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『辺境伯夫人の祈り―赤が白を染めるその先に』

作者: 詠出 歩詩乃

■ 1章 白とは、私にとって還りの色だった。


本当は、ただ、好きな色だっただけかもしれない。

でも戦が始まった日から、私は白い服ばかりを選ぶようになった。

ドレスも、手袋も、羽帽子も。周りには「流行の模倣ね」と言われた。


違うのに、と、喉元まで出かけた言葉を、飲み込む。


「でも、明日の凱旋祭には、もう少し華やかな色を選んでもいいんじゃない?

ねえ、あの人が見たら、あなたがずいぶん寂しそうに見えるかもよ?」


笑い声に包まれたサロン。紅茶の香りと白い菓子。貴族たちの爪先の笑い。

その輪のなかに、私はいた。うなずいて、笑って、礼を欠かさず、

でも、笑い声の一部だけが、私に触れなかった。


この空気の中で、どうして誰も戦争を口にしないのだろう。


あの人が出征したのは、ちょうど一か月前のことだった。

それからも、王都の空は何も変わらない。

戦勝祈願の名目で舞踏会は絶えず、広場には噴水が踊る。

そして、みんなで笑う。「勝てるわよ」「すぐ帰ってくるわよ」

その明るさだけが、私の肌にはどうしても合わなかった。


今朝、クレマン夫人が小声で囁いた。


「貴女の旦那様……ねえ、最近、噂を聞いたの。

指揮権をはく奪されたって話。もう前線にはいないらしいわよ」


それを聞いた私は、うなずくことも、否定することもできなかった。


白を着ていると、感情を隠せない。

嘘が目立つ。沈黙も目立つ。

でも、それでも私は、今日も白を選んだ。


白を装う理由が誰にも届かないように、私は、言葉をしまっている。


ただ、もしあの人が帰ってきたとき、

その目に映る最初のものが、この白でありますように。


それだけは、いつも願ってしまうのだった。


■ 2章:声なき不安


夜になると、部屋の静けさがやけに耳に残るようになった。

昼間の明るさが嘘だったみたいに、音という音が、壁に吸い込まれていく。


息子は、よく眠っている。

以前は夢を見て寝言を言う子だったけれど、最近は、それもなくなった。

あの子なりに、何かを感じ取っているのだろう。


「お父さまはね、国のために戦っているのよ」


そう教えたとき、彼は小さくうなずいた。

でも、その瞳は笑っていなかった。


その表情を見た瞬間、自分の声が、どこか作られたものに聞こえた。

耳に残ったのは、言葉ではなく、その空虚な響きだった。


(私は、何を信じているのだろう)


**


週に一度、私はふたつの報告を受け取っていた。

ひとつは、貴族院から届く「戦勝報告」。

もうひとつは、補佐官経由で私邸に届く、中央の週報とその追記。


貴族院報告は、式典用の便箋に記されていた。

白地に金の縁取り、勝利を称える印章、

そして中身は、毎週ほとんど変わらない。


「国王陛下の采配により前線は優勢」

「敵軍は退却」

「損害は軽微。捕虜多数」

「前線将兵の士気は高く、戦況に懸念なし」


文体は朗々とし、美辞麗句で満ちている。

祝賀会の冒頭で朗読されることを前提に書かれたような、見せるための文章だった。



それを読むたび、胸の内に白い霧がひとつ立ちこめていく。



一方、もうひとつの報告書。

これは、中央政府から地方領主に下ろされる実務報告で、

私邸には、補佐官ルートで毎週封書が届く。


「北東前線における国王直属軍の勝利」

「捕虜の数、敵軍の動揺、兵站の成功」


言葉はどれも整っていて、訓示のようで、

便箋は質素で、活字も粗い。


けれど、その下端には、細い万年筆の手書きが必ず添えられていた。


「北門から出発した部隊の再入城記録に欠損あり」

「一部師団の転属扱いに不自然な空白」

「貴族院報告との整合性、低し」


手書きのそれは、いつも淡々としている。

ただ事実だけが、熱もなく並べられていた。


老いた情報官セルナードのものだ。

内容はあくまで確認不能な断片ばかりだが、

だからこそ、そこには真実が隠れている可能性があった。



私は、机の上にふたつの報告を並べる。


片や、祝辞と鼓舞の語彙で彩られた戦勝報告。

片や、沈黙と余白の狭間にしか見えない、事実の隙間。


そのどちらが真実か、わからない。

でも、その差こそ、私の中の不安を確かなものにしていった。


最初はそれでも、貴族院の報告を信じようとしていた。

でもいつからか、私はその整いすぎた言葉に、息苦しさを覚えるようになった。


活字の間に、空白が多すぎる。

優勢の言葉の裏側には、何がある?

士気高揚の言葉の裏には、どれだけの死者がいる?


それで、あるとき気づいたのだ。

報告書に夫の名が、エストレア辺境伯連隊が一度も出てこないことに。


もしも、

もし、あの人がもう……。


言ってはいけない。

言葉にした瞬間、それは本当に近づいてくる気がする。


けれど、その不安が、水面に落ちた染みのように、

心の中に広がっていく。


**


ドレッサーの前で、私は白いスカートの裾を整える。

鏡に映る顔は、笑っているようで、笑っていない。

口角の上がり方が、昨日と少しだけ違っている気がした。


「気のせいよ。全部、気のせい」


手元のブラシが、震えた。ほんの少し。


「あなたは、帰ってくるわよね?」


私は、白いドレスの裾を指でつまんだ。

手のひらが、ほんの少し、湿っていた。


■ 3章:白という鎧


鏡の前で白いドレスの裾を整えるたびに、私は思う。

これはもう、服ではなく鎧だ。


華やかでも、流行でもない。

ただ白く、ただ清らかに整える。


襟の角度、髪の流れ、背筋の弓なり。

歩く速度、まばたきの間隔、指の置き方。


全てを、私が美しくあるために変えていった。


それが、あの人の目に映る姿なら。

それが、あの人の帰る場所なら。

私はどこまでも、美しくあろうと思った。


**


セルナードは、今日も一言だけ、報告書に筆を入れていた。

彼は、父の代から仕えている老文官。

ひどく口が悪く、冗談も言わず、香水の匂いが大嫌いな人。


けれど、彼の書く字はいつも端正で、私が気づかぬことを、言葉にしすぎないまま伝えてくれる。


「補給路に混乱。辺境伯連隊は記録上は移動中。所在不明のまま」

「将官の顔ぶれ、次週の王都閲兵式に記録なし」

「噂と記録にズレあり。意図的と見られる」


それだけしか書かれていなかったが、私は分かっていた。

セルナードの言葉足らずは、最大限の警告だということを。


「セルナード、何か……何か、もう少し、分かることはないの?」


そう問いかけた日、彼は珍しく顔を上げて、私をじっと見た。

その目は、報告書よりもずっと鋭く、冷たい。


「公式には、何も申し上げられません」

「ですが、記録に残さない独り言でしたら、お伝えいたしましょう」


彼は頭を下げると、何もなかったように部屋を出て行った。

それから彼は、報告書を提出するたびに、独り言をつぶやくようになった。


「この館の沈黙は、美学というより戦術でございますな」


**


「……襟元が、ずれているわよ」


そう言って、私は息子の制服のボタンを止め直した。

あの子は、何も言わなかった。ただ、うなずいて、小さく頭を下げた。


最近、息子の瞳が、少しだけ大人びてきた気がする。

私の目を、正面からは見なくなった。



午前十時、学問室。


息子の筆は真っ直ぐに進んでいく。

でも私は、何度もその指先に目をやってしまう。


「もっと早く、もっと正確に」

「貴族とは、書物を読む姿から気品が滲むものよ」


そう言いながら、私はあの子のペン先を強く持たせようとしていた。

ふと、私の言葉の中に、愛が一滴もなかったことに気づく。


それでも、止まらなかった。

だって、私はあの人が帰ってこなかった時に備えなくてはいけない。

この子が、すぐにでも当主になれるように。


**


昼は、地方領主たちとの報告会合。

名目は「民の声を聴く集い」だった。


でも、本当の目的は違った。

私は、この地を守るために人脈作りに利用していた。


不自然なほど多くの茶会に出向き、

それぞれの家の奉公人にまで笑顔を配るようにした。


笑顔を貼りつけるたび、口元の筋肉が軋むようだった。

なのに、誰もそれに気づかない。皆、笑顔さえ見せれば、それで問題なかった。


セルナードがぼそりと呟いた。


「敵の将を倒すより、貴族の胃袋を掌握する方が難しいですな」


その言葉に、私も笑った。


「でも、女の胃袋には、手紙より砂糖の方がずっと効くのよ」


セルナードがニヤリと笑った。でも、その笑いは、私自身にも届かなかった。


**


領地の経済政策は、均衡を保っていた。

戦時下にもかかわらず、食料供給は安定し、商人たちも活気づいている。


……表面上は、そうだった。


本当は、中央からの補助金が入りすぎていた。

戦勝祈願の名目で金が集まり、流通を潤していたにすぎない。

いま、この土地を支えているのは、熱狂だった。


パーティの夜、庭に人が溢れ、貴族夫人が若い男と踊っていた。

「勝利のキスよ!」と笑いながら、杯を交わす女たち。


私はその中心にいた。

笑っていた。

けれど、その熱狂が、私の肌のどこにも届かなかった。


「私は、なにをしているの……?」


**


子供たちは、木剣を振って戦場ごっこをしながら「死ねぇ!」と叫んでいた。

教会では、神父が「この戦は神の正義」と唱えていた。

市場では、銃弾のように細長いボトルの香水瓶が売れていた。

貴婦人たちはそのボトルを手の中で転がし、笑いながら言う。


「まぁ、今年の戦果は香りからね」


この街のすべてが、勝利という言葉で塗りつぶされていく。


でも、私は知っていた。

セルナードの独り言と、2つの週報の内容が矛盾していることを。


「……おかしい。なのに、誰も、止められない」


私は、あらゆるものを美しい秩序に置き換えていった。

まるで音の出ないオルゴールのように、日々を演奏し続けた。



その夜、私は、鏡の前で自分の姿を見つめていた。

真っ白なドレス。白銀の髪飾り。白い手袋。白い襟元のレース。

肌の色までも、少しずつ白くなってきた気がした。

白粉の量は増えていない。けれど、白くなろうとする意志が、肌に染みていくようだった。


(この、まばたき一つが、あの人を照らす光になる)


私の指先の角度、足の揃え方、振り返るときの視線の揺らぎさえ、

すべてが空を渡り、彼のもとへ届くように。


白く秩序だっていく、それが、心地よかった。


**


サロンで、貴族たちが色とりどりのドレスを着飾るなか、

私はただ、一人だけ白をまとっていた。

まるで、雪の中にひとりだけ閉じ込められたような錯覚。


誰かが小声で言う。「今日も白ね」

誰かが笑う。「戦勝旗の色にでもなるつもりかしら」


でも私は、声を返さなかった。

ただ白くあることが、あの人と私を結ぶ最後の手段だった。


私は、黙って、ただ美しくあろうとした。

血が透けるほどの白さで、誰の視線も焼き尽くすほどの所作で。


(私は光になる。あなたの道しるべとして)


「お母さまが遠くにいるようにです……」


息子の声が聞こえた気がした。



■ 4-1章:白の裏側


翌朝、息子が泣いていた。


私が怒鳴ったからだ。

それも、些細なことで。発音の抑揚が甘い、というだけだった。


「王侯貴族の名を読むときは、語尾の音程を下げなさい。

“フレデリク”じゃない、“フレデリク。”よ」


彼は何も言わず、肩を震わせて泣いていた。

私は、その涙を、なぜか、少しだけ“安心”と感じてしまった。


(ああ、この子はまだ、泣いてくれる)

(なら、大丈夫。あの人が帰らなくても……)


私は息子の頬を撫でながら、自分の手のひらにうっすらと浮いた血の痕に、妙な充足感を覚えていた。


**


屋敷の中は、以前よりも静かになり、

今朝の紅茶は、ほんの少しだけぬるかった。


使用人たちは笑わなくなった。

私の目線ひとつで、給仕の速度が変わる。

花瓶の角度が狂っていれば、皆が息を止めて直す。


笑い声も、咳払いも、階段を上る靴音さえ消えていった。

まるでこの館が、音そのものを殺していた。


その静けさが、私にとっては“安定”だった。

誰も感情を見せない。誰も、問いかけない。

その完璧な秩序に、私は安心していた。


セルナードが呟いた

「紅茶の温度が四度低いと、戦争より不穏ですな」


彼が何を言っているのか分からなかった。

ただ、誰にも聞かれたくない秘密を、わざと大きな声で呟く子どものようだった。


**


セルナードが持ってきた書簡の束に、

宝石商からの贈答品が紛れていた。


赤い輝石の指輪。戦勝祈願と称して、

ある伯爵家の若い当主から届いたものだった。


私は最初、それを手紙の下に隠した。

けれど、夜になると、なぜかそれを指にはめていた。


「……これは、あの人が好きだった色だから」


そう言い聞かせながら、私は何度もその赤を見つめた。


――トクリ


胸が高鳴っていた。


**


夜、静まり返った寝室のなかで、

私はひとり、白い衣を脱ぎかけて、鏡を見た。


(あの人が見たら、どう思うだろう)


私は、自分の所作を正すために、自分に鞭を振るうようになっていた。

肩には、うっすらと赤い傷痕が無数に広がり、

白のなかに、赤い線が滲んでいた。


その美しさに、私は目を奪われた。

これは、あなたのために痛み。

痛みは怖くない。むしろ、赤い雫が一滴落ちるたびに、

あの人が帰ってくる日が、またひとつ近づいている気がした。



■ 4-2章 熱と紅と鏡の奥


私は外交に身を投じた。

地盤固め、情報収集、中央からの高官を屋敷に招き、

酒と言葉の応酬を連日繰り返す。


「奥様……お休みになられて下さい。

このままでは、旦那様のお戻りの前に、奥様の身体が……」


秘書官のレナリアが、小さく震えた声で止める。

でも、私は首を振っただけだった。


止まるわけにはいかない。

ここで止まったら、終わってしまう気がするから。


**


セルナードの独り言と、お茶会での噂を照らし合わせていくと、

そこに、隠された数字が浮かび上がってきた。

王都に入った部隊と、出た部隊の数が一致しない。


「何かが、おかしい」


私は、さらに白に染まっていった。

それはもはや衣服ではなかった。

自分の感情そのものが、白に消えていった。


**


いつしか、赤の宝石に魅入られるようになっていた。

指輪の赤を見つめていると、胸の奥が、ふわりと熱を帯びる。

まるで、その光が、あの人の心臓の鼓動のようで。


赤の宝石を集めるたびに、身体が、熱くなる。

私は、白の装いに赤を重ねていった。

白と赤、それが、私そのものになった。


**


その夜、屋敷の応接間で、彼が私の手を取った。


若き官僚、グロワール家の新当主。

戦場ではなく、政務に強いと評判の男。

紅水晶のような瞳が、私をまっすぐに見ていた。


「シャロネーゼ様……今日も、大変お美しい。

その赤の輝き、まるで夕陽のように、

いえ、妖しく零れる花の蜜、とでも言えましょうか」


彼はそう言いながら、指をほんの少しだけ絡ませてきた。


「あなたの手……冷たいですね。けれど、触れていると私の方が熱を持つ」


彼の目の奥に、紅が揺れていた。


――トクン


私の胸が、小さく、跳ねた。

私は笑わなかった。

けれど、頬が、確かに熱を帯びていた。


**


その夜、私は鏡の前に立った。

レースを外し、白い衣を脱ぎ、

裸の肌に、赤い宝石の光だけが映っていた。


私は、目を閉じた。

そして、自分の手で、身体を慰めた。


紅い視線。宝石の光。

あの人の記憶。知らない男の声。

そのすべてが、私の中で混ざり合い、溶けていった。

でも、罪悪感はなかった。


(私は、あなたを想っている)


なのに……どうして、こんなにも熱くなるの……?



■ 4-3章 赤に染まる白


私は、墜ちていった。静かに。けれど、確実に。


その夜、私は白を身につけなかった。

赤いドレスを選んだ。胸元には、紅水晶のピンをつけて。


「白は、染まらぬために存在するのではなく、染まるために存在するのですな」


セルナードの揶揄も、もう耳に入らなかった。



もともと地盤を固め、情報を集めるためだったはずの外交は、

いつしか、男たちとの舞踏と享楽に変わっていった。


「シャロネーゼ様、今日も美しい赤の装いですね」

「その胸元のレース……見たこともないわ。まるで蝶のよう」


社交の華――ある婦人が声を上げた。その言葉に、私はゆっくりと微笑んだ。


「えぇ、これは新しく開拓した交易ルートで出会った東方のデザインなのです。今度、ご紹介いたしますわ」


本当に、うまくいっていた。

経済も安定し、都市は潤い、民も笑顔を取り戻した。

赤を着るようになってから。


だから私は肌を見せ、視線を誘い、

次々と差し出される手に応じ、男たちの腕に体を預けていった。


「シャロネーゼ夫人、ダンスをもう一曲」

「あなたのその瞳に、もう一度、私を映してくれないか」


甘い声、熱い視線、

腰に回される手、頬に落ちる吐息。

私は、長いこと得られなかった、肌の熱に包まれていた。


食事は豊かだった。ワインは芳醇だった。

知的な冗談と、時折混ざる下品な笑いが交差する中、

私は笑顔で、少しずつ、自分の心が溶けていった。


……少し飲みすぎた頭が揺れ、視界が曇る。


ふらついた足が、床を捉えきれなかったとき――

誰かの腕が、私の体を支えた。


「おっと、大丈夫かい?シャロネーゼ夫人」

「……ああ、失礼。不可抗力だ。あなたの可憐な身体に、怪我はないだろうか」


男の手が、私の胸の先端に触れていた。

意図的かどうかは、分からない。

でも、私の身体が、熱く反応してしまった。


「えぇ……ありがとうございます。お陰様でこの通りですわ」


私は、何でもないことを示すように、腕を広げた。

けれど、潤んだ瞳で微笑むその姿は、

他人から見れば、誘っているように見えたのかもしれない。


――ゴクリ


男は、喉を鳴らした。

赤い目が、獣のように赤く光っていた。


……そのとき、息子の涙が、脳裏に浮かんだ。


私が怒鳴って泣かせた、あの小さな肩。

私のために耐えていた、あの涙の粒。


(私は、何をしているの……?)


全身の血が急速に冷えていった。

私は、よろめく身体で、舞踏会の扉を抜け出した。


音楽が遠ざかる。

笑い声が、薄れていく。


それでも、私の心にはまだ、熱が残っていた。


それは誰の熱だったのか。私のもの? あの人のもの? それとも……



■ 5章:星の時間


私は館に辿り着くと直ぐに身を清めた。


(私は何をしていたの)


自分の変わりように寒気がした。

震えが止まらなかった。


私は、あの人のことを忘れていた……

この土地を守ることを考えているようで、

気付いたときには、男の視線と汗の匂いを求めていた。


「あなた……赦して。ごめんなさい。あなたを忘れたくなかったのに」


寂しかったのかもしれない。

将来の不安だったのかもしれない。


息子の鳴き声が耳の奥で鳴り響く。


「お母さまなんて嫌いだ」


走って逃げたあの子の後ろ姿。


わたしの光はもう貴方にとどかない……

届いてはならない。こんな汚れた光が。



そのとき――空に流星が降った。



屋敷の窓から見上げる空は、思っていたよりも遠く、そして、思っていたよりも……静かだった。

虫の声も、風のざわめきも、鳥の羽ばたきも、すべてが、その夜の星のために、沈黙していた気がした。


「美しい光ね……」


私は胸の痛みが抑えられなかった。身体が震え、涙が止まらない。


その時、もう一筋、星の光が落ちた。


「あら……あれは私の光が落ちたのかしら」


そう呟いたとき、1つ、また1つ、星が落ち始め、気がつくと空が流星で埋め尽くされた


――獅子座流星群


「いったい、何が起きているの……」


圧倒的だった。

光のない空を落ちる星の輝きが埋め尽くした。

落ちていく星の一つ一つが自分の後悔、過ち、そして、悦び。

全てが身体から落ちて消えていった



私の身体には、まだ自傷のあとが赤く、冷たく残っていた。

けれど、その身体をただ空に預けるように、空を、まっすぐに見上げていた。


何も考えていなかった。

何も言葉がなかった。



また、ひとつ、星が流れた。

とても細く、でもしっかりと、静かに空を横切って。


あの人は、この空のどこかで、あの星を見ているのだろうか。


「……届かなくてもいい。輝きの後の静けさが、あの人の帰る場所になる」


光になりたいと思っていた。

でも、私は、影でいよう。

私は、光のそばに立つ影であれば、それでいい。


そして、流星がまたひとつ、空を裂いた。

最後に強烈な閃光を放って。


心の中で、何かが、静かにほどけていった。

そこにいたのは、傷ついた白でもなく、穢れた赤でもない自分。


(キレイな私が、まだ、ここにいた……)



■ 6章:灯るもの、沈黙のなかで


私は、夜の帳のなかに座っていた。

光を灯さない部屋。揺れるのは、自分の呼吸だけ。


机の上には、赤と白、ふたつの輝石が置かれている。

それは、かつての贈り物の残り石。


赤は夫の瞳のような、深く熱のこもった色。

白は私の、かつて夢見た光のかたち。夜明けに似た澄んだ白。


**


あの人からの手紙は、開戦からしばらく、定期的に届いていた。

いつも短く、たった二言、三言だけ。


「愛してる」

「すぐに帰る」

「君の声が聞きたい」


その手紙を読み終えるたび、私は深く息を吸い、

衣を整え、髪を結い直し、まばたきまでをも美しく変えた。


美しくあることが、あの人の帰る道しるべになる。

そう信じていた。


けれど、ある時を境に、手紙は途絶えた。

最初は、届く間隔が空いた。二週間、三週間。

次第に、一ヶ月を過ぎても、何の便りも届かなくなった。


戦況報告には「問題なし」と書かれていた。

中央の資料にも、外交ルートの便りにも、安定した言葉で彩られていた。


それでも、胸のどこかがざわついた。

空気の粒が、毎朝、違う響きを持っていた。


私の想いは、届かなくなった。


**


彼に赤のペンダントを贈ったことがあった。

出征令が届いた日の夜のこと。


「いつも君を想えるように、赤い輝石で、ペンダントを送ってくれないか」


そのときの彼の声は、とても穏やかだった。

私の手を握るその温度を、今も覚えている。


「君を忘れないように。赤の輝石が、戦場の混沌の中で僕を呼ぶように」


あのとき私は、笑って頷いただけだった。

短い期間の中で、簡単な紐を通しただけのペンダント。


**


けれど、今、私は、ひとりでブローチを作ろうと思っていた。


「……これは、ふたりが寄り添い合う、かたち」


赤と白、ふたつの輝石をひとつの銀台に配する。

寄り添いながらも、決して混ざらない。

同じ銀に抱かれていながら、別々の光を放つように。


白の石は、まるで何も映さない。

曇りのない透き通った輝石。

そこに何かを投げかけるたび、私の影だけが映り込む。


それでいい。光にはなれなくても。

私は影になる。あなたのかたちを映すものとして、ここに残る。


**


こんなのは貴族の女の嗜みではない。

そう分かっていても、これだけは自分の手で作りたかった。

毎晩、星にただ向きあい、空き時間はブローチ作成に没頭した。


そしてついに、二つの夫婦ブローチが完成した。

これは、私の胸に、そして彼の胸に。

帰ってきたとき、また並んで歩けるように。


夫が帰ってきたら2人でこれを胸に灯そう。

いつまでも、寄り添い合えるように。


**


その日から、私は黒を纏った。胸元にブローチを留めて。

他人から見れば、まるで、死に服するかのように見えたかもしれない。

けれど、これは、影の装い。ここが、あの人の帰る場所。


それから、私は、毎朝、同じ時刻に目を覚まし、

同じ椅子に腰かけ、同じ位置から陽光を浴び、

同じ動作で書簡を読み、机に向かって、ただ手を動かした。


誰にも何も言わなかった。

セルナードにも、レナリアにも。

けれど、その繰り返される日常が、私を、星を灯す者にした。


息子も何も聞いてこなかった。

ただ、ブローチに触れた指先が、ほんの少し震えていた。


私の白は、もう衣ではない。

私の赤は、もう血ではない。


(いつまでも、待ってる。あなたが私を照らしてくれるのを)



■ 7-1章 揺らぐ視線


シャロネーゼは王都の一角にある貴婦人主催の夜会に招かれていた。

それは、かつて自分が出入りしていたのとは違う、明るく熱を帯びた集い。

シャンパンの泡が、笑い声の中で弾けていた。


薄衣のドレスが揺れ、素肌が煌めき、

視線と視線が縫い合わされていく。

あれは、交わりではない。合図だ。


「あなた、前線に行くんでしょう?今夜くらい、甘えていいのよ」

「あら、まだ震えてる。大丈夫、私が忘れさせてあげる」


爪先の揃った靴が笑う。

香水が混じり、ワインの匂いが肉と吐息に沈んでいく。


私は少し離れた柱の影から、その場を見ていた。


(……なぜ、彼女たちはあんなに自然に、誰かに触れられるのだろう)


ワインを片手に腰かける夫人たち。

若い騎士を囲む笑顔。

男たちの指先が、喉元に伸びる。

笑って身を逸らす仕草、でも、逸らしきらない距離。


それは、汚れていた。

滑稽で、軽薄で、

だが、生きていた。美しかった。


あの場にいる誰もが、恐れていた。

孤独と、“戻らないもの”を。

だから彼らは囁き、触れ、酔い、笑っていた。


(ああ……そうだったわね。彼女たちは、私だ)


その視線、あの触れ方。

私も、着飾って、指先まで意図を込めて、

夜会の間を舞うように歩いていた。

白のレースに、赤の宝石。

誰かの視線に、心が熱くなるのを、

悦びと呼ぶのを、知っていた。


ワインの香りに混じった香水の記憶。

触れた手のぬくもり。

皮膚が、皮膚を知る夜。


ひとりの夫人が、騎士の一人と目線を交わした。

男は笑いながら、彼女の指先をとる。

言葉を発しなくても、愛されることができる身体。


胸の奥がひどく締めつけられた。


思い出す。あの時の声。


「お美しい……シャロネーゼ様」


熱を持った指先が、私の腰に回ってきたときの、あの震え。


(あれも……私だった)


あの夜、私は息子の涙を忘れ、

夫の手紙を読み返すこともせず、

ただ、生きている皮膚として、舞踏会にいた。


笑い声がまたひとつ上がる。

今度は若い婦人が、男の手の甲にキスを落とした。


私はそれを見て、ようやく少しだけ目を伏せた。

その伏し目は、拒絶ではなかった。

それは、自分の中にある疼きを、忘れないためのまばたきだった。


(わたしも通った道……でも、あれも、私の本当の姿だった)


指先が、無意識にスカートの端を掴んでいた。

自分の温度が零れてしまわぬよう、繋ぎ止めるように。

布越しに伝わる微かな脈動が、自分の内側を暴いていかないように。


■ 7-2章 堕落の声


女たちの笑い声が、風に混じって届く。


「あの方、また、黒の衣装に身を包んで。もうご病気なのよ……」

「毎朝同じ時間に起きて、白湯を飲んで、ただ窓辺に立って、鳥の声を聞いてるんですって」

「こわいわ……それ、もう愛じゃなくて呪いよ」


私は、庭の奥にある柱廊の影で立ち止まった。

彼女たちは私に気づいていなかった。あるいは、気づかぬふりをしていたのかもしれない。


「待ってるだけで、男が帰ってくるなら、戦なんて終わってるわよね」

「そうよ。だから私は待つのをやめたの。代わりに、今を楽しむことを選んだの」


笑い声の裏には、涙があった。

疲れ切った女の声があった。

夜中に名前を呼ばれなくなった女の、わずかな怒りがあった。


「旦那様が出征して三ヶ月、あなた最初に口説かれたとき、断れた?」

「正直に言えば、笑われるかしら?」

「笑わないわ」

「……寂しかったのよ。寂しいって、なんて身体を甘くするのかしらね」

「寂しさが肌に出るのって、獣だけだと思ってたけど、人間も変わらないわよ」

「私たちは、欲しくて獣に堕ちたんじゃない。この戦争に堕とされたのよ」


**


その夜会の一角で、幼馴染のマルグリットが声をかけてきた。

今では侯爵家に嫁いだ、聡明な女だった。


グラスを揺らしながら、皮肉でも憐れみでもない口調で言った。


「ねぇ、シャロネーゼ。あなたのそれ、意味あるの?」

「私なら言うわ。愛してる、会いたい、抱いてほしい。全部、私の気持ちを大事にする。それが生きるってことでしょう?」


「……」


私は答えられなかった。


「そう。確かにあなたの沈黙は美しいわ。でも、あなた本当にそれでいいの?」


そう言って彼女は踊り場へ戻り、若い男に手を差し出した。シャロネーゼはその背を見送った。


(これは、ただの自己満足なのだろうか……)


聞こえてきた声が、耳について離れない。


「あの方、いつまでも夢のなかの旦那様に語りかけてるのよ」

「ただ待つ女は、哀れじゃなくて、滑稽になるのね」


胸のブローチが、冷たくなったような気がした。

彼女たちの声は、決して私を否定しているだけではなかった。


(私も、あの声の中にいた。あの触れ方、あの目線……)


私は黙ってその場を去った。


ドレスの裾が風をはらみ、月の光が輪郭を揺らす。


沈黙は、拒絶ではない。

ただ、自分自身を抱えて震えているだけだった。



■ 7-3章 赦し


夜会のあと、私は窓辺の椅子に腰を下ろし、

ブローチの留め具を指先でなぞりながら、空を見上げていた。


それは静かな時間だった。

誰もいない。何も言葉が届かない。


流星がひとつ、夜空を裂いた。

一瞬だけ、静寂が光に打ち抜かれた。


それを見た瞬間、私は……思い出してしまった。

いや、思い出してしまったというほど、優しい記憶ではない。

それは、私の内側から這い上がってきてしまった。


あれは、夫が出征して三ヶ月。冬が急に鋭くなった夜。


「君の首筋、まるで月光を吸った花のようだ……」

「ふふ……触れても?」


……触れても、いい、と彼女は思っていた。

いや、それどころか、その手がさらに深く差し入れられたとき、

自分の身体が小さく震えていたのを、彼女は知っている。


その手は、夫の手とは違っていた。

大きくて、熱くて、でも粗雑で。

ワインの香りと、肉の脂と、砂糖菓子の香水が混ざっていた。


私は、拒まなかった。

声を出すこともなく、ただ……身を任せた。


理由は、分かっていた。


寂しさでもない。快楽でもない。

ただ、私はまだ触れられる女でありたかった。

あの夜、私は一線を越えようとしていた。

あの指が、あと少し深く腰に回っていたら。


でも、あのとき心の中で聞こえた、息子の泣き声。

あの声が、私をこの身体に引き戻した。

倒れかけた心が、揺れながらも、自分の場所を思い出した。

選ばなかったのではなく、止まっただけ。


「……ごめんなさい。私の心は、あなたを裏切りました」


けれど、それでも私は、

あの夜の私も、たしかに私だったと思う。

欲しかった。温もりを。匂いを。生の接触を。


あとで、声を殺して、ひとりきりで、泣いた。

恥ずかしくて、みっともなくて、

それでいて、どこか救われてしまった気さえした。


(わたし……私は、あの夜、あのままでもよかった……)


その本音が一番怖かった。

でも、もう気が付いてしまった。心の声を。


――流星がまたひとつ落ちた


私は唇をかすかに開いた。

けれど、何も言わなかった。

私はただ、沈黙のなかで、自分を赦していた。


(私はあの夜を、消さない)


私は、自分にそう言い聞かせた。


あの人に、見せたいとは思わない。

でも、あの人が許してくれないとしても、

私は自分のなかで、それを抱えて生きる。


(これは……私の影)


あなたの光に焼かれたからこそ、この影は生まれた。

そして、私はこの影を抱いて、あなたの光を見上げている。


胸に手を置いた。そこにあるのは、赤と白のブローチ。


(……ありがとう)


――また、ひとつ星が流れた



■ 8章:血を灯すブローチ


私は、机に向かっていた。

窓から差し込む星の残光だけが、

銀台の上に置かれた2つのブローチを淡く照らしていた。


赤と白。

ふたつの輝石が、寄り添うように並んでいた。


ひとつは、あの人に贈ったペンダントと同じ赤。

もうひとつは、あの星の輝き。

これが、ふたりの証になるはずだった。


(あなたに届いてほしい)


私は、そのどちらの石にも、影を見ていた。

醜い私も、間違えた私も、

あの夜に誰かの手を受け入れてしまった私も。


全部ひっくるめて、それでもまだ、

「私は、あなたを待っている」と言いたかった。


(このブローチは、完成していなかった)


私は、細い針を火にくぐらせ、

ゆっくりと自分の指先を突く。


ほんのわずかに、皮膚が破け、

一滴の血が、静かに滲んだ。


それを、赤い輝石の上に、落とした。

一滴、また一滴。

私の血が、石に染み込んでいく。


赤が白に滲んで重なった。

私はそのとき、白という弱さが染まることを受け入れた。


「……この血は、私です」

「この汚れてしまった私ごと、あなたに、届きたい」


私は初めて、それを言葉にした。


欲しかった。

この血も、影も、記憶も、欲望も、

すべてを含んだ上で、あなたに触れてほしいと。


私は、汚れたブローチを胸元に差した。

まるでそれが、生まれたときからそこにあったように。


「あなたを……私は、待っています」


呟いたあとで、言葉が涙に変わった。

だけど私は、涙を拭わなかった。


あの日、あの夜、愛しさと欲に揺れたまま、

それでも、あなたを信じていた自分を、

いま、ようやく信じることができる。


風が、そっとカーテンを揺らし、

夜が、ゆっくりと、色を深めていった。


■ 9章:告知


翌朝、空は薄曇りだった。

扉が、ひとつ、控えめに叩かれた。


朝靄のなか、邸の門が静かに開かれ、ひとりの兵士が入ってきた。

黒い制服。深く被られた制帽。

肩に黒い封筒を携えた彼の姿を見た瞬間、

シャロネーゼは、すべてを悟った。


「奥様……手紙が届いております」


いつもの声だった。秘書官のレナリア。

彼女の声音は穏やかだったが、どこか……震えていた。


**


その兵士は、夫の副官だった青年だった。

まだ若く、頬に残る青さが、深い疲労と哀しみで覆われていた。


応接間で、彼は一礼し、そして、沈黙のまま封筒を取り出した。

机の上に差し出された、一通の漆黒の封筒。

その封には、王国の印が浮かび上がっていた。


シャロネーゼは、それを手に取った。

中には、数枚の便箋と、小さな紙片が同封されていた。


最初の一文に、すべてが詰まっていた。


――ご夫君、レミオン=エストレア閣下は、

戦地にて爆風に巻き込まれ、遺体は未発見――戦死と判断する。


それは、最も静かな、そして最も残酷な結末だった。


シャロネーゼは、便箋をすぐには読まなかった。

封筒を膝の上に置いたまま、ただ手を組み、目を閉じた。


涙は、出なかった。

けれど、喉の奥が、ひとつ、詰まった。


兵士は、かすれた声で言葉を継いだ。


「旦那様は……最後まで、書き続けておられました。しかし、途中から、送る手段が失われて……最期まで、離さず持っておられたようです」


彼はひもで丁寧に括られた手紙の山を差し出した。

表紙に、私の名前が、彼の筆跡で記されていた。

インクの滲み、封の擦れ、乾いた紙の音。


最初の手紙を開いた。


墨の跡は滲んでいた。

筆跡も、ところどころかすれている。

けれど、それは確かに、あの人の字だった。


「愛してる」

「君の声が、まだ胸に残っている」

「すぐに帰る」


いつもの短い手紙だった。

この言葉が何通も繰り返し綴られていた。


でも、あとになればなるほど、字が乱れていた。

インクのかすれ、にじみ。



最後の手紙には、ただ震える字で、一言。


「ごめん」


その文字を見た瞬間、私の目から涙があふれた。


**


シャロネーゼが手紙を読み終えたあと、

彼は、目を伏せながら、言った。


「旦那様は、あの出征の後半、ずっと、前線の先頭に立っておられました」


シャロネーゼは、言葉を持たなかった。

兵士はそれを承知の上で、慎重に言葉を紡いだ。


「皆が知っていました。旦那様は、自分が……帰れないことを、どこかで分かっていたと」


シャロネーゼは、黙って頷いた。


(あの人……最後まで、私を安心させようとしたのね)


ずっと私を想ってくれていた。

私を思って綴られた、私のために選ばれた、嘘の言葉の手紙。


「……バカね。あなたの言葉は、全部、私を守るためだったのね」


私は立ち上がり、庭に出た。


朝の空気は澄み、季節が変わろうとしていた。

私のなかの何かも、同じように、静かに変わっていた。


胸元に触れる。

そこには、あの夜、血で封じたブローチがあった。


――あなたは帰らなかった



息子が小さな声で訊ねてきた。


「……お母さま、手紙が……?」


シャロネーゼは頷き、

そっと、封筒を彼に見せた。


息子の目が、濡れていた。

だが、泣き声は出さなかった。


彼女は、小さく微笑み、

もうひとつのブローチを、彼の胸に留めた。


「これは、あなたのものよ。いつか、あなたが誰かを照らすとき、その胸に灯してあげて」


息子は言葉を持て余しながらも、

その銀の飾りを大事そうに両手で包み込んだ。



■ 10章:祈りの残響


その夜、シャロネーゼは誰にも告げず、

一人で旧館の庭に出た。


空には月もなく、ただ無数の星だけが瞬いていた。

風もない。鳥も鳴かない。

沈黙だけが、完璧な輪郭をもって、彼女を包んでいた。


彼女は、ひとり腰を下ろす。

かつて夫と並んで腰かけた、石造りの長椅子。

古びたその肌が、今夜は妙にあたたかかった。


手の中には、一通の手紙。

それは最後に書かれた手紙ではなく、

もっとずっと前の、あの人がまだ元気だった頃のものだった。


便箋には、彼の独特の、少し右へ傾いた筆跡。


「君が、いつも胸に灯るように、ペンダントを身に着けているよ」

「それをつけて、僕は帰ってくるから」


シャロネーゼは、少しだけ、笑った。

声にはならなかったが、唇がやわらかく動いた。


「……嘘つき」


その言葉に、刺はなかった。

むしろ、それは彼にとって最高の“優しさ”だったと、今では分かる。


(あなたは、私をずっと守ろうとしてくれたのね)

(本当のことなんて、言えなかったんでしょう)

(あなたは、最後の最後まで、私の希望だったから)


彼女は、胸元のブローチにそっと触れた。


赤と白の石。

並んでいるけれど、決して混ざり合わない。

けれど、確かに同じ銀の台座に抱かれている。


「あなた……私のすべてが、届かなかったとしても、

あなたの想いは、ちゃんと私に届いたわ」


シャロネーゼは、空を見上げた。

じっと、言葉を待つかのように、ただ、空を見つめた。


「私は、忘れない」



彼女は静かに立ち上がった。

風が吹いた。

星が、ひとつ、また瞬いた。


「あなたを想って、笑って、傷ついて、生きた日々を」


ペンダントは、戻らなかった。

ブローチの片割れも息子に託した。


「それでも、あなたが祈り続けてくれていたことを」


その瞬間――

頭上の空に、ふっと流れるような細い光が走った。


星だ。


彼女はそっと、目を閉じた。

声には出さなかった。

けれど、胸の奥で、確かにこう呟いていた。


「……キレイな私が、あなたの心の中にいた」


――完



■ 後日談:『白き水着、赤き祈り』


今日も星に祈った。

もう、一年、絶やさずに続けている習慣だ。


最初はあの人の帰りを信じるためだった。

けれど──

だんだん、あの人の声が思い出せなくなってきていた。


笑ったときの口元のかたち。

咳払いのくせ。

眠るときにかすかに漏らす息──

どれも、遠ざかっていく。


でも、この胸の輝石だけは、今日も変わらず、灯っている。

あの人の遺した赤は、まだ記憶じゃない。


**


「働きすぎだって、おじいさまに言われたわ」


わたしは、マルグリットを誘って、海辺の別荘に避暑に来ていた。

数日だけの休暇だったけれど、こうして風を浴びていると、

本当にここは、別の世界のようだ。


「この一年、がむしゃらだったもの。夫を失ったあなたの気持ち、わたしには……」


言葉を切った彼女の手を、わたしは握った。

優しく、ほんの少しだけ強く。


「ありがと。でも、もう大丈夫」


空を仰ぐ。

潮風が、頬を撫でていく。


「ねぇ、シャロネーゼ。久しぶりのアバンチュール、楽しみね?」


「……え?」


「うふふ。ほら、例の男性。地主の子息だったかしら。ちょっと不躾だけど、背が高くて、なかなか男前じゃない」


わたしは、思わず苦笑した。


「あなた、本当に……相変わらずね」


マルグリットがヒソヒソと友人と話しているのを尻目に、

わたしは遠くにいる、もう一人の男に目をやった。


──クリスランド。


亡き夫とはまるで違うのに、

どこか、似ている。

ぼんやりしたような、けれど温かい、あの眼差し。


「シャロネーゼ様」


声をかけられて振り向くと、彼が立っていた。

わたしたちは、波音のなかで短く話した。


「戦争は、痛みでした。領地の至るところに、今もその影が残っています」

「だから、わたしは、もう一度、人々がただ日々を過ごせる場所を、取り戻したい」


真剣な声に、胸がチクッとした。

夫が語らなかった言葉たち。

あの人が抱えていたであろう、未来への焦燥。


「……わたしも、戻りたいわ。あの頃の、あの場所に」


思わずこぼれた言葉に、自分の頬が熱くなるのを感じた。

こんな顔、見られてはいけない。


**


水着なんて、もう着る年齢じゃない。

そう思っていた。


案の定、息子に言われた。

「お母さま、ちょっと恥ずかしいよ……」


でも、クリスランドは笑ってくれた。


「月のようです」


「……月?」


「柔らかく、でも確かに、光を返している。そんな……」


分かってる。女性を褒めるのは、貴族男性の嗜み。

でも、涙が滲んだ。

潮風のせいにして、わたしは目元を拭った。


「ありがとう。ふふ、相変わらず潮風が目に染みるわね。このビーチ、夫との思い出の場所なの……」


クリスランドは何も言わず、微笑んだまま、息子の相手をしにいってくれた。


彼の背中を見ながら、わたしはビーチの砂に腰をおろした。

もう、若い頃のようには遊べない。

でも、波音と風が、あの頃を連れてきてくれる。


「うわあああ!!」


息子の叫び声に顔を上げると、砂の城が波に崩されていた。


「ははは、残念だったなぁ、やり直しだ」


息子が走ってくる。


「あのね、もう少しで完成だったの。お母さま、一緒に作りませんか?」


その笑顔に、あの人の面影が重なった。

私は胸に手を当て、目を閉じて、深呼吸をする。


「……あら、いい度胸ね。わたしより立派なお城を建ててごらんなさいな」


夜。夕食会。


マルグリットの夫が戻ってきていた。

彼女は落ち着かない様子で、時折あの男とアイコンタクトを交わす。

まったく、何を考えているのかしら。


男性陣の会話が耳に入る。


「この海の幸、地方にも届けられたら……街道整備、進めましょう」


──そうだ。戦争は、まだ終わってなんかいない。


マルグリットが忽然と消えた。

まさか……


数分後、ボトルを抱えて戻ってきた彼女は、まるで舞台女優だった。


「あなた。プレゼントよ。思い出のワイン、用意しておいたの」


「っこれは……!」


場が盛り上がる。

マルグリットが、にやりと笑う。


「ふふ、あの地主さん、ワインに詳しいの。今日、協力してもらってたのよ」


そうだった。彼女はおバカだったんだ。

アバンチュールとサプライズ、意味が違うでしょうに。


「……マルグリット、あのね……」


やめた。言っても仕方ない。

それより──


「わたしも……アバンチュール、したかったわ……」


胸の輝石を、そっと握りしめる。


星がまたたく夜。

今日も、あの人の声は届かなかった。


でも、クリスランドの笑顔が、あの人の輪郭と重なって──

ほんの一瞬、空が近く見えた。


「あなた……わたし、どうしたらいいのかしら」


答えはなかった。

ただ、輝石だけが、いつものように優しく冷たい。


「おかあさま……?」


息子の声に、はっとする。


「あらあら、眠れなかったの?ふふ……今日は、特別。一緒に寝ましょうか」


ベッドのなかで、息子の体温に触れながら、わたしは静かに目を閉じた。


(ふふ……まだ、あなたを思っているわ)


――完

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


戦場の手前で、祈るだけの女性。

でも、その「祈るしかできない」という弱さにこそ、美しさが宿る――

そんなテーマを、今の時代にあえて書いてみたかったのです。


ご感想、レビュー、静かな心の中のつぶやきでも。

あなたの中に、何かが“残った”なら、嬉しいです。ブクマしてくれると励みになります。

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― 新着の感想 ―
お疲れ様ゾォ〜コレ!(小並感) はぇ〜コレは…なかなか.深い物語ですねぇ!(深イイ!感) 旦那を待ち望むご婦人くんの描写と表現とそれを少しでも和らげようとフォローする執事くんの描写と表現…あっ…どれを…
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