先が紙の上を刻む音だけが確かに存在していた。音は乾いているが、決して冷たくはない。指先から伝わる微振動は、紙の繊維をなぞる度に身体の奥へと穏やかな波を伝え、腕の筋肉がそれに合わせて反応する。インクは濃淡を織り込みながら線を成し、乾ききらぬ匂いが鼻腔に残る。湿ったインクの匂いと、古い紙の粉の匂いが、彼の呼吸の中で溶け合っている。
彼は、いつの間にか机に沈み込むようにして書いていた。額に落ちた髪の房は無造作に顔を覆い、その影が文字を覗き込む瞳に淡い輪郭を落とす。ノートの角は角ばり、長い時間に擦れて丸みを帯び、表紙の継ぎ目には指の脂と時間の擦り傷が連なっている。ペン軸は所々色が剥がれ、金属の留め具には小さな凹みと黒い汚れが溜まっている。どれも彼にとっては道具であると同時に、過去の痕跡を宿す記憶の断片だ。
時間の感覚は、彼の周囲で溶けていた。午前と午後がゆっくりと入れ替わり、日差しの角度が変わり、机上に落ちる影が伸び縮みすることに気づく程度の変化しかない。書くことの密度が時間を支配する。言葉が途切れ、また繋がる間に彼は息をする。ひとつの文が終わるたびに肩がわずかに沈み、呼吸が紙の端をなぞる。疲労は筋肉にまとわりついた薄い膜のように広がり、動作の輪郭を鈍らせるが、ペン先はなお正確に紙を引いていった。
小さな体温が肩甲骨へと伝わる。子猫はいつの間にか彼の肩に這い上がり、薄い布の上で丸くなっている。毛の匂いは甘く、乾いた紙やインクと異なる温度を持っていて、眠気を誘う。彼は無意識に指先で猫の背を撫で、ペン先の振動をそのまま猫の睡眠へと伝える。猫の胸が一度、二度と上下するたびに、部屋の空気が小さく揺れる。
外からは日常の音が漏れてくる。遠くの通りで車のタイヤがアスファルトを擦り、誰かの笑い声が響き、屋台の暖簾が風に触れてカサリと鳴る。だがその一つ一つは、彼の内部で起きているプロセスに比べれば外側の波紋にすぎなかった。書くことが彼を中心へと押し込み、世界のざわめきは外へと流れていった。
やがて、夜が静かに忍び寄った。灯りは窓の外でちらつき、室内の影は深くなった。鉛色の空が夜の色を重ね、窓ガラスは外の光を薄く反射する鏡のようになった。そのとき初めて、彼は手を止めた。ノートの最後の行を書き終え、ペンを指から離すと、小さな音とともに世界の輪郭が変わる。筋肉が硬直から解け、関節が軽く鳴る。長時間同じ姿勢を続けたせいで、肩や肘には古い痛みが滲む。伸びをすると、皮膚が張り、筋のひっかかりが確かめられる。彼は短く「ふ」と息を吐いた。
猫が目を覚ます。瞳の縁は半透明の艶を帯び、耳がピクピクと動いた。猫は小さな声で鳴き、要の膝元へと飛び降りる。その身軽さが、何か堅いものを触れたように彼の肩から重みを落とす。背骨の奥で冷たいものがひとつ、動く。これまで凝り固まっていた部分がゆっくりと緩み、彼の意識は部屋の外へと戻っていった。
窓の外を見ると、空は深夜の色になっていた。街灯と店の窓に滲む人影が、夜の網膜に柔らかく映る。時刻はすでに深く、時計を確かめなくとも気配でわかる。長時間腕を動かさなかったせいで、肩以外の筋肉は少しだけやせ細っているように感じる。彼は軽い痛みを伴うこわばりを首から背中で感じ、立ち上がることを決めた。体を慣らすための散歩が必要だった。血を巡らせ、鈍った関節を起こし、ペンですり減った感覚を指先に戻すために。
ノートを閉じる。ページの端が手のひらの形に馴染んで、何度も折られた角が指先に当たる。表紙を撫で、短く息を吐いてから、ペンをポケットに差し込んだ。猫を肩に乗せると、その体温が胸の前で小さな安定を作る。猫は迷うことなく肩を居場所として落ち着き、尾を軽く巻いて耳を内側へ折り畳む。彼は片手でノートを抱え、もう片方の手で外套の裾を軽く掴んで、夜の街へと足を踏み出した。
街は夜でも賑わっていた。酒場の暖簾の向こうからは、杯を重ねる音と笑い声が漏れ、歌がふいに空気を裂いて流れる。居酒屋の明かりが歩道を黄色く塗り、通行人の影の縁を柔らかくする。窓辺で団欒する家族の輪郭が断片的に見え、温かな灯りがひとつ、またひとつと揺れている。屋台の湯気は冷気に触れて白く立ち、香辛料の匂いが鼻を擽る。夜の喧噪は、昼の喧噪とは違う。雑然とした中に穏やかな親密さが混じり合っており、彼の胸に静かな効果をもたらす。
それでも街の端へと歩を進めるにつれ、声はだんだんと遠ざかる。角を曲がるごとに、喧騒は濾過され、余分な音が取り除かれていった。繁華な区画は明かりの密度を下げ、灯りの質も変わる。人通りがまばらになり、夜風が通り抜ける音だけが先行するようになった。舗道の上には小石や葉が散らばり、足裏に伝わる踏み心地が微妙に変わる。空気はより冷たく、クリアになり、彼はその変化を確かめるように深く息を吸った。
街の外れにある小道を抜けると、視界が急に開けた。広がるのは、草の匂いと土の湿り気を伴う闇だ。月は満ち、白く凛としていた。月光は草の先端を銀で縁取り、風が通るたびに波立つ緑が海の如く煌めく。遠くに街の輪郭がぼんやりと残るが、音はほとんど届かない。夜は深く、濃密だが圧迫的ではなく、むしろ彼の中に長年蓄えられていた疲労をゆっくりと溶かすようだった。
歩幅は自然と小さく、歩行はゆっくりとした儀式になっていく。最初の数歩で体のリズムが定まり、そのリズムが要の内側で継続する。膝や足首の古い違和感はあるが、動かすことで確かに血が巡り、冷えが少しずつ和らぐ。猫は時折鼻先で彼の髪をくすぐり、暖かい鼓動が肩甲に安心を作る。遠くの草地の中心へ向かって歩くと、空気はさらに清澄になり、星が低く傾いて見えた。
彼は草地の縁で立ち止まった。夜露が靴の縫い目へと触れ、冷たさが足先から伝わる。視界いっぱいに広がるのは、月の光に浮かぶ草の海と、空を埋め尽くす星々だった。星は畝を作るように整然と並んでいるわけではない。ちらちらとした群れが、遠くから手招きしているようにも見え、そこに整然とした秩序を見出すことは困難だ。それでも彼の胸は無言で満たされ、弱く震える。
疲れがどっと襲ってきたのか、彼は急にその場に身を預けたくなった。猫をそっと下ろし、草の冷たさが指先に伝わる。身体を横たえると、背中に当たった草のしなりがじんわりと痛い。だがその痛みは生きていることの証であり、眠りへと誘う手触りでもあった。背骨の一本一本が草に合わせて沈み、肩甲骨の間に夜気のひんやりとした空気が流れ込む。まぶたの裏に星の反射が滲む。
上を向けば、視界は完全に夜空だ。雲は消え、満月は静かに灯りを注いでいる。月光は草の表面に細かな銀の筋を描き、遠くの街灯の残滓は水平線近くに淡い色を残すだけだ。星々は瞬き、瞬きの周期ごとに小さな歴史を刻んでいるように思える。それらを見ていると、時間の厚みが彼の内側でゆっくりと層になって積もっていくのを感じた。
猫が彼の腹の上に飛び乗った。小さな足跡が短い軌跡を描き、柔らかな体重が腹の上で心地よく落ち着く。猫の毛の熱が伝わり、彼の呼吸はその僅かな重みに合わせて安定する。猫は意識を途切れさせることなくすぐに寝息を立て、胸が小刻みに上下する。彼は動けなくなった。動かす必要も、理由も見当たらなかった。世界は今、ここにあり、草のざわめきと猫の寝息と自分の呼吸で満たされている。
彼の思考は、遠くへ行くことをやめた。才能だの宿命だの、日中に頭をもたげた雑念は静かに溶け、代わりに希薄で温かな感覚が占めていく。手にはまだノートの温度が残り、ペン軸の感触がポケットの布越しに伝わる。それは彼がかつて握っていたものと同じ道具の存在証明であり、消耗した日々の連続性を結ぶ紐のようでもあった。
眠気は深く、優しい。目が重くなり、まばたきのたびに星の光が柔らかくなる。最後に頭に浮かんだのは、未熟な果実という言葉だ。成るべき熟しきれぬものを追い求める行為そのものが、彼にとっては生きる指針だった。果実は未熟でも構わない。未熟だからこそ、彼は手を伸ばし続けるのだ。
草の匂いと月の冷たさ、猫の体温と自分の鼓動に包まれて、彼はゆっくりとまぶたを閉じた。星は彼を見守るように瞬き、月は静かに高みを守る。夜は程よい厚みを残して朝へと滑り込んでいく。
シャッ、シャッ……………。彼がまだ紙に触れていた時間の音は、もう遠くで小さく聞こえるだけだ。ペンの音は、いつかまた戻ってくるだろう。季節が廻り、朝が来て、彼はふたたびノートの角を撫でる。だが今は、これでいい。未熟な果実を胸に抱えたまま、彼は夜の中で眠る。




