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「おかえりなさいませ……奥様、その方は……」
「友人のラーゼンよ」
「……ラーゼン様、ですね」
一瞬の困惑をすぐ笑みで隠したレイモンドは、荷物をキッチンに運ぶように伝えているマリーをちらりと見てから、一緒に行った使用人を見ると小さく首を横に振る姿に息を飲んだ。
使用人は、友人ではなく交流相手としてラーゼンを選んだと言葉なくとも伝えたのだ。
仕事仕事に明け暮れていたマリーは、レイモンドが提案した事だが獣人との交流はしないだろうと思っていた。
たった3ヶ月とはいえ、真面目な様子はわかったレイモンドには以外だった。
たとえ合法であるが、自ら浮気をするとは思えなかったのだ。
だが、その予想は外れて使用人と話をするマリーの足元にはかまって欲しいとじゃれつく大型獣がいる。
時折頭を撫で、腕に絡まるシッポを擽るマリーに喉を鳴らす姿は確かにマリーを好いていると分かりやすい。
「じゃあラーゼン、行きましょうか」
そう言って優しく柔らかな笑みを浮かべたマリーにレイモンドは息を飲む。
今まで見たことない幸せそうな笑みに、以前マリーが言った私の幸せが、この家には無かったのだと自覚させられたのだ。
使用人から敬愛され関係は良好だが無償の愛を与えるはずのフリーダは愛人のシェリーに傾倒している。
ならばこの広い屋敷の中で甘えて寄りかかる相手はマリーにはいない。
3ヶ月休みなく働いたマリーに、寄りかかる存在が現れたかもしれない現状に喜ぶべきかレイモンドは苦心した。
フリーダがマリーに対する感情に親愛が生まれて気持ちが穏やかだから。
だが、ここで妻に交流する獣人が出来たと知ったらどうなるだろうか……。
レイモンドは伝えるべきかどうかに悩まされることになった。
獣化した姿で屋敷に来たラーゼン。
獣人には、耳と尻尾が生えた姿と、獣化と呼ばれる獣の姿とがある。
ラーゼンは虎の獣人だから、いまは真っ白な毛並みの巨大な虎だ。
マリーを背に乗せるのも、丸呑みも簡単に出来る程に巨大だ。
そんなラーゼンはマリーの隣をノシノシと歩き、使用人は目を丸くしていた。
マリーはというと、隣にいるラーゼンを無意識に撫でながらクッキー以外に何を作るか思案中。
材料は様々買ったし量も十分ある。
クッキーだけは残念ではないか。
そうだ、プリンを作ろう!
「……ラーゼン、甘いのは好き?」
《好きだよ》
「……ふむ」
外出中で仲良くなった2人はお互いに親しみを込めて名前で呼ぶ。
人間同士の貴族社会には上下関係だったり人間関係だったりと小難しいことはあるが、獣人はまた別の社会が確立しているのでこれに含まれない。
だからこそ、交友関係を結べるのだが。
獣人社会は完全なる強さで全てが決まる脳筋社会だ。
力が強い虎は、特に上位に位置する。
勿論、人間もその性質を知っているからこそ伯爵家使用人たちは、マリーがラーゼンを連れてきて驚いていた。
まさか、最強種のひとつと交友関係を結ぶなどと。
そう思われるラーゼンは優雅に尻尾を揺らして、たまに悪戯にマリーの足にじゃれている。
「もう、転んでしまうわ」
《なら俺が受け止めてあげる》
ほわほわと穏やかな様子に、全員が目を丸くした。
この家の中で、こんな甘い雰囲気を見せつけられるなんて!
そう誰もが思ったのだが、全員がいいぞ、もっとやれ! と応援している事にマリーは気付いていない。
マリーが牛耳ったのは財政管理だけでなく、使用人の心もである。
初夜で白い結婚を言い渡されて倒れた新妻を心配しない使用人はここにはいない。
実際には図太いマリーは、欠片も気にしていないのだが。
だから、使用人たちは、優しく処遇改善や働き方改革をしたマリーを慕っているし獣化交流賛成派なのだった。
「ごめんなさい、少しだけ場所を借りれるかしら」
厨房にやってきたマリーとラーゼンを見て夕飯の準備をしていた料理人達が手を止めた。
料理長が急いでマリーの傍に駆け寄るが、やはり気になるのは巨大な虎。
チラチラと見ながらもマリーへと声をかける。
「奥様、如何しましたか」
「少し作りたいのがあるの。場所とオーブンを貸してくださる?」
「勿論です。お手伝いは?」
「いいえ大丈夫……あ、オーブンだけお願いしていい? 使い方がわからないわ」
「かしこまりました」
こちらをどうぞと案内された広い作業台。
いいのかしら……と周りを見てから、時間をかけない方がいいわよね! と切り替えて早速クッキーの生地を作る。
前世のレシピの記憶があり、どうやらよく作っていたのね……と思う。
迷いなく動く手や、測る分量もマリーが戸惑うくらいに順調だ。
そんなマリーが怪我をしないかハラハラしながら見ていた料理人たちだったが、手馴れているマリーの料理工程や、見たことない何かの料理に手が止まった。
最初はプリンを作って、プレーンクッキーも作りましょうと決めたマリーは、寝かせるためのクッキー生地をまず最初に用意した。
作った後プリンに取り掛かる。
絶妙の配分で作った卵液を可愛らしいカップに入れて準備しておいたオーブンに入れる。
カラメル入りのプリンが楽しみだ! とホクホクしたマリーは料理人にオーブンを頼む。
すぐに対応してくれる料理人にお礼を言ってから赤くなるオーブンの中を少し眺めた。
ぷるぷるになるんだよ……と見つめてから、次にとりかかる。
予め作っておいたクッキーの生地に手を伸ばした。
寝かす時間絶対足りないよねぇ、と思いながらもサクサクの薄焼きクッキーがいいかなぁ……と型抜きをしていると、次第にプリンの甘い匂いがしてきて料理人の手がまた止まった。
マリーの足元で丸くなっていたラーゼンもそれは一緒で、嗅いだことのない甘い香りにオーブンを見る。
「……うん、いい香りね」
クッキーの準備も進み、天板に乗せていくのに集中していたマリーは、全員がオーブンに興味を示しているのに気付いていなかった。
顔を上げたマリーは不自然な程にオーブンを見る料理人とラーゼンに首を傾げたのだった。