第4章 それでも、私たちは進んでいく
Scene:夏のマラソン大会当日/スタートラインに立つ早矢と凌
夏の陽射しは、朝から容赦がなかった。
蝉の声がけたたましく響く中、陸上競技場は熱気に包まれていた。
このマラソン大会で3年生は引退となる。
スタートラインの脇。早矢と凌が並んで立っている。
二人とも、表情はいつになく静かだ。
言葉は少ない。でも、その目には確かな覚悟があった。
「……これが、最後の大会か」
凌がつぶやく。
「うん。でも、“区切り”にする気はないよ。ここから、次に進むだけ」
早矢の声は、静かで力強かった。凌は思わず横を見た。あのプリッツ事件のあとも、彼女は変わらなかった。強くて、まっすぐで、時々不器用なまま――でも、ちゃんと前に進んでいる。
(……やっぱ、お前ってすげぇよ)
スタートの号砲が鳴る。砂を蹴って、風を裂いて、二人は走る。
ゴールへ向かうその背中を、スタンドの一角から真帆がじっと見つめていた。
Scene:観客席にて/真帆の視点
早矢の走りは、やっぱり綺麗だった。
フォームもリズムも、無駄がなくて――何より、自分の走りに“迷い”がなかった。
(ずるいな)
真帆は、胸の奥で思っていた。
私は、今でも自分が「好き」だって気持ちに戸惑ってる。
早矢に対して、あの日あの瞬間に確かに芽生えた感情を、まだ“本物”と呼ぶ勇気がない。
でも――
そんな私のために、あの日凌はちゃんと怒ってくれた。早矢は、変わらず隣にいてくれた。
それが、どれだけ救いになったか。
(……私も、進まなきゃな)
大会を終え、二人がゴールした時――真帆は自然と拍手していた。
早矢と凌が、たとえ隣同士でいても。
もう、それだけで自分が“壊れる”ことはなかった。
Scene:部室/匂いソムリエ大会、凌の“名推理”
夏休み最初の週末。
陸上部はこの時期、学校近くの市の合宿所で強化合宿をする。夜には引退した3年生を招いて慰労し、新メンバーを激励する会が行われた。
合宿最終日。布団を敷き詰めた和室に、異様な静けさが満ちていく。
タオルで目隠しされた凌。
坂町中陸上部は伝統的に、持ち主の分からないものを匂いで識別する能力を持っていた。部長である滝川凌の嗅覚は百発百中。その能力を使った匂いソムリエ大会が行われていた。
「……じゃあ、いきます」
部員たちの視線が集中する中、凌はシューズに顔を近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……くん、くん……」
長い。あまりにも長い。誰もが思う。
(もう1分は嗅いだぞ……)
「……まず、前足部からいこう。通気性があるはずだから、匂いが拡散してる……くん。うん、汗の匂いだけじゃない。日焼け止めの微粒子……いや、これは……メントール系の冷感スプレーの残り香だな……」
「お、おい凌……」
誰かが止めようとしたが、凌は完全に“ゾーン”に入っていた。
「アウトソール、つまり靴底の匂いも……くん……うん、この摩耗具合、相当走り込んでる。しかも砂利道じゃない。柔らかい地面、芝生系……森だ、これは森の匂い……いや、湿地だな。独特の有機臭。つまりこのシューズの持ち主は……」
「やばいやばいやばい、絶対言うなよ……!」
部室全体が凍りついた。
「この安定した着地、ピッチ走法。脚の運び方、体幹の強さ……そしてこの、ほんのり甘い柔軟剤の香り……」
「……凌、やめとけ」
「これは……早矢だ。間違いない。これは、佐々木早矢の匂いだ」
「ギャアアアアアアアアア!!!!」
「おまえーーーー!!!!」
「分析しながら嗅ぐなーーー!!」
「公式に変態認定!!!」
和室中が総立ち。誰かが壁を叩き、誰かが床を転げ回り、誰かは笑いすぎて酸欠に。
そのとき、ドアがバンッ!と開いた。
「なに、この騒ぎ――」
入ってきたのは、汗を拭きながら髪を結んだ早矢。
目隠ししてシューズに顔を埋める凌。
その持ち主が、今、目の前に立っていた。
「……おい、滝川」
「……あ」
目隠しを取る間もなく、バシュッ!!!
早矢のシューズが、真上からストレートに凌の頭に命中。
「なに嗅いでんだコラァ!!」
「ひ、表現の自由です!!これは文学的――」
「黙れ、犬!!!」
合宿所の廊下は静まり返り、まるで祭りの後のような寂しさが漂っていた。
その一角――誰もいない夜のテラスに、真帆がひとり出てきた。
髪を結び直しながら、小さくため息をつく。
(……やっぱり、気まずい)
真帆は、今夜この合宿所で早矢と顔を合わせるのが少し不安だった。
吹奏楽部も、外部講師を招いたブラスバンドクリニックの集中合宿として、同じ施設を1泊だけ利用していたのだ。
外部講師の都合とはいえ、まさか陸上部と日程が被るなんて。
(……会って話したら、またあの時みたいに気持ちがぶれるかもしれない)
そんなことを思いながら、星を見上げていたそのとき――
「おーい、真帆じゃん!」
声がした。振り返ると、凌と早矢が、花火の後に涼みに出てきたところだった。
「あ……」
真帆の心が小さく跳ねる。
「そっちも合宿か?」
「……うん。一泊だけね。練習、詰め込みすぎて死にそうだけど」
そう言って肩をすくめた。
「せっかくだし、三人で座ろうぜ。……最後の夜っぽいしさ」
早矢のその言葉に、真帆はほんの少し迷ったあと、静かにうなずいた。
ベンチに三人で並んで座る。
空にはまだ、花火の名残の煙がほんの少しだけ漂っていた。しばらく、誰も何も言わなかった。でも、その沈黙は不思議と心地よかった。
……なのに。
「なあ、早矢。お前、なんか隠してんだろ」
凌の声が、静寂を割った。早矢が、ふと息を止める。
「……え?」
「いや、ずっと感じてた。笑ってるけど、心ここにあらずって感じ。……俺には、わかる」
真帆も、静かに視線を向ける。
「……言わなきゃダメかな」
「ダメだよ」
凌の声は、感情を含んで揺れていた。
「俺ら、どんだけ一緒に走ってきたと思ってんだよ。お前、ひとりで背負うなよ」
その言葉に、早矢はゆっくり目を伏せた。
「……転校するの。来月から。沖縄に。父の転勤」
沈黙。ベンチに風の音だけが吹き抜けた。
凌は、小さく「マジかよ……」と呟いたあと、立ち上がる。
「ふざけんなよ」
声が、震えていた。
「なんで……なんで言わなかったんだよ!大会前だったから?気ぃ使ったつもり?俺らに相談すらできなかったのかよ!」
「……怖かったんだよ」
早矢が、言葉を選び、しぼり出すように答える。
「言ったら、みんなの士気を落とすと思って。それに、自分が保てなくなりそうで」
「バカかよ……そんなの、俺たちが決めることじゃねぇだろ」
凌が顔を覆うようにうずくまる。その隣で、真帆が静かに口を開いた。
「凌」
声は穏やかだったが、芯があった。
「怒るの、当然だよ。でも……その怒りの中にあるのは、“悲しみ”でしょ?」
凌が、ふと顔を上げた。
「早矢はさ、自分の感情を押し込めてでも、みんなのためにって思った。……私は、それが早矢らしいと思う」
「でも、それで自分が崩れそうだったって言えるようになったこと。それが、本当の“強さ”なんだよ」
早矢は、堪えきれずに目を伏せたまま、涙をこぼした。
「……ごめん。でも、本当にありがとう」
凌は、深く息を吸い込んだ。
そして、もう一度座り直し、早矢の隣に並ぶ。
「……お前が沖縄行っても、俺は走るから。お前が恥ずかしくない速さでな」
「……うん。私も、走るよ。向こうでも」
真帆は、それを見てふっと笑った。
テラスに、風の音と、遠くの虫の声が重なっていた。
その夜、三人は言葉少なに空を見上げた。
離れることの寂しさも、それでもつながっている強さも、ぜんぶ抱えながら――
Scene:9月1日朝/転校の日
新学期初日。
9月の朝の空気は、少しだけ夏の名残を残していた。
早矢は制服のまま、昇降口に立っていた。転校の手続きの書類を受け取るためだけに、今日だけ登校した。
教室には入らない。ただ、書類を受け取り、先生に挨拶をし、みんなにお別れを伝える――それだけのために来た。
昇降口まで見送りに来たクラスメイトたちが口々に言う。
「え、ほんとに今日行っちゃうの!?」「うそでしょ、実感わかない……」
「元気でね、早矢」
笑って応える。できるだけ、いつも通りに。だけど、胸の奥が、少しだけきゅっと痛む。
(……凌、いないな)
それが、ずっと気になっていた。
先生に聞いてみた。
「凌?ああ、今日は通院だって聞いてるよ」
「……そっか」
通院。その言葉が、なぜか妙に冷たく聞こえた。
もちろん仕方ないことだと分かってる。でも――やっぱり、ちょっとだけ残念だった。
(言いたかったのにな)
ありがとう、とか。
またね、とか。
……それ以上の何かとか。
Scene:空港/出発ロビー
搭乗の1時間前。手荷物検査を前にして、早矢はベンチに腰かけていた。
窓の外、青く広がる滑走路。照り返す光に、心が少しだけ浮つく。
「……はあ」
短くため息をついたときだった。
「おい、ため息つくの早すぎんだろ」
聞き慣れた声。驚いて振り返ると、そこには――
凌と真帆が立っていた。
「……えっ、なんで……」
「通院のついで」
凌は、少しだけ照れくさそうに頭をかいた。しかし、どう考えてもここは、町中の病院の通院のついでに立ち寄れる距離にはない。
真帆も、荷物を持ちながら言う。
「担任に頼んで、遅れて登校するってことにしたの」
「……ありがとう」
早矢は、言葉を詰まらせた。
凌が、手にしていた紙袋を差し出す。
「これ。中身は……まあ、大したもんじゃないけど、沖縄行っても走れよ。ちゃんと鍛え続けろよな」
「当たり前でしょ。……そっちこそ、手ぇ抜くなよ。“先生”になるって言ってたくせに」
「抜くかよ。……ちゃんと、“自衛官の卵”に胸張れるようにするから」
二人が笑い合う。その横で、真帆がぽつりと口を開いた。
「……また、音も聴いてほしいな。そっちじゃ音出せないかもだけど、動画で送る」
「うん、絶対聴く。めっちゃ楽しみにしてる」
そして、3人で並んで立った。ゲートの案内アナウンスが聞こえる。
「そろそろ行かなきゃ」
「……うん」
「早矢」
凌が、最後に言った。
「また、絶対、会おうな」
「……うん。絶対、また」
早矢は、小さく笑って、くるりと背を向けた。
手荷物を抱えた早矢が両親に促され、ゲートへ向かう。
早矢の父親の背中に凌の目が留まった。過酷な自衛隊の訓練を耐え抜いて来たことが、その精悍な背中から伝わってきた。早矢も、いずれああなるのだろうか。
(……ちゃんと、また会えるよね)でも、それはもう、信じていい気がしていた。
Scene:ゲートを抜けて
手荷物検査を抜けたあと、振り返る。
ガラス越しに見える二人が、手を振っていた。真帆は、やや控えめに。凌は、腕をぶんぶんと大げさに。
(ほんと、変わんないな)
そう思って、早矢も小さく手を振り返た。ほんの少し涙ぐんだのは、誰にも見られなかった。
Scene:二学期/忙しさと距離
早矢がいなくなっても、毎日は続いていく。
学校の空気は、少しずつ季節を変えながら流れていった。
凌は進路希望を何度も書き直していた。
将来のこと、母のこと、自分に何ができるのか――
悩みながらも、少しずつ考えを深めていった。
真帆は、生徒会の仕事と文化祭の準備で、休み時間も職員室と教室を行き来していた。
放課後は吹奏楽部の練習。
打ち合わせ。楽譜の整理。トランペットの手入れ。
忙しいというより、“何かに追われていた”。
(……早矢とは、まだちゃんと連絡を取れてない)
スマホの通知がないか、時々確認しては閉じる日々。でも、それを責める気にはなれなかった。
お互い、今は“目の前のこと”に必死だから。