09 陰謀
「チッ、使えないな、何奴も此奴も!!」
ガシャン!と酒の入ったグラスをガラステーブルに叩きつけるのは、ヴェリテ・カートレット…現カートレット侯爵である。
侯爵は激しく苛立っていた。
と言うのも、茶会で公子の粗をつき貶めるよう指示しておいたのに、上手くやらずにロン・ダドリーもベンジャミン・ギーズも公女に返り討ちにされた上、息子であるセオドアに至っては全く役目を果たそうとすらしなかった。
そもそも、彼は公子が茶会に無事来ることを予想していなかったのだから、初めから何もかも思い通りに行っていないのである。
「し、失礼致します、侯爵閣下。ジークです。」
「…お前、確かに命令通り岩は落としたのだな?」
「はっはいっ、嘘は申しません…、確かに王家の馬車に当たるように岩は落としました。しかし、崖の上からだったので私にもよく分からなかったのですが…」
「公子はピンピンして邸に訪れたぞ!あの岩が当たっていれば一溜まりも無かっただろうがな!!」
ガシャーン!とついにグラスが割れ、破片が飛び散る。中に入っていた酒がぴちゃぴちゃと音を立てて床を濡らしていった。
侯爵はジークと名乗った者の首を掴み上げた。
「ウッ、かっ、閣下…!どうか、どうかお許しを…!!」
「はっ、公子が生きていようが生きていまいが、どうせお前はこうする予定だったのだ。世ではこれを証拠隠滅という。」
「…!…!!」
みるみるうちに侯爵が掴み上げた首から伝導するように氷が広がっていき、ついには彼の体全てを氷で覆い尽くした。
部屋に飾られている鎧から斧を取り上げると、それで目の前の氷塊に向けて振り下ろす。するとけたたましい音と共に男の体だった物は砕け散った。
「ふぅ、斧で滅多打ちにしたも同然なのに、血飛沫も飛ばぬし死体も出ないとは。疲れるのは玉に瑕だが便利な力なことだ。」
それにしても、どうしたものか。
侯爵は思案した。息子が王位を手にするのに邪魔な存在である公子を“不運な事故”で亡くならせる予定だったのに、見事に失敗してしまった。
「しかし公女もあの馬車に乗っていたのには驚いたな…、事故にならなかったのは不幸中の幸いだったか。」
公女まで亡くなってしまうと、シルベスター帝国との婚姻は破棄され、同盟の強化は望めない。
そうなってしまうと今後の公国の国力が低下してしまう恐れがある為、それは避けなければならないのだ。
つまり、“馬車の事故”以外で、確実に公子を殺さなくてはならない。
「成功にリスクは付きもの、か…、おい。」
『…お呼びでしょうか、カートレット侯爵』
深い紫の霧が立ち込めたような色の“魔水晶”に向かって声を掛けると、少しして黒いローブを着た人間が魔水晶に浮かび上がり、声を発した。
声質から推察するに年老いた男だろう。口元は黒い布で覆われており、顔は見えない。
「命令だ、公子…カシス・フロストを暗殺しろ。」
『ほう…公子の暗殺、と。それはまたとんだ大仕事ですな。』
「“対価”は、そうだな、俺の魔力を丸三日分、それと望む通りの額の金でどうだ?」
『丸一週間分。金はいりません。』
「ふむ…まぁ良かろう、一週間魔法が使えん事くらい小さな犠牲だ。」
『取引成立、ですね。侯爵…では代金は前払いという事で。』
「あぁ、分かっているさ。ただし必ず成功させるのだ、証拠の一つも残すなよ。」
『仰せのままに。』
侯爵が魔水晶に手を翳し、自身の魔力を注入していく。途中何度か顔を歪めたが、やがて魔水晶から手を離し、高らかに笑い始めた。
ククク…アハハハハ!!
侯爵の様子を扉の隙間から見ていた人影が一つ。
深い青髪をした少年は何か思い詰めるように唇を噛んだ後、夜の侯爵邸の通路を歩き、自室に引き返すのだった。
青髪の彼…セオドア・カートレットは、いつか父がこのようなことをするのではないかと、何となく予感していた。
現フロスト公王でセオドアの叔父にあたるドウェインは、氷の魔力こそ強くはないものの剣技や武術に長けており、統治者としての器量も十分だった。
だから次男である侯爵が入り込む余地もなくドウェインは公太子となり、公王となった。そして一悶着はあったようだが他国の美姫と結婚し、しっかり子供を女児一人、男児一人を授かった。
そんな風に自身の兄が何もかも上手くいっているのが侯爵は悔しくてならないらしい、というのはセオドアが幼い頃から理解している事だ。
セオドアは、自分と第一公女であるリーチェが生まれた時に父が自分の息子を次期公王にできるかもしれない、と大層喜んでいたと母から聞いたことがある。
女性も王位継承権を持ってはいるが、多くは他国に嫁いだり自国の高位家族と結婚したりして、女性が実際に王位を継いだ例は殆どないからだ。
それに加え、ドウェインは側室を迎える気はないと明言していた。基本皇帝や公王、貴族が側室を迎えることはないが、正室が跡継ぎである男児を産む事ができなかった場合に後から側室を迎える例は決して稀ではない。
それなのに、どんな理由があったにせよドウェインが側室を迎える気がないならばそれを心配する必要はない。おまけに公王と公妃は不仲であるという噂も経っていたので尚更だ。
だからその頃、侯爵は自分の息子を可愛がり、妻を愛し大切にしていた。
しかしそれから二年後、第一公子となるカシスが生まれると侯爵は豹変した。
「あぁっ、何故お前の魔力には氷の属性ではないのか!!この出来損ないが!」
「お願い辞めてヴェリテ…!この子は何も悪くないわ!」
「はっ、そうだな、この子は悪くない…全てはお前がこんな無能に産んだせいだ!!血筋が良く公子より歳も上なのだから、圧倒的な実力差があれば公王になれたものを…!!」
自身の夫にも、自分にも泣いて謝る母を、幼い頃のセオドアはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
もう彼本人だって覚えていない。
そんな地獄のような家から出て社交界に出ても、セオドアの高い身分と高貴な血筋に誰もが媚び諂うが、誰もが彼が氷の魔力を持たないことを残念に思い、哀れみ、それを悪い事だと決めつけた。
「…素晴らしいですわ!」
けれど、まるで銀糸のような白銀の髪を持った天使のように美しい少女は、それを素晴らしいと言った。
でも、私が氷の力を持っていないから、父は怒鳴り母は泣きます。どんな人でもそれを否定します。だからきっとこれは悪い事なんです。
そんなセオドアの考えを、リーチェは否定した。
「属性が無いのは、何にも染まってないってことですから。これから何にだってなれるんですよ。」
セオドアは嬉しかった。初めて自分自身が肯定されたような気がしたのだ。
彼は当然、そんな気持ちにさせてくれた少女を、悲しませたいとは思わない。
彼女が愛する弟を、父に殺させるわけにはいかないのだ。




