番外編 ラーゼンの幸福
ラーゼン・シュバルツシルト。
獣人の社会に住む虎族の青年。
力が全ての獣人は人間の貴族社会より大雑把でおおらかだ。
強さはやはり肉食獣の方が強い。
虎は勿論ライオンや熊、大型犬、サイやゴリラなど上げたらキリがない。
それは、狩りに由来する。
市場に流れている肉類は、強い獣人が狩りに行き、それを受け取る弱い獣人達が血抜きや肉を捌いたりして市場に流れるのだ。
その中でもラーゼンは一際目立つ存在だった。
強さは勿論、作り上げられた肉体美に整った容姿はメス達を虜にする。
さらに人間が多く集まる夜会で、以前肉食獣同士が争いを引き起こしたことがあった。
それを身一つで軽々と止めたラーゼンは、親しみやすい笑みを浮かべて周りに謝罪した。
引き倒されたライオンとゴリラの獣人もラーゼンを見てすぐに己の行動を恥、周りに謝る。
人間から見たら獣人は見目麗しくモフモフと魅力がたっぷり詰まった人だ。
今回の事で、人間の女性たちは守って欲しい素敵な相手だとラーゼンを認識する。
以前から見た目で人気があったラーゼンはこれで爆発的な人気を誇る事になったのだった。
ラーゼン自身は何も変わらない。
何故いきなり女性から熱い眼差しを向けられているのか理解ができなかった。
まさか、あの夜会での一瞬の出来事が原因など誰が思うだろうか。
ただモテ期が来た! それだけだったらラーゼンも喜ぶかもしれない。
だが、流行りなどに敏感な貴族の令嬢や夫人達は、今人気なラーゼンをまるでアクセサリーのように傍に置きたいと言うのだ。
しかも、ラーゼンがそばに居たら貴族社会で目立つ存在になる。
合法的な浮気が出来ることも相まって、街中を歩くだけでラーゼンは好奇の視線に晒される事になったのだった。
そんな生活を僻僻していた時だ。
一瞬絡んだ眼差し。
疲れが色濃く出ている女性は貴族では珍しいと興味が引いた。
女性に興味を示さないラーゼンにしては青天の霹靂である。
しかも、その理由が疲れきった女性の憂いを帯びた眼差しなのだから。
無意識だった。
その馬車を目で追いかけ、気付いたら走り出していた。
疲れ知らずの体力を今は感謝するラーゼンは、馬車が止まる時には手を差し出して万全の体制でいる。
驚く女性の姿。
それはまだ若く可愛らしい赤毛の女性。
丸メガネの中の瞳がまん丸に開き、だが疲れから判断力が低下しているのかラーゼンの手を取る。
貴族のご令嬢が、こんなに隙だらけで大丈夫だろうかと自らが不審者甚だしいのに心配になった。
お疲れのマリーという少女のような女性は既に婚姻していた。
夫がいる女性だと気持ちが一気に沈んだが、疲れによるのか口が軽くなっているマリーから愛のない白い結婚だと言われ、喜びとマリーの不憫さが胸をごちゃごちゃにした。
不思議な感じだった。
味わったことのない感情。
暖かいような、嬉しいような、切ないような……締め付けられる。
抱き締めて撫でてあげたい。
柔らかな毛でその小さな体を包んであげたい。
疲れているマリーのそばで、癒してあげたい。
溢れ出る気持ちを抑えられず、勝手に尻尾がマリーに絡まる。
「…………あら、ふかふか」
「ごめん、勝手に」
「いいえ、ふかふか……」
疲れているのか、触りながらふかふかしか言わないマリー。
尻尾を好き勝手に触っているマリーに笑みが浮かび、それを見たラーゼンの心拍数が上昇する。
ドクドクと脈打つ、心臓が早鐘を打ち、いくら走ってもこんなにならないのにと胸を掴んだ。
「…………ああ、マリーが好きなのか」
「…………はい?」
「好きだよ。会ったばかりだけど、君が好き……ねぇ、俺と交流しよう。大事に大事にするよ」
柔らかく響くテノールの声が、マリーの耳に吹き込まれる。
ゾクリと体を震わせたマリーは目を見開いてラーゼンを見た。
「………………本気なの?」
「嘘はつかないよ」
「…………すぐに決めないとだめ?」
「ダメじゃないよ。ダメじゃないけど……いいって言うまで口説くよ」
尻尾でマリーの頬を撫でてから首に巻き付く。
ふかふかが顔をくすぐり小さく笑ったマリーの目には疲れはなかった。
「…………ちょっと、考えさせて」
「わかった。いっぱい考えて、マリーの中が俺だけになるくらいに、いっぱい」
「ちょっ……だめ……」
耳元で囁くと、マリーが耳を抑え真っ赤になっていた。
その可愛さに笑うと、周囲の視線を集めていると気付く。
会話は聞こえていなかったのだろうが、ラーゼンは今や貴族の女性達には強い関心を引く存在だ。
マリーの買い物を終わらせたあと、ラーゼンは隠れるように馬車に乗り込み虎に変わる。
《この姿の方が楽だから》
そんな言い訳をして、マリーの膝に顎を乗せると、愛おしいと笑みを浮かべるマリーが頭を撫でた。
初めて見るその表情は本当に愛らしいとラーゼンが目を細めて擦り付く。
モフモフの威力に完全に敗北してのその表情なのだろうと何となくわかっていながらも、いつかはラーゼン自身にその顔を向けて欲しいと欲望が生まれたのだった。
それからは、出来る限り傍にいた。
マリーの仕事量は多く、夫だというフリーダという男性から愛人の相談を受ける姿を初めて見た時は驚きを通り越して呆れた。
愛していない、白い結婚とは言ってもそれは無いだろうと。
だが、すぐに伯爵家を牛耳っているのがマリーだと気付き舌を巻く。
まだ20歳にすらなっていない伯爵夫人になったばかりの子が、家を切り盛りして更に新しいお菓子を考案する。
そのお菓子がまた素晴らしく魅了されるのだ。
マリーという女性を知れば知るほど溺れていく。
気まぐれに獣化を解いて小さな体を抱きしめた。
嫌がる様子は無い、擦り寄り疲れたと休むマリーへの愛おしさが溢れる。
不思議だ。肉食獣のラーゼンには当然のように強い性欲がある。
だが、今はこの抱き締める時間を大切にしたいと強く思うのだ。
劣情よりも安らぎを2人は求めている。
次第にフリーダがマリーに向ける眼差しに熱が籠るのに気付いた。
マリーは全く気付いていないが、オスのそういった感情には鼻が利くのだ。
ラーゼンは現在26歳、マリーより少しだが長く生きている。
色恋もある程度は経験したラーゼンは、間違えることはなかった。
牽制を込めて、本邸を歩きわざと姿を見せた。
虎の姿に驚き、マリー……まさか、虎の獣人に手を出したのか……と呟くフリーダに鼻を鳴らした。
虎はそれなりに執着が強い。
1度交流した相手を離すことが生涯ないと言われる程に。
もう、マリーは逃げられなかった。
知らないうちに自ら檻に飛び込んだマリーだが、その檻は疲れきった体と心をふわふわのモコモコが癒してくれる。
満足度を高く押し上げて、伯爵家を今までよりも良い状態を維持するマリーはラーゼンを今更手放せないと笑うが、グルグルと鳴る喉を隠して笑うラーゼンは、いずれ安らぎよりも列情が勝つのを待っている。
肉食獣らしく豪快に、だが優しくマリーの全てを喰らい尽くすその日まで、疲れを癒すモフモフに徹するのだった。




