第6章 再び灯る、それぞれの未来
1.真帆/「音で生きていく」
進路希望調査票を前に、真帆は迷いなく一つの高校名を書き込んだ。
吹奏楽の県立の強豪校。
文化祭のあと、顧問の先生に勧められ、オープンスクールに行った。
見学した練習は、音も空気も、すべてが“本物”だった。
(私も、あの音の中に入りたい)
昔は、音楽で食べていくなんて無理だと思ってた。
でも今は違う。
“誰かの心に触れる音”を出せるなら、
それだけで、私の人生は意味があると思える。
推薦枠は一つだけ。
簡単じゃない。でも――
(行きたい。あの人に届けた《Re:light》を、もっと遠くまで届けられるようになりたい)
もう、誰かの陰で怯えることはない。
私は、私の音で生きていく。
2.凌/「誰かを支える人になる」
夜の静けさが、部屋の中にゆっくりと満ちていく。
凌は、自室のベッドに寝転びながら、スマホの画面を見つめていた。
映っているのは、文化祭で録った真帆の演奏。音はまっすぐで、優しくて、どこか切なかった。でも、迷いがなかった。
「……すげぇな、真帆」
ぽつりと呟いたあと、机の上の進路希望票に目をやる。
(俺も、俺なりに、“走り続ける理由”を見つけたんだよな)
迷いはもうなかった。
ペンを取り、強い筆圧でその欄を埋める。
「……よし」
>【県立○○高校・普通科卒業後:教育学系進学志望将来の職業:中学校の体育教師】
食器を片づけたあと、リビングのソファに腰掛けていた母の隣に、凌は進路票を差し出した。
「これ、書いた」
母は静かに受け取り、目を通す。“体育教師”という文字に、少しだけ目を細めた。
「……先生になるの?」
「うん。なれたら、だけど。でも……誰かの夢を支える立場に立ちたいって、思った」
母はゆっくりと頷いた。
「……偶然ね」
母は封筒を取り出し、差し出した。
「私も、今日、学校の用務員の臨時募集に応募したの。午前中だけだけど、体もだいぶ良くなってきたし、子どもたちのそばで働いてみたくて」
「……ほんとに?」
驚いた凌に、母は少し照れくさそうに笑う。
「清掃の仕事も好きだった。でも……“ありがとう”って言われても、誰かの人生には残らないって、どこかで思ってたのかもしれない。でも今度は……もっと近くで、誰かの“日常の中”にいたいなって思えたの」
「……それ、すごくいいと思う」
「ありがとう」
母は静かに言った。
「人生って、思い通りにいかないことも多いけど……無駄なことなんて、きっと一つもないのよ。私がそうだったように」
凌は、その言葉をじっと胸に刻んだ。
夜も遅く、父は新聞を読んでいた。その前に立ち、凌は進路票を差し出す。
「……見てくれる?」
父は黙って受け取り、目を通す。
>【教育学系進学志望】
読み終えても、すぐには言葉が出ない。やがて、新聞をそっと脇に置いた。
「……やってみろ」
「……え?」
想像と違う反応に、思わず声が漏れる。
「思うようにやってみろ。誰に何を言われても、自分が決めた道なら、最後まで走れ」
父の声は低くて、でもはっきりしていた。
「お前は、“できっこない”って言われた方が燃えるタイプだからな。俺が反対したって、意味がない」
「……」
「でもな、覚えとけ」
凌の目が、父の顔に向けられる。
「自分で決めた道なら――苦しくても、倒れても、もがいても、また立て。それはお前が、陸上で一番よく学んだことだろ」
言葉が、胸に深く刺さる。
父の不器用なエールは、いつも遠回りだけど、誰よりも本質を突いてくる。
「……ありがとう、父さん」
父は進路票をぽんと返しながら、立ち上がった。
「選んだなら、走れ。――それだけだ」
去り際に、ふと付け加える。
「……母さんには、ちゃんと礼を言っとけよ。あいつが、誰よりお前を信じてる」
凌は、静かにうなずいた。
(誰かの背中を押せる存在になりたい)
そう思えたのは、あのとき“押してもらえた”からだ。
早矢に憧れて陸上を始めて、
真帆に言葉じゃない伝え方を教わって、
母の静かな優しさに支えられて――
だから、次は自分が“支える番”だと思った。
「先生」なんて、ずっと先の話かもしれないけど、走ることも、人と向き合うことも、全部糧にしていく。
3.早矢/「強さは、守りたいものがあるから」
沖縄の環境にも、ようやく慣れてきた。
制服は前の学校のものを着ている。新たに買っても残り半年しか使わないので、許可を得てそうしている。その制服を見ると、凌と真帆のことを時々思い出すが、それを吹っ切るように早々とジャージに着替え、部活の走り込みに集中している。
空港で凌がくれた紙袋の中には、陸上部のみんなの寄せ書きを書いた色紙があった。部屋に飾った色紙の集合写真。合宿の夜、匂いソムリエ大会の後にみんなで撮った写真だった。怒りのあまり早矢にチョークスリーパーをかけられた凌の顔は、なぜかうれしそうだった。
新しいノートの裏表紙に、自分の志望校を書いてみた。
地元のスポーツ推薦枠がある高校。
でも、進学実績も悪くない。
大学でスポーツ科学を学び、心と体をさらに鍛え、いつかは自衛官になりたい。
父と同じ道。
でも、父とは違う形で――
「誰かを守れる自分」になりたいと思った。
真帆の音も、凌の真っすぐさも、全部、自分を動かした。
離れていても、あの夏が、自分の原点になっている。
(また、どこかで)
手紙はまだ出していない。でも、届く言葉を、少しずつ探している。
3人は、それぞれ別の場所へ向かっている。
でも、同じ時間を全力で生きたことは、誰にも消せない。
それぞれの「Re:light」が、
次の誰かの光になると信じて――
今日も、走る。吹く。学ぶ。
そして、
いつか、また交差するその日まで。